結論

最後に「なぜ、川崎市は外国人住民施策への取り組みに成功しているのか?」という問いに対して可能な限りの回答を行いたい。この論文では川崎市における外国人住民施策の形成過程の分析をおこなってきた。歴史の紹介が長くなってしまったが、それは外国人住民自身が主体となって政策形成過程に参加できるようになるまでにそれだけ長い時間を要したことによるためである。こうした長い歴史の中で外国人住民は様々な対立を経験し、そのたび毎に交渉を繰り返しながら市の職員や議員、学識経験者や日本人市民との相互理解を深め、連携を強めてきた。その結果が川崎市を外国人住民施策の先駆自治体となしえたのである。

 

今後、日本社会は一層国際化が進展していくことが考えられる。今年1月14日の朝日新聞でも、法務省が入管行政を見直し、外国人労働者の受け入れ枠を農業やホテル業などに拡大していく方針であることが報じられた。また、今後の高齢化と少子化の進展から生じる労働力不足を踏まえ、外国人労働者は介護分野にも投入される可能性が検討されている。こうした中で、全国の各自治体は外国人に対する住民サービスの充実化を今後一層検討する必要性に直面していくものと思われる。川崎市の外国人住民に対する様々な取り組み、中でも、外国人住民自身が市政に参画できる代表者会議のような施策は、今後全国の自治体に参考にされていくであろう。ただし、形式だけを取り入れてもうまくいかないのではないかと思われる。川崎の成功は前述のように、対立を克服する中で、政策形成に関わったアクター全員が問題に対する認識を深め、自己の意識変革を行ってきたことに起因しているからである。

 

たとえば外国人住民は、82年の難民条約の発効による「内外人平等」原則の導入により、単なる「要求」主体から、「参加」主体としてのアイデンティティの確立を求められるようになった。その結果は、外国人市民代表者会議で提案された住宅条例の「入居に際しては、外国人だけでなく高齢者や障害者に対しても差別を行ってはいけない」といった文言からも見てとれる。自らを一市民としてとらえ、日本人と共生していくためにはどうすれば良いのかということを外国人自身が主体的に考えるようになったのである。また、行政側も80年代の指紋押捺の問題や外国人教育基本方針の策定、ふれあい館の建設をめぐる交渉などを経て意識の変革がなされていった。その結果、日本の過去の歴史についての認識を深めると同時に、制度的差別の解消に向けて努力し、それらを総合的に施策化していく熱意が持たれるようになっていったのである。80年代の市と外国人住民との交渉がいずれも3年近くの長きに渡って行われたのに対し、90年代以降、特に外国人市民代表者会議の設置は、発案から2年で条例が制定されるスピード対応となった。このことからも、行政の外国人住民に対する認識が深まっていったことが見て取れるのではないだろうか。

 

以上に述べてきたように、川崎市の外国人住民施策の形成過程は同時に行政と外国人住民の間のイッシューネットワークの形成過程でもあった。また、こうしたイッシューネットワークが形成されてきたのは学生時代から外国人の抱える様々な問題を知り、それらの解決を自らのライフワークとしていった市職員や議員がいたからである。彼らが政策推進役として、イッシューネットワークの成熟に寄与してきたことを見逃してはならないと思われる。70年代から80年代にかけて数々の個別交渉を繰り返す中で、行政側と外国人住民との間に次第に人間関係が形成されていったことが、外国人市民代表者会議のような先駆的な施策の実現へとつながっていったのである。

 

川崎市の成功を一言でまとめるとすれば、「イッシューネットワークの成熟がイノベーティブな政策を生む」ということであろう。キャンベルは、専門アリーナにおける参加者は対立的であると述べているが、同時に、議題の重要性についての共通認識は議論によって生み出すことができるとも述べている。川崎市では様々な議論や運動を経る中で、当初は対立的であった政策形成関係者(=イッシューネットワークの参加者)たちが信頼関係を築きあげていった。その結果、全国初の条例設置となった外国人市民代表者会議のようなイノベーティブな政策が誕生したのである。今後、他の自治体が川崎市を参考にするとするならば、まずは自らの自治体内部の外国人住民の実態を把握することが望まれる。率直に話し合う場を持ち、対立する場面があっても根気良く話し合いを続けていくべきである。時間をかけて信頼関係を築き上げてこそ、外国人住民が一市民としての主体性を本当に発揮できるような、魅力的な政策が生まれていくからである。

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