半学半教
松永安左衛門が慶應義塾に入学してまもなくのこと、校庭で教師を見かけて、すれ違いざまあわててお辞儀をした。ところが、それが終わるか終わらないうちに、後からポンポンと背中をたたく者がある。だれだかわからない、まったく知らぬおじいさんであった。
「お前さん、今、そこで何をしていたんだね。」
「先生にお辞儀をしました。」
「それはいかん。うちでは、教える人に途中で会ったぐらいでいちいちお辞儀をせんでもいいんだ。そんなことをはじめてもらっちゃ困る。」
あっけにとられて、あらためてその老人を見たら、それが福沢先生であった。
「お前さんは入ったばかりだから言っとくが、うちではお前さん方を教えているのは生徒の古い方で、お前さん方の仲間、いわば同格だ。ただ少し早よう入って年も上、勉強もちっとは進んどるだけなんだ。つまり、お前さん方の先に立って少し難しいことを覚えて、そこでいっしょに臨講していてくれるにすぎんのじゃ。ここで先生といえば、まあこの私だけなんじゃが、この私にもいちいち用もないのにお辞儀なぞせんでいい。ごく自然な会釈だけでたくさんだ。」
加藤寛『なぜ、今、「学問のすすめ」なのか?—福沢諭吉の2001年・日本の診断—』PHP研究所、1983年、260〜261ページ。
古本屋で見つけた本の一節。この本が出た頃はSFCの構想すらなかったのだろうな。
学生の卒論を読みながら学んだり、反省したりしているうちに、「半学半教」の話を思い出す。
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