メイリングリストにそって転送願います。



インド日記 第四回 小熊英二

 2月2日(水) うす曇
 朝から講義に出かける。タクシー会社には英語のできるハリ氏を予約したが、
またマンシがやってきた。とにかく出発する。
 一〇時前に到着するが、あいかわらず一〇時の始業時間になっても誰もこな
い。10時過ぎからぼつぼつ学生がきて、授業開始。もちろん悪気があるわけで
はなく、教師への対応はたいへんていねい。遅れても気にしないのである。しか
し一方で、一昨日私がタクシーの都合で5分ほど遅れたときは、タンカ科長から
ラジブ家に「どうした」と電話があったそうだ。インド人の時間感覚はよくわか
らん。
 今日の講義は日本の宗教について。日本人は「あなたの宗教は」と聞かれれば
たいてい「仏教です」と答えるが、結婚式はキリスト教式だったりするという
「ナゾ」についてである。
 話の内容は、要するに神道は多神教なので、神道の体系内で他の神を受け入れ
るのは容易であるということ。太陽の神やキツネの神が、キリストやブッダに入
れ替わっただけだだけで、多くの神を並行して崇めるという姿勢そのものが神道
の構造だ、という私の持論である。この意見はインド人にはわりあい通りがよ
い。というのも、ヒンズーもサルの神様やゾウの神様がいる多神教だから、彼ら
にも感覚的にわかりやすいのである。
 おもしろいのは、学生から「インドでも、ヒンズーの夫婦で子供ができないと
きなどに、イスラムのモスクにお参りに行くことがよくあります」と返答があっ
たこと。インドのイスラム教徒は避妊しないとかで、ヒンズーの夫婦より平均の
子供数が多いと聞いていたが、モスク参りが子宝に効くという話ははじめて聞い
た。イスラム排撃を叫ぶようなヒンズー原理主義者はともかくとして、もともと
の庶民感覚はこんなものなのだろう。
 ただしヒンズーと神道は、大きなちがいも持っていることも説明した。最大の
相違は、宗教と国家が結びついた時期の差である。ヒンズーの場合、古代に国家
と結びついたため、ヒンズーの経典や法典などが整備された。古代国家は宗教の
体系のもとで国家の法律を整備するので、イスラム教なども法典を持っている。
ところが日本の場合、古代国家が中国から仏教と法典をセットで輸入してしま
い、江戸幕府などは儒教で法典を整えたので、神道が体系的な法典や経典を持つ
ということがなかった。そのため神道は、宗教体系としてみれば、自然崇拝のア
ニミズムの段階からほとんど変わっていない。江戸幕府はキリスト教の浸透を防
ぐため、形式的に全住民をどこかの仏教寺院に登録させたので、この時点でみん
な名目上は「仏教徒」になったが、神道は庶民信仰として、仏教と融合しながら
残っていた。
 つまりヒンズーは古代から国家と結びつき、神道はそうでなかったわけだが、
近代に入るとこれが逆転する。独立後のインドは、政教分離の世俗国家を基本方
針としたので、宗教と国家が分離された。ところが、日本では明治時代から神道
と国家の関係が強まり、義務教育で神話教育が行われた。この話をインド人にす
ると、「インドではありえない。ヒンズー至上主義の団体が運営している学校な
どで神話教育をやることはあっても、公教育でそんなことをしたら大問題にな
る」という。戦前の大日本帝国の教育内容や、戦後の靖国神社公式参拝は、政教
分離を原則とする近代国家のルール違反なのである。
 ところが興味深いのは、日本政府のこの「違反」に対する弁明である。日本政
府によれば、神道はイスラム教やキリスト教とちがい、明確な経典や法典がな
い。だから神道は宗教ではなく、たんなる日本の伝統的な生活習慣だというので
ある。宗教ではなく生活習慣だから、公教育で教えても、靖国神社に閣僚が公式
参拝しても、政教分離に違反しないというのが政府の公式見解だ。
 もともと「宗教」という日本語は、近代以降にはreligionの翻訳語として定着
したものだ。上記のような政府の見解もあって、日本では「宗教」といえば、
「キリスト教やイスラム教のように、明確な経典があって、たいていは一神教の
もの」というイメージができあがった。多くの日本人が、一方では神社や寺にお
参りに行きながら、アンケートをとると「特定の宗教を持っていない」と回答す
るのは、こういう「宗教」観からである。彼らは、寺院にお参りに行くことは
「宗教」だと思っていないのだ。ちょうど、靖国神社に参拝することが「宗教」
ではないように。
 この説明も、別の意味でインド人にウケる。というのも、彼らもヒンズーとは
「インドの生活習慣」であって、それをイスラム教などと並列して「宗教」と登
録したのはイギリスがやったことだ、という意識があるからだ。神道は「宗教」
ではなくて「生活習慣」だと説明すると、多くのインド知識人は大きくうなず
く。しかしもう一段階複雑なのは、最近は「インドの右翼」のなかに、「ヒンズ
ーは宗教ではなくてインドの生活習慣だ。だから国家が後援しても政教分離に違
反しない」などという主張があることで、政治家というものはどこでも似たよう
なことを考えるものだと思う。
 こういう状態が、神道にとってよかったのかはわからない。もともと日本の古
代に文字はなかったから、神道にあるのは、天皇家が自己の正当化のために天皇
賛美を加味して記録した記紀神話だけである。天皇家と関係のない、古代の庶民
神道がどんなものだったかは、文字記録では確認する手段がない。そのうえ明治
になって国家公認宗教になってしまったので、神道は庶民的な活気を失った。以
前にも書いたように、現代のヒンズーが庶民信仰として盛んなのにたいし、日本
ではアマテラスのブロマイドがタクシーに貼ってあるということはない。もっと
もそうしたヒンズーとて、政府による「上からのナショナリズム」とはやや異な
るものの、ポピュリズム的な「下からのナショナリズム」を生んでいるわけだ
が。
 講義でもう一つ説明したのは、「どの宗派の寺院でもお参りに行く」という日
本の宗教意識の問題点。一見開放的で、どの宗教でも受け入れるように見える
が、じつは「多くの神を同時に崇める」という一点だけは頑固に変えない。その
ため、「私はキリスト教徒だから、神社には参拝できません」といった姿勢をと
る者には、極度に不寛容である。
 以前、殉職自衛官が自衛隊の合同儀式で神道形式で祭られてしまったとき、キ
リスト教徒の未亡人が、「神道形式の儀式を国の機関である自衛隊の予算で行な
ったのは政教分離に違反する」と訴えた事件があった。そして判決は、「神道は
生活習慣であるから政教分離には反しない。夫人は寛容の精神をもって神道式の
儀式を受け入れるべきである」という趣旨だった。戦前の朝鮮でも、朝鮮のキリ
スト教徒が神社の強制参拝に抵抗したさい、総督府の担当官が「神社は宗教では
ないのだ。心の狭いことをいうな。日本ではキリスト教徒でも神社には参拝す
る」と述べたという史実もある。
 さらに神道の多神教性はヒンズーよりも激しく、明治天皇でも東郷元帥でも神
様になって神社に祭られてしまう。日本の企業では、企業の創業者を神社に祭っ
ているようなところもある。トヨタをはじめとした工場には、神社や神棚があっ
て朝礼時に工員に拝ませるところも多い。インドの学生たちに、諸君が日本企業
に入ったら、場合によってはこういう神社に参拝に行くことを命じられ、拒むと
「協調性がない」などと非難されることもありうると言ったら、さすがに気持ち
のよい表情はしていなかった。少なくとも日本企業に入ったら、キリスト教徒で
なくとも一緒にクリスマスを祝うくらいは平気にならないと生きてゆけないと述
べて、講義をしめくくった。
 このあと、修士二年のハリやアシュトシを相手に、ラボ室で通訳の実習。日本
近代の主権概念を研究しているというラジ教授が監督役。ここでも同じ宗教の話
を実習に供したら、やはりウケた。ラジ教授は、「私は日本に留学に行って神道
の様子をみて、ヒンズーというのはどういう宗教か理解できるようになりまし
た。日本のことがわかると、インドのことがわかってくる」という。こちらも、
「私もインドにきてから、日本への理解が深まりましたよ」と答えた。彼は、非
ヨーロッパ圏にヨーロッパの主権概念が導入された時の事例として近代日本を研
究しているそうで、インドとの比較が興味深いそうだ。
 授業後、ハリやアシュトシとチャイを飲む。この若い二人はインドのナショナ
リズムに批判的で、ハリは共和国記念日のパレードを「私はああいうものは嫌い
です」と評していたと佐藤氏から聞いた。二人は、ポストモダニズムとそのナシ
ョナリズム批判についてどう思うかと質問してきた。私は、日本でもポストモダ
ニズムは流行しているが、日本とインドでは少し文脈がちがうように思うと答え
た。日本ではナショナリズムそのものの解体という志向が強いが、インドの場合
