札模様  第四章

  九月  ――季節のかわりめに――


   

     もし、大学のかるた会にシーズンオフがあるとすれば、 九月の始めから、新学期が始まるまでの約三週間かもしれ ない。八月の終わりには、学生選手権という個人戦と職域・ 学生かるた大会という団体戦が連日で開催される。八月と 三月の年二回開催されるこの「職域」と略称される団体戦 に於いて、大学チームとしての最大の盛り上がりをみせる のだ。ここで納得のいく成績を残すことこそ、大学かるた 会の最大の目標といってよいかもしれない。個人戦での活 躍はもちろん嬉しいが、チームで勝つことの喜びは、また ひとしおである。かるたというのは個人競技であるだけに、 団体戦はサークルとしての連帯感を感じるには貴重な機会 なのである。夏の合宿も、そのあとの練習も、すべてこの 団体戦が調整の対象として行われているのだ。そして、試 合が終わると新学期までは練習は組まれていない。この時 期は、戦士の休息のときなのだ。しかし、のんびり休息も していられない。学生である以上、夏休みの宿題として課 されたレポートを数編仕上げなければならないからだ。
 ミツオは、帰省していた。彼にとっては休息の時という よりも、「まつりのあと」にも似た虚脱感の中の日々だっ た。彼にとっては小倉忌大会以来の個人戦、B級デビュー 戦である学生選手権で四連勝後、準決勝で負けB級三位。 翌日の職域では四連勝して全勝賞を獲得、チームは優勝。 と、言っても、D級での優勝。実はミツオは、レギュラー チームからはずされていたのだ。レギュラーチームは、A 級で久々の三位入賞。会長の瀬崎の目標はクリアしたが、 自分が出ていればもっと上までいけたのではないかという 思いがあった。しかし、すべては、終わったあとだった。 自分が出たからといって、勝てたという保証は何もない。 結果は出てしまっていたのだった。

 「おばあちゃんの新盆にも帰らず、かるたってそんなに 夢中になれるものなのかね。」
 実家に帰ると母の孝子に責められる。
 「団体戦のための合宿だったから、仕方なかったんだよ。」
 「まあ、かあさん、いいじゃないか。で、結果はどうだ ったんだ。」
 父の雅男は、むかしから、ミツオのやることを励ましこ そすれ、非難するようなことはなかった。末っ子だったせ いもあるかもしれない。
 「団体戦は、レギュラーチームはA級三位。ぼくが出た チームはD級で優勝。個人では、B級で三位を取ったんだ よ。」
 「それじゃ、次はレギュラーチーム入りが目標か。限ら れた学生時代を精一杯、好きなことに打ち込みなさい。」
 父は、ミツオが不幸にも高校を中退せざるをえなくなっ てしまったことで、その分まで学生生活が充実したものに なるよう応援してくれているのだった。二人の兄はすでに 独立しているし、手のかかるのはミツオだけになっていた。 長兄の義孝は、結婚して近所に住んでいる。スープの冷め ない距離というやつだ。次兄の雅経は、近くの地方都市に おり、週末に洗濯ものを抱えて実家に帰ってくるという生 活をしている。ミツオよりも母親に甘えているかもしれな い。
 「ねえ、ミツオくん、かるたっていうのも段があるんで しょ。何段なの。」
 兄嫁の美津江が尋ねる。夕食は兄夫婦も一緒である。
 「えーと、今は初段の免状を持っていますけど…。でも、 B級で三位になってるので、二段の力はありますよ。」
 「その級とかって、どういうふうになってるの?」
 「そうですね。まず、初心者がE級だと思ってください。 競技かるたの初級者がD級ですね。大会によっては、E級 がない場合もあります。このD級で決勝進出するか、ベス トフォーを三回取ると初段に申請できて、C級に上がれま す。でも、その力があると各所属会で認められれば、大会 で実績がなくても段位も取れるし上の級にも出場できます。 C級で、決勝進出するかベストフォーを二回取ると二段に 申請できて、B級に上がれます。B級で準優勝したり、ベ ストフォーに何回だか入賞すると三段を申請できるんだっ たかな。そして、A級に上がるには、B級で優勝するか、 準優勝を二回取るかするしかないんです。A級になると四 段になって、名人戦の予選に出る資格ができるんです。あ とは、A級での実績によって段位は上がっていきます。」
