第2部 1960年代から1990年代までの外国人施策の歴史

 

川崎市の外国人住民施策についての分析を行うにあたって、いくつかの事前知識及び用語の定義が不可欠となる。ここでは、日本に住む外国人の法的地位や、来日の経緯についての歴史を簡単に述べておきたい。

 

1−1:在住外国人についての2つの統計

 

日本に住む外国人についての統計は主に二種類ある。一つは外国人登録法に基づく外国人登録数のデータで、もう一つが出入国管理および難民認定法(以下、入管法)に基づく出入国数のデータである。

 

まず、外国人登録であるが、これは外国人住民自らの居住自治体において行われ、登録すると外国人登録証明書が交付される。16歳以上の外国人はこの証明書の常時携帯を義務づけられ、不携帯が見つかった場合は20万円以下の罰金、官憲への提示拒否の場合は「1年以下の懲役もしくは禁錮または20万円以下の罰金(併科も可)」が定められている。また、93年に法改正が行われるまでは、16歳以上で1年以上在留する全ての外国人は登録に際して写真の提出とともに指紋押捺の義務があった。外国人登録は、在日外国人の居住に関するデータとなり、「静態」を把握するものである。

 

次に、入管法についてであるが、これは全ての外国人を28種類の「在留資格」に分類し、それぞれに応じた「在留期間」を設けて管理する仕組みとなっている。その事務を掌握しているのは法務省入国管理局であり、その下にある各地方入管局(8局、4支局のほか各出張所)が具体的な処理を行う。処理の中には「強制退去」なども含まれる。(巻末資料@参照)ここでは在留資格の大まかな区分のみ説明しておく。28種類の在留資格は、まず2つに大別される。「一定の活動を行うためのもの」と「活動に制限のないもの」である。前者は更に3分割され、「就労が認められる資格」、「就労が認められない資格」、「就労許可は個々の許可内容によるもの」となる。入管法は外国人登録法に比べて、出入国数などの「動態」を把握するデータである。

 

1−2:オールドカマーとニューカマーについて

 

次に、こうした在留資格と併せて、オールドカマーと呼ばれる外国人とニューカマーと呼ばれる外国人についての説明を行いたい。まずは、オールドカマー、または「在日」と呼ばれる外国人についてである。彼らは主に大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などの、日本の旧植民地出身者である。(一部、台湾出身者も含まれる。)1910年の日本の韓国併合後、38年の国家総動員法に基づいて多くの朝鮮人労働者が、逼迫する国内の労働力の供給源として日本国内の重要産業(石炭鉱山、金属鉱山など)へと移出されたのである。移出の方法としては「募集」「官斡旋」「国民徴用令」に基づくものなどがあったが、これらの方式により37年から45年までに約125万人の朝鮮人が産業に追加投入された(E.W.ワグナー「日本における朝鮮少数民族」による)と言われている。日本の敗戦に伴い、大多数の在日朝鮮人が帰国した。敗戦当時の在日朝鮮人は約230万人と言われ、その内の170万人が帰国の途に着いた。しかし、36年間にわたる植民地支配の結果、朝鮮半島は政治的・経済的にも混乱しており、疫病が流行し、生活基盤が未整備であったことなどからも約60万人の朝鮮人は戦後も日本に留まらざるを得なかった。彼らとその子孫が現在の在日韓国・朝鮮人である。

  

次に、ニューカマーと呼ばれる人々について説明したい。彼らは、80年代半ば以降、就労、就学、国際結婚などにより来日した外国人である。当時の日本は、円高による国際的な経済競争力が強まる中で労働力の不足が慢性化していた。そこで、かつて移民として送り出した人たちを「日系人」労働者として受け入れるようになったのである。また、彼らの国籍は様々であるが、日系人として就労しているのは主にブラジル、ペルー出身者である。また、就学生としては中国出身者、国際結婚ではフィリピンやタイの出身者が多い。

 

オールドカマーとニューカマーは、同じ外国人であっても、来日した経緯などの違いから、法的地位や日本社会への根付き方に大きな違いが見られる。オールドカマーの元の在留資格は、1952年の「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係諸命令の措置に関する法律(略称:法126の2の6)」である。条文は「別に法律によって定められるまで、在留資格を有することなく日本に滞在することができる」となっている。この資格を持つ親から生まれた子どもは、旧入管法でいう「特別永住者」となり、3年の在留資格が与えられた。この制度は1965年の日韓条約の締結により、「協定永住」という制度に改められた。3年のみの在留から、親子二代に限り永住が認められたのである。しかし、これはあくまで日本と韓国の二国間の条約であったために、「朝鮮国籍」の人には依然「法126の2の6」が適用されていた。次に制度改正が行われるのは82年の難民条約の発効時=入管法の改正時である。これにより「特例永住」という制度が設けられた。しかし、これも内容的には「協定永住」と殆ど変わらず、三代目以降は「特別在留」という不安定な立場に置かれていたのである。これが完全に撤廃されるのが91年の日韓法的地位協定に基づく協議に関する覚え書き(略称:日韓覚え書き)を受けて出された「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(以下、入管特例法)」である。これにともなって、「法126」、「法126の子」、「協定永住」、「特例永住」者はいずれも、申請により無条件で永住を許可されたのである。彼らは入管法では「活動に制限のない在留資格」を持っていることになる。

 

2:川崎市の外国人住民に関する歴史的背景

 

川崎市に住む在日韓国・朝鮮人の多くは、戦前、日本を代表する京浜工業地帯で朝鮮半島から募集、徴用、強制などにより工場労働者として働いていた人およびその子孫である。かつては、市内の在住外国人の多数派であった彼らも、88年の入管法改正以降、多数のニューカマーが移住してくる中で、市の外国人人口約2万人(102カ国)の内、ついに50%を割り込んだ。ニューカマーの比率は、微増ではあるが年々高まる傾向にある。

 

2−1:川崎市の歴史と外国人労働者・1910年〜20年代

 

今日、川崎市には約1万人の在日韓国・朝鮮人が在住しているが、その内約半数の人々は京浜工業地帯の南部に集住している。その原因を探ってみると、大正初期、1910年代に始まる京浜工業地帯の発達史と深く関連していることが分かる。そしてまた、関東大震災の翌年にあたる1924年から市政が施行された川崎市の発達史とも重なり合っているのである。

 

1912年、浅野総一郎によって始められた広大な干拓地に、日本鋼管(現・NKK)が土地を求め工場建設に着手した。朴慶植氏の「在日朝鮮人関係資料集」第一巻所収の内務省警保局資料によると、この当時神奈川県全体には82名の朝鮮人が在住していた。(注:。三一書房)日本鋼管の進出に前後して、富士瓦斯紡績、鈴木商店(現・味の素)、東京電気(現・東芝)、改良豆粕と工場建設が相次いだ。1917年には東京府深川から浅野セメント(現・第一セメント)が田島村に工場を建設するというように、建設ラッシュであった。

 

1919年には川崎町、稲城村間に鉄道を敷設するため、多摩川砂利鉄道(株)が設立された。2年後には南武鉄道と改称されるが、これはその名の通り、多摩川で採取した砂利を運搬するための鉄道であった(現・南武線)。この頃すでに多摩川の砂利採取人夫として朝鮮人がいたと考えられている。1920年の米騒動の後、川崎町堀之内に労働者の宿泊・職業紹介を兼ねた川崎社会館(現在の市労連会館の辺り)が設立され、毎月の利用者1000人のうち、20〜40名が朝鮮人であったという。このように、川崎における朝鮮人は、京浜工業地帯の立ち上げ時期より在住し、工場建設のための人夫や土方といった労働に従事していたのである。

 

1923年9月1日に関東大震災が発生した折、京浜地方一帯に朝鮮人の暴動をまことしやかに伝える流言ひ語が飛び交った。しかし平常から朝鮮人労働者を多数使用していた請負業者の中には、朝鮮人に暴行を加えようとする群衆を押さえて急場を救った者が少なくなかったという。川崎市史、神奈川県史の、関東大震災についての記録からは、この頃川崎南部には既に数百人単位で朝鮮人が在住していたことが分かる。また、朝鮮総督府庶務部調査課が偏した「阪神・京浜地方の朝鮮人労働者」(1924年)によれば、震災の年の12月末現在、日本鋼管一社だけで13人の朝鮮人が雇用されていたと記録されている。

 

震災の復興に寄与したのもまた、朝鮮人労働者であった。震災復興の過程で不燃建設の材料としての砂利需要が増大した。まだ機会掘りがさほど普及していなかったこの時期、河原で直接砂利を採掘するきつい労働の大半は朝鮮人労働者によって担われたのである。また、震災の復興が一段落する1925年には、鶴見総持寺あたりから海岸沿いに海岸電気軌道が敷設された。これは、日本鋼管や浅野セメントに通勤する労働者を運ぶためのものであった。この電気軌道の海側は、干拓が進められてはいたものの、一面葦原であったという。この葦原の一角、現在の池上町集落のあたりに朝鮮人が数個ずつ在住し始め、朝鮮人労働者は震災前以上に急増していったのである。1930年の国勢調査によれば、神奈川県在住の朝鮮人合計数は13178人(男子9452人、女子3726人)となっている。

 

2−2:川崎市の歴史と外国人労働者・1930年〜50年代

 

1931年の満州事変勃発に伴い、京浜工業地帯は軍需生産の増大に湧いた。それに伴って、市の人口も増加の一途を辿っていくようになる。次々と拡張される工場の建設は、人口増加を生み、その結果として住宅の不足を生んだ。そのため、田島地区には急ごしらえの住宅が無計画に建てられ、多くの飯場や寄宿舎が建てられるようになった。1939年の日本政府の閣議決定による、朝鮮人労働者の強制連行が「募集形式」によって始められると、日本鋼管はわずかな人家があるのみであった池上町一帯を買収し、軍需工場(現・京浜製鉄所、六管工場)の建設に着手した。川崎市在住の朝鮮人数は一気に5343人になっていく。日本鋼管以外にも、日本金属、日本治金、日本鍛工、古川鋳造、富士電機製造、日立造船、昭和電工、三菱造船所など、川崎、横浜両市の京浜工業地帯に多くの朝鮮人労働者が徴用されていった。

 

 

2−3:川崎市の歴史と外国人労働者・1930年代〜50年代

 

1945年の日本敗戦に伴い、多くの在日朝鮮人労働者が帰国したが、一方で残る者もいた。45年5月の川崎大空襲で丸焼けとなった浜町のセメント通り一帯も、残留した朝鮮人の手によるバラック小屋が建ち始め、どぶろく小屋も2軒ほど店を開いた。池上町の産業道路沿いの地区は、戦時中は軍需産業一色の京浜工業地帯で働く日本人従業員の社宅が建っていた。敗戦後、こうした従業員らが郷里に引き揚げ、空き家になっていたところに、粗末なバラック小屋で雨露をしのいでいた朝鮮人労働者が移り住んだ。こうして、戦前よりあった池上町(旧桜本三丁目)や現在の桜本二丁目(旧池上新田中留耕地)、そしてセメント通りを中心とする浜町に朝鮮人が多住するようになったのである。

 

 

3:1960−70年代の川崎市の外国人住民をめぐる動き

 

60年代当時、川崎市の外国人住民はほぼ全員がオールドカマーであった。この時期を端緒に、彼らに対する権利保障が徐々になされるようになるのであるが、それはこの時期に顕著であった全国レベルでの革新首長・自治体の誕生と深い関わりがある。

 

3−1:革新市政の発足

 

