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2007年04月27日

第1回授業レビュー(その2)

【新しい安全保障論】

とはいっても、歴史を見据えた巨視的な観点から、現代の安全保障の特質を理解することは、とても重要なことです。その都度変化する方程式を、代入法でばかり解いているわけにもいきません。われわれは、英知によって安全保障の方程式を作る必要があるのです。

私たちのような昭和後期生まれ(平成生まれ?)の世代にとって、皮膚感覚で理解できる国際状況というのは限られた範囲でしかありません。聖戦論の時代、帝国主義の時代や、イデオロギー対立の時代において、どのような戦争と平和の観念が人々を支配していたのか、今ではそこに心を震わせることがとても難しいのです。

1970年代生まれの私の祖父母は、太平洋戦争と徴兵を体験した世代ですが、90年代生まれに入ると、いよいよ家族に戦争の実体験をした人がいなくなる世代に入ります。つい先ごろの戦争の記憶も、次第に物語となって、歴史に吸収されていく道筋をたどっているように思えます。でも、われわれはたしかに2001年9月11日に戦慄をおぼえたはずです。何か新しい種類の破壊行為が、理解することの難しい理由をもって、迫ってくる可能性を感じとったのではないかと思います。「新しい戦争がはじまった」とブッシュ大統領は宣言したわけですが、「新しさ」をとらえるためには「古い」戦争がどのようなものであったのかも、理解する必要があるはずです。

そこで、第1回の授業では「脅威の座標軸」による理解を提案しました、横軸に脅威の「対称性」と「非対称性」をとり、縦軸に脅威の「列度」の大小をおきます。すると、第二次大戦後から冷戦期にかけての国際関係の大部分は、第1象限、すなわち対称的で列度の高い対立関係を前提としていたことがわかります。米国とソ連は、自由主義と共産主義のイデオロギー対立とともに、西側諸国と東側諸国による二極化された国際構造を欧州に形成し、アジア諸国も、また第三世界の国々の多くも、この二極構造から自由とはなりませんでした。


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ところが、9.11が提起したことは、こうした非対称的な脅威が、安全保障上の第1級の脅威として浮上したことにありました。かつて冷戦期におけるテロリズムは、脅威とみなされていたものの、その破壊規模は数百人程度に過ぎませんでした。ところが、9.11ではNYCとワシントンDCにおいて約3000人の人々が犠牲となりました。

仮に戦争の定義を、ひとつの戦闘行為によって1000人以上の死者がでる状態と定義するならば、9.11はいよいよテロリズムが戦争の領域に踏み出したことを意味しています。そしてさらに重要なのは、こうした非対称的脅威が、核兵器・生物兵器・化学兵器などの大量破壊兵器(Weapons of Mass Destruction:WMD)と結びついた場合、この「列度」はさらに破壊的な規模となるということです。

脅威の非対称性はテロリズムだけではなく、イラン・北朝鮮といった、いわゆる「ならず者国家(rogue states)」にも適用されます。これらの国々は、国際法、条約、協定、合意などの国際的約束事を十分に履行せず、現状維持に対する不満を表明しているばかりでなく、「平和的変更」の可能性を狭めていることに特徴があります。さらに、米ソ関係やソ連・欧州関係にみられた合理性が、どこまで適用できるかもわかりません。こうした国家が、近年大量破壊兵器やミサイルの取得に傾注していることも、第2象限の安全保障の重要性を際立たせています。

すなわち、現代の安全保障の特質は「第1象限から第2象限への拡大」ととらえてよいと思います。そして、この「拡大」はかつての安全保障の論理に、革命的といってもよい影響を与えているのです。とりわけ大きな影響を受けるのが、(旧)安全保障論第3回のブログで詳しく説明している、抑止の概念です。冷戦期の米ソ関係において、互いの価値が両立しないのであれば、紛争の生起可能性を減らしていくことこそが、安全保障の考え方の支柱にありました。それが「自国が報復の意思と能力を明示することにより、相手に攻撃を思いとどまらせる」という抑止の考え方でした。この抑止論は、核兵器の登場による破滅的な報復能力の獲得により、きわめて説得的な考え方となったわけです。

ところが、第2象限のアクターにたいして「抑止」が作用するかどうかは、疑わしいといわざるをえません。例えばこちらでものべたように、抑止が成立する条件とは、相手にたいして①報復能力を持つこと、②報復する意思を明示すること、③相互理解をすること、が成り立つことが必要です。

ところが、テロリストに対して、報復をするのは難しいし、報復意思を示したとしても威嚇効果になりにくいし、その意味では相互理解は不可能です。さらに、自爆テロを手段とするテロリストに対しては、報復しようがしまいが、攻撃を決行されてしまいます。結局、自己保存に関する原則が成り立たない相手を、怖いものはないということになります。

また「ならず者」国家にしてみても、仮に金正日体制が崩壊の危機に瀕しているときに、北朝鮮の日本に対する攻撃を抑止できるかどうかは、きわめて難しいかもしれません。かりに「将軍なければ国家なし」という観念を北朝鮮が信じているとすれば、報復自体はさほど問題ではないということになるからです。

このように、第2象限における安全保障の特徴は、相手と「共存」することが難しいということにあります。テロリストとの共存関係のなかで安定を保つ、北朝鮮やイランとの共存関係を保つというのは、実に難しい課題なのです。となると、相手との「非共存」を選ばなければならない。そのときに出てくるのが「先制」といった概念であったわけなのです。これが「ブッシュドクトリン」の論理ということになります。

(つづく)

投稿者 kenj : 2007年04月27日 09:39

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