 「へえ、結構たいへんなのね。私も挑戦してみようかし ら。」
 「おまえは、書道や算盤で何段も持っているだろうが。 まだ、段がほしいのか。」
 「いいじゃないの。段位って、チャレンジするのが面白 いのよ。あなたも、何かやってみたら。」
 「そうだ、義孝。とうさんと一緒に碁会所でも行くか?」
 「いいえ、結構です。段位なんて、紙切れに高い金払わ なきゃならないんだから。」
 「そんなことを言ったら、身も蓋もないわよ。かあさん だって、年を取ってから始めた書道で初段を取った時は、 とても嬉しかったのよ。それにそこで美津江さんと出会っ て、いいお嬢さんだってピンと来たのよ。お前だって、す ぐ気に入ったじゃない。」
 「かあさん、ミツオの前でやめてくれよ。そんな話。」
 「いいじゃないの。ミツオだって、いずれはいい人見つ けなきゃいけないんだから。」
 「あら、おかあさん。ミツオくんのことだから、東京で 素敵な彼女をきっともう見つけていますよ。ねえ、ミツオ くん。」
 「えっ、いや、その。そんな彼女だなんて…。」
 「ミツオくん、隠しごとのできないタイプね。すぐ顔に 出るからわかっちゃうわよ。」
 「からかわないでくださいよ。ちょっと親しい女友達の 程度ですよ。」
 「まあ、いいじゃないか。機会があったら、とうさんに 紹介しなさい。ひょっとしてかるた会の子か。それで、お まえはかるたに熱中しているんだろう。」
 「かるた会の子だけど、それとこれとは別だよ。かるた はかるたで純粋におもしろいんだよ。」
 「まあ、いい。その子が好きなら、大事にしてあげなさ い。きっと気持ちが伝わるから。おまえも大人なんだから、 行動には責任を持ってな。」
 「うん。」
 「とうさんも、めしのときに説教くさい話はやめようよ。 ミツオが、めし食えないじゃないか。」
 この兄の言葉で、ミツオは落ちついて食事ができるよう になった。やはり、一人で食べる食事より、こうして家族 でわいわい言いながら食べる食事のほうがおいしく感じる ものだ。ミツオはふと、あかねは今ごろ何をしているのだ ろうと思った。

 ミツオの虚脱感の原因は、レギュラーチームの選び方に 不満を持ったまま、試合に臨んだせいだった。瀬崎は、A 級選手であることを選抜の基準とした。チーム編成は、会 長の専権事項とでもいうように、誰にも相談せずに決定し た。責任を自分一人で負う覚悟だったからだろう。この時 点で、A級選手はちょうど五人だった。伊能幸宏、西寺  守、佐藤珠子、そして、瀬崎泰彦、山根志保である。山根 は小倉忌のC級優勝以来、続けざまに遠征を敢行した。B 級デビュー戦の仙台大会でいきなり準優勝、翌週の福井大 会で三位、その翌週は九州に飛んで宗像大会で三位、七月 に入って、石川県和倉の大会に出かけて準優勝でA級に上 がったのだった。もし、ここで上がれなかったら、九州の 熊本大会に出かけるつもりだったという。根性・体力とも にすごいが、かかった費用のほうもすごい。おそれいるの みである。一方、瀬崎は、小倉忌の三位に引き続き、宗像 で準優勝、和倉で優勝と出るたびに月一回の遠征でひとつ づつ順位を上げてA級にあがった。この和倉大会は、B級 の参加人数も十四人と少なく、しかも準決勝に残ったのは 皆仲間だった。瀬崎は敷島と、山根は春日とあたった。さ すがに敷島は先輩の顔を立てて、取らずに瀬崎に譲ったの で、その時点で実は瀬崎の昇級は決まっていたのだった。 山根は春日を倒し、決勝を戦うと主張したが、自らの行動 をもって示した敷島の説得で現会長に優勝を譲ることにな った。