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2006年04月20日
第2回講義レビュー(06年)
第2週になり、履修者の数もおおよそ定まってきたみたいですね。先週は「履修者がΩ教室に入りきらなかったらどうしよう・・・」と心配していましたが、なんとかΩサイズに収まったようです。よかった(^-^)。
【「脅威」と「脅威認識」について】
さて、安全保障論でよく議論の出発点となるのは、「脅威」をめぐる概念です。Securityの語源がSe(引き離す)+Curitas(不安)であるように、「不安」の源が何か、ということが安全保障論の基点になるわけですね。
ところで、永田町では「日本にとって中国は脅威か?」という議論について、昨年面白いやりとりがありました。民主党の前原代表(当時)は、昨年12月の訪米の際に「(中国は)現実的な脅威だ」と発言をし、内外で波紋をよびました。これに対し自民党は「中国は現時点では脅威ではない」という認識を示し、その理由として「特定国に対する侵略の意図と能力を組み合わせて『脅威』という。中国に能力はあるが、明確な意図は見当たらない」(自民党国防族)からだ、と述べています。
皆さんはこの議論をどのように評価しますか?いったいなぜ、このような見解の差が生まれるのでしょうか?これらの議論には「脅威」という概念をめぐって、日本国内でかなりの混乱があるように見受けられます。あまり「脅威」という言葉が、政治家たちの間で吟味されずに使われているようなのです。
安全保障論の授業で紹介した「脅威」の定義とは「主体(国家・非国家主体・個人)に危害・損害を与える(可能性のある)『意図』と『能力』」です。当然ながら、相手方が我々に悪意(意図)を持っていても、軍事力(能力)が伴わなければ「脅威」にはならないわけですね。逆に相手が軍事大国(能力)であっても、我々に損害を与える意図がなければ、同じく「脅威」とはみなすことは適当ではないのです(たとえば同盟国である米国は日本の脅威とはいい難い)。
「脅威」の概念は、「意図」と「能力」の二つが結びつかなければならないわけですね。その意味で自民党の提起した議論には説得力を感じるわけです。つまり、自民党・民主党ともに認めているのは「中国の軍拡は(能力として)脅威と『なりうる』」が、自民サイドが強調したいのは(現在のところ)中国が日本に損害を与える意図は持っていない(したがって前原氏の発言は勇み足である)ということですね。
でも自民党サイドが「中国が日本に侵略する意図はない」という「意図」の解釈は、やや乱暴だと思いませんか?現代の安全保障論は「侵略」を対象にしたものなのでしょうか?むしろ「侵略」に至らず「事故」ともつかない、その中間に「白黒はっきりしない世界」があるのではないでしょうか。
たしかに、日中対立の結果、中国が日本に対して直接侵略をする事態は考えにくいと思います。でも、仮に台湾海峡で武力紛争が発生した場合に、日本の島嶼地域が常に安全といえるでしょうか?また、日中の中間線をめぐる対立や、海洋調査船の活動に対して対抗措置をとった場合、軍事的な小競り合いが起きる可能性も無視できません。したがって、全面的な軍事対立を想定して「脅威」か否かを判断する、という議論自体がやや現実離れしているわけですね。したがって、過去の定義(授業で紹介した第1象限の世界の定義!)にしたがって「脅威」を規定することは、もはや時代遅れといわざるを得ないのかもしれません。
むしろ安全保障論を学ぶ私たちにとって重要なのは、①(中国の)軍事的な能力が現在どのような段階にあり、②将来いかなる能力を持つようになるのか、そして③中国の国家目標・安全保障政策がこれら能力をどのように結び付けられるのか、ということを解きほぐしていくことです。日本にとっての「脅威」とは何か、という議論について単純すぎる理解をしようと焦らず、さまざまな事態を想定して、じっくりと考えてみてください。
【QDRにみる米国の安全保障観】
さて授業の中では、米国・ロシア・欧州各国・中国・日本がどのような「脅威認識」を持っているのか、比較検討してみました。とりわけ重要なのは、超大国である米国がどのような安全保障観を持っているかを理解することだと私は考えています。良かれ悪しかれ、米国の認識に世界の趨勢は大きく振り回されるわけですから。まずは米国の認識を解剖してみましょう。
