第3部 理論モデルを用いた、川崎市の政策転換の分析

 

 このように、川崎市の外国人住民の運動は様々な人のネットワークによって形成されてきたことが特徴であり、その中で行政との対立から、次第に理解・協力を得る形で発展していったのである。

 

3−1:キャンベル「政策転換の理論」による、川崎市の外国人住民施策の形成過程分類

 

 川崎市の外国人住民施策の進化と深化を時系列的に追ってきたが、次にこうした政策転換を理論を用いて分析していく。着目点は2つある。まず一つは、82年の難民条約批准までの、いわゆる「運動型」の政策形成と、その後の、現在に至るまでの「パートナーシップ型」の政策形成の違いである。第二には、川崎市の組織風土である。川崎市でこのようなイノベーティブな政策が実現可能であったのは、外国人住民自身の、市への積極的な働きかけがあったからであることは前述の通りだが、そうした要望を受け止める市当局の「姿勢」があったことも忘れてはならない。問題があっても取り組みに時間のかかる、俗に言う「居眠り自治体」と比べて、川崎市の対応は迅速かつ効果的であると言える。川崎市がこのようなresponsiveな対応ができるのはなぜなのか、その点を以下で分析していく。

 

 81年の難民条約批准までの日本における外国人住民政策は基本的に個別の権利請求の運動の繰り返しであった。川崎市の外国人住民にとっても、市当局は常に対立する存在であり続けた。いかに当局を説得し、日本人と同様の社会保障を勝ち取るかが最大の関心事となるのである。しかし、条約の批准と共に「内外人平等」の原則が導入されたことで、要求だけしていれば良かった時代は終わったのである。手に入れた権利をどのように行使して、日本社会で生きていくのかという、自らのアイデンティティーに関わる新たな問題に外国人市民は直面していくのである。そこで、70年代、80年代、90年代の川崎市の外国人住民施策におけるターニングポイントになった出来事を挙げ、それぞれがどのような政策転換の中で生じてきたのかを次に分析していく。

 

3−2:1960−70年代=政治型

 

60年代から70年代にかけての川崎市は伊藤・革新市長のもと、それまでの産業優先の政策から「人間都市・川崎」の実現に全力を挙げて取り組んでいた時期であった。「すべての市民が人間らしく生きる」という理念を抱えて発足した伊藤市政は、市民憲章の発案にも見られるような市長の強いリーダーシップのもと、新しい川崎市の誕生を予感させる魅力を備えていた。そして、革新市長として、今までになかった政策の実現をすることが市政に与えられた課題だったのである。そうした中、国の対応の遅れが顕著であった外国人住民への施策の充実は、革新市長の直面していた課題に応えうる絶好の政策領域であった。

 

一方で当時は日本全体に学生運動が広がっていた時期でもあり、「日本社会を変えなくてはいけない」というエネルギーが広く社会全体に浸透していたと言えよう。学生運動の持っていたエネルギーと川崎市の外国人施策の推進とは一見何の関わりもないように見えるが、実はそうではなかった。学生達は当初、「入管法改正」などの大きなスローガンを掲げて活動していたが、地域社会に根ざした、いわゆる日常の中にある様々な外国人差別の問題には気づいていなかったのである。そうした学生達が、日立の就職裁判の活動を通じ、桜本保育園の創設に関わった社会福祉法人青丘社を知っていくことで、日常生活の中の差別に気づき、問題解決に向けて取り組んでいくようになる。学生達の中には、日本人だけではなく、在日韓国・朝鮮人の二世たちも多く存在した。それまで、通名で通してきた彼らも、自らがより主体的に生きていくために、こうした差別の解決に携わっていくのである。

 