は近代化とナショナル・アイデンティティの緩衝材になっている(「結納金は創
られた伝統だから改革してもインドの伝統破壊にはならない」云々など)という
私見である
 それを聞いて、ハリは「そうですかあ」とやや不満げ。先日のアミタ女史もそ
うだったが、このあたりはインドでも若い世代と年長者は感覚が違うのかもしれ
ない。「もうインドはだいたいわかった」などと思い始めた段階が、安直なステ
レオタイプの形成にハマるいちばん危険な状態なので、少し気をつけることにす
る。
 待っていてもらったタクシーで銀行に向かう。昨夜プニマ夫人が、一月分の家
賃を請求してきたので、トラベラーズ・チェックを換金しにゆくのである。カタ
コトのヒンディー語で話したら、マンシは北のアイマチャル・プラデシュ州出身
で、奥さんを残して子供二人とデリーで暮らしていることが判明した。しかし、
インドの銀行は日本より早く2時にしまっていて無駄足。
 そのまま国際交流基金事務所に行き、日本から届いた各種連絡の処理。ついで
に判明したのは、今週末のアムリッツアル行きは先方の都合でむずかしいとのこ
と。小川氏と相談し、急遽週末にはカルカッタに行って知識人と会ってみること
にし、チケットの予約にとりかかってもらう。このあたりは、優秀な旅行代理店
がついているようなもので、まったく助かる身分である。帰宅して執筆作業をし
て寝る。

 2月3日(木) うす曇
 朝から執筆作業。英文の報告書を仕上げ、発表用のレジメも作成。昼前から、
昨日失敗した銀行での換金のため出かける。タクシーを呼んだら、こんどは頼ま
ないのにハリ氏がきた。
 昨日閉まっていた東京三菱銀行の支店にゆくと、ドルの現金には換えられない
との返事。支払い請求がドルベースなので、ドルの現金がよいと思ったのだが。
隣の銀行に行くと、窓口には日本語のできる行員がすわっている。相談したがこ
こもダメ。彼は上司と相談したあと、近くのホテル・インペリアル(インドでこ
ういう名前はすごい)に、イギリスのトーマス・クック銀行の支店があるから、
そこは換金レートもいいしドルも可能かもしれないとこっそり教えてくれた。
 ホテル・インペリアルに行くと、思いっきりコロニアル風で大理石造りの巨大
なホテルで、門からホテルの入り口まで300メートルくらいある道にはヤシの
巨木が並んでいる。征服の門番の敬礼とともに中に入ると、客は外国人ばかり。
「帝国主義ホテル」の名称はダテではない。先日の「インド政府経営の最高級ホ
テル」アショカよりも、キンキラぶりが板についている。
 赤じゅうたんを踏みしめて銀行の支店につくと、やはりドルはダメ(確認して
いないが、政府の方針なのか)。あきらめてルピーの現金にしてもらう。窓口の
態度は、悪くはないが慇懃無礼。インドの銀行は、換金するとよく金額をごまか
すとガイドブックには書いてあるが、ここは目の前で機械で札束を数えて見せ、
「これこのとおり」と出してきた。
 まだ時間がはやかったので、まだ行っていないデリーの工芸博物館でも行こう
かと思ったが、札束を抱えて見学は危険。交流基金事務所でカルカッタ行きのチ
ケットを確認し、はやめに帰宅した。小川氏は、彼のヒンズーナショナリズムに
ついての著作が完成したとかで、日本から送られてきた見本を貸してくれた。や
はり著作が完成すると嬉しそうである。帰宅して午後一杯、ナショナリズム本の
執筆。近代国家誕生による言語環境の変化について書きまくった。インドの状況
に足をつっこんでいると、こういう執筆はよく進む。夜には支払いをして、現金
の山をさっさとラジブ氏に渡してしまう。
 夜はラジブ邸で、なぜか中華料理が出た。ヤキソバと八宝菜、酢豚というメニ
ューで、コックのラジュ−が自慢そうにしている。しかしインドには酢を使うと
いう習慣がないので、酢豚は酢ではなく、なんと唐辛子味。ラジブ氏は、ヤキソ
バの味が物足りないとみえて、チリソースをまぜて食べていた。

 2月4日(金) うす曇
 午前中は執筆作業。午後からカルカッタに出かける。タルダ−ン運転手の車で
空港にむかい、飛行機に搭乗。機内で簡単に食事をし、夕方にはカルカッタに着
く。
 カルカッタに着くと、まずはデリーよりはるかに暖かい気温と高い湿気を感じ
た。例によって空港周辺には、観光客狙いの運転手やらタカリ屋やらがたむろし
ている。国際交流基金がホテルとともにカルカッタでのタクシーを予約してくれ
ていたので、「ミスター オグマ」のプラカードを下げているはずの出迎えを探
す。意外にすぐ見つかり、旅行代理店の社員とともにタクシーでホテルにむかっ
た。
 代理店の社員はとても愛想のよい青年で、名刺を渡してブルマンと名乗り、車
中でいろいろ話しかけてくる。こちらもホテルに着くまでの約一時間ヒマなの
で、いろいろ聞くと彼はまだ一九歳、代理店に勤めはじめて一年足らず。外国人
と友達になるのが楽しいそうだ(あまり成功しないといっていたが)。英語がう
まいのでどこで習ったかと聞いたら、ヒンズー教徒だがドミニコ会の修道学校に
通ったとのこと。おなじくカルカッタでドミニコ会の学校に通ったゴダン氏(ラ
ジブ氏の友人であるカナダの映画プロデューサー)のことを思いだし、校則は厳
しかったかと聞いたら、「制服を着て靴をピカピカにしていないとダメだった」
という。
 ドミニコ会の修道学校はカルカッタでもそう多いというわけではなく、せいぜ
い5つか6つだそうだが、私立学校が発達していて教育の階層間格差の激しいイ
ンドでは、中産階層の親がよい教育を求めて通わせるのである。とりわけ英語
は、インドではどこに行っても資産にもステイタス・シンボルにもなる。「英語
がうまいじゃないか」といったら、ブルマン青年もうれしそうだった。聞けば彼
はカルカッタ生まれのカルカッタ育ち、父親は同じ旅行代理店で働くホワイト・
カラーで母親は専業主婦、兄弟は妹が一人だけと、典型的な都市中産階層であ
る。西ベンガル州の首都であるカルカッタは、バングラデシュ(元東ベンガル、
東パキスタン)の独立後に大量の難民が流れ込み、貧困がうずまく町となった
が、一方でこうした手堅い中産層のいる町でもあるのだ。
 しかしこのブルマン君、一方で西ベンガルを愛する、なかなかの「愛州」青年
である。「カルカッタはとても西洋化された町だ。僕は西洋化したカルカッタの
スターは嫌いだ」といい、「西ベンガルの文化を守っている芸能人が好きだ」と
いう(彼自身は洋服を着ていたが)。ためしに「デリーは行ったことはあるか」
と聞いたが、「ある。まあまあだね」との返答。西ベンガル人はいわばインドの
関西人で、西ベンガルを気候および人情があたたかい土地として自慢するが、東
京にあたるデリーを「冷たいところ」とみなす傾向がある。言葉もヒンディー語
とはちがうベンガリー語。「カルカッタはデリーよりよさそうな町だね」と言っ
てみたら、これまた嬉しそうだった。
 西ベンガル人にとって西郷隆盛か坂本竜馬のような存在である独立運動の英
雄、スバス・チャンドラ・ボースについて問うと、「大好きだ。彼は自由のため
に闘った偉大なリーダーだ」という。インド人の例にもれず、「偉大なリーダ
ー」が好きである。チャンドラ・ボースは第二次大戦の終了時に日本軍の飛行機
で事故死したのを知っているかといったら、しばらく黙ったあと、「彼の死につ
いてはいろいろ議論がある」と述べた。インドでボースは独立運動の闘士として
有名だが、日本政府が戦争中に彼を対英戦争に利用するため援助したことを知っ
ているインド人は意外に少ない。そのうえ西ベンガルでは、地元の英雄を尊敬す
るあまり「ボースはまだ生きている」という噂話が絶えないので、こういう返答
がくるのである。あとで述べるが、カルカッタの町にはボースの肖像がいたると
ころにあった。
 さらにブルマン君は、「ヒロシマとナガサキはいまどうなっているか」と聞
く。学校で原爆投下について教わったそうだ。インドでは一種の反米感情のゆえ
もあって、ヒロシマとナガサキは有名である。これはロシアもそうで、いつぞや
旧ソ連の小学校を日本のテレビが取材した番組を見ていたら、「日本について何
を知っている?」という質問に小学生たちが答えたのが、「アメリカがヒロシマ
に原爆を落としてたくさんの人間を殺しました」というものだった。
 ブルマン君に「ヒロシマなら今は再建されているよ」と述べ、「君はインドの
核実験政策についてどう思うかい」と聞いてみた。インドでは、ヒロシマ・ナガ
サキは有名でも、「アメリカに対抗するために、そしてヒロシマのようにならな
いために、核武装で力を持つべきだ」という意見はけっこう多いと聞いていたの
である。ソ連の小学生だって、ヒロシマは知っていても、自国の核武装に反対は
しなかっただろう。幸いにして、ブルマン君は「支持しない。政治家が人々を動