60年代後半から70年代初頭にかけては全国各都市で革新市長が次々と誕生した時期であった。横浜市の飛鳥田一雄市長(63年4月当選)、東京都の美濃部亮吉知事(67年4月当選)、鎌倉市の正木千冬市長(70年9月当選)、藤沢市の葉山峻市長(72年2月当選)などがこれら「革新メガロポリス」の代表者である。川崎市においても、住民の公害闘争を発端に、発生源企業の労働者が先頭に立って、市民と手を取り合って革新市長擁立に動いた。共産党は粘り強く社会党に統一候補の選出を働きかけると同時に、労組や市民団体も両党に統一実現の要請を繰り返し行った。労組側は、全国金属池貝鉄工や川崎化成、東亜石油、新東洋ガラス、富田電機、ゼネラル石油などが社共両党に統一の申し入れを行い、全市域の労組にも統一支持を呼びかけた。選挙2ヶ月前という差し迫った時期であったが、各組合の精力的な取り組みで賛同組合は増えていき、最終的には総評、同盟、中立労連、中立系などを含め、全体で約200労組が統一を支持した。一方、市民運動の側も、主婦らの婦人団体を始め、演劇や文学などの文化団体、平和委員会などの民主団体が社共両党に統一要請を行った。この運動で、市民各階層に「統一気運」が盛り上がり、川労協も社共統一に取り組み、内部分裂していた社会党が統一候補選出を決めた。公示まであと40日となった3月5日、川崎市労連委員長の伊藤三郎氏が革新統一候補に決まり、71年4月の選挙において、七選を目指した自民党の金刺市長に5万票差の22万5073票を得て圧勝した。

 

3−2:幻の「川崎市都市憲章」条例案

 

64年には「全国革新市長会」が結成された。引き続き、革新町村長会も結成された。73年には革新市長会に加盟する都市は、全都市の約3割の131都市にも及んだ。こうした革新市長のネットワークからは、国の政策より一歩も二歩も先を行く政策の提言が行われてきた。中でも、伊藤市長と学識経験者(座長:小林直樹・東京大学法学部教授(当時))らが提案した「川崎市都市憲章」は、仕事場や学校など日々の生活の場で差別に苦しんでいた市内の外国人住民に、大きな期待を抱かせたものであった。この憲章は、産業優先の政策を改め、川崎市民が人間性豊かで平和な暮らしを送れるような「人間都市・川崎」の創設を唄ったものである。ここでの「川崎市民」の定義は、原案の第13条では「川崎市に住む全ての人」(国籍とは無関係)となっており、この点が外国人住民に制度的差別解消に向けての期待を持たせたのである。しかしこの原案は、自民党の強い反対にあった。改正案の13条では「法令に定める例外を除き」という制限文が加えられ、その改正案も3回市議会にかけられたが、結局否決され、実現に至らなかったのである。

 

4:外国人住民の働きかけ〜桜本保育園の創設から民闘連の結成まで〜

 

4−1:桜本保育園の創設

 

60年代半ば以降は、池田首相主導のもと、日本が高度経済成長期に突入していた時期でもある。川崎市でも共働きや、母親がパートに出る家庭が増え、その子ども達を日中預かる保育園が必要とされていた。そうした中、69年に、在日大韓基督教川崎協会の李仁夏(イ・インハ)牧師(=川崎市外国人市民代表者会議・現議長)が教会堂を解放して、無認可の桜本保育園を創設した。桜本とは、在日韓国・朝鮮人の多住する川崎市の一地域である。桜本保育園では「すべての子どもたちの人格・個性の育成の尊重」という理念のもと、日本人と在日韓国・朝鮮人、障害を持つ子どもが共に教育されている。また、李氏自身も、自分の子どもをある幼稚園に入所させる際に、園長から民族差別的な発言を受けた経験があり、そのような差別のない保育園を創ることを思い立ったのである。その一環として、在日の園児と保護者に対しては説得を通じて、その当時一般的であった通称名の使用から本名を名乗るための運動を展開していった。60年代は、米国で公民権運動があり、その影響から在日のキリスト教教会も、「キリストに従ってこの世へ!」のスローガンのもと、差別撤廃などの社会変革、社会参画へと活路を見いだした時期であった。桜本保育園での通名通学の試みは、そうした流れにも後押しされていた部分があると言えよう。通名通学が定着していくまでには、民族差別を経験した在日の親たちや、とにかく子どもを預かってもらいたいと思っていた日本人の親たちの抵抗感など、意識変革の上で多くの課題が伴った。けれども、保育園側の人権尊重の理念が次第に浸透していき、保護者会などの場を通じて徐々に相互理解が達成されていった。

 

4−2:青丘社の設立と外国人住民の権利保障獲得にむけての動き

 

 その後、李氏は73年に社会福祉法人「青丘社」(せいきゅうしゃ)を設立し、外国人住民の権利保障獲得のための様々な活動を展開した。それまで外国人には認められていなかった児童手当の給付(75年)や、公営住宅の入居の国籍条項の撤廃(75年)などである。これらは、同年の第一回市議会定例会で審議にかけられ、採択されたものである。その経過の詳細は、以下の通りである。まず始めに、民生局の所管事項として議案第12号「川崎市児童手当支給条例の一部を改正する条例の制定について」が審議された。これは市に外国人登録をしている人に児童手当を支給するために制定するものであり、新たに支給の特例に関する1条を加え、支給対象の拡大に伴う支給要件、支給の認定、支給額、支給方法その他の手続きについては児童手当法の例によるものとするという案であった。この議案提出と同時期に、李仁夏氏をはじめとする数百名が中心となって2つの請願を行った。一つは請願643号で「在日韓国(朝鮮)人に対する児童手当と市営住宅入居の資格付与とその承認に関する請願」であり、もう一つが請願650号で「在日韓国(朝鮮)人に対する児童手当と市営住宅入居の資格付与とその承認について国に対し意見書を提出することに関する請願」であった。これら2つの請願は、共に第3,第4委員会に付託された。(後に第3委員会に一括された。)

 

4−3:議会と市職員の反応

 

 結果は、議案第12号、請願643号、650号ともに「可決」「採択」であった。第3委員会の報告担当者であった沢入議員は、議案第12号の委員会内での審議過程において、議員からの質問に対して担当職員が述べた重要なコメントを2点報告している。まず一つは、「他の各種(社会)制度全般についても、取捨選択をした上で段階的に(適用を)広げていく考えがあり、日本人並みにしていく」こと、2点目は「この制度は市が国に先駆けて行うものであり、財源は100%市が出すが、対象範囲も限られており、すでに東京や横浜での実施事例もあることから、今後市が国に起債や補助金申請をする際にも問題は生じないであろう」というものである。これらの点から、革新市長下での市職員が外国人住民施策の推進に力を置いていたことが分かる。そして、議案第12号は全会一致で可決された。また、請願については、643号は議案第12号が可決されたことにより願意が叶えられたものとされ、650号についても願意を踏まえて意見書が提出されることとなった。

 

この請願の採択に関し、自民党川崎市議団の塚原議員は定例議会内の各党派の代表討論で以下のように述べている。すなわち、市営住宅の入居は日本人にとっても大変ハードルが高いものであり、市民が困窮している現状は批判に値する。外国人の入居に関する国籍条項の撤廃の是非は別にしても、外国人が入居する、ないしは、した場合は委員会に報告があるべきではないだろうか、と。自民党は今現在も、外国人住民の地方参政権付与などに対して消極的立場をとり続けているが、この塚原氏の発言もその流れに沿ったものであると考えられる。

 

一部このような発言はあったものの、議案第12号、請願第643号、650号は全て可決ないしは採択された。そして、こうしたやりとりの中から、外国人住民と市役所職員との間に、外国人住民の権利保障に関しての共通認識や、共に改善を目指すための人的ネットワークが徐々に生まれていったのである。

 

4−4:70年の日立就職裁判

 

70年12月に、一つの裁判がスタートした。日立就職裁判である。この裁判は、在日韓国・朝鮮人が制度的差別のもとに生活を余儀なくさせられていることを、改めて全国に知らしめる結果となった。この裁判は、愛知県生まれで当時高校3年生であった朴鐘碩(パク・チョンソク)氏が日立製作所の採用試験に合格しながら、在日朝鮮人であることを会社側が知った後に、内定を取り消された事件についてのものである。この事件は、朴氏と同世代であり、当時、学生運動に熱心であった日本人の若者を支援者として巻き込んでいくことになった。学生運動をしていた彼らは、日米安保などの国レベルの問題には詳しかったものの、日本社会に根深く存在していた日常的差別の問題については知らなかったのである。入国管理法がそのやり玉に挙がっていた矢先にこの裁判が始まったのである。彼らは支援グループ「朴君を囲む会」を作り、この裁判に関わっていくようになる。また、朴氏の弁護士を探す過程で、川崎市の青丘社と知り合うのである。そして、一審では敗訴したものの、74年には全面勝訴(解雇無効、判決確定までの未払い賃金の支給、原告の請求全額分の慰謝料支給)に至る。

 

 この裁判が多くの日本人青年の支持を受けたのは、当時の社会状況にも起因している。69年3月に法務省は「入管法案」を提出した。これは、反ベトナム戦争を背景とした社会変動と重なり合っていくのである。ベトナムやその他の国からの留学生や青年達は反戦を唱えて、「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」などに参加していたのだが、留学生にはいかなる政治活動も認められないとして文部省から奨学金の打ち切りを通告された事件があったのである。民主主義を掲げる日本で、祖国の平和を願う留学生の活動を法的に制限し、「奨学金打ち切り」のような制裁まで加えたこの事件を通じ、日本の若者は次第に、日本社会における外国人への差別の問題や、入国管理法の問題に目覚めていくようになる。

 

4−5:民族差別と闘う連絡協議会(民闘連)の発足

 

日立裁判で集まった有志が75年、「民族差別と闘う連絡協議会(略称:民闘連)」を結成する。これは全国組織であるが、個々の支部が、身近にある具体的な差別を発見し、相互に連携し合いながら数多くの差別の撤廃に挑戦していくことを目指した。各自治体の公営住宅への入居や、日本育英会の奨学金の受給、日本電電公社(現NTTの前身)の職員採用、そして関西を中心とする地方公務員の採用など、いずれも「国籍」を理由とする差別をなくすため、各地で運動が展開された。そして、その中の神奈川支部の中から、後の川崎市外国人市民施策に大きな影響力を持っていった職員と市議が誕生していくのである。

 

また、70年代は、日本で生まれた韓国・朝鮮人の二世が成長して社会に出ていく時期とも合致している。70年代は、戦後の民主主義教育の中で、反差別、基本的人権の尊重が言われてきた時代である。その環境の中で育った在日韓国・朝鮮人が学校を出て、社会に出ると、様々な差別にぶつかるのである。日立裁判のような就職現場での差別や、資格取得差別、アパートが借りられない、クレジット払いを認めてもらえない、などである。こうした日々の生活の問題を解決しようと、民族団体(注@参照)にかけあっても、親身になって取り組んでくれることがなかったのである。民族団体はその当時、祖国・朝鮮半島の統一と民主化が至上課題であったためである。結局、日本社会で生きていく上で直面する様々な差別には、自分たちが主体的に取り組んでいく他はないのだと覚悟を決めた在日二世らと、彼らを支援した日本人青年らが、このような差別撤廃への運動を展開していったのが70年代であったのである。

 

5:1980年代〜インドシナ難民の受け入れによる大規模な政策転換〜

 

在日外国人にとっての「福祉元年」は1982年に突然訪れた。これは、ベトナム難民の発生という全くの外的要因によって生じた事態であった。75年4月30日に南ベトナムのサイゴン市(現・ホーチミン市)が陥落し、南北ベトナムの統一が実現した。しかしこれは同時に、住居をなくし、行き場のない大量の難民を生み出すこととなったのである。難民はベトナムだけでなく、ラオスやカンボジアからも相次いだ。彼らにどう対処するかが国際社会の大問題として、各国の政策課題となっていったのである。

 

5−1:インドシナ難民の受け入れ

 

折しもベトナム難民が発生した75年は先進七カ国首脳会議(サミット)が発足した年でもあった。サミットに参加した日本は、参加国の中で唯一のアジアの国であり、ベトナムに一番に近い国であったにも関わらず、難民の受け入れに対して「一時滞在許可」を与える以外に全く措置をとっていなかったのである。かくして、日本は対応の改善を国際社会から強く求められるようになる。78年4月に、福田赳夫首相はついに「定住許可」の方針を打ち出した。翌年4月には初めて定住枠500人が発表され、(その後徐々に拡大され、94年現在では1万人。97年に、受け入れを終了した。)その対象も「ベトナム難民」から「インドシナ難民」に拡大された。また、アジアの難民キャンプに収容されている人々の内、一定の条件を満たす人々についても定住を許可することとなったのである。

 

