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2005年05月18日

第4回授業レビュー(その1)

核戦略(Nuclear Strategy)とミサイル防衛(Missile Defense) 
―その1―

核戦略と聞くと、なんだかおどろおどろしくて、敬遠したくなる人もいるかもしれません。ましてや、日本は唯一の被爆国であり、日本の戦後の歴史も核に対する強い拒否感と嫌悪感とともに歩んできたといえます。こうした環境のもとで、日本国内ではややもすれば核戦略を学ぶよりも、核軍縮や非核運動に目が向けられがちでした。

第二次大戦後の安全保障論を俯瞰すれば、核戦略は「生存か破滅か」というぎりぎりの緊張感の下で形成され、前回学んだ「抑止論」をその屋台骨として発展してきました。実は、冷戦期はそれまでの国際関係史と比較しても、稀に見る『長い平和』(J・ギャディス)であったという見方があります。たしかに、「大国間の戦争が起こらなかった」という意味では、冷戦期は過去の歴史と比較しても特別な時代でした。ただしその「長い平和」は、共に相手を破壊しつくせる能力を誇示することによって、究極的な相互抑止を担保した「恐怖の均衡」(Balance of Terror)によって成り立っていました。そのために、冷戦期の多くの政策決定者や専門家が、「核戦略との対話」に命がけの半生を費やしたのですね。

なぜ第4回で核戦略を取り上げるのか。それは、過去数十年の安全保障論を支配してきた核戦略を冷戦期の安全保障の思考枠組みを理解し、それが冷戦後・9.11後の戦略環境の中でどのように変化したのかを明らかにするためです。「新しい戦略環境」を知るには、「古い戦略環境」をよく理解する必要があります。まずは、それらを振り返ってみましょう。

【核兵器とは何か?】

「核兵器」とは何か?という問題に立ち返ってみましょう。戦争史の中で、「火力の発達」は戦争の姿をがらりと変えてきました。14世紀ごろ戦争において火薬の発明が火砲及び爆薬と結びつき、戦闘における攻撃能力を著しく高めたように、エネルギー源としての火力の利用およびその確保は、戦争におけるきわめて重要な要素となりました。もちろん、古来より戦争における火の利用は、相手の陣地、土地、資源等に被害を与える重要な手段だったのですが、戦争において火を効果的に管理するには火薬の登場が決定的でした。火薬を利用した大砲が移動式になり、機動力を備えた結果、戦争における「火力による圧倒」こそが歩兵兵力とともに戦闘における決定的要因となったわけですね(*)。そして第一次・第二次世界大戦を通して、戦車などの重火器とともに、爆撃機の開発等により、戦争の激化が進んだわけです。

(*)その例を象徴的に示したのが、ナポレオン戦争における大砲の大量配備と、アメリカ南北戦争における機関銃の使用が、戦闘における勝敗を決定的に決めたことでしょう。日本でも、長篠の戦いで織田信長が三段横列の射撃戦術で、武田勝頼の騎馬軍団を破ったことは、火力革命をみるうえで重要です。こうした大砲・機関銃を自国の軍隊に組込むためには、火力エネルギーを中心した技術革新と、原材料を計画的に大量調達し、仕様と規格を標準化して量産体制を整備する国家体制の確立に取り組む必要があったわけです。

ところが、第二次大戦後期にマンハッタン計画によって生み出された原子爆弾は、過去の歴史で発展してきた「火力の概念」を革命的に変えるものでした。広島型の原爆は、TNT火薬の1万5000倍以上、さらに現代の通常の核兵器は広島型の100倍以上、60年代にソ連が開発した水素爆弾(最大60メガトン)1発は、第2次大戦で使用された全火薬量の20倍に相当する規模に達しました。まさに恐怖の兵器です。核兵器の登場と水爆の発展は、事実上戦争が勃発した後に、国家と人間を完全に消滅させることができるという最終兵器(「風の谷のナウシカ」における巨神兵のようなもの)を手にしたわけです。この巨神兵との共存こそが、冷戦の歴史だったわけです。

【冷戦期の米核戦略の変遷】

さて、米国がどのように核戦略を形成してきたのかを振り返ってみましょう。ここからは、基礎知識として「大量報復戦略」(1954年)→「柔軟反応戦略」(1961年)→「相互確証破壊戦略」(1965年)の系譜を覚えてください。

「大量報復戦略」(Massive Retaliation)は、ソ連大都市に対する即時かつ大量報復能力を持つことによって、あらゆる規模の侵略を抑止しようとする戦略です。50年代は米国の核戦力はソ連のそれを大きく上回っていました。このような核兵器の優越性を背景に、ソ連からのあらゆるレベルの威嚇に「大量・即時に核報復」をすることによって、ソ連の行動を抑止しようとしたわけです。

ところが、その間にソ連は戦略爆撃機を整備し、大陸間弾道ミサイルの配備に成功するなど、核戦略の体系を整えてきます。そのなかで、小規模な武力衝突・局地紛争などを、どのように管理するのかという問題が浮上したわけです。「大量報復戦略」は、あらゆるレベルの紛争に大量の核報復をするわけですから、とても柔軟性に欠けていたわけですね。したがって、本来であれば「局地的に限定」されうる紛争が、大戦争に自動的に発展してしまうドクトリンとなってしまったわけです。ソ連や東側陣営が欧州戦域において通常戦力を強化し、「局地紛争」への自信を強めたことも、「大量報復戦略」の「荒っぽさ」を目立たせることになりました。1から10までの紛争レベルがあるとすれば、すべてを10にエスカレートさせることによって、紛争を抑止することは非現実的というわけですね。もっと、1対1・5対5・7対7の対応をしなければ、抑止の安定性は保てないという論理に発展したのです。これを「エスカレーション・コントロール」(Escalation Control)と呼びます。