員するためにやったことだ。インドは(非暴力をうたった)ガンジーの国なん
だ」と返答した。
 もう一つ、「外国に行ったことはあるか」と聞いてみた。アメリカのサウス・
カロライナに親戚がいるので、一度訪ねたが、「アメリカは一度行くにはいいと
ころだが、好きになれない」とのこと。ロンドンにも叔父がいるそうだ。先日の
ハント氏製作のカナダにおけるインド移民の映画もそうだったが、インド・パキ
スタンの分離で難民が多数でたパンジャブやベンガルは、欧米への移民が多い土
地なのである。
 ひとあたり会話しているうちに、ホテルに着く。国際交流基金が予約してくれ
ただけあって、ピカピカの豪華ホテルである。何もここまで綺麗でなくともと思
ったが、ありがたかったのは、バスタブがあってお湯が入れられたこと。インド
にきてから初めてお湯を入れたフロで手足を伸ばした。インド人はお湯につかる
という習慣がないのか、デリーでもカルカッタでも道端で井戸水をくんで浴びて
いる人ばかり目立つ。ラジブ氏やティワーリー氏も、日本に行ったときフロに入
ってみたが、お湯が熱すぎて閉口したという経験を話していた。この日はもう遅
かったので、明日に備えて寝る。

 2月5日(土) 曇ときどき雨
 ルームサービスで完全西洋風の朝飯を食べ、九時半から昨日のタクシー運転手
の運転で観光めぐりに出かける。高級ホテルに専属運転手というゼイタク旅行だ
が、こちらもこの年齢になってサバイバル旅行の趣味はないし、短時間に見まわ
らなければならないので、国際交流基金の選択したプランにしたがったのであ
る。
 まずは観光名所である、マザーテレサの墓がある家にゆく。街角の小さな家
で、観光客がひっきりなしに来ていた。とくに何も感慨はなかったので、西ベン
ガルの民俗工芸品が多いと聞くカルカッタ大学付属のアシュトシ博物館に行く
が、ガイドブックの説明とは異なり週末は休み。しかたがないので付近のイスラ
ムのモスクとジャイナ教のお寺を見学する。これらはすべて観光名所だが、べつ
にお寺に深い関心があるわけではなく、名所回りのついでに街が見たかったので
ある。
 デリーとくらべた場合のカルカッタの特徴は、まず建物が西洋風で古いこと。
カルカッタはもともと、一七世紀にイギリスが政庁を置くためにもとは寒村だっ
た地域に作った町で、西洋風の建物が多い。といってもやはりインド風に(とい
っては申し訳ないが)、すすけて汚いという感じを日本の都市に慣れた目には与
えたが。路上生活者は明らかにデリーより多いが、これはたんに気候が暖かいか
らかもしれない。デリーの冬だったら凍死してしまうだろう。
 もうひとつ、カルカッタにはデリーのように牛がいない。野良犬が若干と、ヤ
ギが少々いるだけである。あとでラジブ夫妻から聞いた話では、ニューデリーは
70年代から八〇年代に急成長した町で、もとは村だった地域が多いため、住民
がいまだに牛を飼っていて市内で放牧しているのだそうだ。ラジブ家のあるディ
フェンス・コロニー地区も、今は住宅でいっぱいだが、七〇年代まではほとんど
草地だったそうである。そして政府は、聖なる動物である牛がデリーで交通事故
死したりゴミをあさったりしている状況を憂慮して、牛を郊外に出す政策をとっ
ているとのこと。そういえば佐藤氏も、彼がはじめてインドを旅行した六年前に
くらべ、デリーの牛は減ったと話していた。
 つまり「デリーの市街地に牛がいる」という現象は、「インドの文化」などで
はなくて、急速な近代化の副産物として近年になって出現したものだったわけ
で、当のデリー市民も当惑しているのである。そして、おなじくインドでも古く
から市街地だったカルカッタには、牛がいないというわけだ。やはり古い町であ
るムンバイ(ボンベイ)にも、あまり牛はいないそうである。安直に「インドの
文化」などと思ってしまっている現象には、意外とこういうものが少なくないの
かもしれないと反省する。
 さらに、カルカッタの道路には、デリーのような山がない。デリーの道路に
は、ところどころに道路を横断するかたちで山が造ってあり、自動車がスピード
を出せないようになっている。ただし幹線道路はカルカッタのほうがずっと狭
く、やたらと渋滞する。デリーの道路は広くて直線的なので、スピードを出そう
と思えばいくらでも出せるだろう。どうやらこれも、もとはイギリスの計画都市
で急速に人口が増えたデリーと、古い町で旧市街の道路をそのまま使っているカ
ルカッタのちがいから来たものらしい。やはり、「インドの都市」といってもい
ろいろある。
 もう一つ、デリーとの大きなちがいは、どこに行っても共産党のカマトンカチ
の落書きや旗があること。西ベンガルは共産党の強い土地で、現在の州政府も共
産党政権である。もっともインドの共産党は、六〇年代の中ソ対立をきっかけに
いくつにも分裂し、大きな「共産党」だけでも親ソ派・親中派・その他と三つあ
る。中国との国境紛争いらいインドでは反中意識が強く、親ソ派共産党のほうに
力があるようだ。もっとも昨日のブルマン君は「共産党は嫌いだ。彼らは州政府
をいいように使っている。みんな変化を求めている」と言っていた。90年代に
は西ベンガルの共産党も柔軟化して、外資系企業をたくさん誘致している。
 お寺観光に続いて、名高い西ベンガルの詩人で岡倉天心などとの交流でも知ら
れる、タゴールの生家にゆく。いまでは私立大学になっており、講堂ではヒンズ
ーの神様の絵画をバックにお香を焚き、何やら卒業式のようなものが開かれてい
た。さすが私立大学、公立で政教分離を建前とするデリー大学などではお目にか
かれない光景である。アメリカの宗教系私立大学などでも、キリスト教徒でない
と教員になれない大学とかがあるが(日本にも似たような不文律をもつ大学があ
る)、私立大学は信条が「自由」である。
 タゴールの生家は、いまは大学付属の記念博物館になっていた。ボースとなら
んで西ベンガル人の自慢だけあって、名家の生まれでロンドン留学、詩も書けば
絵も玄人はだし、独立運動ではガンジーと論争という輝かしい人物である。ガン
ジーとおなじく、目一杯イギリス紳士風の服装から、白髪白ヒゲのインド哲人に
容貌が変化するのも馴染みの展示。もっともタゴールの偉大さを称えるあまり、
オックスフォード大学から名誉博士をもらったときの記念式典とか、世界旅行で
アインシュタインやヘレン・ケラーと撮った記念写真とか(意外と俗っぽい人だ
ったのかもしれない)、はては彼の祖父だかがビクトリア女王にもらった紋章や
らが展示してあった。
 「インドの自覚」で名高い知識人の展示に、オックスフォードの名誉博士号だ
のビクトリア女王のくれた紋章だのを並べるのかねとは思ったが、このあたりが
インド人のお国自慢の微妙なところである。明治日本のナショナリスト知識人だ
って、「留学時によい成績をとった」とか「欧米の知識人にも認めてもらった」
とかが自慢だった人は少なくない。ビクトリア女王がくれたという紋章は、「勤
勉に働いていればいいことがある」(works will win)という文字と金色のゾウ
をあしらった、ワケのわからないもの。「インドらしい紋章」ということでゾウ
にしたんだろう。イギリス女王が、農民の間接統治に貢献したインドの地元エリ
ートに出してやった紋章というのは、みんなこんなものだったんだろうか。
 ある展示室には、一九世紀初頭からタゴール一族代々の肖像画が集めてあっ
た。それがみんな、一方では「いかにも地元貴族」という風情の「伝統風衣装」
を着て、彫金を施した短剣などを吊り下げている。デリーの国立博物館に行った
ときに感じたことだが、植民地支配下の一九世紀になると、やたら派手な彫金を
施した短剣だの首飾りだのが増えてくる。そういう成金趣味の興隆を支えたの
が、イギリス支配下で地位が認められた地元貴族たちだったのだろう。こうした
人々は「ザミンダ−ル」とよばれた不在地主で、農村を支配して都市に住んでい
た。支配勢力のバランスが変化するなかで、「いかにも」の「伝統的様式」を作
り上げられてゆく過程は、興味深い問題だ。
 一方で、これらの肖像画はみんな服装が「伝統風」なのに、絵画の様式とか人
物のポーズはまるっきり西洋肖像画風。そもそも、正装して肖像画を残すという
発想じたいが輸入されたものだったはず。明治天皇の「御真影」も、イタリア人
のお雇い外国画家に書いてもらった西洋式肖像画を写真にとって、全国の学校に
ばらまいたものだった。インドの近代絵画というのは、こういうところから派生
したのだろう。
 「様式が西洋風で材料は伝統的」というのは、アジア諸国のナショナリズムの
本質である。明治政府はヨーロッパ諸国が君主の名所旧跡を保存していることを
参考にして、荒れはてていた近畿の古代寺院を再興した。ナショナリストという
ものは、しばしばもっとも西洋化された人物である。岡倉天心は外国人に教育さ