また、市内在住の外国人たちも、自らの置かれた立場に素朴な疑問の声を挙げるようになっていった。「なぜ自分は国民年金がもらえないのか?」「なぜ自分には児童福祉手当がもらえないのか。ましてや、昔は日本国民であったのに」などの声である。こうした声や、青丘社の働きかけに応えるべく、70年代の川崎市は、国に先駆けて市内在住の外国人への国民年金を支給や、市営住宅入居に際する国籍条項の撤廃などに取り組んできた。市のこのような措置を引き出したのが、当時学生であり、後にふれあい館の館長となるペイ・ジュンド氏や、外国人市民代表者会議の発足を担当した市民局の山田氏、市議会議員の飯塚氏だったのである。市職労が、後に外国人施策について影響力を持っていくようになるのは、伊藤市長が市労働連合会委員長出身だったということもある。というのも、伊藤市長にとって、市職労は最大の選挙基盤であり、政策アイディアのリソースだったからである。

 

このように60−70年代は、革新市長の当選や学生運動の盛り上がりなどにより、それまでスポットライトを浴びることのなかった外国人住民への施策が、社会の閉塞的状況を改変するエネルギーの高まりによって注目されはじめた時代であった。外国人住民自身が自らの問題を市に訴え始めると同時に「革新市政」を目に見える形で実現する意味でも、外国人住民問題への取り組みは重要視されていたのである。「現状打破」を目指す外国人住民、日本人の若者、革新市長のエネルギーが、反発する日本人や自民党議員らのエネルギーとぶつかり合う中で、徐々に問題解決に向けての一歩が踏み出されていったのである。

 

3−3:1980年代=政治型

 

80年代は、日本政府の難民条約批准などとも相まって、外国人住民の問題が全国レベルで取り上げられるようになっていく時代であった。また、条約批准による「内外人平等」の原則が国内法の改正をも伴うものであったため、それまで外国人には閉ざされていた国民年金の支給や児童手当、住宅金融公庫からの融資などが開放されることになった。80年代の川崎市の外国人住民施策は基本的にはそれまでの「政治型」(異なるアクター間のパワーバランスによる交渉)の政策転換の中で行われてきたが、一方でこうした要求型の動きが少しずつ変わっていく時代でもあった。国籍条項の壁がある分野が依然残ってはいたが、基本的には日本人と同じような生活が保障されていく中で、「では、自分は日本社会でどう主体的に生きていくべきか?」というアイデンティティーの問題に在住外国人が直面していくのである。それは90年代に入るとより顕著となり、それまでの要求型から参加型、すなわち、「川崎市民として日本人と共に暮らしていくためにどうすればよいか」という動きへと変化していくのである。80年代の川崎市でのエポックメイキングな出来事は、指紋押捺拒否者の問題、在日外国人教育基本方針の策定、及び、ふれあい館の建設の3点であろう。

 

80年代半ばの指紋押捺拒否者への対応は、外国人登録の手続きに関わってきた市職員を中心に、外国人登録法のあり方そのものに対する疑念を提起するきっかけとなった。市職員は市職労を通じて、この問題に全庁的に取り組むようになっていく。市職労は民団、青丘社と共に警察に対する抗議デモを行った。また、市長の「押捺拒否者を告発せず」との発言も、こうした動きを後押しする結果となった。この発言は前述の通り、議会内で大きな波紋を呼んだ。市長の判断に肯定的だった政党も少しはあったが、概ね反対している政党ばかりであった。こうした逆境の中にあっても、市長は自らの発言を撤回することなく、「人間都市・川崎」という政治的信条を貫き通した。この当時、国は伊藤市長を逮捕する意向であり、その回避には多くの苦労が伴ったと高橋・現市長は編著「川崎の挑戦」で述べている。そして、こうした動きが全国に波及したことで、段階的に法改正が行われ、93年1月8日の改正によりようやく永住外国人には押捺義務が廃止されるのである。指紋押捺拒否者を告発しないという自治体や市民団体の取り組みの積み重ねが、最終的には法律の改正を引き起こしたという点でこの政策転換は「政治型」であったと言えよう。