日本は、受け入れた難民に対し、日本語教育、職業訓練、職業紹介などを行うべく神奈川県と兵庫県の二カ所に難民定住促進センターを設立し、また一時滞在施設として長崎県に「大村難民一時レセプション・センター」、東京都に「国際救援センター」を設置した。日米首脳会談、毎年のサミット、さらには国連主催のインドシナ難民対策会議など、重要な外交日程の度に、難民政策の手直しが積み重ねられた。というのも、国際社会の目が厳しく、日本の外国人政策の瑕疵を見抜くようになっていたからである。電電公社入社に際しての国籍条項撤廃(78年)などの事件もちょうどこの時期に重なっていた。

 

5−2:国連の、人権関連の規約の採択

 

このように、細々ながら難民の受け入れを開始した日本政府は、今まで伸ばしのばしにしてきた、国連の人権関連の規約に採択せざるを得なくなったのである。国連は設立以来、人権と基本的な自由の尊重の推進を掲げ、その第一歩として、人権と基本的自由の定義や原則の確立をとりあげ、48年には世界人権宣言を満場一致(ソ連圏の6カ国およびその他の2国のみ棄権)採択したが、これは法的拘束力をもつものではなかった。そこでこれを条約化し、その実施を義務づけるため国際人権規約を起草することとし、人権委員会や、総会の第三委員会(社会・人道・文化)を中心として10数年の審議の末、66年12月に国連総会で採択し、各国の署名に開放した。

 

これは主として社会権を内容とする経済、社会、および文化面での権利に関する規約(=A規約)と、主として自由権を扱う市民的政治的権利に関する規約(=B規約)の二規約に分かれ、さらに後者に対する選択議定書がある。A規約は76年1月3日、B規約と選択議定書は同年3月23日に発効した。日本は78年5月31日に両規約に署名したが、祝祭日の給与、公務員のスト権、警察の構成員につき解釈宣言をおこなった。79年6月、両規約は国会承認を経て批准され、同年9月21日に日本は当事国となった。但し日本は、司法権の独立などを理由に選択議定書には批准していない。

 

5−3:81年の日本政府の難民条約批准による「内外人平等原則」の導入

 

在住外国人にとって、1982年は特別な意味を持つ。この前年、日本は難民条約に批准し、82年に発効したのである。これによって国家レベルでの社会保障の「内外人平等」原則が導入された。79年9月に既に批准していた国際人権規約に比べて、難民条約はより厳格な条約と言われており、その内容と矛盾する国内法がある場合、改正しなければならないというものであった。難民条約批准にあたって、下記の法律の改正が行われた。

 

1)国民年金法 2)児童扶養手当法 3)特別児童扶養手当法 4)児童手当法5)出入国管理令第24条(退去強制事由)第四号のハ、ニ、ホ(ハンセン病患者、精神障害者、生活保護受給者であることを理由に国外追放されない)

  

79年に国会で承認され、批准された国際人権規約で既に住宅金融公庫法、公営住宅法、住宅都市整備公団法、地方住宅供給公社法が改正されていたため、82年をもって、制度的な外国人差別は概ね解消された形になった。日本人と同様に納税義務を果たしてきた外国人を様々な社会保障制度から除外してきた負の歴史が、インドシナ難民の受け入れという「意外」な出来事によって幕を閉じたのである。しかし、制度的差別が全て解消されたわけではない。戦争犠牲者援護立法では、依然として「国籍条項」が存続している。また、国民年金は20才から60才までの間に25年間、保険料を納め続けないと年金が受給できない制度である。そのため、国籍条項が撤廃された82年時点で既に35才をこえている外国人と、20才をこえている外国人障害者はいずれも無年金のまま放置されることになった。85年の国民年金法改正で、86年4月法施行時に60才未満の外国人は年金受給資格だけは得られたものの、掛け金を納めていない期間分は支給されないため、年齢が高ければ高いだけ、日本人の高齢者との間に受給額の「格差」が残ることになった。また、82年の国籍条項撤廃時に既に障害を持ったり、母子家庭となっていた外国人は、日本人の様に福祉年金を受けることができないのである。

 

5−4:外国人住民の社会保障にむけての自治体独自の取り組み

 

こうした法の抜け穴をカバーすべく、都道府県などの各自治体は「住民」という観点から、外国人に対し独自に年金や手当を支給し始めた。川崎市は82年に遡ること13年前の67年4月1日に、日韓条約(65年)に基づいて永住許可韓国人の国民健康保険適用実施をおこなった。そして72年には市内在住の全外国人に国民保険適用を拡大した。75年には市営住宅入居資格の国籍条項撤廃、および児童手当の外国人への支給を議会で条例化するなど、外国人住民の社会保障問題に対して、国に先駆けて取り組みを行ってきたのである。

 

厳密な意味での差別解消には至らなかったが、82年は、日本の在住外国人問題が、解決に向けて大きく踏み出した一年であった。そしてこのことは、それまでの就職差別闘争や、指紋押捺の拒否など個別の権利要求運動を続けてきた外国人住民にとって、「権利獲得後、日本社会でどのように生きていくのか」という新しい問いに直面する契機ともなったのである。在住外国人は、単なる「要求」をするだけでなく、市民として「参加」していくための生き方を問われ始めたのである。

 

5−5:84年における神奈川県の外国人住民の実態調査

 

 また80年代には、「民際外交」を唱えた長州知事県政のもと、神奈川県も独自に在住外国人の問題に取り組み始めていた。神奈川県自治総合研究センター研究部は、84年に全国の自治体としては初めて、県内の在住外国人(当時は韓国・朝鮮人が主であった)に対する調査を行い、その結果を「神奈川の韓国・朝鮮人−自治体現場からの提言−(公人社)」という本にまとめたのである。神奈川県自治総合研究センターでは、研究事業の一環として、行政課題に関連したテーマを毎年選定し、それぞれのテーマに基づき研究チームを組んで研究を行ってきた。研究チームは公募によって選抜された県の職員、テーマに関連する部局からの推薦による県職員及び市町村または公共機関からの推薦による職員によって、概ね7〜12名で構成されていた。県職員はそれぞれの所属と自治総合研究センターの兼務職員となり、その他の所属の職員は委嘱研究員として、原則として週1日、1年間にわたって研究を進めてきていた。

 

この調査研究に携わったのは、以下の人たちである。田辺純夫氏(県渉外部国際交流課・役職名は当時)、加藤勝彦氏(横浜市企画財政局都市科学研究室)、川上栄司(県県民部青少年育成課)、樋口雄一氏(県県民部県史編集室)、三宅裕子(県相模原保健所大野支所)、山崎崇(県湘南労働センター)、浅沼知行(県自治総合研究センター)。県庁や市役所職員だけではなく、保健所や労働センターの職員なども含まれていたことから、外国人住民の問題を日常生活レベルで「包括的に」捉えていたことが分かる。91年に発足した川崎市市民局国際室主幹の伊藤氏に、この本の筆者達との情報ないしは意見交換の経緯を聞いたところ、「筆者たちとの直接の交流はないが、県の国際交流協会の職員とは若干情報交換はした」との答えがあった。このように、外国人住民関連の施策については川崎市よりも県の方が実態調査などの点では先行していたのである。これは、長洲知事の掲げた「民際外交」というスローガンが重要な推進要因だったと考えられる。これに対し、川崎市はむしろ市営住宅の入居問題や、進路の保障といった、下からの突き上げによる個別交渉通じてを施策が推進されてきたのである。

 

6:川崎市における80年代の外国人住民施策

 

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6−1:指紋押捺拒否者への対応

 

第2部の第1章でも述べたように、日本では、1年以上在留する16才(82年改正前は14才)以上の外国人は外国人登録にあたって、指紋押捺を義務づけられている。82年の改正前は3年ごとにそれを繰り返し、改正後は5年ごととなり、87年の改正によって原則初回のみとなった。押捺に応じなければ「1年以下の懲役もしくは禁錮、または20万円(82年改正前は3万円)以下の罰金に処する(併科も可)」と入国管理法に定められている。また、日本では国籍法で血統主義を採用しているため、日本で生まれた外国人も外国籍のままとなる。これは、93年に法改正がなされるまで全ての外国人に適用されていた。現在では永住者および特別永住者にのみ、指紋押捺義務は廃止され、署名と家族事項の登録が義務づけられるようになった。(巻末注A参照)

 

そうした折、80年9月、東京・新宿区役所で韓宗碩(ハン・ジョンソク)さんが登録証の切り替えの際に指紋押捺を拒否した。指紋を押さなくても登録更新がなされたことから、その後、押捺拒否者は一人、また一人と少しずつだが確実に増えていったのである。

 

こうした中、川崎市内の各区役所で外国人登録を行ってきた職員を中心に市職労でも、指紋押捺の問題性を指摘する気運が高まった。それまで、青丘社を中心に、外国人住民に対する各種の社会保障の付与をめぐる交渉が行われてきた川崎市であったが、それらはいずれも担当部局との直接交渉であったために、全庁的に外国人住民問題に取り組む動きはなかったのである。市職労は警察に対して抗議デモを行うなどして、この問題の解決に取り組んだ。また、青丘社、民団と共同で83年、市議会に対して請願を行った。これを受け、議会は全会一致で同年10月7日に内閣総理大臣、法務大臣、自治大臣にあてて外国人登録法の是正に関する意見書を提出した。この問題への取り組みを通じて、外国人住民の人権保障に対する意識が広く全庁的に行き渡る結果となった。

 

 

6−3:波紋を呼んだ市長の発言「指紋押捺拒否者を告発せず」

 

85年2月23日の朝日新聞夕刊のトップ記事を、川崎市長(伊藤氏)の驚くべき発言が飾った。川崎市は指紋押捺拒否者を告発しないという趣旨で、「在日外国人を含めた市民の人権を守り、外国人登録法改正に向けての大きな流れを直視し」、「法も規制も人間愛を超えるものではない」と述べたのである。85年は全国各地で指紋押捺制度廃止を求める運動が活発化した年であり、川崎市内でも多数の指紋押捺拒否者や、押捺拒否による逮捕者が出た。そうした中での伊藤市長の発言は、押捺拒否者に対して告発の義務を有する当局側が、法律の不当性をとらえたものとして大いに注目を集めたのである。

 

6−4:市長発言に対する議会の反応

 

伊藤市長の発言は議会の中で大きな波紋を呼んだ。85年の第一回市議会定例会(会議開催3日目の3月4日)では、各党の議員らが会議の議題以外に、市長の指紋押捺拒否者をめぐる対応について質問する場面が見られた。政党別に大まかに見ていくと、自民党と同志会が反対、社会党、公明党が賛成、市民クラブがニュートラル、共産党と民社党は言及せず、の立場をとった。

 

自民党の市川議員は、外国人登録法が「国を守ると共に日本国民の人権を守り、また外国人の権利や義務を守るという意味からも大変適切な制度」であり、指紋押捺拒否を許してしまえば「何をもって身分の確認ができると(市長は)考えているのか」と怒り心頭の発言を繰り返した。社会党の山田議員は、市の決定に賛成の立場をとることを表明した上で、決定に至るまでの経過や、報道された後の外国人住民の反応、この決定が機関委任事務の見直しにもつながるのではないかと指摘し、外国人登録法改正への見通しなどについて質問を行った。公明党の松島議員は、人道上の理由などから、指紋押捺制度は廃止すべきとの党の方針を述べた上で、現行法制下での市長の対応に関する問題点と今後の対応策について質問した。共産党の市村議員は、この問題に全く言及していない。共産党は「一国一政府」の原則を掲げているからだと思われる。民社党の平山議員も代表質問の中ではこの問題に触れていない。次に、同志会の松村議員は、現行法制下での市長の発言は違法性の疑いがあり、市民に危惧の念を抱かせており、そうした状況下での市長の見解を再度確認したいと述べている。最後に、市民クラブの沼尻議員は市長の対応を「人道上の問題としては理解できる」が、「日本が法治国家であり、現行法のもとではこの措置には少なからず問題が存する」と述べ、発言の根拠と、法務省への対応策について質問を行った。

 

これらの代表質問に対し、市長は自らの考えを述べた。伊藤市長は81年に指紋押捺拒否の最初の韓国人男性を告発した。その後、割り切れない気持ちでいたところ、85年度に至っては16才の少女までもが押捺を拒否している現状に直面した。多くの苦労を重ねながらも川崎市の発展に尽くしてきた在日の市民が、犯罪者と同じやり方で指紋を取られ、また一方で押捺に立ち会う職員の心情を考慮したとき、人権を守る立場と法を順守すべき立場との相克について非常に悩んだという。そして、83年に国に意見書を提出したものの、何ら改正がなされていないことから、「法も規則も人間愛を超えるものではないとの判断」に至ったと述べている。