山根は仙台で準優勝しているので、譲ってもA級に 上がれるというのが納得の大きな要素であっただろう。し かし、福井大会で準優勝をしている敷島にとっては、準決 勝で譲っても何にもならなかったのだ。こういう経緯があ るにもかかわらず、瀬崎はA級五人でレギュラーチームを 組むことにこだわった。練習における対個人戦績では、ミ ツオや敷島は、珠子や瀬崎や志保に対して分が良いのにも 関わらずである。手の内の見えない他会の選手に対して勝 つのと内部の手の内を知り尽くした相手に勝つのとは違う と言えないことはないのだが、説得力に欠ける。ミツオは、 珠子に対する瀬崎の情なのだと思っていた。就職直前の三 月の大会は、出れるかどうかさえわからないし、新会長の もとでこれだけ後輩たちが育っていれば、出れたとしても レギュラーからははずされるのは目に見えている。珠子最 後の大会で思い出を残そうと考えたのではないだろうか。 実際、ここ数年は、陥落決定戦の常連だったのだ。前回だ ってA級五人で四位止まりだった。三位入賞という結果に けちをつけるつもりはないが、珠子のかわりにミツオか敷 島を出していれば、もっと上の成績を残せたと思うのだっ た。
 「A級にさえ上がっていれば…。」
 この思いがミツオを支配する。志保にしても、瀬崎にし ても全国各地に遠征をいとわなかった。敷島やあかねも、 そこそこ遠征している。あまり遠征にいかないのはミツオ と石田くらいだった。たしかに学生選手権では、二人はそ れぞれB級三位とC級三位を取っている。首都圏の大会で は、参加人数の少ない地方大会で優勝するくらい勝たなけ れば取れない成績である。しかし、優勝と三位では歴然と した差がある。なりふりかまってはいられない。積極的に 打って出よう。決意を新たにするミツオであった。

     *

 ミツオは、一週間で綱島の下宿に戻った。家族の好奇の 目にさらされて払いの練習をするよりは、下宿で唯一人、 練習したほうが気楽だからである。ミツオは新学期直前に 行われる金沢の大会に行くことを決心していた。しかし、 そのためには、二つの問題点をクリアしなければならなか った。まずは、遠征費用である。貯えがないことはないし、 切り詰めた生活をすればなんとかなるだろうとは思うが、 短期集中のバイトでもして、資金を潤沢にしておきたかっ た。少しでも良いコンディションを維持して試合に臨むに は、夜行列車はきびしい。前日は会場に近いところで宿泊 するのがベストだからだ。次が、練習の問題である。払い の練習はともかく、調整のためには実戦の練習が必要だ。 大学の練習は休みなので、他会の練習にお邪魔させてもら うしかない。この合間を縫って、大学のレポートも書かな ければならないのだ。まずは、約二週間のスケジュールを 組むことから始めなければならなかった。

 「もし、もし、春日さんのお宅でしょうか?」
 「はい。そうですが。」
 「かるた会の佐多と申しますが、あかねさんをお願いし たいのですが…。」
 「わたしよ、ミツオくん、緊張しちゃって。やーねー。」
 「だって、家の人が出たらちゃんとしておかないとまず いじゃないか。」
 「実家から帰ってきたのね。予定より早かったじゃない。」
 「実は、金沢に行くことにしたんだ。それでね、練習で きるとこ探しているんだけど。どっか知らない。」
 「そうね。早大はうちと一緒で今は休みでしょ。東大は これから試験期間じゃなかったっけ。あそこは、秋休みが あるのよね。いいわよね。」
 「基督教大学は、やってなかったっけ。」
 「あそこは、三学期制でもう授業が始まってるわね。日 曜の午後に練習しているかもしれない。」
 「ほかはどこかないかな。」
 「そうね。前に行ったことがあるんだけど、東京ふなび と会が吉祥寺で水曜に練習しているの。朝から行けば、五 回は取れるわ。」