れたため、英語は得意だったが子供時代には日本語が読めなかったし、前にも述
べたように三島由紀夫は「ダフニスとクロエ」の翻案として「潮騒」を書いた。
タゴールもこういう家系に育ったことが、彼のその後の思想を考えるうえで無視
できまい。
 タゴールの家を出て、有名なカーリー寺院にゆく。カーリーはヒンズー神話の
正義の女神で、「カーリー寺院」が「カーリーカッタ」つまりカルカッタの地名
の元になったといわれる。毎日午前にはヤギの頭を切り落とす儀式をやり、子宝
に効くとかで有名な寺院だ。しかしガイドブックをみて寺院へゆくと、ガイドブ
ックに書いてあったように頼みもしないのに英語で説明を押し売りする人物が現
れ、ガイドブックにあったとおりに日本人の名前がたくさん記入してあるノート
を持ち出して寄付を要求し、断るとガイブックに書いてあったように最低限の金
をせびろうとした。すっかり観光化した場所で面白くも何ともないので、早々に
退散する。
 ガイドブックに書いてある場所はおもしろくないので、カルカッタ観光局から
もらった地図のすみに載っていた、「ジャパニーズ・ブディズム・テンプル」と
いうのに行ってみる。ただの仏教寺院ではなく、わざわざ「ジャパニーズ」と書
いてあるのが気になったのである。
 行ってみると、インド風寺院の頂上にペンキで日の丸が描いてある、何やら奇
妙な建物あった。建物の前には、赤地に金文字で「NAM-MYO-HO-REN-GE-KYO」と
記された題字。二匹の黄金のライオン(こま犬だったんだろうか)に守られた
「立正安国」の碑石を抜けて、ほとんどヒンズーの寺院と区別がつかない建物に
入ってみると、インド人が「南無妙法蓮華経」と唱えながら太鼓を叩いている。
本尊は日本人の僧侶の写真と黄金のブッダ像で、日本のカゴメトマトケチャップ
数本と味の素のパックがお供えしてあった。周囲は子供でいっぱいで、笑いなが
ら本尊にインド式お辞儀をしたりしている。
 お寺の前で清掃をしていたインド人(バリクと名乗った)に、いろいろ聞いて
みた。それによると、ここは日本山妙法寺のカルカッタ支部。1970年に建立
された。ほかにインドには、デリー、ボンベイ、ダージリン、ラダックなど各地
に支部があるという。ただし、ここの信徒は彼を含め三人だけで、周囲の子供は
遊んでいるだけ。支部の経済は日本からの支援で成り立っており、一ヶ月に一度
日本人の僧侶がきてくれるそうだ。彼自身はもとヒンズー教徒だったが、日本の
僧侶が英語を教えてくれるなど親切だったので入信したという。
 日本山妙法寺は、日蓮宗僧侶として満州で移民を促進する活動を行なっていた
藤井日達が、戦争中の行為を反省して戦後に平和宗派として設立した。六〇年安
保闘争やベトナム反戦運動では、太鼓を叩きながら平和を唱えるデモ行進を行な
い、注目を集めたこともある。さきほど本尊として飾ってあった僧侶の写真は、
藤井日達のものだったわけだ。
 もっともインド人のバリク氏は、妙法寺の反戦活動などは知らず、インドにお
ける支持政党も「なし」という回答だった。それとなくカーストを聞いてみた
が、「今は仏教徒だから関係ない」という返事。もともとインドでは、仏教はは
るか昔に事実上滅びていたが、ここ20年ほど勢力をやや盛り返し、とくにヒン
ズー秩序内では優遇されていない低位カーストの間に若干の信徒を獲得してい
た。彼もそうした人々の一人かもしれない。それにしても、一度インドでは滅び
た仏教が日本から再輸入され、カルカッタの地で「南無妙法蓮華経」が響いてい
る光景は、何とも不思議な感じがした。
 そのあと、ホテルにもどる。夕方六時には、ホテルの喫茶室で、インドのサバ
ルタン・スタディーズの学者であるパルタ・チャタルジー氏と会う予定なのであ
る。
 サバルタン・スタディーズは、現在は日本でも紹介されてその名が知られるよ
うになった。「サバルタン」とは下層民衆の意味で、インドの社会主義系の学者
たちが、おも一九八〇年代から下層民衆とくに農民の心情と論理を探るため行な
った研究の名称だ。近年では、「伝統の創出」や「テキスト解釈」といったポス
トモダン系の概念も導入されている。日本でも、オックスフォード大学出版から
出たサバルタン・スタディーズのアンソロジーの抜粋が翻訳出版されたが、その
さいの看板スターはデリダ学者のガヤトリ・スピバックだった。
 チャタルジー氏はこの翻訳書で、「ガンジーの市民社会批判」という論文を寄
せている。それを通読すると、ガンジーがヒンズー神話の言葉で農民によびか
け、支持を集めていったことが描かれている。ただしチャタルジー論文の主眼は
ガンジーの西洋近代批判で、機械工業や議会制度、自由主義経済や物質的欲望な
どをヒンズーの伝統から批判し、「偉大なリーダー」に導かれた「アジアの倫理
に基づく家父長的な社会」の構築をよびかけていた、という内容だった。なんだ
か戦争中の日本政府のスローガンを見ているようで、嫌な気分になったことを覚
えている。
 もっともチャタルジー論文によると、ガンジーは当時の独立運動指導者の大半
とは、かなり異なる志向の持主だった。まず当時の独立運動指導者の多くがタゴ
ール一家のような上位カーストの出身だったのにたいし、ガンジーは商人カース
トの出身だった。また他の指導者が西洋近代式の教育を受け、インドの近代化や
市民社会概念の導入を唱えたのにたいし、ガンジーはそれを批判して農村の共同
生活と伝統的手工業を賞賛した。さらに他の指導者が「ヒンズーの伝統」を上位
カーストの文化に求めたのにたいし、ガンジーは農民の心情と村落社会の論理に
求めたのである。また当時のヒンズー・アイデンティティの模索が、もっぱら男
性重視的だったのにたいし、ガンジーは庶民的な女性崇拝(生殖能力崇拝)に近
く、女性の地位向上のためには「ヒンズーの伝統」も再解釈してよいと主張して
いる。
 要するに、ガンジーと他の独立運動指導者の対立は、ナショナリズムを構築す
るにあたり、「ヒンズーの伝統」をどのように解釈するかの対立だったわけだ。
かたや農民・女性・村落社会・手工業に「伝統」をもとめ、かたや上位カースト
文化の伝統・男性重視・近代化という方向にナショナリズムを引っ張ろうとした
のである。近代日本でいえば、明治政府の路線が後者にあたるだろう。古代寺院
やサムライの伝統に「日本文化」をもとめ、京都の奥の院で薄化粧していた天皇
に西洋式の軍服を着せヒゲを生やさせて「男性的」に改造し、一方で近代化政策
を推し進めたわけだから。
 こういう「伝統」の解釈の問題は、現在のインドでもホットな問題だ。「結婚
結納金はインドの伝統か否か」といった論争については以前にも書いたが、たと
えば近年では、不幸な結婚をした二人の女性のレズビアン関係を描いた映画に関
する論争があった。ヒンズー原理主義派が、「レズビアン描写はインドの伝統を
破壊する」と主張して映画館にデモをかけたのにたいし、それを批判する側は、
「レズビアンはインドの古代寺院の装飾にもある。それを蔑視する心情を植え付
けたのはイギリスの持ちこんだ西洋文化の価値観だ」と反論したのである。どっ
ちにしても「インドの伝統」そのものを否定する気はなく、「どれが正しい伝統
か」の解釈をめぐって争うわけだ。
 さて、こういった予習をふまえたうえで、チャタルジー氏に会った。やや禿げ
かかった白髪混じりの頭に、ポロシャツとラフなズボンといういでたち。ホテル
の喫茶室でコーヒーを飲みつつ、二時間ほど話した。以下はその応答。

 小熊「日本でもサバルタン・スタディーズは紹介されていますが、インドにお
ける政治的背景はよく知られていないように思います。たとえばインドでは、
『伝統の創出』という問題設定は、近代化による社会改革とナショナル・アイデ
ンティティを両立させる緩衝材として機能しているように思いますが。」
 チャタ「おおむねその通りだけど、もう一つある。『伝統の創出』というテー
マは、インドでは何よりも植民地支配への反発なんだ。イギリスが慣習調査や登
録などで『インドの伝統とはこういうものだ』と記述した内容にたいして、『真
のインドの伝統はちがう』という意識なんだよ。サイードの『オリエンタリズ
ム』が受容されているのも、ほぼ同じ文脈だね。」
 小熊「日本ではまったく違います。日本は植民地化されませんでしたし、西洋
諸国ではなく日本政府が『伝統の創出』を行なってナショナリズムを構築したわ
けです。ですから、日本では『伝統の創出』は西洋批判などではなくて、もっぱ
ら日本ナショナリズムそのものへの批判として導入されています。そういう日本
知識人の目からみると、『インドの真の伝統』を求めるという心情は、やや原理
主義的とも映りますが。」
 チャタ「そうかもしれないね。しかし、インドの事情はこの通りなんだ。」