 

指紋押捺の問題が契機となり、市内の在住外国人への認識が全庁的に深まっていった。90年代に入るまでは、市役所内において、外国人問題に対応する部局は大きく分けて2つあった。一つが民族教育問題に携わる教育委員会で、もう一つがふれあい館の建設に関わった市長部局以下の市民局および民政局である。教育委員会の系譜では、この問題に携わった第一人者が岩淵教育長(市労組委員長)である。彼は学校現場で差別が黙認されていた状況を打開すべく、多数の反対を説得して外国人の教育方針を打ち立てた。次の星野修美氏が教育委員会にいた際に「ふれあい館」が建設され、その時に星野氏の下にいたのが伊藤長和氏だったというわけだ。伊藤氏は市民局国際室に来てからも、教育委員会時の人脈があったおかげで外国人住民施策形成に際して他部局との連携・合意形成が比較的容易であったとヒアリングの際に述べていた。

 

市民局の系譜では、山田貴夫氏がいた。山田氏は72年に川崎市に入所し、当初は区役所勤務で外国人登録などを行っていた。また一方で、プライベートでは民闘連の活動に参加して日立就職裁判の支援に携わっていた。その後市民局勤労市民室に勤務していた際には、市職労組サイドから指紋押捺抗議デモなどに参加した。この当時の市職労組の委員長が、後に教育委員長となる岩淵氏であったため、岩淵氏が教育委員長となった際には在日韓国・朝鮮人教育の基本方針の策定で協力することになった。また、その過程で後に市民局国際室初代主幹の伊藤長和氏と知り合うこととなるのである。

 

在日韓国・朝鮮人教育基本方針の策定は前述の通り、困難を極めた。自らの子弟が学校で名前や出自についてからかわれ、いじめられる中で自尊心を失い、荒れていくのを目の当たりにした親たちの訴えを「教育現場で差別はあってはならないはずだ」の一点張りで認めない市当局とのやりとりは 年間で 数回にも及んだ。しかし、岩淵教育長時代にやっと当局が差別の現状を認め、教育基本方針の策定に取り組み出すのである。これは、親たちの要求が長年の交渉を経てようやく実現されたという点から「政治型」の政策転換であると言える。

 

在日韓国・朝鮮人教育基本方針の策定と並行して、ふれあい館の建設計画が持ち上がったが、こちらも立案当初は前途多難であった。町内会や自治会などの地元住民からの根強い反発を何度も受けたが、長期に渡る説得により、状況を前進させていったのである。ふれあい館の建設もまた、行政と外国人住民、地元市民との力の拮抗の中から交渉を通じて次第にコンセンサスが生まれてきたという点で「政治型」の政策転換であったと言える。

 

3−4:1990年代=認知型

 

90年代の特徴は、80年代までの個別交渉の段階を経て、市がより総合的な対応に取り組み始めたことであろう。それまでの交渉の過程で市当局と外国人住民の間に人的ネットワークが形成されていたことから、両者の関係は対立型から協調型へと変化を遂げつつあったのである。89年の選挙で高橋新市政が発足するが、選挙公約であった「前市長の方針の踏襲」が行われ、また外国人住民施策の推進に対する市職員のコンセンサスも形成されつつあったことから、外国人住民との交渉に費やされるエネルギーが以前と比べ低減した。90年代の特徴的な施策としては、行政組織内における「内なる国際化」専門窓口の発足、公務員受験資格における国籍条項の撤廃(任用については制限付き)、定住外国人の地方参政権獲得に向けての議会決議、おおひん地区街づくりプラン、外国人市民代表者会議の発足などが挙げられるであろう。

 