 「そうか、すると試合まで水曜が二回に日曜が一回か。 あと一回どっかで取りたいな。」
 「それなら、うちで一回練習しない。今週の金曜日にど うかしら。三人めが必要だけど。八角さんなら、近所だか ら、呼んでみようか。」
 「えっ。あかねちゃんちに行ってもいいの。緊張しちゃ うな。」
 「いいわよ。家族に紹介してあげるわよ。カレシって。」
 「えーっ。やばいんじゃない。それって。」
 「冗談よ。でも、決めた。わたしも金沢に行く。練習も 一緒に行きましょう。各会には今晩電話して確認取ってお くわ。うちの練習も八角さんに電話して時間決めるから。 金沢は金曜出発の月曜帰りで電車を決めておいてね。ホテ ルは、父の仕事関係で紹介してもらうけどどうする。」
 「金がないんだよ。安いとこだったらいいんだけど。」
 「いいわ。足りなかったら貸してあげる。そんなに高く ないから心配しないで。会社関係でね、割引価格で泊まれ るのよ。」
 「まあ、これから短期のバイトも探すし、なんとかなる さ。それじゃ、連絡よろしく。」
 「それじゃ、ばいばい。」

 あかねは、当初、おとなしい女の子だと思われていた。 しばらくして、話題が壷にはまるとよくしゃべることが明 るみに出た。そして、ミツオは付き合い始めて、本当は話 好きで明るい活動的な子なんだということを知った。そう 考えると敷島も、いつ完全に麻雀班に転向するかと思って いたら、すっかりかるたにはまってしまったようだ。勝負 強さは、天性の勝負師の血のなせる業なのだろう。同期の 中では、石田が伸び悩んでしまっている。真面目で几帳面 な性格が、勝負の世界にはかえってわざわいしているのか もしれない。志保は、予想どおり勝負に辛い、勝ち気な性 格が表面に出てきている。その結果、同期の中ではA級一 番乗りを果たした。ミツオは、この同期の中で自分が一番 強いと思っている。実際、練習で負けることは稀れなのだ。 特に志保には負けたくなかった。そのためには、金沢で優 勝してA級に追いつかねばならないのだ。

 結局、基督教大学の日曜練習はないことが判明した。会 員数が減少の一途で日常練習も厳しいそうだ。そのかわり、 チラシ配りのアルバイトを土曜・日曜とできることになっ た。少しは旅費の足しになるだろう。水金水で十二試合取 れれば、この時期としては充分な練習だ。気になるレポー トを書く時間が取れることも嬉しい。何よりも学生なのだ。
 ミツオは水曜日のふなびと会の練習では、その一種独特 の雰囲気に飲まれていた。年配の女性ばかりなのだ。一般 会の中でも珍しいだろう。中には、孫のいる人もいる。だ いたい、雰囲気に飲まれるということ自体、未熟なのだと 痛感した。勝負の時は厳しい口調で主張されるおばさま方 も、昼の食事の時は和気藹々である。お弁当のおにぎりや 海苔巻き、稲荷寿司は、さすが主婦である。ミツオもあか ねもお裾分けにあずかり、おいしくいただいた。こういう 雰囲気は、学生会にはないものだ。午前中を二勝とクリア した二人だったが、午後になって雲行きが怪しくなってき た。相手からの主張が多いのだ。「もめたら譲れ。譲った ら勝て。」という伊能さんの教えの通りに譲っていたら、 大苦戦である。相手に譲って勝てるようなら誰も苦労はし ない。伊能語録には「三枚譲って勝てないなら、実力がな いと思え。」というのもあったが、どうも三枚以上譲って 負けているような気がする。まあ、いずれにしても実力が ないと思うことにした。午後は二人とも一勝二敗であった。 年の功なのかうまく三味線弾かれた感じだった。三味線だ って芸の内だと思う。要するに、三味線を弾かせる余地の ある取りしかできないところに問題があるのだ。「三枚譲 って勝てないなら云々」という言葉は、奥が深いと感じた 練習だった。

 ミツオにとっては、あかねと二人で帰る時間もまた楽し い。二人でいられることが楽しいのだ。吉祥寺駅始発の京 王電鉄井の頭線の中でも、二人の会話は弾んでいた。