 

このような市長の答弁に対して、議員は更に追求を重ねた。自民党の市川議員は「人間愛が法治国家において法律、規則よりも上回るというようなことは、良識ある川崎市民、また、大多数の国民から見ても、これは理解してもらえないことだ」と述べ、発言を撤回することもまた、「市長として勇気ある行動だ」と思うと述べている。社会党の山田議員は、「(85年3月1日現在)259市13区で、意見書が外登法に絡んで出されており、告発留保が55市6区、告発しないのが川崎市1市、押捺拒否者が103人いるということが分かっている」と述べ、今後、これら他の自治体と連携を図っていくのかどうかについて質問している。これに対して市長は、「それぞれの都市の立場があり、静かに見ている。もしそれなりの機運があって、何か話をしたいというコンタクトをもらった場合には話をするが、慎重にしたほうが良いと思っている。」と述べた。

また自治体の首長として、押捺拒否者の告発をしないことが法律に抵触しないのかとの質問に対し、市民局長は「刑事訴訟法239の2の、その職務を行う間で犯罪があると思料した時は告発しなければならないという義務があるが、同時に裁量権も認められており、市の対応はこの裁量権の中に含まれるものと解している。」と答えた。公明党の松島議員は、「押捺拒否者を市は守りきれるのか」という質問を行い、それに対して市長は「物理的に守るというのは行政の権限外であり、(押捺拒否者を告発しないという)発言は、広い意味での問題提起であった」と答えている。更に、この市長の発言に対して同志会の松村議員は、今回の処置は現行法下での法務省の意向と真っ向から対立するものであり、今後同省から指導や指示がきた場合はどうするのかという質問を行った。市長は、この発言に対しても「じっくりと話し合いをするつもりである」と答えた。ここからは、この発言が単なる選挙対策の自己アピールではなく、政治的信念に固く結びついたものであることが見てとれる。

 

この当時助役であった高橋・現市長は、「(当時は)自治省に呼びつけられるなどして大変だった」と、対話集「川崎の挑戦」の中で述べている。押捺拒否者の非告発という川崎の人道的な政治姿勢に賛同した国の官僚も数名いたそうである。彼らは、「法務委員会で問題になっているので、誰々に説明に行った方がいい」「どのポストの人に頭を下げなさい」というような示唆を高橋助役に与えたそうだ。そうした人がいなかったら、伊藤市長は逮捕される可能性まであったという。その後、外国人登録法は改正を重ね今では永住者には指紋押捺の義務は廃止され、その代わりに家族事項などを記入することとなっている。

 

6−5:川崎市外国人教育基本方針の策定

 

 難民条約に日本が批准したことで、在住外国人への教育も「恩恵」という発想から「保障されるべき権利」という発想に変わってきた。そうした中、市内の外国人住民や青丘社から、教育現場での外国人の子どもの人権保障を要請する声が上がってきた。これは、保育園では民族保育を保障され、生き生きと育ってきた子どもが、小学校に上がる段階では周りのプレッシャーから通名通学に押しやられ、中学になると不良・非行に走ってしまうという状況を踏まえてのものであった。子どもからの「日本社会での居場所がない」という叫びを、親が市に訴えたのである。そこで、82年6月に外国人の親や彼らを支援する日本人が中心となり「川崎市在日韓国・朝鮮人教育をすすめる会」(以下、すすめる会)が発足した。彼らは7月に市教委に対し、「日本の学校に在籍する在日韓国・朝鮮人生徒に関する要望書」を提出した。これは教育現場での、外国人児童・生徒であるがゆえの被差別の現状を明らかにした報告書であった。すすめる会はその後も市教委と度重なる話し合いを続けた。

 

 その一方で青丘社は、学童保育の運営を市から委託されていたが、教会、保育園、学童保育、さらに小学校高学年と中学生対象の塾の運営を行い、物理的に運営不可能の状態に陥っていた。また、川崎市は各中学校区に一つ「子ども文化センター」を作ることを方針に掲げていたが、桜本中学校の校区にはそうした施設がなかった。そこで青丘社は、桜本校区の「子ども文化センター」に代わる施設として、桜本に「青少年会館」設置する要望書を82年に市に提出したのである。このように、80年代の川崎市の外国人市民施策は、在日の教育基本方針策定と、青少年会館設立の問題が車の両輪となるような形で進められていったのである。

 

教育方針の策定をめぐる、すすめる会と市教委との交渉は簡単なものではなかった。2年半で19回の話し合いが持たれた。市教委側の主張はこうであった。すなわち、「人権の尊重は教育の原点である。学校現場で差別があると認めることは、現場教育の否定につながる。」というのである。しかし、在日の親や、現場の教員は学校において日常レベルで差別が行われている現状を知っていた。例えば、政令で「一定以上の外国人児童生徒がいる学校には教員を加配すること」とあるのにも関わらず、教委は加配してこなかったのである。こうして、両者の話し合いは平行線のまま、翌年83年の11月まで月に3回くらいのペースで続けられた。

 

そして、83年11月に遂に、教育委員会がすすめる会との交渉において、民族差別を認める基本認識を発表する。この時の教委側のリーダーであったのが、教育長の岩淵氏である。彼は、後に市職労委員長、そして、自治研センターの顧問になっている。民族差別を解決すべく、市教委は市教委事務局に同和・人権教育担当を設置するのである。また、翌年12月には、神奈川県自治総合研修センターが「神奈川の韓国・朝鮮人」を発刊する。これは、行政職員が在日韓国・朝鮮人についてまとめた初の文書であり、その中には教育現場や就職などの面での差別について述べられていた。この本の発刊が、その後の川崎市のこの問題への取り組みを促進する影響力を持っていたと、当時、教育委員会事務局同和・人権教育担当主査であった星野修美さんは語っている。

 

84年3月には、市教委が在日韓国・朝鮮人児童生徒に関する「基本認識(後に方針に発展)」を各学校長、社会教育施設長宛に通知する(注B参照)。そして4月には、在日の多住する桜本地域にある桜本中学校区の3校において、「ふれあい教育」を開始するのである。また、青少年会館設立についても、2年越しの交渉の末、進展がみられた。84年6月に青丘社が社会福祉法人格認可10周年記念式典を開催し、市長がそこで青少年会館設立を宣言したのである。これによって、設立にむけての全庁的取り組みが開始された。

 

6−6:ふれあい館の創設にむけて

 

 82年、青丘社は民生局に対し、桜本中学校区における「子ども文化センター」に代わる施設として青少年会館を設立する第一次要望書を提出した。これを受けて民生局内部にプロジェクトチームが発足したが、民生行政の枠を超えるものであったために、青丘社は新たに関係部局の参加、早期建設をもとめる第二次要望書を提出した。85年3月、市は青丘社に青少年会館設立に向けての基礎調査を委託した。その中で青丘社は、会館は主に在日向けというわけではなく、住民をはじめとする運営委員会の設置、桜本中学校区における子ども文化センターの役割と全市を対象とする韓国・朝鮮の文化とのふれあいを図る拠点施設、老人福祉施策の一環として在日韓国・朝鮮人の高齢化に対応するという位置づけを確認した。

 

 そして8月には青少年会館構想委が「(仮)桜本ふれあい社会館にかかわる討議経過のまとめ」(試案)を発表した。しかしこれは、町内会のみならず、在日韓国・朝鮮それぞれの民族団体である民団・総連からも激しい反対をうけるのである。まず町内会は、町内に在日のための施設ができることに反発をした。そして、その調査を在日が中心となって設立された社会福祉法人の青丘社が市の委託事業として行っていることにも反対していた。一方で民団は、その当時韓国の全斗換政権を支持していた。青丘社の構成メンバーは、どちらかというと反与党の金泳三氏を支持していたため、民団の目には、川崎市は革命派である青丘社と結託していると映ったのである。しかしこの批判は、この時タイミング良く起きた韓国の政変で、全政権が倒れたことで収まった。また総連は、この会館設立の目的である「居場所がない」という在日の若者の主張を汲むならば、市内にある朝鮮学校に市がもっと援助すべきだとの主張を繰り返した。そこで市は、青少年会館の建設費用であった1億3千万円と同額を、朝鮮学校における体育館設立のために支給したのである。

 

86年3月には市教委が「川崎市外国人教育基本方針〜主として在日韓国・朝鮮人〜」を制定したが、一方の青少年会館設立は暗礁に乗り上げていた。市教委は(仮)ふれあい館・こども文化センターの建設に関して、地元の自治会や町内会に繰り返しあいさつ回りを行った。また、川崎区選出議員団との話し合いも行った。議員側は、建設は決定済であったために反対はしなかったが、それでも自らの支持率を下げるような政策には無反応であったという。6月の段階で、市は青丘社との構想委員会で11月着工、翌年4月会館の日程を提示したが、交渉がまとまらず、着工は延期となった。それでも市長は「建設の方針は変わらない」と表明し、神奈川新聞、朝日新聞などが取り上げた。また、青丘社も、反対派の桜本一丁目町内会に対し、市との三者協議を行うべく公開申し入れ状を提出した。これに対し、86年12月、建設反対派の町内会の一部の人が早朝に市役所前でビラ4000枚を配布して抗議行動に出た。ビラには差別的な言葉が並べられており、町内会は三者協議を拒否し、建設用地への立て看板なども行った。

 

翌87年は、暗礁に乗り上げた交渉を軌道に復活させるための年となった。市は反対する町内会に対し説明会を開いたり、交渉を繰り返した。その中で、町内会側が妥協案を提示してきた。これを元に青丘社、行政が協議を続け、最終的には6月末に5町内代表者と行政との交渉が妥協案で決着するのである。妥協案とは、1)館長は開館後2年間は行政から出すこと、2)開館後は、町内会の人間が参加する運営協議会を開くこと、3)青丘社に理事職を置き、そこに行政側から1人派遣させることというものである。また7月には、第27回目の構想委員会では、1)児童館と公民館の性格を兼ねた総合施設にすること、2)運営はゆくゆくは青丘社に全面委託すること、3)年内に着工すること、4)行政より職員3名を派遣することが確認された。そして晴れて11月に、ふれあい館・桜本こども文化センター建設工事が着工するのである。

 

88年3月、川崎市議会においてふれあい館設置の条例案が取り上げられた。自民党、同志会など、外国人住民施策の推進には慎重、ないしは批判的な立場をとる政党の議員からの発言がなされ、民社党、社会党、共産党、市民クラブの議員らはこの問題には言及しなかった。自民党の野村議員は、ふれあい館の運営が青丘社に全面委託されるようになった経緯と、今後、市の他の施設運営も民間委託されていくのかについて質問した。また、88年がソウルオリンピック開催年であったことから、同年に川崎市においてふれあい館がオープンすることは意義深いことであると述べた。そして、これを契機に韓国の都市との姉妹都市交流を始める計画の有無について質問した。加えて、日本社会には外国人住民に対する制度的差別が依然残っていると言われるが、具体的にはどのような状況なのか、外国人の公務員就労などに関して、市がどのような取り組みを行っているのかを質問した。そして、市長の指紋押捺拒否者への対応を「無責任な発言に驚いた」と再度批判した。同志会の小俣議員もまた、自民党の野村議員と同様にふれあい館運営の青丘社への委託の経緯について質問した。

 

これらの質問に対し、伊藤市長と高橋助役が答えた。ふれあい館の青丘社への運営委託については、在日大韓基督教会が始めた無認可の桜本保育園が、日本人と在日の子どもたちを一緒に保育してきてくれたことに対して、市が中心となって地元に負担をかけすぎない形で保育を行う場所を作る必要性を感じたからであると述べている。また、今後市の他の施設運営を民間に委託することに関しては、特に予定していないと述べた。韓国との姉妹都市交流については、朝鮮半島の情勢を鑑み、市民から理解を得ながら、時間をかけて行っていきたいと述べた。市職員の採用にあたっての国籍条項撤廃については人事委員会やその他の関連団体との協議を十分におこなっていきたいと述べた。そして、指紋押捺拒否者不告発の対応については、大池に一石を投じるような試みであったが、その後国レベルでも若干の法改正が行われてきていることから、時間がかかるかもしれないが、将来的には「廃止」とすることを希望していることを述べた。この議会での議員らは、市長の指紋押捺拒否者に対する発言直後と比べ、一部を除いて不活発であった。このような話し合いの後、市は3月に川崎市ふれあい館・桜本こども文化センター条例を制定する。

