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2005年06月05日

第6回授業レビュー

国連の安全保障:多国間安全保障の可能性と限界

さて「国連」は日本の外交政策のなかで特別な意味を持っています。というのも、1957年に発刊された『外交青書』に描かれている日本外交の3本柱として①国連中心主義、②アジアの一員としての外交、③自由主義世界との提携という方針が示されて以来、「国連中心主義」という言葉は、当時の日本外交のキーワードであったわけですね。ところが、実際に日本外交を支えていたのは日米安保体制なり、自由主義経済体制との関わりこそが大事だったわけで、「国連中心主義」という言葉自体も1957年と58年の『外交青書』に現れただけで、フェードアウトしていきました。ただ、戦後直後の日本が国連にどのような期待を込めていたか、を読み取ることができますね。

【国際連盟とその挫折】

さて、歴史を振り返ると国際連合の前には国際連盟(League of Nation)がありました。国際連盟は1920年に第一次大戦後の国際秩序の中心を担う機構として設立されました。国際連盟は米国のウィルソン大統領の国際主義・理想主義(ウィルソン主義とも呼ばれます)に基づく国際協調構想で、第一次大戦の戦後処理の場であるパリ講和会議(1919年)にて「ベルサイユ体制」の一環として成立したものです。

国際連盟は恒久的な国際平和機関を創設するという意味では、世界史上画期的なものでした。そのもっとも重要な目的は、国家間の紛争を仲裁して戦争防止に努め、仮に連盟規約を破った加盟国には経済制裁が課されることになってました。さらに、各国の独立や領土保全、軍備の制限、国際法規の確率、委任統治方式による植民地の管理なども視野に入れていたわけですね。

ところが、国際連盟はその20年後の第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。そこには、国際連盟が抱えている三つの問題点をみることができます。第一は、国際連盟の設立を主導した米国が加盟しなかったということです。アメリカの上院はベルサイユ条約自体に反対する議員が多く、さらに内向きのモンロー主義の波及もあって、条約批准に失敗するわけです(米国内でのウィルソン主義の挫折)。

第二は、国際連盟が秩序破壊者に対する軍事制裁規定を持たなかったことです。国際連盟は経済制裁を発することが出来たわけですが、連盟としての集団安全保障として軍事力を共同展開する準備がなかった。これが、後のエチオピア危機においてイタリアを抑制できない問題となってきます。さらに第三は、国際連盟の意思決定が加盟国の全会一致原則だったことです。これは裏返せば、全ての加盟国が拒否権を持っていることと同様で、重要な問題において全会一致が難しい場合、国際連盟は事実上の機能不全に陥ることが予期されていたわけです。

こうした致命的ともいえる問題点をはらんだ組織には、やはり歴史は厳しく展開します。国際連盟は満州事変(1931年)やイタリアのエチオピア侵略(1935年)に有効に対応できず、さらに日本・ドイツ・イタリアが国際連盟から脱退し、そして1939年にドイツがポーランドに侵攻、ソ連もフィンランドに侵攻して除名されるなど、国際連盟は形骸化しました。わずか20年だったのですね。第一次大戦から第二次大戦までの過程を「戦間期」といいますが、戦間期の理想主義と現実主義の相克を描いた傑作が、E・H・カー『危機の20年』(岩波新書)という作品です。関心のある方は、ぜひ読んでみてください。

【国際連合の成立と冷戦期の機能不全】

国際連盟の失敗を受けて、新しい国際組織を作ろうとする動きは、すでに第二次大戦中の大西洋会談(1941年)に行われていました。その後、ヤルタ会談において連合国間の協調体制が確立し、その後の国際連合(United Nations)の設立へとつながっていきます。国連のもっとも重要な狙いは、国際連盟の失敗を反省し、①国連軍による集団安全保障体制を導入し、②戦勝五大国(米・英・ソ・仏・中)の安全保障理事会における意思決定を重視したことでした。

集団安全保障の規定は、国連憲章の第7章に設定されています。それによると、集団安全保障は「平和に対する脅威」の認定(第39条)⇒事態の悪化防止への暫定措置の要請(第40条)⇒非軍事的強制措置の適用を決定(第41条)⇒軍事的強制措置の適用を決定(第42条)⇒国連軍の組織と制裁行動(第43条)という手続きによって実施されることになっています。