 小熊「もう一つ感じたのは、『インドの伝統』の解釈問題です。みんな『イン
ドの伝統』を否定するのではなく、その解釈をめぐって争っている。これはガン
ジーの解釈でもそうじゃありませんか。インドの知識人のなかで、ある人は『ガ
ンジーは政治にヒンズーの伝統を導入した人だ』といい、ある人は『いや、ガン
ジーは宗教の融和を目指した政教分離の世俗主義者だ』という。ある人は『ガン
ジーは西洋近代式の理念を否定した』といい、ある人は『そうではない、ガンジ
ーの非暴力思想は西洋近代の言葉にも翻訳できる普遍的なものだ。だいいちガン
ジーはインド女性の地位向上のために伝統の再解釈も辞さないと言ったではない
か』という。みんなそうやって、『自分の思想はガンジーの伝統を正しく受け継
いでいる』と主張している。私は頭が混乱しました。」
 チャタ「大部分の自称『ガンジー主義者』は、ガンジーの著作をきちんと読ん
でいないんだ。ガンジーはカオスのような人で、おまけに政治家だから、全90
巻の著作集を読んでみると、その時々の状況によって相互に矛盾したような内容
がたくさん出てくる。誰でも自分の好きな内容を、ガンジーの著作集から拾って
これるだろうね。」
 小熊「誰でもインドの古代神話から、好みの教訓を拾ってこれるようにです
か。ガンジーはそれじたい神話なのですね。」
 チャタ「その通り。私はガンジー万歳主義者ではない。彼が生きていたら、い
まの人民党政権の核政策を支持すると思うよ。『臆病であってはいけない』とい
うのが彼の信条だったからね。」
 小熊「昨日会った旅行代理店の社員は、ガンジーを引き合いに出して核実験に
反対していましたよ。」
 チャタ「それも一つのガンジー解釈さ。」
 小熊「先日デリーのガンジー記念館に行きましたが、『世俗主義』という題名
の絵があって、ガンジーが血を流しながら各宗教の人々を抱きかかえて……」
 チャタ「それも一つの解釈、しかもかなり公式的な解釈だよ。ガンジーの実像
とは、少々かけ離れていると思うがね。」
 小熊「それじゃ、あなたはなぜガンジーの思想を研究したのですか。」
 チャタ「簡単な理由さ。西ベンガルは一応は共産党の強い土地なんだが、真の
意味での革命の思想は知識人や学生に支持されているだけだった。そこでインド
の共産主義者がベトナムにゆき、ホーチミンに会って、どうやったら民衆の支持
を集められるかアドバイスを仰いだ。するとホーチミンは、『インドにはガンジ
ーがいるじゃないか。私はベトナムのガンジーだ。農民に訴えかけたいなら、ガ
ンジーを勉強するべきだ』と言ったんだよ。」
 小熊「それじゃ、ガンジーを研究したのは、民衆の支持を得るための一種の戦
略だったともいえるわけですか。」
 チャタ「そういってもいいだろうね。」
 小熊「インドのサバルタン・スタディーズで、デリダの『テキスト解釈』の思
想を応用したスピバックが歓迎されているのも、ガンジーや古代神話をはじめと
した『伝統』や『神話』の解釈をめぐる政治があるからなのですね。しかし日本
では、スピバックやデリダはもっぱら西洋のポストモダン思想の延長として紹介
されていて、そういった政治的背景はよく知られていないと思います。」
 チャタ「日本には、『神話』や『伝統』の解釈をめぐる政治はないのかい。」
 小熊「戦後の日本にはあまりないといっていいでしょう。強いていえば、『い
まの憲法はアメリカに押し付けられたものだ』という右派と、『アメリカは少し
アドバイスしただけで、日本の学者や運動が基盤を作っていたのだから、日本製
の憲法といっていい』という左派の論争がありますが、それも少し以前のもので
す。」
 チャタ「日本にだって古代神話はあるだろう。」
 小熊「日本の場合、古代神話を利用して形成されたナショナリズムが、太平洋
戦争でたいへんな惨禍をもたらしました。ですから戦後の日本では、『神話』や
『伝統』の言葉にもとづいて政治的主張を行なうということじたいがあまり好ま
れないので、『伝統』の正しい継承者の座をめぐって争うという政治が少ないの
です。」
 チャタ「それじゃ、戦前は?」
 小熊「戦前にはありますね。私は戦前から戦後を対象に、政府や知識人が古代
神話をどのように操作して、自分の主張を行なっていったかについて本を書きま
した。だけど、あまり元気の出ない歴史ですよ。」
 チャタ「どういうことだ。」
 小熊「ほとんどの知識人が、最終的にはアジアへの侵略を支持したからです
よ。たとえばいちばんわかりやすい例として、私は高群逸枝というフェミニスト
のことをインドの知識人によく話します。彼女は西洋から輸入された女権思想で
はダメだと考え、日本の古代神道を研究しました。そして、古代神道には女性に
たいする差別はなく、中国から儒教が輸入されたあとに差別ができたのだと結論
しました。そうして、女権思想は西洋の輸入品ではなくて、古代神道精神の復活
だと主張したのです。」
 チャタ「インドにもよく似たものがあるね。一部の女性運動は、古代ヒンズー
には女性差別はなく、インドにイスラム教が侵入してから女性差別が生まれたと
言っているよ。」
 小熊「しかし高群は、しだいに神道原理主義的になり、最終的には中国への侵
略を神道の精神を広める一種の十字軍として支持したのです。彼女だけではなく
て、民衆に近い言葉をとりいれなければならないと考えた左派知識人が、最後は
反西洋のスローガンや原理主義的なナショナリズムに巻きこまれた例が少なくあ
りません。」
 チャタ「何てことだ。日本に宗教原理主義勢力はいたのかい。」
 小熊「それにあたるものはあります。日蓮宗という仏教の一派が、一九三〇年
代の大恐慌を背景として、知識人や軍人の間に支持を得たことがあります。彼ら
やその支持者の一部は、反西洋・反大都市・反自由主義経済のスローガンを掲
げ、農本主義や統制経済を唱えて、テロ行為やクーデター(2・26事件)を行
いました。彼らはまた、日本の貧しい農民のために中国の土地に進出するべきだ
と主張し、総力戦体制のために統制経済を支持しました。元左派の人々のなかに
も、反自由主義経済や農村救済という志向から、こうした原理主義に転向する人
が多く出ています。」
 チャタ「本当に元気の出ない歴史だな。民衆に近づこうと努力して宗教や伝統
文化の言葉をとりいれたら、原理主義に巻きこまれてしまったというわけか。今
のインドの知識人が抱えているジレンマとよく似ているよ。」
 小熊「ガンジーの思想についてのあなたの論文を読みましたが、何だか戦争中
の日本政府のスローガンとよく似ていますよ。反西洋、反議会主義、反自由経
済、東洋の伝統的倫理、家父長制国家……。」
 チャタ「だけど、日本政府は機械工業を起こして兵器を作ったんだろう。それ
はガンジーの思想とはちがうね。」
 小熊「それはそうです。伝統を掲げながら近代兵器を並べるというのは、ナシ
ョナリズムの矛盾の一つですね。しかし、今のインドの核実験計画だって、ヒン
ズー神話からとった名前がつけられているじゃありませんか。」
 チャタ「日本の近代には、工業化政策に反対した伝統主義者はいなかったの
か。」
 小熊「いたことはいましたが、政府主導の近代化が成功したので、支持はなか
ったですね。民衆のかなりの部分も、近代化がそれなりにうまく進んでいる以
上、それに乗ったほうがよいと判断したと思いますよ。だいたいインドの知識人
は、『アジアの伝統的価値観』とかいう言葉にたいしてナイーブすぎませんか。
日本では戦争の歴史があって、ほとんどの知識人はそうしたスローガンを聞くと
不安感を覚えます。」
 チャタ「インドではそうだろう。東南アジアの知識人はそこまで楽観的ではな
いね。シンガポールやマレーシアでは、政府が『アジア的価値』を掲げて民主化
を拒否したり、開発独裁を正当化しているからね。」
 小熊「インドでは東南アジアとちがい、独立後の政府が政教分離の世俗主義を
建前として、『アジア的価値』とか『ヒンズーの伝統』とかを掲げなかった。だ
から、民衆や知識人にとってそうしたスローガンがまだ新鮮で、夢を抱けるとい
うことですか。」
 チャタ「まあそんなところだ。」

 ずいぶん遠慮なく物を聞いたが、ここは議論については後腐れのないインド。
おまけに私は年齢より若く見えるほうで、日本でもしばしば三〇歳前後に見られ
てしまう。たくましいヒゲ面の男性が好まれるインドではなおのことで(昨日会
った一九歳のブルマン君も子供気の抜けない顔にヒゲを生やしていた)、プニマ
夫人は私のことを「25歳にしか見えない」といっていた。サバルタン・スタデ
ィーズの大家チャタルジー氏は、「元気のいい若造だ」くらいの感じで対応して
くれたのだろう。
 話のあと、彼は「あなたはインドでは客人だから」と言い、クレジット・カー
ドでコーヒー代を支払ってくれた。社会主義者といってもクレジット・カードを