 

88年5月末に公示が完了し、6月14日に、内覧会を兼ねて開館行事が開催された。最初の構想から丸6年が経過していた。そして2年後の90年、ふれあい館の運営は青丘社に全面委託された。青丘社の理事であったペイ・ジュンド氏が館長に就任した。また、4月にはふれあい館条例が制定され、教育委員会管轄から市長部局・民生局に移管された。こうして、長い年月を経て、地元住民との対立を乗り越え、市、青丘社、地元住民が共に話し合いを続けてきた結果、ふれあい館が誕生したのである。

 

7:1990年代 〜川崎市外国人市民代表者会議の創設に向けて〜

 

7−1:「内なる国際化」の更なる進展

 

80年代の終わりから90年代の始めはバブル景気の時代であった。85年のプラザ合意による円高と好景気及び日本経済のグローバル化から、日本は急激に「国際化した」と言われてきた。しかし、そのことが招いた国内の労働力不足により、90年代以降、日本は、国内に住む外国人のための、いわゆる「内なる国際化」の問題に直面していくのである。好景気による労働力不足をカバーするという観点から89年には入国管理法が改正され、日系人の単純労働が認められるようになった。これに伴い、一般にニューカマーと呼ばれる日系ブラジル人、日系ペルー人などの外国人が自動車産業などの下請け工場の多い神奈川県、静岡県、愛知県などに移り住むようになった。川崎市にも同様に、多くのニューカマーが住むようになった。川崎に30年来住んできた在日韓国・朝鮮人住民と比べて、日系人は言葉、文化、思考、風俗習慣の面でかなり異なる様式を持っている。今までの外国人住民施策では対応できなくなってきたのである。一方このようなニューカマーの流入に加え、91年には日韓両政府が日韓覚書に調印し、在日の定住外国人への地方参政権の付与・地方公務員の国勢条項撤廃が話題に上るようになっていった。90年代は、これらの流れの中で自治体の「内なる国際化」への取り組みが一層活発化していく時代であった。

 

90年代に入って、川崎市の外国人住民施策への取り組みは多様化した。行政内部には「内なる国際化」対応の総合窓口が設置され、議会では地方参政権、公務員就労の国籍条項撤廃の問題が取り上げられ、市民の間では在日の多住する地区の再開発に注目が集まっていた。これら個々の動きが互いに影響を与え合う中で、川崎市の外国人住民施策は個別の権利保障的性格のものから総合的性格のものへ変化していった。またその過程の中で、外国人住民自身が政策形成の主体となっていき、最終的には96年の外国人市民代表者会議の創設へとつながっていくのである。本章では、まず初めに全国レベルでの定住外国人の地方参政権と公務員試験の国籍条項撤廃の概要について若干触れる。その上で、この時代の川崎市の多様な取り組みについて述べていくことにしたい。

 

7−2:定住外国人の地方参政権と地方公務員受験の国籍条項撤廃

 

91年1月10日、日本政府外務大臣と韓国政府外務部長官により署名された日韓覚え書きは、在日韓国人が地方公務員になることについて、以下のように記している。「地方公務員の採用については、公務員任用に関する国籍による合理的差異を踏まえた日本国政府の法的見解を前提としつつ、採用機会の拡大が図られるよう地方公共団体を指導していく。」国家公務員は別にして、外国人の地方公務員の就労については法律による規定がなく、国の「照会」「回答」などの行政指導が「当然の法理」として適用されている。日韓覚え書きの署名までは、73年の自治省公務員第一課長の回答が「当然の法理」として用いられていた。それによると、「(1)地方公務員の職のうち、「公権力の行使または公の意思形成への参画」にたずさわるものについては、日本国籍を有しないものは任用できない、(2)「公権力の行使または公の意思形成への参画」にたずさわることが将来予想される職員の採用試験に日本国籍を有しない者に受験資格を与えるのは適当ではない」というものである。

 

このような、国の行政事例による見解が示されていたため、都道府県と政令市については、一般事務・技術職には職員採用試験の際に国籍条項が設けられ外国人は受験できなかった。政令市以外の市町村では1970年代前半から全ての職種で国籍条項を撤廃する地方自治体が出てきており、少しずつではあるが外国人が任用されていった。そして、1996年5月に都道府県・政令市で初めて一般事務・技術職の国籍条項を撤廃(ただし、任用の範囲については条件付き)したのが川崎市だったのである。

 

7−3:定住外国人の地方参政権獲得に向けての動き

 

1990年9月、大阪在住の金正圭(キム・ジョンギュ)さんら11名は、同市内五区の選挙管理委員会を相手に、選挙人名簿へ彼らの氏名を登録するように求める裁判を、大阪地方裁判所に提起した。金さんたちは、納税の義務だけ負わされて、憲法第93条が保障する「住民」の地方選挙権を認めないのは納得できない、公職選挙法と地方自治法が、その選挙権を「国民」に限っているのは違憲で無効であると主張した。93年6月の大阪地裁判決は請求棄却であった。また、福井の李(イ)ジンチョルさんら4人が同じように地方参政権を争った裁判についても、94年10月、福井地裁は敗訴判決を下した。しかし、「市町村レベルでの選挙権を一定の外国人に認めることは憲法の許容するところ」とした上で「外国人に参政権を認めるかどうかは、立法政策の問題」との見解を示した。そして、95年2月28日、金正圭氏らが第一審の大阪地裁での請求棄却を受け、公職選挙法の規定に従って最高裁に上告を行った

際に、最高裁第三小法廷は「憲法は国内永住者など自治体と密接な関係を持つ外国人に法律で地方選挙の選挙権を禁じているとは言えない」との初めての見解を述べたのである。同時に判決は「憲法が権利として外国人の選挙権を保障しているとは言えない」として請求自体は棄却した。これは、今までの地裁の判決よりも一歩踏み込んだ形となった。

 

93年9月に大阪府岸和田市議会が日本で初めて定住外国人の地方参政権を国に求める意見書を全会一致で採択した。その後、このような主旨の決議や意見書の採択が全国の地方議会に急速に広がった。在日本大韓民国民団(民団)の調べによれば、1997年3月5日現在、全国3302議会中、1297議会(内訳は28県、487市、617町、165村、採択率39.3%)に及んでいる。岸和田市の動きや、あるいは93年6月の大阪地裁判決などを契機に、民団は積極的に地方参政権獲得に向け運動を展開している。日本は、国連人権規約や難民条約など、「差別撤廃」「内外人平等」を唄う様々な国際条約に批准しているのにも関わらず、地域に住む外国人には依然として参政権がないというのがその理由であった。

また、政党においても、政界の流動化、自民党の分裂、政権の移行という流れの中でこの問題を検討する動きが高まり、特に新党さきがけ島根支部においては、94年11月、定住外国人に地方議会の選挙権・被選挙権を付与するための「地方自治法及び公職選挙法の一部を改正する法律(案)要綱」を作成し、発表している。そこでは対象を「日本国籍を有しない者のうち入管法と外国人登録法に基づき引き続き5年以上居住する者」としている。他の政党の動きについては、原則的に自民党を除いて「前向き」と言われている。新進党、社会党は選挙権を認める方向にあり、新党さきがけは島根支部の案をベースに議員、首長の両方について選挙権・被選挙権を認める方向に、また共産党も積極的であるといわれている。しかし自民党は、1995年5月の党政務調査会でプロジェクトチームの「中間報告」でも、(1)相互主義(平等主義)を原則とするべきである、(2)参政権という国家の基本に関わる問題であり、憲法上の位置づけを明確にするべきであると述べているように慎重論が多い。(巻末注D参照)

 

7−4:川崎市の対応〜外国人市民問題への総合的取り組みのはじまり〜

 

90年代の流れを簡単に押さえたところで、少し前に戻ることにする。日立裁判を支援してきた神奈川民闘連は88年7月に、川崎市の外国人住民のルーツである在日韓国・朝鮮人への対応の総合的な改善を市に求めた。それまでの指紋押捺拒否の問題や教育基本方針の策定といった個別的な権利保障の要求ではなく、総合的な対応を求めた「外国人市民の権利保障に関する要望書」を市に提出したのである。この要望書に盛り込まれた主要な点は、在住外国人の「住民」としての位置づけ、外国人住民の問題を所管する総合窓口の設置、及び自治体の職員採用における国籍条項の撤廃である。これは、日常生活において就労や就学の面で依然として様々な差別に直面している外国人住民の問題に全庁レベルで取り組んでもらいたいことの意思表明であった。外国人は、単なる個別の権利要求をするだけではなく、自らを、日本人住民と共に生活し、日々の出来事に主体的に参加していく存在としてとらえ始めたのである。

 

 市当局と民闘連との話し合いは、外国人教育基本方針の策定時と同様に紛糾した。民闘連の要望書は「在日韓国・朝鮮人は市民ですか?」という問いかけから始まっており、「外国人市民が差別を受けている現状を認めたくない」市長部局と侃々諤々の議論になったのである。1年を越す交渉を繰り返す中で、89年9月に川崎市庁内に課長級のプロジェクトチーム「川崎市外国人市民施策推進会議幹事会」が設置された。この幹事会は、外国人住民と接する全ての部局(市民局、民生局、教育委員会、総合企画局、財政局、建築局、衛生局)から成っていた。

 

89年10月5日、18年間に渡って続いた伊藤市政が幕を閉じた。伊藤市長は健康上の理由から依願退職をし、同年11月9日の選挙において「前市長の市政継承」を唱えた前助役・高橋清氏が、「市政刷新」を唱えた元県議・永井英慈氏を破って当選したのである。高橋氏は無所属で、共産党を除くオール与党の相乗り推薦を受け、22万8595票を得た。選挙当日の有権者数は全市で84万2142人であり、投票者総数は40万4451人、投票率は48.03%と、前回の選挙を12.60%も下回る結果となった。長らく小学校の教員を勤め、その後、教育委員会、助役などを経て当選した高橋市長は、高齢者問題への対応、駅前の再開発事業に並んで、外国人市民施策の充実を図ったのである。

 

外国人市民施策幹事会の発足以前は、民闘連と市の関係は「対立型」であったが、発足後は市側による情報収集の必要性から次第に歩み寄るようになった。このチームは、要望書を基本に研究協議を行い、各部局が独自に、主体的に取り組むべき行政課題をまとめ、その成果を「川崎市の24項目検討課題」として90年2月に公表した。(巻末参考資料B)まとめられた検討課題には民闘連の要望書の趣旨が満遍なく活かされ、「市内在住の旧植民地出身者への特別な見解の発表」「市職員への採用職種枠の拡大」「無年金者への救済措置」「外国人市民問題担当の設置」「外国人住民の市政モニターへの参加」などの案が含まれる結果となった。市政モニター制度は、日本人住民にも開かれていたが、さほどの成果を上げていなかった。この時点では、市当局は既存以外の方法による外国人住民の市政参画のアイディアを持っていなかったのである。また、ふれあい館の創設が完了したばかりであったことから、新たな施策を展開するのは「時期早尚である」との意見も庁内には見られた。

 

7−5:おおひん地区街づくりについて

 

また、この時期、市内ではおおひん地区のコリアタウン構想が持ち上がっており、一般市民と在日韓国・朝鮮人との交流が活発化していった。91年に行われた議会議員選では、学生時代に山田貴夫氏らと共に日立就職裁判で事務局を担った飯塚正良氏(当時は川崎市水道局職員)が初当選した。飯塚市議は、その後、議員として外国人住民施策の実現に注力していくようになる。その主なプロジェクトが桜本、浜町大島、池上町などの「おおひん地区」のコリアタウン構想であった。

 

