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2005年05月25日

第5回講義レビュー(その1)

軍備管理・軍縮・不拡散・拡散対抗

さて、第5回講義のレビュー(その1)をお送りします。実は講師にも得意・不得意な分野があるわけですが、「軍備管理・軍縮・不拡散・拡散対抗」というテーマはなかなかの難題です。というのも、軍備管理・軍縮分野には独特の専門家コミュニティが形成されていて、その専門性の高さがハンパないんですね。

たとえば、核軍縮ひとつをとってみても、軍縮コミュニティのなかには、①核兵器・核戦略、②核関連物質、③原子力の平和利用、④国際法、⑤保障措置、⑥結果管理、それぞれの専門家がいるんです。しかも、それぞれの専門家が難解な化学式や数式を用いて軍縮効果などを議論しているものですから、分野によっては近寄り難い雰囲気があります(^-^;)。さらに、生物兵器、化学兵器、小型武器、地雷、ミサイル・・・など分野など、ひとくちに軍備管理・軍縮といっても、その射程は実に広い兵器体系に広がっているわけです。その意味では、一度入り込むとかなり専門分化する領域なんですね。

さて、この授業ではそこまで細かく軍備管理の各論には入り込みませんし、各領域の議論をすべて覚えることが目的でもありません。まず軍備管理・軍縮の入門編として取り組んで欲しいのは、「軍備管理・軍縮はなぜ必要なのか?」として「どのような場合に軍備管理・軍縮は成功するのか?」という課題です。

【軍備管理と軍縮の違い】

授業の冒頭では「軍備管理」と「軍縮」の概念の違いを紹介しました。「軍備管理」が、「安定的均衡の下での軍拡の抑制」とするならば、「軍縮」は「軍事力の削減を通した緊張緩和」といえるかと思います。「軍備管理」を重視する論者からみれば、「安定均衡」こそが最大の目標であり、そのためには、ときとして「軍拡」さえも容認するという考えです(実際後に述べるSALT-I は軍備の上限設定だった)。そして、「軍縮」は「軍備管理」の手段として位置づけられているわけですね。

でも世界にはたくさんの「軍縮」重視論者がいます。まだ把握できていませんが、受講者の皆さんもかなり「軍縮」重視論者が多いのではと推測しています。軍縮論者によれば、軍事力そのものは絶対悪であり、軍事力の量を減らすことが、何よりも大切な原則だということになります。哲学者のカントは『永遠平和のために』で、軍備を撤廃して国際平和を実現することを描き、また大戦間期(第1次大戦と第2次大戦の間)にも、ノーマン・エンジェル卿をはじめとする多くの欧州の学者たちが、包括的な軍縮を提起してきました。

その一方で、ベルサイユ条約後のドイツ、ロンドン海軍軍縮条約後の日本などにもみられるように、「力の均衡を無視したまま軍縮を進めると、対立を深めたり、新たな対立を生み出す結果を招く」(佐瀬昌盛「軍備管理・軍縮」リーディング・マテリアルp.119)のが、これまでの軍縮の歴史だったという評価もなされています。皆さんは、この評価をどのように考えるでしょうか。果たして、私たちはどのような「軍備管理・軍縮」の哲学をもって、国際関係における「軍事力」の意味を考えるべきなのでしょうか。

以下では「軍備管理・軍縮」を学ぶにあたり、冷戦期から現代までの「米ソ核軍縮交渉」と、「核拡散防止条約(NPT)体制」の二つの事例をとりあげ、考えてみたいと思います。

【ケース1:米ソ核軍縮交渉】

第4回の授業で取り上げたように、冷戦期に米国とソ連は互いの核戦力の強化を通じて、激しい軍備競争を展開してきました。アイゼンハワー政権の「大量報復戦略」からケネディ政権以降の「相互確証破壊」に至る過程で、世界には合わせて最大6万発前後の核兵器が存在していました。第3回から第4回の授業を通して、「抑止に係る安定性」を求めるためには、「抑止失敗のコスト」を著しく高めることが、むしろ抑止関係を安定させるという理屈を学んできました。だから、こちらが手を出せば壊滅的な報復がもたらされるという恐怖こそが、安定を担保していたというのが、冷戦期の核抑止の究極の形態でした。

でも、結果として1960年代終わりごろには、おびただしい数の核兵器と人類は共存することになってしまった。このまま「安全保障のジレンマ」にしたがって、互いの軍備競争を続けていけば、際限ない核兵器の増強による安定均衡の確保という愚かなデス・スパイラルを永遠に続けることになる。ここに、英知をもって楔を打ち込もうとする政治的動きがでてくるわけです。