持つ上層階級というのは一見矛盾だが、近代日本をふくめ、途上国の社会運動と
いうものはそうしたものといえばそれまでである。こちらだって、インドでは金
持ちの外国人だ。無理をして貧乏旅行を気取るほうがかえって偽善的、無理せず
に「分相応」にふるまうべきだと思う。彼もバンガロールでのシンポジウムに来
る予定なので、再会を約して別れた。
 夕食はそのあと、ホテル近所の中華料理屋で食べた。旅行ではその土地の名産
を食べるというのが原則で、私もうまいものは好きだが、食道楽の趣味はほとん
どない。なぜ中華料理にしたかというと、インドでは開放経済とともに台頭した
中産層のあいだで中華料理の外食が一種のレジャーになっていて、おまけにカル
カッタはインドの大都市で唯一チャイナタウンがある町ということもあり、「イ
ンドの中華料理」という存在に好奇心がわいたのである。
 まずは、中国系のシェフがいて評判だという中華料理屋に行ってみる。外国料
理屋の並んでいる通りで、その店の隣には、「素晴らしいオリエンタル料理」と
銘打った「ブルー・フォックス」というタイ料理屋があった。なんでタイ料理屋
が「青キツネ」なのかわからないが、どうやらイギリス貴族になったつもりでオ
リエンタル料理を楽しもうというコンセプトの店らしく、東洋のダンサーも出演
と書いてあった。「インドのタイ料理」というものの社会的位置も興味深い。
 目的の中華料理屋の店内は、アメリカ風のディスコミュージックがガンガンか
かった大きなフロア。中産層らしき家族連れや男女の若者たちでごったがえし、
入り口に行列ができていた。もちろん門前には、路上生活者や物乞いがたむろし
ている。アメリカ風ディスコミュージックと中華料理というのは日本の感覚では
まったく合わないが、インドではどちらも「中産階層風でオシャレ」なんだろう
か。
 そういえばバブル期の東京にも、「カバラ」というタイ料理屋があった。なぜ
タイ料理屋がユダヤ経典を店名にしているのか謎だったので、店員に聞いてみた
ら「カバラとは神秘的哲学という意味です」と回答していたっけ。店はフランス
人デザイナーがデザインしたという思いっきり東洋神秘趣味風のもので、店員は
ヨーロッパ調のピカピカ黒ズボンに白シャツだった。ほんらいなら同居しそうに
ないタイ料理とユダヤ経典も、「神秘的そうだからオシャレ」という分類枠のも
とでは結びつく。インドの「ディスコと中華料理」の組合せを笑える立場ではな
い。
 しかしこの大人気の中華料理屋は、店員に三〇分待ちといわれたのであきら
め、やや人気のなさそうな店にゆく。こちらは飲み屋を兼ねた男客ばかりの店
で、出てきた中華料理はなんだかくすんだ色をしており、マサラ香料の混じった
「インド中華」。日本でいえば醤油ラーメンみたいなものか。これも興味深い文
化接触だと思って食べ、ホテルに帰って寝る。

 2月6日(日) 曇ときどき豪雨
 またホテルで朝食をとり出かける。まずは州立の「インド美術館」に行ってみ
た。
 展示内容は、デリーの国立博物館を小さくして、科学博物館的な要素をくわえ
たような感じ。古代美術や細密画の展示はあいかわらず。科学コーナーでは、ベ
ンガルの特産農産物と、それを作っている農民人形が飾ってあるのが教育的配慮
を感じさせる。建物はインドの博物館の例にもれずやや古く、展示物にクモの巣
が張っていたりするが、あまり特徴なし。ローマ風の門柱・ヒンズー風彫刻・イ
ギリス風庭園の混交建築はややおもしろかったが。
 唯一興味深かった展示は、古代エジプト学のコーナー。ナポレオンのエジプト
遠征からはじまり、イギリスの学者たちの偉業を称えたあと、インド人の学者が
ピラミッドを「発見」したり「発掘」した様子が自慢げに書いてある。ヨーロッ
パ人によるイスラム研究を「オリエンタリズム」として批判したエドワード・サ
イードが、こういう展示を見たらどう思うだろうか。
 日系アメリカ人の学者の本で、近代日本の東洋学をあつかった「Japan's
Orient」という本がある。東洋の一部であるはずの日本が「東洋学(オリエンタ
リズム)」とはこれいかに、という問題設定である。日本では中国やインドは昔
から「西域」と呼ばれてきたが(あたりまえだ、日本からみて「西」にあるんだ
から)、明治以降に西洋の東洋学が輸入されるにしたがい、これらの諸国を「東
洋学」の対象とする学者が日本にも現れはじめた。彼らは中国などを調査し、戦
争中は日本の優秀さを称えたり侵略を支持したりした。これをもじっていえば、
インドの古代エジプト研究は「Indian Orient」である。
 そういえば、昨日のタイ料理屋もオリエント趣味風だったし、以前にラジブ邸
のあるお客と話していたときに、彼が「オリエンタルの女性はいい」とかいって
日本女性をほめていたことがある。そのとき、「ちょっと待ってくれ。インド人
は日本や中国の人間をオリエンタルというのか」とその人に聞いたら、「オリエ
ンタルといわれたら嫌なのか」と答えられた。「そうじゃない。中国と日本がオ
リエントということは、インドは東洋じゃないと思っているのか」と問うたら、
「いや、そりゃあインドも東洋だけど、日本と中国はもっと東じゃないか」とい
う歯切れの悪い返事が返ってきたものである。
 そのあと昨日閉まっていたアシュトシ博物館に行ってみたが、今日も閉まって
いた。昨日門番に聞いた情報が不正確だったのである。仕方がないので、デリー
の人形美術館にあたる存在である、カルカッタの「ネルー子供博物館」に行く。
 子供博物館は、例によって世界各国とインドの人形を展示してあったが、こち
らはただ無秩序に並べてあるだけ。しかし興味深いのは、ヒンズー神話である
「マハーバーラタ」や「ラーマヤーナ」が、それぞれ人形を使った60個ものジ
オラマで展示してあること。日本でいえば記紀神話の人形展示である。展示の最
初には、「マハーバーラタは一つの人種(a race)の偉大な自叙伝です。偉大な
神話は古代インドの文明を語ってくれます」と書いてあり、「国民文化協会
(National Cultural Association)」の作成と書いてある。ちなみに展示の解
説はベンガル語・英語・ヒンディー語の三言語併記だったが、ベンガル語が最初
で英語が二番目、ヒンディー語はいちばん下だった。
 「国民文化協会」はこの子供博物館を主催している児童教育団体で、博物館の
一階には講堂もあり、フランス語やコンピュータを教えるクラスの募集チラシも
貼ってある。受付で聞いてみると、この博物館は1972年設立。創立者の知識
人は五〇年代から児童教育や文化教育で活動しており、インドの歴代政治家と撮
った記念撮影も飾ってある。ただし博物館の「ネルー」の名称はたんなる名前
で、有名な首相とは関係ないそうだ。国民会議派のネルーは、一応は政教分離主
義者だったはずだから、ヒンズー神話を児童教育にとりいれるという志向とは合
わないはずである。
 博物館の外に出ると、周囲の壁に、この協会が2000年を記念して描いた、
コメント付きのメッセージ壁画が何十もある。「児童労働は社会の恥だ」「子供
に教育を」といったコメントの壁画からはじまり、やがて「子供はファンタジー
の世界に住んでいる」「動物と仲良くしよう。彼らも神様の創ったものだ」とい
うヒンズーの自然崇拝が加わって(このあたりはタミール映画「マリ」を思い起
こさせた)、それから国家的スローガンの絵になる。以下順番にみてゆくと、

 「わが伝統文化の誇り」(シタールや文学者の絵)
 「ノ−ベル受賞者たち」(アマルティア・センやマザー・テレサの絵)
 「コンピュータは21世紀を支配する」(コンピュータが地球にまたがるの
図)
 「宇宙に出たインド最初の男、1984年4月3日」(インド人宇宙飛行士が
月にインド国旗を立てている絵)
 「1983年。インドのクリケットの記念すべき年」(世界大会でインド優勝
の絵)
 「人類への奉仕は神への奉仕」(ブッダやヒンズー神の絵)
 「文明社会の指標。女性の活躍に敬意を」(インド国旗を立てる女性探検家、
女性運動選手、女性パイロット、女性兵士、女性研究者、女性文学者などの絵)
 「新しいミレニアムと偉大なる記憶」(インド独立運動、ガンジー、ボースの
絵)
 「21世紀。インド史の最も輝かしい時期」(「1999」のタスキをかけた
老人が「2000」と描かれた王冠を子供に渡し、周囲の子供たちがインド国旗
を打ち振る絵)

 ざっとこんな調子である。現代日本の文脈でいえば、児童労働廃止・教育の普
及・環境保護運動・女性の社会進出といったテーマと、「偉大な文化伝統」だの
「国家の誇り」だのはまず結びつかない。しかし、それらがすべて「もっとよい
国家に」「もっと強い国家に」という共通項で結びついているのが現在のインド
であり、また戦前の日本であった。