おおひん地区とは、桜本に隣接する浜町、池上町、大島町の地域の総称である。この一帯は、京浜工業地帯の真ん中に位置し、産業道路、首都高速、JR貨物線の高架で、市街地と一線を画している。経済状況と産業構造の変化の中で工場が相次いで撤退したため、就業人口が大幅に減っていた。ひとり暮らしの高齢者が多く、都会の中の過疎地帯化が進んでいたこともあって若い住民を呼び寄せるような魅力ある住環境整備の必要が叫ばれ続けていた。一方、ここは前述の通り、京浜工業地帯の創設に携わった在日韓国・朝鮮人住民の多住地域でもある。370世帯の内6割を占める。また、居住区の7割はNKK(旧・日本鋼管)の所有地でもある。こうした歴史的背景から、行政と地権者は長らく手をこまねいてきた地域であった。

 

しかし、在日外国人の問題が徐々に「市民権」を得ていくにつれ、他都市には見られない歴史的な背景を持ち、焼き肉屋やキムチの店が並ぶ「セメント通り」を、将来的には横浜の中華街のように発展させていけるのではないか、との住民の期待がもちあがった。これを受け、2つの組織が結成された。

 

一つは92年に発足した「コリアタウン実現を目指す焼肉料飲業者の会」である。今までにも何度かこうした構想が持ち上がったことがあったのだが、民族組織間の関係がもとで実現に至っていなかった。それが、冷戦構造の終焉や二世店主らの登場、青丘社の活動の広がりなどの中で可能になったのである。コリアタウンでは、地元の商店街との共存をめざし、食材の仕入れを地元の業者から行っている。ただ、下町の古い商店街をベースとしており、横浜のみなとみらいのように、高層ビルを建てて町の雰囲気を一変させるというような手法は困難である。また、横浜は中華街だけでなく、元町商店街、ランドマークタワーなどその他の観光資源に富んでいるが、川崎の場合はそれに欠けるという点から、吸引力が未だ乏しい現状である。

 

もう一つは93年に商店街・町内会が主体となって発足させた「おおひん地区街づくり協議会」である。この協議会が中心となってまず起こしたアクションは韓国の商店街との交流であった。この時期、川崎の地域調査のため来日していた韓国・富川市(プチョン市)のカトリック大学教授李時載(イ・ジエ)氏に相談し、富川市の遠美市場(ウォンミ・シジャン)との交流が91年から開始されたのである。

 

92年8月には、飯塚正良市議が李教授の案内で富川市を訪問し、市長、職員の日本語学習グループ、富川YMCA、市議などと意見交換をし、交流を開始した。10月には富川市市議の海外地方自治研修団25人が急遽予定を変更して川崎市を行政視察し、11月には富川YMCA生協が、職員を一ヶ月間川崎市職労の職員生活協同組合に派遣し、商店街は市の秋祭りに遠美市場商友会を招待した。こうした交流の広がりが可能となったのも、川崎市の韓国教会の李仁夏牧師やふれあい館のペイ・ジュンド氏がいたからであると山田氏は「世界」98年10月号のなかで述べている。また、この交流は単なる友好都市レベルの交流を超え、富川市側の提案により、二市の市職員が共通の政策課題に取り組むまでに発展した。川崎地方自治研究センターが職員、市民、学識経験者、市議などに呼びかけ、93年より毎年恒例の韓国研修ツアーを開始し、現在に至っている。

 

街づくりの方針としては「緑化、環境整備」「多文化共生」などが掲げられており、毎年春と秋には祭りが開催される。そこでは、韓国・朝鮮の物品、料理の販売のみならず、イランやラテンのものなどもお目見えし、地元の名物として定着しつつあるという。このように、おおひん地区の街づくりは徐々に根付きつつあるのが現状である。

 

7−6:「24項目の検討課題」制定後の行政組織の内部改革

 

89年の「24項目の検討課題」の発表後、行政組織内部に変化が見られた。高橋新市長は、それまで市長室渉外課が所管していた国際交流事業を移管し、代わりに「内なる国際化」に向けた外国人市民施策の総合窓口として、91年4月に新たに市民局に国際室を設置したのである。国際室は92年2月に、幹事会に代わる全庁的な組織として、関係課長で構成する「川崎市外国人市民施策連絡調整会議」を設置し、施策の研究に着手した。また、5月には市職員採用試験において事務職で国籍条項のない「国際」「経営情報」を設けた。国際室はこの年の12月に2つの調査研究委員会を設置した。これは、「外国人市民政策のガイドライン」を策定するために設置したものであり、両委員会とも大学の研究者と関係部局の職員が協同で調査研究を行ってきたものである。

 

その内の一つは川崎市外国籍市民意識実態調査委員会である。委員長は宮島喬・お茶の水大学教授であり、以下、委員には江橋崇・法政大教授など計7名の大学教授・大学院生と、社団法人・興論科学協会企画調査部の職員2名から成っている。この委員会は、川崎市内の外国人登録者3000名をランダム抽出し、アンケート形式で日常生活に関する様々な質問を行った。有効回答は1146通であった。この調査結果は、93年に3月に報告書としてまとめられた。また、外国人登録をしてない外国人住民や、アンケートでは拾えなかった「声」を拾うために、翌年9月には面接による実態調査を行った(95年3月に報告書提出)。面接の対象者の把握には、外国人市民の日本語指導・生活支援などを行っている市民団体の協力を得た。政令都市でこれだけ大がかりな外国人市民の意識調査がなされたのは初めてであったために、その影響は大きく、問い合わせや視察が相次いだ。

 

もう一つの委員会は川崎市外国人市民施策調査研究委員会である。これは、前述の「24項目検討課題」が、オールドカマーである在日韓国・朝鮮人の人権保障にやや偏りすぎており、ニューカマーの視点が欠けているということから設置されたものである。委員長は江橋崇・法政大教授であり、以下、大学教授1名、市内の日本語ボランティアのリーダー1名、地方自治総合研究所常任研究員1名、社団法人川崎地方自治研究センターの職員2名から成っている。この委員会は「川崎市国際政策のガイドラインづくりのための提言」と題した報告書を93年3月にまとめた。この提言は53項目にわたるもので、現在の川崎市の外国人市民施策の基本となっている。この中でも、外国人住民の「市政参加」の視点は明確に打ち出されている。

 

学識経験者を大幅に動員し、市内の外国人住民に関する基礎調査が進められてはいたが、具体的な「市政参画」の方法はまだ誰の目にも描けてはいなかった。そうした中、ある意味「突発的に」、後の外国人市民代表者会議発足の契機となる出来事が起こるのである。川崎市は87年以来、地方分権の流れを踏まえ全国の市町村関係者を対象に「地方新時代シンポジウム」を毎年主催してきていた。これは川崎市の「顔」とも言えるような大規模なイベントであり、年々参加者を増やし、その時々の政策的課題をめぐって研究者や自治体関係者が市民と共に討論する形式で行われていた。その94年シンポジウムの分科会で、ある教授が提起したフランクフルトの事例が、川崎市の外国人市民代表者会議の発端になるのである。

 

7−7:94年の「地方新時代シンポジウム」

 

94年の、「地方新時代シンポジウム」の第3分科会で「外国人市民との共生のまちづくり」で、パネリストの仲井教授(成蹊大学法学部・神奈川県専門委員)がドイツ・ヘッセン州およびフランクフルト市の「外国人代表者会議」を紹介した。そもそも、このシンポジウムに仲井教授が参加したのは、シンポジウムの実行委員長であった東大名誉教授の篠原一氏が、仲井教授のドイツの外国人施策に関する出版物を読み、成蹊大学で共に教鞭を執った経緯もあってパネリストとして招待したのである。この分科会には、篠原教授の教え子であり、川崎市自治研センターにおける海外研修の創設に関わった坪井善明早大教授や、ふれあい館の館長であるペイ・ジュンド氏もパネリストとして参加していた。市からは、市長、助役を始め、国際室の参事であった伊藤長和氏が参加していた。また、聴衆の中には、後に外国人市民代表者会議の議長を務めることになる李仁夏氏がいた。川崎市の外国人住民施策にかねてから関わってきたメンバーがこの分科会に勢揃いし、共に仲井教授のドイツの事例を聞いたのである。この分科会が契機となり、外国人住民の市政参画は急速に具体性や実現可能性を帯びていくことになる。

 

高橋市長は94年3月の議会での質問に答えて、「地方レベルで参政権実現を盛り上げ、国に求めさせることが必要であり、市議会に準ずる形で外国人市民の代表者会議を設置するなど市独自の取り組みを検討していく」意向を明らかにし、外国人市民の市政への参加を保障するための仕組みを検討するために篠原一東大名誉教授を筆頭に、学識者4名、外国人住民2名から成る「仮称・外国人市民代表者会議」調査研究委員会を94年10月に設置する。メンバーは篠原一委員長、仲井武成蹊大学教授、宮島喬お茶の水女子大学教授、田中宏一橋大学教授、ペイ・ジュンド・ふれあい館館長、戸田インゲボルグ・ドイツ人女性であった。この委員会の設置は、シンポジウムからわずか半年間のうちに急ピッチに進められた。

 

7−8:川崎市における、定住外国人の地方参政権獲得にむけての取り組み

川崎市では、94年5月27日の第3委員会(市民・衛生・民生局)において定住外国人への地方参政権付与の問題が取り上げられた。委員会では、川崎市内の定住外国人への地方参政権付与を求める、市議会から国への要望書提出について話し合われた。議員らは、他都市の動向、諸外国の外国人市民施策の動向、日本国内の多種多様な法規との兼ね合い(特に政党交付金・政党助成法)、川崎市内の定住外国人の最新データ、川崎市の外国人住民施策の動向、などについて尋ね、これらに対して市民局長と国際室主幹の伊藤氏が答える形になった。

 

他都市の動向としては、94年4月1日の時点で16地方議会が決議をしており、政令指定都市レベルでは京都市、福岡市、北九州市が議決をしている状況であった。諸外国の外国人市民施策例としては、ドイツおよびフランスの事例が挙げられた。ドイツでは地方参政権はないが、その代わりに外国人市民代表者会議という制度があり、そこを通じて外国人の意向が市政に反映されていること、またフランスでは外国人は議決権を持たない準議員として地域政治に参画していることが説明された。法規との兼ね合いに関しては、政党交付金・政党助成法では国勢調査の人口データに基づき政党交付金が徴収されることから、そこには外国人も含まれていることが説明された。

 

これに対し、おおひん地区街づくりプランの推進役で、学生時代から在日の問題に関わってきた飯塚正良議員から「政党交付金を徴収しておきながら、地方政治への参画すらも認められていない現状はおかしいのではないか」との指摘があった。また、外国人が政党や政治団体に入党・入会することを規制する法律はないが、外国法人などが負担する党費や会費については、政治資金規制法の第5条第2項で「法人その他の団体が負担する党費または会費は、寄付とみなる」というところに抵触するおそれがあると説明された。市内の外国人住民は外国人登録法に基づいて1万9124人の登録があり、うち永住者や特別永住者が7362人いるとの報告がなされた。また、市の外国人施策の取り組みとしては、91年に全庁的に発足した幹事会で「外国人住民施策のガイドラインづくり」が行われており、94年度内にはまとめをする方向で動いていることが挙げられた。また、外国人住民施策の充実化に向けて現在、学識経験者らに市内の外国人住民実態調査を委託しているとの報告がなされた。また、94年の地方新時代シンポジウムにおいてドイツの外国人市民代表者会議の事例が報告されたことを受けて、現在川崎市でもその実現に向けての取り組みが開始されていることが述べられた。

 

委員会内では大きな対立もなく、概ね穏当に進行した。しかし委員会提出の意見は全会一致でなされなければならないのに対し、外国人施策に対する市の取り組みが未だ進行中であったことから、現時点で市議会が議決を出すことは難しいと判断され、結局は継続審議となった。

 

同年9月27日に、第2回の審議が行われた。この時点では神奈川県下の横浜市を含む18市1町の中で、3市1町から意見書の提出が行われていた。政令指定都市レベルでは前回の京都市、福岡市、北九州市に加え、神奈川県が意見書を提出していた。9月の委員会では、この問題に対する、国の法改正の意向について主に話し合われた。このことは以前、指紋押捺拒否者をめぐる対応の際に、川崎市が国の意向とは逆の取り組みを行ったために、議員らが慎重になっていたからであると推測される。94年の時点では、国での法改正の動きは見られない状態であった。こうしたことから、議員らの意見は「他自治体の動向を見て採択すべき」「地方が国を動かす力となることから今議会中の採択を目指すべき」「他の法令との兼ね合いをもう少し検討すべき」と分かれる結果となった。このような意見の分裂から、今委員会においても継続審議となったが、飯塚正良議員は議員提案いう形で議会への提出を行うことで、なんとか今期中の採択を図りたいとの意見を述べ、ねばり強く交渉をおこなった。その結果、この議案は94年内に全会一致で採択されたのである。