 「なんか取っていて感じたんだけど、相手を見て主張し てくる感じってなかった。相手が強いってことを認めると 主張してこない感じなのよね。午前中に取った人たちはこ んなふうだったわ。主張すればなんとかなる程度の力しか ないと思われたから、午後は主張されたんじゃないかし ら。」
 「うん、そういうこともいえるかもしれない。思うにき っと権威に弱いところがあるんだよ。たとえば、ぼくなり、 あかねちゃんがA級で入賞するようになって、そういう情 報が伝われば、主張されないようになるんじゃないかな。 来週は、きっとB級の主クラスやA級のベテランと取らせ てもらえるから、またまた、違った展開になると思うよ。」
 「そうね、早くA級に上がることって、いろんな意味で 必要なのね。来週も楽しみね。お裾分けのお弁当もとって も楽しみ。」
 「昼飯が一食分浮いたし、おいしかったもんな。」
 「わたしのうちでの練習のときも、ご飯だそうか?」
 「とんでもない。あつかましい印象与えちゃうじゃない か。食べてからいくよ。手土産は何持っていけばいいかな。」
 「いいのよ。学生なんだから。そういう変な気を遣う付 き合いはしないの。午後一時に駅まで迎えにいくからね。 遅れないでね。」
 「大丈夫、志保じゃあるまいし、遅れないよ。」
 「ねえねえ、話は全然変わるんだけど、さっき井の頭公 園って駅を通り過ぎたでしょ。」
 「ああ、街なかの公園にしては大きそうだったね。緑も あって、都会のオアシスってやつかな。」
 「池があってね、ボートに乗れるのよ。なかなかいい公 園なんだけどね、変な噂があるの。」
 「なに、変な噂って?」
 「あの公園でデートしたカップルは、いずれうまくいか なくなって、別れることになるっていうの。」
 「なにそれ。」
 「変な話でしょ。でもね、わたしの友達でも結構いるの よ。そういうカップル。」
 「まさか、噂を検証してみたいとか。」
 「バカね。わたしたちが危険をおかす必要はまったくな いじゃない。井の頭公園でデートしようなんて気をおこさ ないでちょうだいねってこと。」
 二人の乗った電車は永福町の駅を越えて渋谷に向かって いた。

 二日後、ミツオは緊張の中にあった。初めてあかねの家 を訪ねるのだ。母親に会ったらどう挨拶しようかなどと考 えると気が重い。あかねは親にどのように説明しているん だろうなどとも考える。後輩の八角がいるのがせめてもの 救いである。ミツオは待ち合わせの時刻の三十分前には、 約束の田園調布の駅に到着していた。
 改札で待っていると、あかねと八角が、二人一緒に迎え に来てくれた。二人の家は本当に近所にあるそうだ。田園 調布というと有名な高級住宅街である。閑静な中を豪邸を 見ながら、あかねの家に向かう。十分とちょっと歩いただ ろうか、一軒の家の前に到着した。門のところに「春日」 という表札が出ている。今まで見てきた豪邸と比べると、 ミツオには親しみやすい感じの建物だったが、この地区に これだけの家があるのだから、さぞかし資産家なのだろう。 あかねが玄関を開けて、ミツオと八角を招きいれる。まず は、応接間に通された。
 ミツオは、ついキョロキョロと好奇の目で家の中を見て しまう。家具もきっといいものなのだろう。飾られている 油絵も素晴らしい。山里の秋の風景を描いているのだろう。 季節で絵も掛けかえているに違いない。しばらくすると、 あかねが紅茶とクッキーを持ってきてくれた。
 「このクッキー、わたしが焼いたのよ。結構上手でしょ う。」
 「へえ。おいしそうだ。いただきます。」
 ミツオがクッキーを口に入れたその時、あかねに顔立ち のよく似た痩せぎすの女性が入ってきた。あかねの母親に 違いない。
 「ようこそ、いらっしゃい。あかねの母です。」
 「さ、さ、ゲホッ、佐多三男です。ングッ、はじめまし て。ほん、本日は、お招きにあずかりまして、ありがとう ございます。」
