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2006年10月07日

第1回・2回講義レビュー

リージョナル・ガバナンス論Aを担当している神保です。今日は台風のような嵐に見舞われ、冷たい風が吹き荒れる1日でしたね。皆さんも季節の変わり目ですが、体調など崩さないように。

さて、今学期は第1限の授業にもかかわらず、84名の学部生・院生がこの授業を受講してくれました。例年よりも人数が多く、積極的に受講していただき、担当者として嬉しいです。朝は大変だと思いますが、ぜひ目をこすって頑張って出席してください。

今回のメールは、第2回の授業で、時間切れで話足りなかった部分について、フォローアップする内容となっています。授業の補足として参考にしてください。

■「地域」のダイナミクスと多層性

第1回の授業では「リージョン(地域)」および「ガバナンス(統治)」という言葉が、何を意味するのかということを、学びました。世界にはさまざまな「地域」があります。ヨーロッパ・アジア・中東・アフリカ・・・etc。でも「アジア」ってどこ?といわれたときに、皆さんはどのように答えるでしょうか?中国や東南アジア諸国はともかく、カザフスタン?ミクロネシア?イラン・・・?と、さまざまな定義ができそうですね。

この授業で意図する「地域」は、地理学で定義された地域のみならず、政治経済・社会文化のtransactionのなかで、「地域」の概念自体がダイナミックに変化・再構成されている、という視点にたっています。授業では「オーストラリア・ニュージーランドはアジアなのか?」、「トルコはヨーロッパなのか?」という例を出しましたが、その答えは一問一答式に生み出されるものではなく、上記のダイナミズムの中で「再解釈される」ということです。

授業では触れませんでしたが、それでは「地域の境界はどこにあるのか?」という疑問も浮かんできますね。アジアと中東、欧州とアフリカの境界は?東アジアとアジア太平洋の境界は・・・?

実は、これらの疑問に答えることも容易ではありません。中東諸国をイスラム教を結びつければ、アジアにも最大のイスラム教国(インドネシア)があるし、アフリカをアフリカ大陸として位置づけても、中世の海上貿易における地中海秩序を考えれば、北アフリカは南欧との密接な結びつきがありました。

サミュエル・ハンティントン(*1)は、世界を8つの文明にわけて、それら文明間の対立が不可避であることを論じました(サミュエル・ハンティントン『文明の衝突』)が、実際は文明は衝突もするし、融合や相互理解もして、新しい地域枠組みや共同体の姿さえ生み出しているともいえるでしょう。そうでなければ、多層的な宗教・民族・言語の集う東アジアで「共同体」形成は論外ということになります(実際そういう主張をする人もいるのですが)。

*1 サミュエル・ハンティントン
ハーバード大学教授。政治学・政軍関係・文明論の専門家。主張に『軍人と国家』(原書房、1978年)、『第三の波―20世紀後半の民主化』(三嶺書房、1995年)、『文明の衝突』(集英社、1998年)等。

こうしたなかで、「政治的な地域(あるいは共同体)」「経済的地域」「社会・文化的な地域」が、必ずしも一致しないという現象を学びました。欧州共同体においては、第二次大戦後の「独仏和解」、「対共産圏の自由主義諸国の連帯」、「民主主義の連携」という多分に政治的な目的が、制度化を推し進めたという背景があります。それに比べると、東アジアには1990年代まで地域統合が制度としては進んでいなかったものの、経済活動としては貿易・投資関係を中心とする域内相互依存を強めていきました。これを「事実上の地域化」(de facto regionalization)と呼ぶ学者もいます。

■東アジアの経済発展とアジア金融危機

1970年代後半から90年代にかけて、東アジア諸国(NIES・ASEAN・中国)は外資を積極的に導入しながら、付加価値の産業を政府の強い産業政策によって育成し、国際市場をターゲットにして輸出主導型経済をつくる・・・いわば「開発主義」(developmentalism)の導入に成功します。韓国・台湾・香港・シンガポールの「四昇竜」(エズラ・ヴォーゲル)の台頭とともに、ASEAN、中国が次々と産業化のテイクオフを果たす「雁行形経済モデル」が、東アジアに生まれますが、そのテイクオフを支えていたのが、東アジア諸国の導入した「開発主義型」産業政策だったわけですね。