そのきっかけをつくったのが、前回学んだ「ABM制限条約」成立までの道程でした。ケネディ/ジョンソン政権の国防長官を務めたマクナマラは、自国の戦略防衛能力(ABMの配備)を自己抑制することにより、双方の攻撃兵器のレベルを下げる合意にソ連を導けるのではないか・・・と考えました。そこで、米側の交渉戦略を練ったポール・ニッツェ国防副長官は、「攻撃兵器の量、投射重量(ペイロード)を制限し、米国やその同盟国に対するソ連の攻撃の成功の可能性を減少させる」という「攻撃兵器の制限」と、もうひとつはABMの配備を禁止する「防御兵器の制限」の双方によって、軍備管理を成立させることを立案しました。

ここでマクナマラがソ連に与えたメッセージは、「『相互』確証破壊」であり、一方的なソ連に対する優位の確保ではなかったわけです。米国の右派からしてみれば、「共産主義国との核の共存」であり「米国が優位を失ったことを認める敗北主義」であるように映りました。ところが、こうした米国の「優位性の維持」を掲げて大統領選挙を戦ったニクソンも、大統領就任以降はソ連の核戦力が「パリティ」の状況に至ったことを認めざるを得ませんでした。ここに、「交渉の季節」が到来したわけです。共和党の右派にとってみれば、これは米国の敗北とうつり、軍備管理論者にとってみれば「均衡の下での制限・削減」が現実化したというのが1970年の状況だったわけです。

こうした紆余曲折をへて、ニクソン・キッシンジャーは1972年に第1次戦略兵器制限交渉(SALT-I)によってICBM、SLBMの戦力増強に一定の上限を設ける合意設定に成功しました。それと同時に、「ABM制限条約」を締結し、「相互確証破壊」を安定的に保つと同時に、攻撃兵器の増強にもシーリングを設けようとする考えが、米ソ両国によって交わされたわけです。まさに「安定均衡下での軍備制限」が成立した瞬間だったのですね。

この流れは、フォード政権を経てカーター政権の1979年にSALT-IIとして引き継がれていきました。しかし、このころから、「米ソ・デタント」と呼ばれた雪解けの季節に変化が訪れます。その最大の契機は79年にソ連がアフガニスタンに侵攻し、その後欧州及びアジアにおける軍拡路線を打ち出したことにありました。

とりわけ問題とされたのは、ソ連が欧州正面に中距離核戦力SS-20を配備したことでした。SS-20は高精度の中距離核で、ただでさえ欧州では通常戦力で優位にたっていた東側陣営を、決定的に優位に置くものでした。そこで、NATOは欧州諸国の要請に応え、SS-20に対抗するために、新しい中距離核であるパーシングIIの配備に踏み切ります。ここで中距離核戦力を均衡させなければ、欧州正面における抑止は保てないという懸念が生じたためでした。そして(ここが重要なのですが)同時に米国はソ連に対し、「SS-20を全廃させれば、パーシングIIも全廃する」という軍縮提案、いわゆる「ゼロ・オプション」を提示します。これを「NATO二重決定」と呼びます。

1981年に提案されてから6年を経て(この間、SALT-IIプロセスの崩壊、SDI論争の浮上などがあった)、1987年に米ソはINF全廃に合意し、ソ連は欧州正面ではなくアジアを含めたすべてのSS-20の撤廃に合意します。ここに「グローバル・ダブル・ゼロ」と呼ばれるINF条約が締結されることになりました。

INF条約がなぜ成立可能だったのか。これについては、数多くの論文が発表されています。ただ重要なことは、SALT-I の成立と同様、米ソ間の核戦力の均衡をもってはじめて、交渉による解決の素地が作られたことにあります。つまりお互いの条件がほぼ同等になり、お互いがにらみ合う状況の下で、その緊張の度合いを下げていく・・・まさに荒野のガンマンがにらみ合ってホールドの状況で、後ずさりをしながら距離をとっていく関係に良く似ています。そして、戦力の「制限」「削減」「撤廃」をする過程において、米ソ両国が「軍事的に不利にならず、平和的発展の可能性がある」と考える条件をつくったことが重要だったわけです。これが、軍備管理における「安定均衡下での軍拡の抑制」の真髄があるのでしょう。

INF条約は、その後戦略兵器削減交渉(START-I / -II)に引き継がれ、中距離核だけでなく戦略核についてもその弾頭数を削減していく方向性が打ち出され、その後「マルタ会議」において米ソ冷戦の終結が高らかに宣言されることとなります。この「相互削減」にたどりつく過程に、数十年間にわたる凄まじいドラマがあったわけですね。

軍備管理のひとつのドラマを感じ取ってもらえたでしょうか?引き続き(その2)では、授業の後半で扱った核不拡散体制としてのNPTを取り上げましょう。

〔米ソ核軍縮交渉に関するオススメ文献〕

ストローブ・タルボット『米ソ核軍縮交渉:成功への歩み』(サイマル出版会、1988年)
関場誓子『超大国の回転木馬(メリーゴーラウンド):米ソ核軍縮交渉の6000日』(サイマル出版会、1988年)

【つづく】

投稿者 jimbo : 2005年05月25日 21:31