 クッキーを食べていた上に緊張していたので、あわてて しまう。
 「おばさま、おひさしぶりでございます。わたくしも、 あかねさんのご指導で、ずいぶん上達いたしました。」
 八角もいつもと違う言葉遣いである。
 「佐多さん、あかねから話は聞いておりますわ。百人一 首にたいそうご造詣が深くていらっしゃるとか…。美智代 さんもおひさしぶりね。あかねをよろしくお願いしますね。 今日は、どうぞごゆっくり。」
 こう言うとすぐに出て入ってくれたので、ミツオは胸を なでおろした。しかし、あかねが八角をかるた会に誘った なんて話は、ミツオには初耳だった。それにしても、競技 かるたをやっている人間をつかまえて、百人一首にご造詣 が深いも何もあったものではない。
 「百人一首に造詣が深いって、競技かるたのことをどう いうふうに話しているんだよ。」
 ミツオは小声で聞く。
 「あ、まあ、うちの母は、かるた会の人は、短歌の研究 の一環でかるたをやっていると思っているから…。佐多く んは、かるたも強いし、歴史にも詳しいって言っておいた からじゃないかしら。」
 「えっ、なんか誤解されているような気が…。」
 「まあっ、先輩いいじゃないですか。私も和歌の研究し ているように思われているんですよ。」
 「八角は、春日と前から知り合いなんだ。知らなかった よ。」
 「あかねさんは高校の歴史研究部の先輩なんですよ。こ こで文化祭の発表の準備させてもらったりしていたんです よ。」
 「へえ、そりゃ知らなかった。かるた会では、特にそん な前からの知り合いって感じしなかったけどな。」
 「そうですか。お二人だって、会の中じゃ、それほど親 しい素振りは見せてないんじゃないですか。」
 「えっ?」
 「ごめんなさい。美智代ちゃんには、バレバレなの。」
 「あっ、そう。それで、八角なんだ。家が近いとかって いう理由だけじゃなかったんだ。」
 「そうなの。だから、あまり気を遣わなくていいからね。」
 ミツオたちの交際に気付いているものもいたが、かるた 会の中では、一応おおっぴらにしないように、二人はお互 いの呼び方とかには気を遣っていたのだった。
 一休みののち、三人は練習のため、和室に移動した。
 六畳の和室には、床の間があり、一本の掛け軸が飾られ ている。何やら、曰くのありそうなものである。こまごま とした文字のあとの俳句とおぼしきものは読める。
 「青柳の風に倒れぬちからかな」と読めた。あかねが、 書いてある内容と謂われを説明してくれた。
 「『それ相撲は正直を旨とし、智仁勇の三つを志し、酒・ 色・奕の悪き経に遊ばず、朝夕起臥ともに心ゆるみなく精 神を励まし、虚偽の心を禁ちぬべし。なほ勝負の懸け引き に臨んでは、相手に容赦の心なく、侮らず、おそれず、気 を丹田におさめ、少しも他の謀を思はず、押し手、さす手、 ぬき手の早業を胸中に察して呼吸に随ひ、その虚実を知る ときは勝ちを決するもの也。青柳の風に倒れぬちからかな』 って書いてあるの。江戸時代の横綱で、稲妻雷五郎という 人の『相撲訓』というものなのよ。もちろん、模写だけど、 父が好きでね、掛けてあるのよ。」
 「あかねちゃんの相撲好きは、お父さんの影響だったの か。でも、この掛け軸の内容いいね。『相撲』を『かるた』 に換えて、『押し手、さす手、ぬき手』というのを『押え 手、払い手、突き手』に換えたら、『かるた訓』って言っ ても差し支えないくらいだね。 特に敷島には、『酒・色・ 奕の悪き経に遊ばず』ってところを読み聞かせてやりたい ね。」
 「気に入ってくれてありがとう。わたしは、特に最後の 句が大好き。相手の相撲を受けてから負かしてしまう横綱 相撲の極意を現しているような感じがするでしょ。」
 「うーん、そうね。ぼくの感覚だと、将棋の大山康晴十 五世名人の受けの将棋の極意って感じがするね。」