さて、このように東アジア経済が台頭するわけですが、その台頭のプロセスは必ずしも順調というわけではありませんでした。急速に台頭する東アジア諸国の経済システムに内在する脆弱性が、ついに「アジア金融危機」となって発生することになったからです。「アジア金融危機」の発生メカニズムについて研究した著作は多くあります。そのいくつかは、文末の参考文献に掲載しましたので、関心のある人はぜひ読み進めていってください。

このエントリーではごく簡単に描写します。東アジア諸国では、1980年代後半から国際資本移動の自由化を推進し、固定相場制度(ドル・ペッグ制)や、金利格差が継続するという期待を背景に、大量の短期資本が流入しました。また持続する高度成長を背景に、各国の金融機関は、十分なリスク管理を行わないまま、外貨建ての貸し出しを促進し、不動産・株式のバブルが発生する要因となっていました。このような構造的なリスクが恒常化するなかで経済が一度悪化すると、外国の投資家が一斉に資金を引き上げる(キャピタル・フライト)現象が起きてしまいます。これが、アジア経済危機の発端となりました。

■ 金融危機からの脱却と金融協力メカニズムの成立

タイのバーツ危機にはじまる金融危機は、インドネシア・マレーシア・韓国に伝播し、各国における通貨は40%~85%も下落し、国内の金融市場は大混乱となりました。金融市場の混乱は、政治的混乱、社会不安にもつながり、とりわけインドネシアでは市民の暴動の発生にまで拡大しました。こうした状況を脱却するために乗り出したのが、国際金融機関であるIMFです。

IMFは各国の経済・金融システムの構造改革を前提として、世銀・アジア開銀・近隣諸国の支援などと協調し、不足した外貨の借り入れなどの支援に乗り出しました。その後、日本政府(財務省)の支援スキーム「宮沢構想」などによって、各国の為替相場は徐々に安定を取り戻し、経済危機からの脱却に向かうことになります。また、以後の経済危機への対応枠組みとして各国の外貨を融通しあうスワップ・メカニズムである「チェンマイ・イニシアティブ」も形成されることになります。このあたりのプロセスについても、参考文献を読みながら、よく勉強してみてください。

■ そして「東アジア」の政治プロセスへ

そして、このタイミング(1997年)にもう一つの政治的な動きがありました。それがASEANプラス日中韓、いわゆる「ASEAN+3」の政治プロセスです。これは中間レポートの課題の中心に位置する課題です。次回に配布するリーディング・マテリアルや、中間レポート課題のスライドに記載した参考文献をよく読み、ASEAN+3の政治プロセスがどのように形成され、発展していったのかをよく考えてみてください。

リーディング・マテリアルにも記述されているとおり、1997年にASEAN+3首脳会議が発足したことと、上述のアジア金融危機の発生は、偶然の時期の一致でした。ただし、アジア金融危機に対する認識と、その後の危機への対応が、地域協力の重要性を高めたことは間違いないでしょう。

「デファクトな地域化」から(あるいはそれを前提とした地域化から)「制度の下での地域化」へ、東アジアは大きくその一歩を踏み出すことになりました。1997年を基点として、現在の東アジアを眺めることには重要な意義がある所以です。今回の授業フォローアップを、いわば「謎掛け」として、ぜひ皆さん自身が「東アジア」という地域の形成プロセスを、解読してみてください。

【参考文献】
○リーディング・マテリアル
伊藤憲一・田中明彦編『東アジア共同体と日本の針路』(NHK出版、2005年)第1章
○「開発主義」について
村上泰亮『反古典の政治経済学』(中央公論社、1992年)第7章・第8章
○アジア経済危機に関して
吉冨勝『アジア経済の真実』(東洋経済新報社、2003年)
白井早百合『現代の国際金融―検証・経済危機と為替制度』(東洋経済新報社、2002年)
下村恭民・稲田十一『アジア金融危機の政治経済学』(日本国際問題研究所、2001年)
○ASEAN+3について
授業のスライド参照

投稿者 jimbo : 08:43 | コメント (0)