市民局国際室の誕生は、88年に民闘連の要望書を受けた市が翌年に「24項目の検討課題」を発表したことに起因している。それまでの様々な個別の取り組みを総合化する必要性を市側も感じ取っていたのである。国際室は92年2月に幹事会に代わる全庁的な組織として、関係課長で構成する「川崎市外国人市民施策連絡調整会議」を設置し、外国人住民の総合的施策の研究に着手した。また、同年12月には2つの調査研究委員会を設置した。これは「外国人市民政策のガイドライン」を策定するためのものであり、両委員会とも大学の研究者と関係部局の職員が協同で調査研究を行ったものである。

 

国際室は96年に人権・共生推進担当に改組され、外国人市民代表者会議と外国人市民施策を総合的に所管する部署となった。また、99年4月には新たに人権・男女共同参画室となり、人権施策を統合する「室」として格上げされることとなる。このように、90年代に入ってからは行政が外国人住民施策の統合化のための部署を設置し、独自に外国人住民の生活実態調査を始めるといった動きが見られるようになるのである。

 

公務員受験資格の国籍条項の撤廃(任用については一部制限付き)は後に「川崎方式」と呼ばれ全国の自治体に伝播し、最後には国の方針までを変える結果を生み出した。85年の指紋押捺拒否者への対応では、市長の発言が議会で猛反発を引き起こしたが、その後の法改正で永住者の押捺義務は廃止されたという経緯があった。そうした中で、外国人住民施策に対する議会の認識は徐々に高まっていったのである。また、定住外国人への地方参政権の付与にあたっては、学生時代に日立の就職裁判を支援してきた飯塚正良議員が市民委員会での話し合いをリードするなど、推進役となっていた。

 

また、おおひん地区の街づくりであるが、これは「古い商店街の再開発」という目的のもとに、日本人と外国人市民が共同で行った取り組みを市が後押しする形をとっている。ふれあい館建設の際には相当の反発をした地元町内会の一人は、ふれあい館のオープン後、「なんであんなに反発をしていたのか分からない」との感想をもらしたそうである。こうしたことからも、日本人住民側の意識の変化がみてとれる。

 

外国人市民代表者会議の創設は、過去20年来の川崎市の外国人住民施策の集大成であったと言っても過言ではない。行政は、学識経験者による市内の外国人住民の意識実態調査に取り組む中で、以前から市政への参画を希望してきた外国人住民に対して何らかの施策を講じなければならない状況に直面していた。一方で、議会では定住外国人への地方参政権付与の問題が取り上げられるようになっていた。こうした流れの中で、川崎独自の、国の法令に抵触しないような形での外国人住民の市政参画の方法が模索されていたのである。

 

この問題への「解決策」は、94年の地方新時代シンポジウムによって突如もたらされた。第三分科会において、フランクフルト市の外国人市民代表者会議の取り組みが紹介されたのである。このシンポジウムには市長、助役、外国人住民施策の担当職員、外国人住民らが参加していたが、この事例紹介によって彼ら全員の目指していたものが形をとって急速に現実味をおびていった。その後はわずか2年で調査研究委員会が設置され、外国人住民が主体となって自ら施策形成に関わることのできる外国人市民代表者会議が発足したのである。今まで交渉だけで2年以上を要してきたことと比べると、いかに行政側の意欲が高まってきたかが分かる。

 

このように90年代は、施策の実現に向けての交渉や対立などに費やされるエネルギーが以前と比べ大幅に減ったことが特徴的である。政策形成者らはたとえ意見対立が生じても議論を通じて解決できるだけの信頼関係や、施策の重要性に対する共通認識を持っているのである。そうしたことから、90年代の政策転換は認知的であったと言える。

 

3−5:キャンベルの「専門アリーナ」、およびヘクロの「イッシューネットワーク」の理論を用いた分析

 

川崎市における外国人住民施策は主に専門アリーナの中で形成されてきた。主なアクターは外国人住民および団体、市職員、学識経験者、市長、議会、日本人住民(支援者および反対派)である。一部、日本政府の難民条約の批准など全くの外的要因が施策の実現を促進した面もあったが、川崎市の実情に即した政策形成は主に上記のアクター間の交渉を通じて行われてきた。以下、このアリーナの参加者について説明を行う。