ところが、その国連もその後の米ソ冷戦によって機能不全に陥ります。そもそも戦勝国の協調を前提としていた安全保障理事会が、米ソ対決によって互いの拒否権の乱発という事態に陥ってしまったからです。その後の歴史は、朝鮮戦争という唯一の例外(しかもそれはソ連の安保理ボイコットによって成立した)を除き、国連軍は一度も成立しなかったわけです。第二次大戦後の安全保障秩序から、国連の姿は大きく後退し、それに変わって米ソを盟主とする同盟関係こそが、その秩序構築を主導したわけですね。

【ポスト冷戦期の国連の安全保障機能】

冷戦が終結してから、もう一度国連の安全保障機能を復権させようとする、国連待望論が浮上した時期がありました。それは、第一に米ソ対立が解消されたことによって、安保理が再び機能を回復することへの期待、そして第二に湾岸戦争において、国連安保理が多国籍軍に武力行使を「授権」することによって、指揮権の問題を加盟国の自主性を担保しつつ、国連が権威を与える(authorization)実績をつくったことも、新しい国連の安全保障機能の台頭を髣髴させるものでした。

このポスト冷戦の国連の安全保障機能に野心的に取り組んだのが、事務総長のブトロス・ブトロス・ガリ(Boutros-Boutros Ghali)でした。ガリは自らのイニシアティブによって1992年に『平和への課題』(Agenda for Peace)を提出し、国連が①予防外交(Preventive Diplomacy)、②平和創造(Peace Making)、③平和維持(Peace Keeping)、④紛争後の平和構築(Post-Conflict Peace Building)という4つの機能を強化すべきという画期的な提案を行いました。これは、国連が安全保障秩序を形成するアクターとして力強い役割(拡大平和維持路線)を果たすことへの期待が込められていました。

ところが、この構想のもっとも野心的な②平和創造についてはわずか3年で挫折してしまいます。特に、ソマリアにおけるUNOSOMII、及びユーゴスラビアにおけるUNPROFORの失敗は、『平和への課題』の掲げる国連の安全保障機能の欠陥を浮き彫りにしました。UNOSOM-IIでは、国連の治安維持機能が昂じ、現地武装勢力の一派(アイディード派)への掃討作戦に失敗、パキスタン兵と米兵に多くの死者がでて、さらに米兵が現地ソマリア人によってモガデシオ市内を引きずられるなどの、散々な結果に終わりました。その後、米国はソマリアから撤退を決意することになります。さらにUNPROFORでは、ボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアの双方への軍備抑制措置を徹底できず、「中立原則」の限界を露呈し、さらに軽軍備の平和維持軍が武装勢力に殺害されるなど、「悲劇の平和維持部隊」ともいわれています。

このような国連の安全保障機能には、中立化という原則が停戦や紛争の再発防止に必ずしも有効な原則ではなかったこと(eg. UNPROFOR)、重武装による肩入れの失敗(UNOSOM-II)や軽武装による部隊の脆弱化(UNPROFOR)などの介入する部隊規模の難しさ、さらに各国の国益を超えた場所に危険を賭して展開する限界(例えば、なぜソマリアのために米兵が命を賭けなければならないのか・・等)など、さまざまな問題を呈してしまったわけです。

このような困難な経験を経て、ガリ事務総長は1995年に『平和への課題:追補』を提出し、国連が事実上②平和形成の役割から撤退することを明示します(拡大平和維持路線の挫折)。しかし、紛争予防、予防展開、平和維持などの分野において、国連の役割は尚重要との考えを強調し、これが後の『ブラヒミ・レポート』における「平和維持活動におけるリアリズムの導入」につながっていくわけです。すなわち、平和維持活動においてもPKO要員の安全確保のための武装、交戦規定(Rules of Engagement)などを明確化し、PKOの実効性を高めていく方向性を打ち出したのですね。

こうして国連は、国際安全保障において予防外交、武力行使の授権、紛争後の平和構築などに重要な役割を負い、今後もその役割は高まっていくであろうと予想されます。ただ、実際の武力行使、そして平時・危機時の抑止力の提供は、引き続き個別の安全保障関係(同盟関係、多国籍軍)に依存する構図も強まっていくでしょう。

【ポスト9.11を迎えて:新しい課題の浮上】

国連が9.11後の「新しい脅威」に対してどのような役割を果たせるのかも大きな課題です。授業では時間が足りなかったこともあり、アフガニスタン戦争、イラク戦争に際して国連の果たした役割に踏み込むことができませんでした。これらのテーマについては、「テロリズムとカウンター・テロリズム」の回に改めて分析してみたいと思います。