 2000年に対して期待が盛り上がっているのは、インドが1947年の独立
直後にくらべ国際的地位が低迷気味だからで、プニマ夫人も「21世紀はインド
の世紀になる」と息巻いていた。クリケットはインドでいちばん人気のあるスポ
ーツで、スルタンプールの農村でさえ道端の子供がクリケットで遊んでいたし、
ウルバシ氏と会食したときはインドとパキスタンのクリケット試合が放送されて
いて(日韓のサッカー試合のようなものである)、店員が料理を運んでこないで
テレビに夢中になっていた。
 コンピュータが重視されているのは、ヒンズー原理主義と科学信仰が「マジッ
ク・パワー」というキーワードで結びつきやすいからで、核実験がヒンズー神話
のコードネームで行なわれたのは前述の通り。科学産業の最新成果が、原理的な
理解を伴わないまま宗教的価値観の残っている社会に導入されると、よく起こる
現象である。ナチス・ドイツの科学観を研究したジェフリー・ハーフの「反動的
モダニズム」(邦訳題は「保守革命とモダニズム」)という本が、非合理的価値
観と科学技術の結びつきを研究したものとして有名だ。
 しかし、児童教育や女性の社会進出をうたっているこの協会は、おそらくイン
ドでは「良心的」な団体のはずなのである。この一連の「国家の誇り」の絵の中
に、核実験が描かれていないだけでも、私は少々安心した。「女性の社会進出」
に女性兵士の絵があるとはいえ、ミサイルや戦車が目白押しだった共和国記念日
のパレードにくらべれば、ずいぶんと平和的である。
 それにしても、この「国家の誇り」の内容の、ゴチャマゼぶりはどうだろう。
独立運動もシタールも、コンピュータもノーベル賞も一緒くたである。インド人
の宇宙飛行士とか、クリケットの世界大会なんて、日本で知っている人間がどれ
だけいるだろうか。核兵器や軍事力を持ち出さずにナショナル・アイデンティテ
ィを築こうとすると、他国の人間がまったく知らないスポーツ大会の成果まで動
員しなければならないというインドの現実は、いささか物悲しささえ感じさせ
た。
 すべての「国家の誇り」を失った敗戦直後の日本でも、古橋広之進が水泳で金
メダルをとったとか、湯川秀樹がノーベル賞をもらったとかをナショナル・アイ
デンティティにしたものだが、おそらくインドでこの二人の名前を知っている者
は数えるほどだろう。現在の日本では、経済的成功がおそらくは最大の「国家の
誇り」だが、現在のインドにそれは望めない。先日のアミタ氏も、「今のインド
では、もうガンジーや独立運動の歴史では民衆を引きつけられない」と述べてい
たが、こういう状況でヒンズー原理主義に対抗しなければならないインド知識人
の困難は思いやられる。そんなことを考えながら壁画の様子を手帳にメモしたあ
と、売店でミネラル・ウオーターを買うと、「外国人がまじめにインドの勉強を
している」と思われたのか、売店のお兄さんが親切だった。
 子供博物館を出て、動物園にむかう。町そのものが動物園みたいなデリー(牛
やリスだけでなく、サルや緑色のオウムが街中を飛びまわっている)にくらべ、
カルカッタは動物が少ない。動物園もデリーみたいに広くなく、東京の井の頭公
園動物園くらいの小さいもの。やはり赤旗にカマトンカチの動物園労働組合の垂
れ幕があったのが、ちょっとした特色。
 つづいて、国立図書館にゆく。やたらばかびろい土地に、英国風のばかでかい
建物が建っていたが、図書はそれほどでもなく、古めの本のみ。西ベンガルを中
心にインド各地の文学や宗教関係の本がほとんどで、ヒンズーもイスラムも一応
対等にあつかってあったが、なぜかシェイクスピアの本が、「サンスクリット」
や「タミール」といったコーナーと同じくらいの規模のコーナーすべてを占領し
ている。しかも英語の本はほぼシェイクスピアのみ。英文学コンプレックスのゆ
えなのか、たんに植民地時代からあまり本を補充していないのか。
 一通りカルカッタ市内の名所を回ったので、ホテルにもどって清算し、空港へ
むかう。またブルマン君が同乗し、「カルカッタはどうだった」と聞くので、
「やはりデリーよりいい町だ」というとニッコリ。私の名刺が欲しいというので
渡してやると、そのうち日本へ手紙を書きたいという。空港で彼は親切にチェッ
クインの仕方まで教えてくれ、握手して別れた。飛行機は、例によって予定より
遅れた。デリーに着くと、カルカッタに慣れた体には寒かった。

 2月7日(月) 曇
 今日は大学へ行く日。しかし到着してみると、またまたスタッフは会議中。会
議が終わったら、何とチベットの宗教事情について特別講義を組んだので、私の
講義はまたの機会にしてほしいとのこと。
 これまた、別に悪気があるわけではない。最近、中国がダライ・ラマの代わり
に傀儡として据えていたチベットの少年ラマがインドに逃げてきて、中国への対
抗意識の強いインドではこの話題で盛り上がっている。だからチベットの宗教事
情の特別講義を組んだわけだが、たんに私に事前連絡がなかっただけだというの
である。
 中国日本研究科の事務室は現在ストライキ中で機能しておらず、私だけでなく
学生たちも、この講義変更は初耳だったらしい。日本留学の経験が長いラジ教授
は「どうもすみません」と盛んにあやまっていたが、他の教授たちはまったく気
にしていない様子で、「小熊さんも聞けば面白いですよ」とのお言葉である。ダ
ブルブッキングや連絡の不備は事務員の責任で、自分たちは関係ないと感じてい
るのだろう。完全分業社会インドの感覚である。相手を事務室も教員も含めた
「日本研究科」という集団とみなす感覚ではなく、それぞれの職能の人間が同じ
建物にいるだけという感覚でみれば、確かに彼らに責任はない。
 私の側は、講義はサービス業だと思っているので、お客が「またにしてくれ」
というなら、それに従うだけである。とはいえチベットの講義は途中まで聞いて
中座させてもらい、学科長のタンカ氏と打合せにゆく。インドにくる前の予定で
は、英語の講義を一回やってくれということだったので、それをいつ行なうか決
めようと思ったのである。
 ところがタンカ氏は、あっさりと「もうあなたの帰国まで日時も少ないし、や
らなくていいです」という。それじゃ用意した英文の講義内容は、各地のシンポ
ジウムや、アミタ氏(ナルマダ・ダム反対運動を研究した先日の若手女性研究
者)に頼まれた社会学部の特別講義に回してよいかと言ったら、「かまいませ
ん」という返事。日本事情の講義が増えたかと思うと、英語の講義は中止。いい
かげんというか融通無碍というか、とにかくそう決まったので、社会学部へアミ
タ氏に会いに行く。
 アミタ氏はまだ講義中だったが、私を見つけると教室からわざわざ出てきて自
分の研究室のカギを渡し、すぐ終わるから待っていてくれという。会議やシンポ
ジウムでも自分の意見ばかりまくしたてる人が多いインドにあって、この人はけ
っこう周囲の様子に気を配る人である。あたりまえだが、「インド人」といって
もいろいろだ。
 講義が終わったあと、学部のそばの売店でチャイを飲みながら、彼女はまたも
日本の近代化とナショナル・アイデンティティについて盛んに質問してきた。明
治政府はなぜ江戸時代の身分制度の解消に賛成したのか、なぜ日本の民衆は政府
による神道の統制(内務省が神社のランキングを設け、半数近い地方神社を潰し
た)を黙認したのか、なぜ近代化による中央と地方の格差がそれほど深い対立に
ならなかったのか。すべて、いかにもインドの知識人が関心を持ちそうなテーマ
である。
 私の回答は、だいたいこんなものだった。明治政府が身分制度を解消し、代わ
りに国民共通の義務教育を導入したのは、要するに国家の強化のためである。政
府は、サムライだけに教育を与え、サムライだけを兵士にするという方針ではな
く、国民教育を行なって徴兵制を導入し、読書きのできる兵員と労働力を大量に
獲得することすることなしには、西洋による植民地化から逃れられないことをよ
く知っていた。神道を統制し、天皇を中心としたナショナリズムの形成に役立
て、国民教育で古代神話を教えたのも、要するにそれが近代国家を建設するため
に必要だったからである。
 一方で、日本では政府主導による近代化はあるていど成功し、新しい職業を民
衆に提供することに成功した。また身分制度の解消と教育制度の普及は、身分に
よる差別を学歴による差別におきかえたが、人々はそれに抗議するより、自分が
よい学歴を手に入れることに傾いた。よい学歴が手に入れば、よい職業が手に入
る。こうした社会的上昇の機会と職業を提供したから、多少のことがあっても民
衆は政府を支持したのだ。農村はたしかに都市との格差に悩んだが、大部分の地
方農村リーダーは、中央政府と闘うよりも、政府から村へ利益を誘導するか、自
分の子弟によい学歴をつけさせ都市に向かわせることを選んだ。