さて、ここでも引用するのは、前回も紹介した「4年毎の国防政策の見直し」(Quadrrenial Defense Review: QDR)です。QDRは1997年以来、国防総省が議会の要請によって4年に1度国防政策を見直す文章です。日本では「防衛計画の大綱」に相当しますが、QDRは米国の安全保障政策の理念・目標・コンセプトなどについて、よほど雄弁に語っており、読み応えのあるレポートです。
最新のQDRは、2006年3月に発表されました。QDRは米国が直面する安全保障上の脅威として①非正規型(テロリズムなど)、②破滅型(大量破壊兵器など)、③伝統型(通常戦力による軍事紛争の脅威)、④混乱型(サイバー攻撃など)の4つに分類しています。
ここで重要なのは、上記座標軸の横軸を「(米国の)脆弱性」、縦軸を「(事態の)蓋然性」と定めていることです。つまり、もっとも脆弱性・蓋然性が高いのが②破滅型、逆にもっとも低いのが③伝統型となるわけですね。ということは、米国の脅威認識としてより②破滅型および①非正規型の脅威への対応が重要になる、という認識をしめしているわけです。
ところが、現在の米国の軍事態勢は依然として③伝統型への対応に備えたものになっている。これが、米国にとっての脅威と、それに対応する米軍の態勢とのギャップを生んでいるという問題意識が生まれます。そして、下図のように「ウエイトを(②>①の方向へと)シフトさせなければならない」という結論を導き出しているわけですね。
【「脅威」ベースから「能力」ベースへ】
さらに理解を深めなければならないのは、米国の安全保障政策において「脅威」という言葉を意図的に排除しようとしていることです。かつて冷戦期の脅威の代表格はソ連でした。安全保障専門家の仕事といえば、ソ連の「意図」と「能力」を分析し、その脅威にいかに備えるかを提言することでした。そして冷戦が終わると、いわゆる「地域紛争」の発生が米国やその同盟国にいかなる損害を与えるかという観点から「脅威」が評価されるようになりました。1993年のボトム・アップ・レビュー(Bottom-up Review)では「2つの同時に生起しうる地域紛争(ここでは朝鮮半島と湾岸地域)に、対応できる能力」の構築が目指されたわけです。すなわち、二つの地域紛争を米国(とその同盟国)にとっての脅威と認定するところから、国防計画が成り立っていたわけですね。
ところが9.11事件を経ると、「どの国が・誰が脅威なのか」という議論が特定しづらくなりました。テロリズムのような①非正規型の攻撃は、ヒト・モノ・カネの複雑なネットワークから生じるものだし、また②破滅型の攻撃も、朝鮮半島や湾岸地域以外のアクターが大量破壊兵器を手にすることによって、実行が可能になるかもしれないからです。つまり「誰が意図をもっているのか」がわかりにくい世の中が到来した、と米国はとらえているわけですね。
その結果生み出されたアプローチが「能力ベースのアプローチ」(Capability-base Approach)と呼ばれるものです。ここでは「米国の脅威がいつどこで出現するかは、現下の安全保障環境では予測困難である」前提があります。「空間・時間」の概念で説明したとおり、ポスト9.11の安全保障では空間と時間を越えて、脅威が出現してくるという観念が生まれているわけです。
しかし、だからといって米国が敵について何もわからないわけではない。「敵がどのような能力を用いて米国を攻撃するかは予測可能である」ということですね。つまり世界にはどのような大量破壊兵器が拡散し、いかなる通常戦力が存在するか、つまり「能力」を把握することは「意図」を把握するよりも具体的だという世界観を強調したわけです。
そのため米国は、大量破壊兵器がどのように生産・移転・使用されるのか、という現象こそが安全保障上の脅威であり、そこに着目しなければ実際の攻撃を止めることはできない、という発想に立つわけです。現存する「能力」に対応するために、自らの「能力」を形成する、それが「能力ベースのアプローチ」の真意ということですね。
米国が「脅威ベース」という言葉をなぜ排除したのか、なぜ「能力ベース」という概念を採用したのか、みなさんももう一度よく考えてみてください。
今回のレビューはここまで。授業の後半で紹介した「安全保障政策の類型」については、前年度のレビューをごらんください。
投稿者 jimbo : 2006年04月20日 00:52