 

まず、政策受益者である外国人住民たちである。70年代以来、青丘社は既存の民族団体とは違って、在日を日本社会の一住民と見なし、様々な権利の獲得運動を行ってきた。そうした中で、在日の問題に関心を持つようになった市職員や市議会議員が誕生していくのである。また、市長も重要なアクターであった。伊藤市長は都市憲章条例案を始め、「指紋押捺拒否者を告発せず」といったような、当時の世間の流れからは一線を画す市政を担ってきた。また、押捺拒否者への対応は徐々に他の自治体にも伝播し、国際的な人権擁護の流れとも相まってついには法改正にまで至ったのである。

 

この論文を作成するにあたって数名の市職員にヒアリングを行ったが、彼らから共通して受けた印象は、「学識経験者、外国人住民など様々な立場の人間とゆるやかな人的ネットワークを持ち、政策の実施に必要な多くの情報を日頃からストックしていた」ということである。例えば、92年から93年にかけて市内の在住外国人に対して2種類の意識調査、生活実態調査を行った際にも、単に自治体内部の人的リソースのみで調査を進めたわけではなく、広く外国人住民、学識経験者、ボランティア関係者を動員して進めたのである。必要に応じて、その分野に明るい人材を様々な分野から集め、活用できるだけのパワーを、個々の職員が持っていたのである。

 

また、一人の職員に、なぜ川崎市ではこのように行政組織の内外を問わない柔軟な人材活用が可能であると思うかを訪ねたところ、それは川崎市の形成過程そのものにも起因しているとの答えが返ってきた。つまり、戦中、戦後の産業発展に伴って急速に成長した自治体であることから、地方の市町村に見られるような「地元の名士」ないしは「陰の実力者」のような実力者が、川崎にはあまりいなかったのである。そのことから、市役所組織においても、比較的のびのびと、「新しいものは何でも取り入れてみよう」という進取の精神があるのではないか、というのがその人の考察であった。

 

次に、学識経験者の関与についても述べていきたい。多くの自治体において、スムースな市政運営のために首長が学識経験者を政策決定に関与させるケースが見られる。このようなブレーン政治の典型例は鈴木都知事下の東京都であった。東京都のような大規模な自治体の経営は極めて困難であることから、鈴木都知事は経済専門家の稲葉秀三や建築家の丹下健三ら10数名を東京都顧問として正式発令した。そして、彼らを核として三期で70余の懇談会を作り、諮問、答申を繰り返しながら政策形成を行う多数ブレーン方式を採用した。どちらの知事も、職員を加えた形での諮問は行っていない。

 

川崎市は外国人住民施策を実施する際に、事前に様々な調査研究委員会を設置し、準備に臨んだ。これは、鈴木元都知事下における諮問委員会のような形にも見えるが、実際はそうではなかった。東大名誉教授の篠原一氏は、川崎市の数々の政策形成に携わっては来たが、川崎市の場合は政策ブレーンと市長の二人三脚型ではなく、そこに職員も加えた形での政策形成パターンが多く見られるのである。

 

篠原教授の教え子であった坪井善明・早大教授は、川崎市地方自治研修センター発足の旗振り役となった。70年代後半から80年代にかけて、主に都道府県レベルの自治体が、独自の職員研修・スキルアップのための研修所をもつようになった。川崎市は政令指定都市としては全国に先駆けて、こうした研修センターを設けたのである。運営メンバーは主に市職労の人々であった。

 

