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2005年06月30日

第11回講義レビュー(その2)

【戦後の「奇妙な」防衛論争の由来】

徹底した平和主義に基づく日本国憲法を背景に戦後を出発した日本では、しばらく「防衛政策」という概念は根付きませんでした。ようやく、日本に治安維持・防衛力保持への誘因が生まれるのは1950年の朝鮮戦争が勃発してからのことになります。その後日本は、国内治安維持を目途とした警察予備隊、そして1951年後の独立回復後には保安隊、そして1954年に自衛隊を発足させ、防衛力の基礎を建設することに着手しました。

日本の非武装化方針は、国際情勢の変化に伴い、憲法制定からわずか5年で転換することになります。本来ならば、1951年当時に憲法を改正し、保安隊→自衛隊の設置を憲法上明確に位置づければよかったと思うのですが、日本国内の平和主義の伸長、および憲法そのものが改正しにくい硬性憲法であることから、当時の政治判断として第9条を柔軟に解釈することにより、日本の防衛力整備を進めていく方針が採択されました。

ここから、日本の戦後の奇妙な防衛論議が始まることになります。そもそも、1946年当時の想定では無理があったんですね。にもかかわらず、日本の戦後政治は第9条の構文の曖昧性に付け込み、解釈によってその態様を変化させていくことになりました。Q.「憲法で戦力の保持は禁じられているのではないか」⇒A.「日本が保持しているのは戦力ではなく自衛力である」とか、Q.「国の交戦権は認められないのではないか」⇒A.「交戦と個別的自衛権の行使は別個のものである」・・・とかいった議論が延々と展開されていくのです。その議論を追ってみると、勘弁して欲しいほどの哀れさの漂う展開でした。戦後の防衛論議の具体的な内容、特にいかに日本が防衛政策を自発的に制約してきたかについては、配布資料等を確認してください。

こうしてなんとか「憲法と自衛権」「憲法と交戦権」の概念を有権解釈として整理し、「個別的自衛権の行使のための、必要最小限度の自衛力を整備できる」という体制を整えることができました。ただし、この解釈を成り立たせるためには、専ら自衛のための低姿勢の防衛体制をつくることを宣言することが求められたわけです。それが「専守防衛」「自衛権行使の3要件」「集団的自衛権の行使の否定」「非核三原則」「武器輸出三原則」などの、防衛政策の自発的制約だったわけですね。

【戦後防衛論争の「絶対性」と「相対性」】

ところが、よくよく戦後の日本国内における防衛論議を分析してみると、そこには「防衛政策の自発的制約」に関する「絶対性の概念」(脅威の態様にかかわらず変動しない固定概念)と「相対性の概念」(脅威の態様によって自らを変化させる概念)が並存してきたことを読み取ることができます。

たとえば「専守防衛」における「必要最小限度」がいかなる内容であるかについて、その解釈は「絶対性」と「相対性」の概念によって峻別されてきました。前者の解釈では「専守防衛」の地理的範囲を「専ら我が国土およびその周辺」に限定し(1972年10月衆院本会議での田中首相答弁)、また防衛力行使の条件も「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使する」(1981年3月参院予算委員会での大村防衛庁長官答弁)という形で限定されていました。また自衛隊の装備における限界についても「他国に侵略的な脅威を与えるようなもの、例えば、B-52のような長距離爆撃機、ICBM(大陸間弾道弾)等を保有することはできない」としてきたわけです。歴代の『防衛白書』も武力攻撃の損害受忍以降の防衛力行使という原則を掲げた定義を採用しています。

ところがその一方で、後者の解釈は「専守防衛」をより広義にとらえ、「自衛権発動の三条件」の下で「必要最小限の実力行使にとどまる」ならば、その地理的範囲は「必ずしも我が国の領土、領海、領空に限られない」(防衛白書)とした柔軟な概念もとなえているわけです。さらに、1969年4月8日の政府答弁書は、「海外における武力行動で、自衛権発動の三要件に該当するものがあるとすれば、憲法上の理論としては、そのような行動をとることが許されないわけではない」と述べ、自衛権発動の条件に合致すれば、武力行動を含む海外派遣が容認されるとの立場をとっています。

このように、戦後の防衛論議は、「絶対性による限定」と「相対性による柔軟性」を並存させてきました。それは低姿勢・自己抑制型の防衛構想と、脅威に応じた自己変革をめざす構想とが、不思議な形で共存してきたんですね。なぜこのような共存が可能だったのか、その説明はさまざまです。1946年憲法をそのまま残して、しかし国際情勢はその後ダイナミックに変化していった。変わらないものと変わっていくものを共存させなければならなかった。そのために、構文のあいまい性を最大限利用して、憲法を拡大解釈していった。戦後から現在にいたる、こうした流れをどのように価値判断するか、は皆さんもよく考えてみてください。