 

7−9:川崎市における、地方公務員の国籍条項撤廃について

 

川崎市は96年の職員採用試験から、消防職を除く全職種について、国籍条項を撤廃した。「当然の法理」でいう「公権力の行使及び公の意思形成に参画するポスト」以外の職について任用が可能だとして、該当する職務についてのみ外国人を任用しない方式を採用した。この方式を採択するために、川崎市は自治省と交渉を繰り返してきたのだが、交渉をスムースに進めるため、本当は横浜、神戸、大阪の三市と協力予定であった。しかし、様々な事情からこれは実現されずに終わった。

 

川崎市では過去に指紋押捺拒否者への対応をめぐって中央政府と対立した経緯があったため、この問題に関しては中央からの圧力を受けないよう、市の人事委員会と共に研究を重ねながら慎重に検討を進めたのである。市と人事委員会はすでに93年の職員採用試験で一般事務職の受験枠に「経営情報」「国際」「舞台芸術」を設けて、外国籍の人材登用に取り組んできた。そして、96年には「公権力の行使または公の意思形成への参画」に抵触するかどうかを3509職務(対象職員数6330人)について分析した。

 

公権力の行使に関わる職務を「命令、処分などによって市民の意見に関わりなく権利や事由を制限する職務」と定義し、団体事務、機関委任事務、指定都市事務などでこの職務と判断されたのは182職務(対象職員数1200人)であった。この「命令、処分」に関する職員数は全体の20%程度であり、採用後の人事管理も公正妥当な運用は可能であるという見解を示したのである。また、管理職への任用については、スタッフ職の課長級までは公の意思形成に関わる職にはあたらないとした。高橋市長は96年5月13日の市人事委員会において、「地方公務員の職務は国家公務員と異なり地域に密着した職務が主であり、これらの職にあっては、国籍にとらわれる必要性は低いと言えましょう。川崎市の施政方針である〈共生の街づくり〉を実現するためにも、日本国籍を有しない人を含め、できるだけ多くの人々に市職員となる道を開くことはきわめて意義のあること」であると発言した。96年の採用試験から国籍条項が撤廃されたが、7人の外国籍受験者(うち5名が一般事務職を受験)のうち、合格者は一人もいなかった。(巻末注C参照)

 

川崎のこのような決断に対し、当時の倉田自治大臣は「将来にわたる適切な人事管理などの点から望ましくない」との談話を発表したが、同年11月には白川自治大臣が、「公権力の行使または公の意思形成に参画」については、一律にその範囲を確定するのは困難であり、各地方自治体の判断による」として、川崎方式について追認する発言を行ったのである。これによって、今まで揺らぐことのなかった「当然の法理」は大きく変化した。

 

7−10:調査研究委員会の海外視察

 

 外国人市民代表者会議の調査研究委員会は、94,95年にかけて外国人の法的地位及び処遇に関する国内の法制度上の問題と外国の事例研究を行った。95年には実際に海外視察に出かけた。訪問した海外の都市はドイツ・ヘッセン州のフランクフルト市、同バイエルン州のニュルンベルグ市、オランダのハーグ市、ユトレヒト市、フランスのモン・サン・バロル市、マント・ラ・ジョリ市のヴァルーフレ地区、イタリアのトリーノ市であった。ヨーロッパの都市が中心であったのは、以下のような理由による。

 

 ヨーロッパの国々は、戦後の経済復興のため、また後には経済成長期の人手不足解消のため、多数の外国人を労働者として受け入れてきた。労働力不足という経済状況のもとに移民を受け入れた点が日本とよく似ており、また、もともと移民によって建国されたアメリカなどとは大きく異なっている点から参考にしたのである。また、これらヨーロッパ諸国は迫害を受けた難民などにも庇護の地を提供してきた。1970年代の後半から、これらの人々の定住が目立って進み、今ではEU全体、滞在外国人数は1500万人(人口の4.5%)を超えているとみられている。滞在年数は20年を超える人が多く、家族との合流も進み、二世が成長して既に労働年齢に達している世帯も少なくない。

 

 多くの国で、70年代までは外国人をどのように社会に受け入れるかという政策はなかった。一時的出稼ぎ者とみなして無視するか、または同化による受け入れを当然を見なす考え方が強かった。いわゆる帰化を経て、その国の国民になるという方式である。フランスのイタリア系やスペイン系の市民、ドイツのポーランド系市民などはこのコースをたどってそれぞれの国の国民になって人々である。しかし、年数を経るに従って、こうした同化政策一辺倒では良くないのではないかという声が挙がってきた。ここで2つの転換が行われる。外国人労働者とその家族は大抵低賃金、低所得、粗末な住宅、子どもの教育についての不案内、などの問題を抱え、社会的地位が目立って低い。彼らの地位を自国民と同等に引き上げないでいることは、社会的不安定を引き起こすのではないか、ならばしかるべき措置をとるべきだという流れである。

もう一つは文化、生活様式、アイデンティティの面で、外国人自身に選択の自由を認めるべきだという流れてある。南ヨーロッパ、北アフリカ、トルコ、中東、南アジアなど様々な地域出身の人々に、同化を押しつけるのではなく、相違や独自性を認めていこうというものである。こうして、同化政策から統合政策への転換が図られていったのである。

 

 このような統合政策への流れはヨーロッパにおいて一般的であったが、外国人住民の地域参画の手法については各国間で一様ではなかった。地方参政権を法律で認めたスウェーデンやオランダのような国がある一方で、フランスやドイツなどでは外国人の選挙権は認められていない。ドイツでは、ハンブルグ市(州と同格)とシュレスウィヒ・ホルシュタイン州が1989年に外国人選挙権を認めるという議決を行ったが、これは翌年憲法裁判所で違憲とされ、実現を見ることがなかった。しかしフランクフルト市を始め、多くの自治体が外国人代表者会議を設けるなどして、外国人市民の声を政治に反映するよう努めたのである。

 

7−11:調査研究委員会が海外視察で得たもの

 

調査委員たちは海外視察において、1)外国人市民の実態、2)代表者会議の設立経緯、3)受け皿となる行政組織、4)代表者会議の委員構成・選出方法、5)代表者会議の運営方法、6)外国人市民の人権保障などについて特に調査を進めた。また、これらの調査事項に加え、外国の事例を川崎市の実状に合わせて取り入れるべく以下の3つを検討課題として加えた。1)フランクフルト市の多文化局と外国人市民代表者会議との連携、2)外国人市民のネットワーク活動、3)外国人市民支援グループのネットワーク活動である。

 

 フランクフルトの外国人代表者会議の事務局は、市役所内の多文化局の中に設置されている。多文化局は外国人市民の問題に係わる総合窓口機能と同時に、全庁的な調整機能を有していると言われている。そこを日本で言ういわゆる「議会事務局」として機能させたのである。外国人代表者会議の運営をスムースにし、且つ、会議で出た意見を市政に反映させていく橋渡し役として有効的に機能するには、外国人問題全般にわたる行政の受け皿が用意されて初めて機能すると言われているだけに、多文化局と外国人市民代表者会議との関係を深く調査する必要があったのである。次に、外国人市民のネットワーク活動であるが、川崎市においては92カ国にわたる外国人市民が暮らしているが、国籍ないしは人種別の組織を持つのは民団・総連(巻末・注参照)以外にはペルー協会だけであった。代表者の選出、情報の収集・提供、意見の集約、施策への共通理解、などどれを取り上げても外国人市民同士のネットワークは必要不可欠である。こうしたことから、フランクフルト市ではその点がどのように機能しているかを調べたのである。また、最後の外国人市民支援グループのネットワーク活動であるが、日本における外国人市民の生活支援、言語学習支援の活動や相談活動の多くは市民の草の根ボランティアによって担われている。日常生活に切り結んでいるために、地域に暮らす人々によって行われる方が効果的である。細かい気配りや信頼関係は、日常生活を通じて培われるからである。川崎市においても多数の市民ボランティアグループが活動しているが、こうしたグループの活動紹介とグループ相互の情報交換の場、グループ運営の支援、ボランティアの養成などが行政の役割として求められている。そうしたことを、諸外国ではどのようにおこなっているのかを調べる必要があったのである。

 

視察からは、順調な点だけではなく様々な問題点も見えてきた。代表者会議での提言が市政に反映されにくいとの批判が出ていたり、代表者が行政のシステムに通じていないことから行政批判に終始しがちであったり、母国の問題を会議の争点にしたり、果ては民主主義をとらない国からの移民を、こうした会議にどのように取り込んでいくかなどの問題である。しかし結果として、調査委員会は視察を通じて主に以下の点を取り入れることとした。まず第一にはフランクフルト市の多文化局のような、代表者会議の議会事務局兼外国人住民施策の総合窓口の設置である。多文化局はドイツ語での正式名称を "AmtFuer Multikulturelle Angelegen−heiten"といい、89年に社民党、緑の党の連合市政下で誕生した。初代の局長は、かつて68年の学生運動の指導者であった、ダニエル・コーン=ベンディット氏であり、彼は仏独国籍をもつユダヤ人であった。彼は、市の職員で地方公務員である他の職員とは違い、給料なしの名誉局長であり、彼以下15人の専従職員が働いていた(うち、フランクフルト市外国人市民代表者会議(略称:KAV)の専従職員は3名)。フランクフルト市は65万人市民の内の約19万人が外国籍と、ほぼ30%が外国人である。こうした中で、多文化局はKAVのみならず、移民に対する職業訓練教育を行ったり、他宗教信者間の対話を開いたり、EC委員会や北米の移民関係団体と共同で様々なプロジェクトを実施したり、と包括的に、立体的に外国人市民の問題に取り組むべく活動を続けてきた。

 

同じくドイツのニュルンベルグ市の外国人代表者会議("Auslanderbeirat" 以下、beirat)は、独自の事務局を持っている。三人の正職員と一人の非常勤職員からなる事務局員体制のもとに各種の委員会を組織し、機関誌を発行するというかなり独立した事務局体制となっている。また、外国人市民に関係する問題が全て市議会にかかる前にbeiratに根回し的に相談されているのである。川崎市としては、beiratの機関誌発行のアイディアは取り入れられるが、これほどまでに事務局に独立性を持たせるのは難しいと判断し、結果としてフランクフルト方式のように市行政内の受け皿となる部署の中に設置し、代表者会議との緊密な連携のもとに、より総合的な対応を目指したのである。

 

その他、オランダでは、外国人の地方参政権が国法により認められている。また、人種差別についても、同法下の第1条に以下のように定められている。すなわち「オランダに永住する全ての人は平等な状況で等しい扱いを受ける権利がある。信教、信条、政治的信念、人種、性別、立場による差別は認められない。」と。また、平等に関する一般法においても、第1条で「宗教、信条、政治的信念、人種、性別、国籍、ヘテロセクシュアルであること、ホモセクシュアルであること、またはその社会的な立場に関係なくすべての人は平等に扱われる。」と。こうした法律のもと、ハーグ市では、市職員に外国人市民の雇用割り当てが実施されており、15%の非オランダ人が就職している現状があった。しかし、川崎市の調査委員会は日本の現状を鑑みて、定住外国人の地方参政権付与が実現しても、ニューカマーにはその権利が付与されないことなどから、将来的に地方参政権が実現した後も外国人市民代表者会議は存続させるべきであるとの提言を行っている。

 

フランスのモン・サン・バロル市では外国人市民の市政参画は準議員制度のもとに行われていた。定員枠は3名で、95年度について言えば1月1日以降の居住者で、満18歳以上の外国籍(二重国籍も可)保持者で、有権者登録をした人に選挙権、被選挙権が与えられる仕組みとなっている。当初、川崎市もこの準議員制度を目指したが、地方自治法や公職選挙法に抵触することから、フランクフルト方式の代表者会議を踏襲することとした。また、モン・サン・バロル市では、準議員が不足する住宅の建設などに対して積極的な発言を行った経緯があったのだが、その際に外国人市民だけの権利として扱うのではなく、フランス人と共通の課題として取り組んだことが画期的であったという。このように、一市民として、市民全体に還元されていくような建設的な意見が出るような会議にすることが川崎市としても目標となった。また、参考にした都市の多くで、代表者となるための要件が「18才以上であること」と、日本の公職選挙法で定められる「20才」と比べ低いことが分かった。この点も、川崎市の代表者会議を発足させる際の参考とされた。

