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2007年04月27日

第1回授業レビュー(その1)

このブログは、授業の理解を促進するためのサブ・教材として、また担当講師と受講者のみなさんとのコミュニケーションツールとして、位置づけたいと思います。授業やブログに関する質問・意見につきましては、SFC-SFCおよび担当者宛メールにて、積極的にお寄せください。

さてSFCは2007年度春学期より「未来創造カリキュラム」という新しいカリキュラムを採用しました。これに伴い、旧「安全保障論」は「安全保障と国際紛争」という科目として生まれ変わることになりました。私は2年間にわたり「安全保障論」を担当しましたが、今学期からは旧来の科目に加えて、「国際紛争」の諸相・原因・紛争処理と解決などについても、力を入れたいと思っています。旧科目のブログは「安全保障論ノススメ」に掲載されていますので、授業の進展に合わせて参照してみてください。

【「酸素」と多元的な安全保障】

「安全保障は酸素のようなものである。失ってみたときに、はじめてその意味がわかる」(Security is like oxygen. You do not notice it until you begin to lose it.)。これは、ハーバード大学ケネディスクール学長のジョセフ・ナイ教授が1995年に残している言葉です。当時、ナイ教授は米国防総省の国防次官補という要職で、東アジア安全保障政策を担当していました。1989~91年の冷戦の崩壊に伴い、もはや日米同盟の役割は終えたのではないか?同盟は解消して、多国間安全保障の形成を目指すべきではないか?という議論を、「空気」の喩えをつかって鋭く戒めたのです。

ナイ教授の言葉は、日々私たちが当たり前だと思っている(take for granted)日本の安全が、実は多くのパワー(power)、制度(institution)、財産(asset)、知恵(knowledge)によって支えられている、ということを示唆しています。

もっとも「安全」というのは、安全でなくなったときに初めて実感できるものです。みなさんが、風邪をひいたときに、日々の健康についての価値を気づくのと同じように。「明日の安全をどうしようと思い悩まない状態が、安全な状態だ」という真理も、空気が汚れ、淀んできたときの知恵をもたらすわけではありません。私たちは安全保障を学ぶものとして、現在の空気に「輪郭を与える」ことから始めなければなりません。そこから、勉強をスタートさせましょう。

安全保障については、これまで世界中の多くの学者がその定義を試みてきました。でも、この授業では定義の蛸壺にはまることが主旨ではないし、100の定義を覚えたとしても「政策学」として役立つかどうかは疑問です(尊敬すべき学術成果ではありますが)。できるだけざっくりと私なりの定義と解説を中心に、議論を深めていきましょう。

安全保障はもっとも広義には「誰が(主体))・何を(価値)・どのように(手段)・誰と(協力者)守るのか」という一般概念です。1648年のウエストファリア体制が成立してからの国際体系において、安全保障に関する概念は「国家が自国を軍事力によって守る」=国防(Defense)という考え方が中心でした。戦時国際法や戦争の違法化という規範もない世界において、自国のパワーを増大させ、自助(self-help)によって国家を守るという考え方が基調だったわけです。

ところが、現代の安全保障論は、「国防」概念よりもはるかに多元的な理解を必要としています。[主体]については、依然として国家が中心的なアクターですが、企業、地方公共団体、非政府組織(NGO)、個人も安全保障を担う主体となっています。[価値]についても、国家を構成する多元要素(国民の生命、財産、企業、文化、アイデンティティ)を守るべき価値とみなすようになりました。[手段]についても、軍事力・経済力といったハード・パワー(hard power)に加えて、最近では社会・文化的な力としてのソフト・パワー(soft power)も注目を集めています。そして[協力者]についても、伝統的な同盟関係に加えて、多国間安全保障、アドホックな協力、国連などの国際機関の役割など、多くの枠組みとの関係性を考える必要があるのですね。

こうした論点から生まれてきたのが、総合安全保障、経済安全保障(ときには食糧安全保障)、人間の安全保障といった安全保障を総合化、あるいは伝統的な分野と区分けしてとらえる考え方です。ときには、これらの概念が「伝統的安全保障よりも重要だ」という意味づけをしたがる人たちもいます。

でも、私のとらえ方は若干異なります。第一に、そもそも安全保障は総合的なものです。時代が変わるにつれ、「守る」という述語をみたすための主語も目的語も変容しているのですから、「安全保障」という言葉そのものがダイナミックに変化する概念です。「守る」ために経済や人間ひとりひとりに着目すべきときには、そうすべきなのです。

第二に、国や立場のおかれた状況(先天的状況)において、安全保障の概念は当然に異なるわけです。たとえば日本の安全保障といえば、北朝鮮の核開発問題や、将来の中国の台頭といった周辺国の動向を注視するのは当然です。しかし、もしアメリカ人だったとすれば国際テロリズムやイラクの動向が気になるし、ボスニア人だったらセルビア・クロアチアとの関係や民族間の融和こそが安全保障のテーマとなります。1997年の金融危機前後のマレーシアの首相だったら、ヘッジファンドの脅威こそが国家の脅威と定義するかもしれません。ソマリアやスーダンに生まれていたら、日々の生活の維持やガバナンスの確立こそが安全保障のテーマであるわけです。

そして重要なことは、グローバリゼーションの深化と拡大によって、日本も他の先進国も、これらの異なる「安全保障」の課題を抱えている国々と、多くのインターフェースによってかかわりあっているということです。だから、以上に述べたすべての安全保障論から、われわれは逃れることができないのです。

安全保障の固定的な定義を捜し求め、そこに安住することは、「政策学」としては有効ではありません。われわれは、守るべき「価値」、守るべき「人」がそこにいるならば、どのように守るのかということを絶えず再構成していかなければなりません。それが、安全保障のダイナミックな政策学なのです。

(つづく)

投稿者 kenj : 2007年04月27日 09:28

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