アジア発の理論
ローリング・ストーンズの東京ドーム公演を逃すという失態をしたが、収穫のある学会参加だった(昨日夕食を一緒したNK先生はサンディエゴで日本対キューバ戦を観戦したらしい。こっちも逃した私はアホだ)。
あるパネルで、シンガポールの研究者が、「なぜアジア発の国際関係の理論はないのか」と問題提起していた。日本国際政治学会がスポンサーになったパネルでも日本の国際関係論の現状について論じたようだ(私は出ていない)。
アジアや日本発の理論が皆無というわけではないが、量的には確かに少ない。一般論として言えば、それぞれの時代の覇権国で理論は栄えるものだ。それは自己正当化のためでもあるし、そうした研究に費やすリソースが豊富だということもあるだろう。
長風呂でおすすめだった『国家の品格』を休憩時間を利用して読んだ。著者の藤原正彦氏によると、数学の世界では美的な感覚が理論(定理)を生み出すために必要であり、日本は多くの数学の天才を生んでいるという。
この本は、「論理一辺倒だと破綻するよ」ということをいっているが、現在のアメリカの実証主義的な国際関係論のパラダイムでは論理がすべてといってもいい。今回の学会のパネルでも、分析の枠組みは何なのか、仮説は何なのか、適切な方法で仮説が検証されているか、といったことが厳しく議論されている。
薬師寺泰蔵先生が、イギリスの歴史主義・規範主義を第一の国際政治学とし、アメリカの実証主義を第二の国際政治学とすると、第三の国際政治学は、公共政策論の視点を入れた現実即応型になるだろうと指摘した。論理で演繹して社会で実験するというやり方は危険だ。社会実験が失敗したら取り返しが付かないからだ。だから、現実の問題をいかに解決するかという視点で理論を組み立てることが重要になるだろう。
日本や韓国は、アメリカ人の研究者から見たら「奇跡」といわれるやり方(つまり、なかなかそれまでの理論パラダイムでは理解できないやり方)で、経済復興を成し遂げた。ということは、うまくやれば新しい理論を組み立てられるということだろう。現実の後追い理論になる可能性はあるとしても、帰納的に出す理論があってもいい。
国際関係論とは離れるが、例えば、日本や韓国のブロードバンドがなぜこんなに普及したのか、欧米の人たちには理解できない。これをうまく概念化して説明できればいいのになと思う。
さて、飛行機に乗ろう。