 「あら、ミツオったら、父と同じこと言ってるわ。将棋、 好きだったっけ。父の三段の免状があそこに飾ってあるで しょう。今度父の相手してあげてよ。わたしは、相撲の趣 味の影響は受けたけど、将棋の方はルールを教え込まれた だけで続かなかったから。」
 「ぼくなんて、弱くて弱くてだめだよ。勘弁してよ。」
 「先輩、今日はかるたの練習に来たんですから、そうい う話しは二人の時にしてくださいよ。私だけ、蚊帳の外じ ゃないですか。」
 八角が不満をいうのももっともである。さっそく練習す ることにした。
 札を引いて、決まり字の一番短い札を引いた人が一回戦 の詠みということにした。二回戦は負け残りで、三回戦は 残りの組み合わせと決めた。裏返した取り札百枚の中から 適当に引く。ミツオは「さ」、あかねは「あし」、八角は 「なげけ」の札を引いた。ミツオが最初の詠みだ。
 札を並べ終わって、暗記時間を十五分取る。しばらくし て、あかねの声があがる。
 「美智代ちゃん、二十七枚並べてるよ!」
 「あら、ごめんなさい。佐多先輩、二枚抜いてください。」
 こういう時は、札を見ないで場所を指定して札を抜く。
 「上段の左から三枚めと、下段の右から五枚め。並べ終 わったら自分でちゃんと数えなおさなきゃだめだよ。」
 「すみませんでした。」
 気付かないままに札が詠まれてしまうと、最初から不利 を背負ったまま、試合を進めなければならない。あかねが 気付いても黙っていれば、あかねに有利に試合がスタート したかもしれないのだ。痛い目にあわせたほうが、二度同 じ過ちを繰り返さないだろうという考え方もあるにはある のだが、後輩相手の練習では注意を与えながら教えてあげ るのが普通である。今年の一年生の中では、熊野と八角が 練習によく来ていて強くなった。特に夏合宿で実力が伸び た感じだ。渡部はこの二人にはまだ及ばないが、真面目に 練習を続けているので、いずれ伸びるだろう。下田は、ム ラッ気があり、練習も来ていたかと思うとしばらく休むし、 夏合宿にも来なかったので、ひょっとすると続かないかも しれない。まあ、一学年で五人一チームが組めれば理想だ が、なかなか難しいものである。
 一回戦が始まった。八角は、音に対する反応がはやい。 一音でスッと手が出てくる。最近では、敵陣の一字決まり に対しても手が出るようになったので、強くなったのだ。 しかし、二字決まりや三字決まりに対しても同じタイミン グで手が出てしまうので、札の上で手が止まって、相手に 取られたり、待ち切れずにお手つきしてしまったりする。 あかね陣に最初からあった一字決まり十二枚、「む」「め」 「ふ」「ほ」「せ」と、「しの」「しら」の「し」決まり、 「もろ」「もも」の「も」決まり、「ひとは」「ひとも」 「ひさ」の「ひ」決まり、すべて八角が取った。しかし、 お手つきも多く、二十五枚取ったにもかかわらず、五枚差 で負けていた。敵陣の一字決まりは、相手も守りやすい札 であるだけに、それを抜群の響きで取ってしまうというの は魅力である。終盤の接戦では、確実に威力を発揮するし、 実力を上回る相手に勝てる可能性を持つタイプである。
 二回戦は、ミツオ対八角である。今度は、最初からある 一字決まりは、「す」と「うら」「うか」の「う」決まり の三枚だけだった。しかも、八角陣にあるのだ。ミツオは、 この三枚は、最初からあきらめた。決まりの長い札をいか に聞き分けて取るかに神経を注いだ。ミツオの上段にある 三字決まり四字決まりを面白いようにお手つきしてくれる。 たまには、大山札を二字で取ってあてたりもしていたが、 偶然はあくまで偶然である。八角は、今は長所を伸ばして、 自分のものにすべく練習しているので、積極的に札を取り にくるかるたをしている。ミツオは、十枚差で勝つには勝 ったが、ヒュンヒュン出てくる手に自分の感じを消されて しまい、欲求不満状態に陥ってしまった感じだった。