国連憲章を初めとする国際法制は、必ずしも非国家主体などの脅威を想定して策定されたものではありません。これが、「自衛権の範囲」等に対して硬直的な解釈を生み出している・・・と米国は考えています。仮に「新しい脅威」に対する抑止関係が十分に成立しない場合、ある程度時間軸を長期にとり、1ヵ月後、場合によっては1年後に想定される脅威を「自衛権」と定義し、そこに予めさまざまな措置を発動し、場合によっては攻撃を加える・・・。こうした「先制行動論」は、国連の安全保障機能と果たして調和することが可能なのでしょうか?そして、テロリズムの脅威、大量破壊兵器拡散に対する脅威について国連はどこまで役割を果たすことができるのでしょうか?イラク戦争やPSI等によって盛んになった「有志連合」(Coalition of the Willing)と国連はいかなる位置づけにあるのか?・・・など、さまざまな問題が設定できると思います。そしてこれらは、今日でも解答のでていない困難な課題であるといえるでしょう。

【安保理改組の行方?】

「国連ハイレベル委員会」の提言が提出されて以来、国連改革(とりわけ安保理の改革)の議論が活性化しています。日本は外務省の悲願(?)として安保理入りを目指しているわけですが、日本が安保理でどのような役割を果たすべきかという議論は、イマイチしっくりとなされていません。現代の安全保障の特質、同盟関係の変質、多国間安全保障の可能性と限界、冷戦後/9.11後の国連の役割、などの分析を踏まえて、現在国連が抱えている問題、そして将来国連が担うべき安全保障上の役割をしっかりと構想しないといけません。国連を国連のみで捉えると、おそらくどこかで躓いてしまうでしょう。「安全保障論」を政策学として捉え、同盟・多国間安全保障・国連の歴史を総合的に学びつつ、現代の安保理の位置づけを考えることが、とても重要だと感じています。

レポートで課題を選んだ皆さんの健闘を期待しています(^-^)。

〔リーディング・マテリアル〕
神谷万丈「国連と安全保障」防衛大学校安全保障学研究会編『安全保障学入門:最新版』(亜紀書房、2005年)

〔さらなる学習のために(和文)〕
[1] ジョセフ・ナイ『国際政治:理論と歴史(原書第5版)』(有斐閣、2005年)第4章「集団安全保障の挫折と第二次大戦」
[2] 上杉勇司『変わりゆく国連PKOと紛争解決:平和創造と平和構築をつなぐ』(明石書店、2004年)
[3] 日本国連学会編『21世紀の国連における日本の役割:国際シンポジウム』(国際書院、2002年)
[4] 斉藤直樹『国際機構論:21世紀の国連の再生に向けて』(北樹出版、2001年)
[5] 筒井若水『国連体制と自衛権』(東京大学出版会、1992年)

*さらに最近の動向を知るには、『国際問題』、『外交フォーラム』、『国際法外交雑誌』、『海外事情』などの雑誌を調べてみてください。

〔さらなる学習のために(英文)〕
[1] Kofi Annan, “In Larger Freedom: Decision Time for UN” Foreign Affairs (May/June 2005)
[2] Thomas Weiss “The Illusion of UN Security Council Reform” The Washington Quarterly (Autumn 2003)
[3] Simon Chesterman “Bush, the United Nations and Nation-Building” Survival (Vol.46, No.1 March 2004).
[4] Danesh Sarooshi, The United Nations and the development of collective security: The Delegation by the UN Security Council of its Chapter VII Powers (New York: Oxford University Press , 1999)
[5] Walter Clarke and Jeffery Herbst, “Somalia and the Future of Humanitarian Intervention” Foreign Affairs (March/April 1996)
[6] Richard K. Betts, “The Delusion of Impartial Intervention” Foreign Affairs (November/December 1994)

*国連改革の動きを見るために、[1]と[2]の対比は面白い。[3]は米ブッシュ政権と国連の動向についてのもの。和文では中山俊宏「アメリカにおける『国連不要論』の検証」『国際問題』(2003年10月)に詳しい。[6]は傑作、授業で紹介した論理のエッセンスになっている。

投稿者 jimbo : 2005年06月05日 17:55