この研修センターの事業で職員のレベルアップに極めて大きな影響を与えたと思われるものの一つが、80年代半ばに始まった職員の海外派遣研修である。職員に1カ月、希望する外国で、自分の興味のある政策分野についての勉強をさせるというプログラムであり、事前研修・事後報告書提出も含めるとトータルで1年となる大がかりな研修制度である。99年11月現在までにのべ150人以上が参加している。その成果は職員向けの会報に載せられるだけでなく、帰国後にその職員主導のもと、川崎市の施策として実現されていくことが多い。後に、外国人市民代表者会議の担当主査となる山田氏も、この研修生度でスウェーデンに行き、現地での外国人住民施策について調査・研究を行ってきている。

 

このように、川崎市の場合は、市の職員全体のレベルアップを図るようなシステムが内在し、そうした研修を経てきた職員が、学者などの外部のブレーンと同等の知識をもって議論を積み重ねていく中で、様々な施策立案を実現してきたのである。その意味で、川崎は、鈴木都知事時代の東京都のような、ブレーンと首長のみの諮問会議を経てトップダウンで指示が出されるような展開にはならなかったのである。

 

以上、川崎市の政策形成における学識経験者の関わり方について説明してきたが、次に、川崎市の政策キーマンとして外国人市民代表者会議のみに限らず、情報公開条例やオンブズマン条例、子ども権利条例など、川崎市の数々の先駆的条例制定に関わってきた篠原・東京大学名誉教授についてここで触れておきたい。氏は、鈴木都政に見られたような、首長との一体型のブレーンではなかったことは前述の通りだが、その他にも教授が川崎市政に果たした「間接的な」役割があるとヒアリングの際、一人の職員が述べていたのである。篠原氏は東京大学法学部の名誉教授であり、中央官僚の多くにとっては「恩師」的存在に当たる。憲法学者であり、地方分権推進の旗振り役でもある篠原氏が、法律に抵触しない範囲で自治体の裁量を最大限に活かして作った条例案については、たとえ中央官僚といえどもそうそう簡単に反対できないのである。そして、中央官僚にも反対できないほど綿密に練られた条例案であるがゆえに、市議会でも真っ向からの反対意見が出にくいのである。ヒアリングを行った川崎市の飯塚市議も述べていたように、外国人市民代表者会議調査研究委員会の最終答申が出された時点で、議員たちの間には「(代表者会議は)やるもの」としてコンセンサスが出来上がっていたのである。

 

3−6:キャンベルの「政策推進機能」を用いた分析

 

キャンベルはまた、自著の中で、政策転換における政策推進役の重要性について述べている。政策に関する具体的なアイディアやエネルギーは、全て、政策決定に何らかの形で関わりを持つ「人間」が持っているのであり、この人間的要素を除いては、政策転換の理論は非常に抽象的なものとなってしまう。政策転換がスムースに図られるためには、推進役の活躍が不可欠となるのである。また、推進役の活動を追っていくことで、政策転換が単なる無機的、事務的プロセスの中だけで突発的に生じたものではないことが分かる。それはむしろ、様々な社会状況の変化を受けながらも、施策の実現をねばり強く求めてきた、多種多様な人々のネットワーキングの産物であることが分かるのである。

 

政治型の政策転換は、その過程において、フェース・トゥー・フェースの人的ネットワーク形成を生む。意見の異なる相手を説得するためには、直接対話・交渉の場を持たざるを得ないからである。そして、最初は相容れないと思っていた相手との間に、徐々に信頼関係が築かれていくことになる。70年代後半から80年代にかけて、外国人住民と市当局は様々な差別の撤廃に向けて、交渉・対立を繰り返してきた。その過程の中で徐々に信頼関係ができ、人的ネットワークが形成されていったために、80年代、90年代を通じて、川崎市は外国人住民施策を他自治体に先駆けて実施してこられたのである。

 