【冷戦後の三つの空間における安全保障政策の展開】

さて、冷戦が終結すると、日本の防衛・安全保障政策が置かれた立場も劇的に変化することになりました。冷戦後の北東アジアの安全保障環境がもたらしたものは、ソ連からの脅威の後退にとどまりませんでした。そこには、湾岸戦争後の掃海艇の派遣やカンボジアPKOへの参加、朝鮮半島や台湾海峡などの日本周辺における安全保障問題などに対する防衛政策の再構築が要請されていました。

冷戦後の日本の安全保障政策には「グローバル」「地域(リージョナル)」「国家(ナショナル)」という三つの空間軸における転機があったと私は考えています(この三つはかなり粗野な分類であるし、さらにそれぞれが連動していて明確に区分できるわけでもない)。

第一の転機は、「グローバルな空間への関与」でした。1991年の湾岸戦争後のペルシャ湾への掃海艇派遣及び93年のカンボジアでの平和維持活動への参加を端緒として、日本は国際平和協力業務へ参画の道を開いた。92年6月に制定された「国際平和協力法」に基づき、日本は戦後初めての自衛隊の海外派遣に踏み切り、その後カンボジア、モザンビーク、ルワンダ、ゴラン高原、東ティモール、アフガニスタンなどにおいて、PKOへの協力、人道的な国際救援活動、国際的な選挙監視活動を三本柱として活動を展開しました。冷戦後の日本の積極的な安全保障政策は「グローバルな国際平和協力」からスタートしたんですね。

第二の転機は、「リージョナルな安全保障問題への対処」でした。1996年4月の「日米安保共同宣言」、97年11月の「日米防衛協力ガイドラインの見直し」、そして99年5月の「周辺事態法」の制定に伴う日米同盟の再構築のプロセスは、朝鮮半島問題をはじめとする周辺事態に際し、日米同盟の機能と任務及び日本の役割を規定するものでした。新ガイドラインが、平時―有事―周辺事態という三つの概念で同盟の役割を規定し、とりわけ周辺事態に力点が置かれたのも、リージョナルな広がりを持つ同盟の意義を示しています。その意味で日米安保共同宣言が「アジア太平洋地域においてより安定した安全保障環境の構築のための協力していく」と謳ったのは、同盟が冷戦型の脅威対抗型から、地域の安定化を目指す枠組みとして転換したことを意味していました。またASEAN地域フォーラム(ARF)をはじめとする協調的安全保障のプロセスにも積極的に参画したことにより、日本は「リージョナルな空間」との関わりを、日米同盟の再構築と多国間安全保障による補完という「二軌道の構造」として確立することを目指したんです(第8回講義参照)。

第三の転機は、「ナショナルな安全保障政策の整備」です。有事法制の研究は1977年以来、有事の際の関係法令との調整や不備について包括的な検討が行われましたが、その後ややもすれば、「研究をすること自体が戦争を招く」という批判もある中で、四半世紀の間立法化に至りませんでした。しかし、2003年6月に武力攻撃事態対処関連三法が成立し、日本にとり緊急事態への対処に関する国内的制度の骨格が確立しました。有事法制の制定は、重要緊急事態における国の責務、地方公共団体の責務、国民の協力について国全体で問題意識を共有する契機となりました。現在の国民保護法制をはじめとする個別法制の整備についても、日本における緊急事態と基本的人権との緊張関係を再定義する意味で、きわめて重要な意味を持っています。こうした「ナショナル」な空間における思考様式の変化が、第三の転機を象徴するものでした。

こうした三つの転機を経て、日本の安全保障政策が第四の転機「空間横断の安全保障」という段階に突入していく、というのが私の分析です。これについては、最終授業で改めて詳しく扱うことにしましょう。

〔リーディング・マテリアル〕
中西寛「日本の安全保障経験」『国際政治』(第117号、1998年)

〔さらなる学習のために(日本語)〕
[1] 神保謙「新しい日本の安全保障:『専守防衛』・『基盤的防衛力』の転換の必要性」神保謙ほか『新しい日本の安全保障を考える』(自由国民社、2004年)
[2] 田村重信・杉之宣生『教科書日本の安全保障』(芙蓉書房出版、2004年)

〔さらなる学習のために(英語)〕
[1] Michael J. Green, Japan's Reluctant Realism: Foreign Policy Challenges in an Era of Uncertain Power (Palgrave, 2002).

投稿者 jimbo : 2005年06月30日 02:27