ここで登場したのがケネディ政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラでした。マクナマラは1961年に「柔軟反応戦略」(Flexible Response)を体系化し、小規模な武力衝突・局地戦争から全面核戦争に至るすべての段階に対応できる能力を整備することを提言しました。「柔軟反応戦略」で重要なのは、エスカレーション・コントロールが可能なように、小規模・中規模・大規模な報復体制を整え、戦域の規模に応じて柔軟に対応させようとしたことです。これによって、①1対1・3対3・・・の規模の戦域に対応した相互抑止関係を構築すること、②仮に3対3での戦争が生じた場合、これを全面戦争(例えば10対10の規模)に拡大させないよう管理すること、が可能になると考えられたのです。

軍事目標(核ミサイルサイロ、指揮・管制系統、爆撃機基地、潜水艦基地など)を正確に攻撃する能力が、「柔軟反応戦略」を成立させる重要な要素となりました。これを「対兵器」(Counter-Force)戦略といいます。そのためには、大陸間弾道ミサイル(ICBM)にもきわめて高い命中精度が必要とされるわけです。このころから、米ソ両国は命中精度を上げるための技術競争に邁進します。このときに使われる指標を「半数必中界(CEP)」(弾頭の半数が着弾する半径距離)と呼びますが、1万2000㌔離れた場所にCEP・200㍍という高精度まで発展したわけです。「対兵器」戦略は、このように精緻なターゲッティングの下で、レベル別の攻撃が行えるように整備されていったわけです。

こうした米ソの相互抑止の体系を究極的な形で確立したのが「相互確証破壊」(Mutual Assured Destruction: MAD)戦略です。この戦略は、仮に相手から第1撃を受けても、残存した核兵器による第2撃によって相手に耐え難い損害を与える能力を互いが確実に保持することを企図しました。この戦略は、米ソ両国が第2撃能力(Second Strike Capability)の残存性(Survivability)を確実に担保することによって成立します。「どんなに攻撃しても、相手は報復のための核戦力を温存できる」体制を作ることが大事だったんです。

MAD戦略を決定的に定式化させたのは、1972年の「ABM制限条約」でした。そもそもの発端は、1960年代に、米ソ両国がミサイル防衛システム(Anti Ballistic Missile:ABM)の開発を進め、核ミサイルを迎撃する能力の競争に突入したことでした。これまで「相互抑止」は、相手に報復する①能力、②意図を保持し、それを③相互理解することによって成り立つと学んできました。ところが、米ソ両国がABMを配備してしまうと、「核ミサイルが飛んできても相当数は迎撃できる」ことになり、②相手への報復能力が削がれてしまうことになります。そのため、より高度なABMを配備した国は、「相手を攻撃できる・・・」という先制攻撃の誘因が働く(少なくとも可能性として)ことになります。これが、「相互抑止を著しく不安定化させる」と考えられたわけです。

そこで米ソ両国は互いにABMを「首都とICBM基地の計2ヶ所(後に首都1ヶ所に限定)に、100基のみ配備できる」とした「ABM制限条約」を締結しました。そのこころは、「互いを脆弱にすることが、相互抑止の強化につながる」という共通認識をつくったことにあります。つまり、「核戦争が起これば、互いに耐え難い損害を与えられるように、互いの防御をしないことにしよう」という理屈です。そして米ソ両国民が「恐怖を共有」することによって、安定が保たれる・・・これが「恐怖の均衡」の姿です。まさに狂っている。だから皮肉を込めてMADと呼ばれたんですね。

冷戦期、私たちはこんな段階にまで「抑止論」を発展させてしまったわけです。仮に第1撃を受けたとしても「カウンター・フォース」戦略を確実に担保し、相手の国民や産業施設を徹底的に破壊する・・・そのために米ソ両国は併せて5万発にも及ぶ核弾頭を保有していたわけです。これが、わずか20年ほど前までの世界の姿だったのです。

その後、レーガン大統領はこのような「相互確証破壊戦略」を「非倫理的だ!」と憤慨し、再び米国民を守るためにミサイル防衛の開発に着手します。これがSDI構想だったわけですね。冷戦の終結のきっかけは、1980年代にソ連がSDIに対抗した宇宙開発に踏み込むことができなかった、という説をとる人もいます。このあたりは、まだまだ研究の余地のある分野です。いずれにせよ、ソ連はゴルバチョフ時代に米国に大いに歩み寄り、1989年の「マルタ合意」によって冷戦の終結が宣言され、80年代以降、核兵器の数も大幅に減っていくことになります。

ただ、現代においても米国は7000発、ソ連が8000発近い核弾頭を保有しています。また1998年にはインド・パキスタンが相次いで核実験を実施し、事実上の核保有国になりました。さらに、イラン・北朝鮮などの核開発が現代の安全保障の大きな問題となっています。冷戦の終結によって、私たちは「恐怖の均衡」からは解放された(米ソは相互に戦争をする意志がなくなった)ものの、核兵器の恐怖から解放されたわけではありません。そして、米ソの対立下での核戦略と、新しいアクターに対する核戦略も、また新たな展開を見せていくことになります。次回―その2―では、授業の後半をレビューすることにします。

投稿者 jimbo : 2005年05月18日 17:49