また、70年代は、学生運動などを経て、後に川崎市の外国人施策の推進役となっていく人物が育っていった時期でもあった。市職員を経て市議会議員になった飯塚正良氏は70年に慶応大学に入学し、ベ平連での活動に参加したが、70年に安保自動延長で敗北した。同年9月、当時高校3年生だった朴碩石氏と出会い、日立の就職裁判を知ることになる。そして、12月より裁判支援を始め、朴氏の弁護士を探す過程で在日大韓教会と出会うのである。大学2年になった飯塚氏はその後72年に川崎市桜本に移住し、翌年より日本人・在日の児童生徒を対象に塾の運営を始める。74年に日立就職裁判で勝利し、翌年には川崎市清掃局に入所するのである。80年代になってからは、主にふれあい館のたち上げに携わっていた。そして、91年に市議会議員に当選するとおおひん地区の開発に取り組むのである。このように70年代は、日立就職裁判を支援した民闘連や、青丘社を活動母体としていった若者たちが、その過程で様々な問題意識に目覚め、行動を起こしていったのである。そして、後に市職員や市議会議員などの様々な立場から在住外国人の問題に関わる結果を生みだしたのである。

 

山田氏や飯塚氏以外にも、川崎市においては、外国人住民施策を担う職員は以前から何らかの形で外国人住民と接点を持っている人が就くケースが多い。例えば現在、市職員の研修を行っている社団法人川崎市地方自治研修センター顧問の岩淵氏は元教育長であり、80年代に在日の子どもが学校で差別を受けている現状を当局側として初めて認知した人物である。外国人教育方針の制定に関わった教育委員会の同和・人権推進担当の星野修美氏は、その後もふれあい館の建設で、反対する町内会を説得した中心人物であった。市民局国際室の初代参事であった伊藤長和氏は、その前の職場であった教育委員会で星野氏と同じく外国人の人権教育に携わっていた。また、96年、市民局内に人権・共生推進担当が発足した際の主査であった山田貴夫氏は、学生時代からのベ平連、民闘連を通じての活動に加え、川崎市入所後は、田島区役所(在日韓国・朝鮮人住民が多く住む地域)及び市民局勤労市民室で指紋押捺問題を始めとする在日外国人の人権権問題全般に関わっていた。これらのことからも、外国人住民政策担当者の多くは、以前から外国人住民問題に関わってきた人が就くことが多いのである。

 

91年に市民局国際室が発足し、後に「内なる国際化」を重視する方針から96年に共生人権推進担当が発足した際、そこに山田氏が配属になったのは伊藤氏の市長への進言があったことが影響していると思われる。一般論として「運動体に関わった人間は使いづらい」という認識が人事サイドにはあったそうだが、伊藤氏が「外国人住民と長期に渡り、厚い信頼関係を築いてきた人間をリーダーに据えなければ代表者会議はうまくいかない」と強めにプッシュしたそうである。91年の国際室発足当時、山田氏は市民局勤労市民室に勤務していた。勤労市民室は国際室と部屋が隣り合わせだったこともあり、国際室での話し合いに個人的に度々参加していたという。そして、国際室が外国人住民施策を検討する際のブレーン選びに困っていたところ伊藤係長から山田氏へ連絡があり、山田氏は関東圏で外国人問題に取り組んでいた江橋・法政大教授、宮島・お茶の水大教授などを伊藤氏に紹介したのである。

 

また、山田氏が人権・共生推進担当に在職していた96年から98年にかけては、会議経過のホームページへのアップが異動後の98年4月以降よりも頻繁に行われていた。また、ホームページ自体も97年度までのものは写真が入っているなど見やすいレイアウトが工夫されている。議会の常任委員会である市民委員会への、外国人市民代表者会議・正副委員長の参考人招致も、山田氏が異動となった98年度以降行われていない。現在の人権・男女共同参画室には、長年に渡って外国人住民施策に携わってきた職員がおらず、加えて山田氏のような政策推進者が不在となったことで、上記のような事態が発生しているのではないかと推測される。

 

