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November 28, 2003

刻まれてゆく僕たち

今の時代っていうのはcontextが不在(不要)なのだと思う。

例えば、「私」っていう存在は「OO大学」や「XXが好き」っていう様々な事象の結節点に過ぎないっていうのは小熊英二も言ってたのだけれども、その「XXが好き」っていうのはその人の一側面に過ぎないわけじゃん。でも、今は「XXが好き」っていうだけで集結しているコミュニティ(ファンサイトとか)が容易く成立してしまい、そしてそこに非常に参加しやすい状況になってる。

つまり、昔のように一つのコミュニティにいる必要はもはやない。ってことは、自己は結節する必要はないんじゃないか、と。それぞれのコミュニティでそれぞれの僕として生きることが、物理的に可能なわけだから。

でも、そこで何が問題かというとよりどころのなさ。はじめに言ったCONTEXTの不在っていうことなんだけど。私という属性はいくらでも並べられる。でもそれを並べっぱなしで一つの「僕」っていう存在に集結させられない。だから、こんな時に欲しがるものは一貫性を持った何か、たとえばライフスタイルまで提案してくれるパワーブランドだったりするんじゃないか。

みたいなことをちょろっと考えたんだけど、これって今のSFCにも当てはまるよね。CONTENTばかりでCONTEXTの不在。細分化されっぱなしの学問。学部横断っていう当初のヴィジョンは何故かクラスターっていう細分・専門化の方向に傾いてしまった。なんで?
でも社会の要請は専門的なものってことかな?依然として。

んー、この文章も分断されっぱなしだなあ。

投稿者 POE : November 28, 2003 02:17 FM

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