 これを聞いてアミタ氏は、「要するに、中央政府のリーダーシップで近代化が
成功したから、すべてうまく運んだというわけね」とコメント。私が「結果的に
言えば、だいたいそういうことだ。でもそのおかげで太平洋戦争では大失敗した
し、今の日本では逆に地方分権が問題になっている。まあインドの知識人のなか
には、『明治の日本には国民を動員して西洋の植民地化に対抗した偉大なリーダ
ーがいたんだ』と誉める人もいるかもしれないけれどね」と答えると、彼女は肩
をすぼめて笑った。各地方が分裂したまま植民地支配され、現在でも国家の統合
や近代化の促進などがテーマになっているインド側からみると、近代日本の歴史
的経緯は良い意味でも悪い意味でも感慨深いはずである。
 私が『<日本人>の境界』という本を書き、近代日本における「日本人」の境
界に位置する人間、すなわち沖縄やアイヌ、朝鮮人などの視点から「日本人とは
誰か」を論じたと述べると、日本のマイノリティについていろいろ質問された。
北海道のニ風谷ダム(アイヌの聖地にダムを建設する計画)反対運動の話をする
と、ナルマダ・ダム建設への少数部族の反対運動の調査をしていた彼女は、やは
り関心を示した。
 彼女によれば、ナルマダ・ダム計画のさいには、「ダム建設は国民の偉大な発
展に必要だ」と主張する政府側にたいし、それによって被害をうける少数部族側
から、「犠牲になるわれわれは『国民』の一部ではないのか」という反論がなさ
れ、「インド人とは誰か」という議論に発展したという。インドではイスラム教
徒をはじめとした少数宗派、不可触賎民など下層カーストにくわえ、「指定部
族」とよばれる少数部族がマイノリティとして存在する。そういえば先日彼女と
はじめて会食したさいに、デリーの人形博物館における「各州からのインド人」
の展示の話をしたら、彼女がまっさきに質問したことは、「その『インド人』の
展示に指定部族は入っていたか」だった。
 インドだけでなく、どこの国でも、ダムができたり原子力発電所が建ったりす
るのは少数派地域だったりする。台湾では山岳先住民族地域、フランスではブル
トン語地域などに原発が多い。日本の原発は裏日本や東北に集中し、米軍基地は
大半が沖縄だ。「日本の利益のために必要だ」というなら、それらの地域の人々
は「日本人」ではないことになる。「インド人とは誰か」というテーマも、「ヒ
ンズー教徒、しかも上層カーストが『典型的インド文化』をもつ『インド人』
だ」という主張にどう対応するかに直結する問題である。
 彼女の研究室にもどり、私の特別講義の日程を調整する。講義のタイトルはと
聞かれたので、「近代日本のナショナル・アイデンティティ」をメインタイト
ル、副題を「誰が『伝統』を定義したか」にしたいと答えると、「副題がとても
いいわ」という。明治政府が神道を統制したり、古代寺院を手入れして「伝統の
創出」をしたり、高群逸枝や日蓮宗のような知識人や運動が「日本の伝統」をど
う解釈しようとしたかを話す予定だが、たしかにこの副題は、「何がインドの伝
統か」をめぐる政治がかまびすしいインドでウケるはずである。客層をみて演題
を決めるのが、サービス業というものだ。
 大学を出て、タクシーでワールド・ブック・フェアにむかう。カルカッタで会
ったチャタルジー氏に、いろいろ本を推薦されていたからである。入場料5ルピ
ーを払って会場に入ると、ブックフェア会場は広大。インド側出版社の会場は、
「世界ヨガ協会出版部」から「競争成功レビュー社(Competition Success
Review)」まで多くのコーナーがあったが、目的の出版社の出展が見当たらな
い。やむなく外国からの出展会場にむかう。
 外国出展は、別の意味で興味深かった。世界各国から、その国の出版協会やら
大使館の主宰で出展が集まっているのだが、出店の様式が大きく三種類に分かれ
る。第一のグループはWHOやILOなど国際機関で、世界の衛生や労働状況の
統計本を売っている。第二は自国の文化や紹介をあつかった本を集めている国々
で、アジア・アフリカ・中南米・中東諸国はほとんどこの類。第三はドイツやフ
ランスなど西欧の国々で、ここは自国文化の紹介本もあるが、それ以上に産業と
かの本を並べている。さらに大きな特徴は、西欧諸国の出展には、自国の学者に
よるインド研究本の棚が大きな比率を占めていることだ。
 要するに、第一グループの「国際機関」を除けば、世界は「自国の文化紹介で
懸命の国」と、「他国を研究してやる側の国」の二種類に分かれているというわ
けだ。よくも悪くも、植民地支配を行なった側は強い。フランスやドイツの出展
企画者も、とくに意識したわけではなく、「インドで出展するんだから、インド
研究本を並べようじゃないか」という感じなのだろう。インド側の人々も、そう
した西欧のインド研究本を買う。ちなみに日本は国際交流基金が出展していた
が、典型的な「自国の文化紹介で懸命の国」の展示だった。
 日本の出展にゆくと、お決まりの相撲、寺院、柔道、禅といった主題の英文写
真集が並び、日本語の教科書がそれに続く。まあ、この点はどこの国のブースも
同じだから、仕方がない。ブラジルのブースはなぜかサンバがかかってカーニバ
ルのビデオが流れていたし、北朝鮮のブースは金日成・金正日親子の肖像をバッ
クに朝鮮舞踊の本が売られていた。しかし日本のブースで解せないのは、英文写
真集や教科書以外に並べられた、現代日本の書物の無秩序ぶり。見てみると、林
道義『主婦の復権』、テリ−伊藤『大蔵官僚の復讐』、岩波書店編集部編『定年
後』、柳美里『ゴールドラッシュ』、乙武洋匡『五体不満足』、半藤一利『ノモ
ンハンの夏』、荒股宏『二〇世紀 雑誌の黄金時代』、ウオルフレン『なぜ日本
人は日本を愛せないのか』、高山文彦『少年A 14歳の肖像』……などなどと
いった本が並んでいた。
 この本の選定は何なのか。一人の人間が選定したとすれば、乱数表でも使わな
いかぎりここまで無秩序にはできない。あとで国際交流基金の小川氏に聞いたと
ころでは、別に交流基金が選んだのではなくて、日本の出版協会がよびかけ、各
出版社が自社本のうちから国際ブックフェアによいと思う本を選定したそうだ。
しかし、『少年A』やら『定年後』やらを選定した出版社の担当者は、その本を
インド人が興味を持って読むとでも思って選んだのだろうか? およそ相手の関
心をまったく考えていないのでは、コミュニケーションもヘチマもないではない
か。
 もう一つ国際展示で思ったのは、どこの国も子供の本が多いこと。単純に絵が
多くて、外国人にもわかりやすいからである。子供の本が「国際的」で、大人の
本が「非国際的」というのは、人間は知恵がつくと国際性を失うということなの
か? いやその逆で、ナショナリズムというものは「血」だの「自然」だのを強
調するが、じつは人工的に学習されたものであり、理念的な産物であるというこ
との傍証だろう。「ナショナリストの犬」だの、「原理主義者の猫」などという
ものがないように、学習過程を経ていない子供はナショナライズされていないの
だ。
 しかし反面、子供の本も小学生向けくらいになると、もう「国際性」を喪失し
てくる。日本のブースも子供の絵本が多かったが、「あんぱんまん」シリーズが
かなり出品されていた。インド人に「あんぱんまん」を説明するには、中国から
中世期に渡来した餡と、幕末に渡来したイギリス式ブレッド(日本の「パン」
は、なぜか実体はイギリス式なのに名称はフランス式である)が出会って「アン
パン」というクレオール食物が誕生し、さらに戦後にアメリカのテレビ番組「ス
ーパーマン」が輸入されて混交したしたという、文化交流の歴史を語らねばなら
ない。おなじく、食物にハエが少々たかっても気にしないインド人に、「あんぱ
んまん」の敵が「ばいきんまん」である意味を説明するためには、近代日本の初
等教育でいかに衛生知識の普及が重視されてきたかを説明しなければならないだ
ろう。そんな学習を経てまで「あんぱんまん」を読もうというインド人は、おそ
らく相当変わった人間にちがいないが。
 国際ブックフェアを出て、国際交流基金事務所で日本からの連絡事項を処理し
たあと、ラジブ邸にもどる。執筆作業のあと、ラジブ夫妻から「カルカッタはど
うだった」とさかんに質問された。「よかったよ。とくにタゴールの家とか」と
いったら、愛国知識人のプニマ夫人はニコニコしていた(どういう意味で面白か
ったかは詳しくは説明しなかった)。日本山妙法寺の仏教寺院も面白かったと言
ったら、なんとラジブ夫妻はラダック地方に行ったさい、その支部を見たことが
あるという。この妙法寺の件については、もう少し詳しく調べてみることにしよ
う。





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