Mai 06, 2005
[課題01]ケータイは、孤独に拍車をかけた
[情報通信文化論課題]
環境情報学部3年 古市憲寿
70348817 t03881nf
ケータイはぼくの孤独に拍車をかけた。別に、ぼくが中傷メールを誰かに送られてひきこもりになってしまたとか、誰からも電話がかかってこなくて寂しくて死にそうとか、そういう話ではない。
ぼくのケータイには、かつては別々だったものがたくさん含まれている。まず当然のこととして電話、そして電話帳、電卓、時計、さらにカメラ、ブラウザ、ウォークマン。さらに最近では、財布やテレビまでケータイは取り込んでしまった。
今やケータイひとつでほとんどのことは事足りてしまう。家を出るとき、ケータイさえ携えたならば、一日ほぼ困ることはない。これは「便利」という言葉で形容可能だし、ぼくも「便利」な時代になったとは思う。でも同時にそれはとても「孤独」なことでもある。
つまりケータイ一台で、独りで生きてゆくことがだいぶ楽になったといえる。電話もテレビも(もっと昔は時計も財布も)、かつては人と共有して使うものだった。それがケータイといえば、そのすべてを一人で独占することが出来るのである。
もちろん、その助走期間として、家に一台だったテレビや電話が、自室に一台になった1970年代から1980年代という時代を経てのことではある。しかし、かつて自室では一人だったとしても、街へ出たとき電話やテレビは他者と共有するものであった。だから、街でもどこでも、電話やテレビを「独り」で持ち歩く。まさに「独り」に特化したメディアであり、群集の中でも僕は「独り」になることが出来るのである。その意味でケータイを、近代以降の個人化(孤独化)のひとつの結節点であると言ってもいいと思う。
さらに、ケータイをあらわすときよく「つながる」という言葉を使う。しかし、「つながる」とは「独り」と「独り」の結びつきをあらわした概念である。だから「つながる」という観点から見ても、ケータイは孤独と孤独をつなぐメディアであって、それは孤独感の解消にはなるかもしれないけれど、孤独を解決するわけではない。だからやはり、ケータイ以後は孤独だ。
でも、ケータイのいいところは、このように少し俯瞰で眺めたときこんなにも孤独と繋がったメディアであるにも関わらず、使用者にはあまり孤独を感じさせないことだ。たとえ道管のように何年も使わない人がリストされた電話帳でも「友達100人」と錯覚することは出来るし、ブラウザを開けば、自分専用にカスタマイズされたメニュー画面や表示が出てきたりして、さも「ぼくは世界の中心にいる」と感じることも出来る。
だから、課題に即してこのエントリーをまとめるならば、「ケータイによって僕は確かに孤独になった。でも孤独だと肌で感じることは少ない。むしろたとえ幻想でも<つながり>を信じることが出来る以上、孤独は緩和された」。
投稿者 POE : Mai 6, 2005 02:32 EM
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