また、キャンベルは政策推進役は主に行政機構の中に見いだせると述べているが、川崎市の場合は、革新市長・および政策受益者である外国人住民たちのリーダーの影響力も見逃せない。例えば伊藤市長は都市憲章条例案を始め、指紋押捺拒否者を告発しないといったような、当時の世間の流れからは一線を画す市政を担ってきた。現在、地方分権化が進む中で都市憲章は自治体憲章づくりのモデルとして再び注目を集めだしている。また、押捺拒否者への対応は徐々に他の自治体にも伝播し、国際的な人権擁護の流れとも相まってついには法改正にまで至ったのである。また、既存の民族団体とは異なり、在日を日本社会における一生活者ととらえ直し、様々な権利の獲得運動を展開してきた青丘社の活動も政策推進役と言えるであろう。実際、青丘社は70年代以降、児童手当の支給、ふれあい館の建設、おおひん地区コリアタウン構想、韓国・富川市との姉妹都市交流、外国人市民代表者会議の運営など、川崎市における外国人住民施策の全てに一貫して関わってきているのである。

 

3−7:田尾「ポリシーマネージャーとしての自治体職員」の理論を用いた分析

 

田尾雅夫氏は、ポリシーマネージャーマインドを持つ自治体職員の重要性について述べているが、以下にこれを川崎市職員の人材の有り様に適用して分析していきたい。

 

田尾氏の指摘にあるような「政策領域に関する専門知識をもった」自治体職員の育成に関して、川崎市は独自の取り組みを行っている。革新自治体のシンクタンクとして設立された社団法人川崎地方自治研究センターで行われている様々な勉強会や研修が、職員の専門知識の蓄積や内外の人材との交流の場としての機能を果たしているのである。

 

現在、自治研修センターの常任理事・事務局長である板橋洋一氏にヒアリングを行った際、氏が述べた言葉がとても印象深かった。彼は「実際、ここ(センター)にどういう人たちが出入りしているのか、そこら辺の全体像って誰もよく分かっていないんですよ。」と述べていた。すなわち、それほどまでに多種多様の人々が、センターで出会い、交流し、情報交換し、ネットワーキングしているのである。その雑多な人々の情報ネットワークがあるからこそ、柔軟な施策形成が可能であると言っても過言ではないであろう。また、このセンターには図書館並みの蔵書が所狭しと並べられており、センター利用者の口コミによる日常生活に密着した「ソフト」な情報だけでなく、さまざまな学術理論や法令に関する「ハード」な情報にもすぐリファーできる場となっている。

 

また市職員が、専門領域に関する知識を深めたり、幅広い人的ネットワークの形成を図るべく、市内外に「出会い」の場を求めていっているところも注目に値する。90年初頭に神奈川県の自治総合研究センターが行ったアファーマティブアクションについての調査研究に、山田貴夫氏はサブ・リーダーとして

参加していた。山田氏は研究チームで知り合った人達から、「川崎市で外国人住民問題を取り扱う際のアドバイス」をいくつか受けたという。まず、@徹底した事前調査を行うこと。「居眠り」役所を動かすのは、市民が困窮状態にあることを具体的・客観的に示す「事実データ」である。 A大がかりな調査を行うためにも、また、アカデミックな権威に弱い役所の体質を利用するためにも、学識経験者を登用すること。また、世論を見方につけるためにPRをし、マスコミを大いに使うこと。B調査研究発表は、市のメインイベント会場で行うこと。また、報告書もたっぷりと予算をとり、高校社会科の副教材となれるくらいの、内容・量的厚みのあるものを作ること。これらのアドバイスは、後の川崎市の外国人住民施策実現の過程で着実に活かされていくこととなるのである。山田氏は、その後92年8月にも県の「神奈川と朝鮮の関係史調査」で渡韓するなど、関心のある政策領域の研究に熱心に取り組んでいる。また氏は、自ら「川崎の国際化を考える会」を発足させ、外国人の人権問題に関する研修会を開いたり、市の外国人施策関連の行事予定表などをつくって関係者に配布するなどの活動を行ってきている。

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