 

7−12:95年−96年 モデル会議開催を経て最終答申がでるまで

 

帰国後、調査委員会は更に1年ほどかけて独自の調査を進めた。例えば、川崎市内の大規模な民族グループである民団や総連との懇談である。総連との交渉は国際室の伊藤長和氏が担当したのであるが、その際には以下の点を軸において説得したという。まずは「内政不干渉」を掲げる総連に対して、代表者会議では委員の母国の問題は扱わず、あくまで地域生活の改善を目的に外国人同士が話し合う場であること。今まで数々の被差別体験をしてきた外国人住民が市政に一石を投じる場となりうることを強調した。また、代表者会議は地方参政権の問題とはまた別であり、その点でも総連の方針とは食い違わないこと、そして、民団から代表者が出るのに総連から出ないのは、川崎市の施策としては不平等になってしまうことを挙げた。そして、皆が同じテーブルに着くことで対行政だけでなく、外国人どうしも相互理解が図れることを述べた。

 

こうした説得に応じ、総連は代表者を出すことに同意したが、次は総連、民団各団体からの代表者の人数割り当てが一番の争点となった。このような問題や、他の様々な法令との抵触を避けるべく、調査委員会は依然細かい「詰め」の作業を行わなくてはならなかった。前述の、代表者の国籍割り当てに関しては、「臨時委員を置く」という規定を条例案に加えることで、人数のバランスを保つ仕組みを作ったのである。

 

こうした作業を経て95年12月10日には「仮称・外国人市民代表者会議 モデル会議」を開催した。会議開催にあたっては「市政だより」とパンフレットの配布による広報や、市民館での日本語講座受講生、市民団体の紹介などを行った。このようなきめ細かいPRが可能となったのは、今まで外国人市民意識実態調査の実施などを通じて協力関係を築いてきた市の日本語教室のボランティアたちの協力があったからである。結果、18カ国54人(国籍別では韓国・朝鮮が23人、中国が14人、アルゼンチンが2人、その他の国籍15カ国から各1人ずつ)の申し込みがあり、当日は14カ国47人の外国人市民の参加があった。議長は代表者会議の現委員長でもある李仁夏氏が務めた。当日の進行としては最初に全体会を開き、15人が発言した。その締めくくりでは高橋市長が「多文化・多民族が共生できる国になるよう、川崎から全国に提案していきたい。いろんな示唆を与えてほしい」と述べた。その後、「福祉」「教育」「街づくり」の3分科会に分かれ、全員の自己紹介を含めて意見交換が行われた。このモデル会議の成功に後押しされ、調査研究委員会は遂に96年4月に市長に「仮称・川崎市外国人市民代表者会議」の設置の答申を行い、8月には市議会に条例案を提出したのである。

 

7−13:条例化のプロセス

 

8月に議会に提出された条例案は10月の議会にかけられることとなり、その間の2ヶ月で条例の文言を策定する作業が進められた。4月の時点で、市民局には代表者会議の議会事務局兼外国人問題の総合窓口となる「人権・共生推進担当」が設置されており、条例化の作業はこの組織と法制課を中心にすすめられた。

 

条例の文言制定に際しては、調査委員会の答申が、法令との兼ね合いも考えて作られたものだったのでそこまで大変だったわけではなかった。法制課の当時の担当主査も「国に「お伺い」を建てることもなければ、国から関与されることもなく、条例化を進められた」と述べていた。書き方に関しては、条例づくりのパターンを踏襲し、中でも特にオンブズマン条例の書き方を模倣したそうである。しかし、議会の反発も大いに予想されたことから、地方自治法や公職選挙法に抵触しない範囲で、最大限の自由と独立性を付与することに重点が置かれた。条例化に携わった市民局人権・共生推進担当主査の山田氏は、その時の法制課の職員に「思いをこめすぎるな。形式を整えてあげて、運用は外国人市民に任せればよい」と言われたそうである。このため、代表者会議は「市長の付属機関」とし、この会議で決まったことを年1回市長に提出する、また、市長はその内容を公表及び議会に報告する義務を負うという規定になったのである。

 

条例化にあたって最も苦心したのは前述の代表委員の国籍比率の設定であった。川崎市の外国人登録者数が2万人程度であったことから、地方自治法第91条の議員定数、「1万人以上2万人未満の市町村の議員定数26人」を準用した。その内訳は公募と推薦により、外国人登録者数の上位10カ国から各国毎に1名ずつ(計10名)、および、世界を5つの地域に分けてアジアに2人、その他の地域(南北アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ)に各1人を配分、残りの10人を1000人以上の国に比例配分することにした。これは、国連人権委員会の委員選出方法である、「代表者を文化圏で分けて募集する」というルールを参考にしたのである。また、代表者の応募条件を「市内に1年以上住む18歳以上の外国人」としたのは、ニューカマーの外国人にも多く応募してもらいたかったことや、諸外国では選挙権が「18歳以上」の人間に付与されていたことに依っている。国内での前例がなかったために、条例の文言は海外や国際条約を参考にした部分が多いのである。こうして、13条からなる「川崎市外国人市民代表者会議条例」が誕生した。(巻末参考資料A)

 

 

7−14:消極的な川崎市議会の反応

 

この条例案は10月1日の定例議会で「全会一致」で採択されたのだが、全ての政党が「快く」後押ししたわけではなかった。その経緯を、学生時代より在日の問題に関わり、91年選挙で当選した川崎市・民主市民連合(巻末注参照)の飯塚正良議員に伺ったところ、外国人市民代表者会議の制定に際して議会内で対立はなく、むしろ「無反応」に近かったという。篠原氏の調査研究委員会の答申が出た時点で「やるしかない」という消極的なコンセンサスが一応できていたそうだ。しかし、個別に見ていくと、例えば自民党は、98年に北朝鮮の拉致問題があったことなどから、一層無反応の様相を呈していた。積極的なのは公明党であった。共産党は「一国一党原則」を貫いているため、定住外国人の地方参政権は内政不干渉に反するという立場からやや慎重論であった。社会党は積極的で、94年に公明党と共同で、川崎市議会において定住外国人の地方参政権付与を全会一致で採択する牽引役となったとのことであった。

 

10月の定例議会では、外国人市民代表者会議を所管する市民局の局長の説明に対し、以下の様な質問が議員から提起された。例えば、自民党の小俣議員は「会議で調査・審議するテーマ」「代表者会議委員の調査審議権限の範囲」「公務員としての「当然の法理」との抵触について」の質問を行った。これは、自民党の方針に沿った発言と受け取ることができる。法律に基づく選挙を経て当選した市議会議員と代表者会議の委員が同等の権限を持つのはおかしいのではないか、という指摘である。しかし、前述の飯塚議員の発言にもあったように、こうした指摘が来ることを承知の上で条文が練られていたために、特に議論が紛糾することはなかった。上記の小俣議員の発言に対しては「代表者会議は地方自治法の規定に基づく執行機関の付属機関として、必要な調査審議を行うものであり、同法100条に象徴される議会の調査権とは自ずから異なり、強制力を持つものではない。また、市長は代表者会議の提案を尊重する義務を負うが、提案は拘束力を持つ決議とは異なる。」との回答がなされた。その他、公明党の小川議員からは「代表者会議での話し合いの結果の市政への反映方法」「代表委員の選出方法」「会議の運営費」について、社民党の山田議員からは「調査審議の対象外となる問題領域について、共産党の宮崎議員からは「代表委員の守秘義務について」、神奈川市民ネットワーク運動の尾畑議員からは「代表者会議の提案事項の、市政への反映過程の開示」などについての質問がなされた。以上、各政党からの質問が出たが、特に目立った対立もなく、代表者会議の条例案は10月1日に原案の通りに全会一致で可決された。これによって、川崎市の外国人市民代表者会議は市長の付属機関としてのオフィシャルな形を得ることとなったのである。

 

7−15:代表委員の選考開始

 

議会で条例案が可決されたことを受けて、10月9日には市内の全外国人世帯に5カ国語による「代表者会議のお知らせ」が郵送された。応募資格は18歳以上で、外国人登録法に基づき市内に1年以上住んでいることとされた。同時に、欠員が生じないよう市内の日本語学習者へのPRや国際交流関係のNGO へ協力依頼がなされた。また、民団・総連・青丘社には団体推薦の依頼が行われた。公募は2週間後が締め切りとされたが、定員26名のところ、258名の応募が殺到した。倍率は12.3倍であった。応募用紙の志望動機欄には様々な意見が書かれていた。特色としては、ニューカマーの人からは「まず、日本社会(ないしは川崎市)がどのようなものかを知りたい」あるいは「自分は今とても孤立しているので、仲間が欲しい」という意見が多かったのに対し、オールドカマーの人は「自分たちの現在直面している問題を解決したい」と書く人が多かったことである。

 

締め切りから3日後の10月28日には、第1回代表者選考委員会が開催された。選考委員は宮島喬・お茶の水女子大学教授、廣川和子・市民館日本語教室教師、小倉敬子・LET‘S国際ボランティアのメンバーの3名であった。選考に際しては男女数均等への配慮、モデル会議応募者への配慮、その他年齢や在留資格など多様な人の参加が考慮された。選考委員会は計2回開催され、2回目の11月5日に代表者が内定した。13日には代表者が発表され、その内訳は21名が公募者、5名が団体推薦者とされた。

 

7−16:条例の施行および第1回会議の進行過程

 

12月1日に条例が施行され、同日に、中原区役所で第一回目の外国人市民代表者会議が開催される運びとなった。会議では事務局から条例の説明と、会議運営要綱案の説明が行われ、市長から委嘱状の交付が行われた。代表者および事務局の紹介が行われた後には委員長、副委員長の選出が行われ、委員長に李仁夏氏(韓国)・副委員長にマウゴジャータ・ホソノさん(ポーランド)が選ばれた。そして、会議運営要綱案が審議され、教育部会、地域生活部会、街づくり部会の3つの部会が設置されることが原案の通りに可決されて1日目が終わったのである。

 

1週間後の12月8日には第2日目の会議が生活文化会館で開催された。まず全体会議で各部会の委員が決定され、その後に3名の臨時委員の選任が行われた。その後、各部会で部会長が選出され、話し合いたいテーマが決められた。教育部会ではいじめ、差別の問題に始まり、文化や習慣の違いの理解、留学生に対する支援、心の教育などが議題にあがった。地域生活部会では住宅の入居差別の問題、地方参政権の問題、福祉・医療の問題などがテーマとして取り上げられた。街づくり部会では日本人と外国人との交流、情報のネットワーク化、町内会や地域への参加などについて議論が交わされた。また、翌年1月12日には部会での話し合いが高津区役所で行われた。

 

その後、2月に第2回会議が開催され、初年度の会議日程は終了した。条例の制定が12月であったことから正味5回しか会議を開催できず、結果報告をまとめるのが大変であったが、97年4月27日(97年度第1回会議)では、96年度の年次報告が審議され、決定された。

 

7−17:「内なる国際化」に向けての市の現状

 

 現在は川崎市の外国人市民代表者会議と外国人市民施策の担当は市民局内の「人権・男女共同参画室」に移っており、国際室は総務局内に国際交流課として改組された(96年4月)。内なる国際化に向けた国際室の役割は、外国人市民代表者会議の設置に伴って幕を閉じたのである。以上、述べてきたように、川崎市の外国人市民代表者会議は、様々な段階を経て開催されたものである。まず第一に、70年代から80年代前半までの、在日韓国・朝鮮人の差別撤廃、人権保障をめざす住民運動やそれを支援する市職員や労働組合の動きがあり、次に市長や学識経験者が中心になって法的な枠組みを作った「24項目課題」から外国人市民代表者会議の設置までの動きがある。今後は、この会議の場を通じて、外国人市民の市政参加による新たな「内なる国際化」の段階に入っていくのではないかと思われる。

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