 三回戦、ミツオとあかねの対戦成績は、ミツオの十八勝 四敗である。しかも、現在六連勝中でもある。正直言って、 負ける気がしない。あかねも、かるたを始めた頃は、音に 対する響きの良さで取っていたようだが、八角の早さの特 異さと比べると全く霞んでしまう。あかねは、自分の響き を決まり字までためることを身につけて強くなってきたの だ。今では、どこが特にはやいというのではなく、どこも 同じようなスピードで満遍なく取る感じのかるたになって いた。お手つきも少なく、堅実という印象が強い。したが って、あかねのスピードを上回る箇所が二・三箇所あれば、 そこを取って差をつけることが可能である。ミツオが負け る時は、たいていお手つきで自滅する場合だった。
 練習の前に、二人は約束をした。今日の結果がどうであ れ、もしも金沢大会で二人の対戦が組まれたら、恨みっこ なしで取ろうと。福井大会、和倉大会となぜかB級の参加 人数は少なかった。きっと同じ北陸地方の大会だから、金 沢も同様の人数だろう。すると二人があたる可能性は大き い。あたった時にどちらかが譲るなどということは、二人 の間にかえって溝をつくる原因になると思ったからだ。
 試合は、いつものように展開した。序盤でミツオがリー ドを広げ、中盤もそのリードを保ったまま終盤に入ったの だ。五枚対十二枚、七枚のリードである。いつもなら、こ のリードを守って五〜七枚の差で決着がつくのだが、この 日のあかねは違った。それは、ミツオ陣の「せ」の札を響 きよく攻め取ったことが、きっかけだった。送り札は、一 字に決まっている「ゆら」。送り一発で出る。これも攻め 取る。次の送りは「しら」。いきなり「しの」が出る。あ かねの攻め手は速いが、うまく逃げる。カラ札三枚のあと で「しら」が詠まれる。これまた、あかねが攻め取る。送 り札は、二字に決まっている「なげき」、自陣にはやはり 二字になっている「ながら」がある。ここでも、送った「な げ」が出た。今度の攻めは、それほど速くなかったが、ミ ツオは「なが」を攻めていたので取ることができた。カラ 札をはさんで、次は「なが」を自陣で取った。送った札三 連続攻めを含む五連取。差は、一挙に二枚差である。こん な積極的に攻めまくるあかねは珍しい。ミツオは、流れが 変わるのを待った。今にあかね陣のミツオの攻めのポイン トが出る筈だと信じていた。これだけ、ミツオ陣をあかね が攻めているならば、自陣の守りは薄くなっている筈なの だ。はたして、三字の別れ札「あまつ」が、あかね陣で詠 まれる。攻めたミツオは取れる筈であった。しかし、ビュ ンとミツオ陣に出てきたあかねの手の戻りの勢いにまさる ことができなかった。あかねの勢いはとどまるところを知 らない。敵陣、自陣と取りまくる。ミツオは、ダルマにな っていた。手も足も出ないのだ。あかねは、なんと十一連 取で、勝利に王手をかける。ここでミツオは二枚守ったも のの、一字に決まっている「たれ」を札から払われて苦杯 を喫する。こんなに強いあかねは見たことがなかった。悔 しさよりも驚きがまさっていた。
 「つえー。あの終盤の取りには、歯がたたない」
 「何言ってるのよ。ミツオくんが、リードに安心しちゃ っただけじゃないの? 手が出てこなくなってたわよ。ミ ツオが調子おとしちゃったんじゃない。」
 「いーや、そんなことない。いつものあかねちゃんと違 っていた。攻めがパワーアップしていた。」
 「見た札、確認した札がたまたま出ただけ。美智代ちゃ んとの試合で、相手の速い札は取れないし、相手がお手つ きばかりしてくれるから、ペースが狂っちゃったんじゃな いの。」
 「うーん、そんなことってあるかなあ。」
 「ちょっと、私を悪者にするのはやめてください。」
 「いや、そんなつもりじゃないのよ。ごめんなさいね。」
 八角のクレームで、この話は打ち切られたが、ミツオは あかねが突然強くなったとしか思えなかった。
 この日、あかねはしきりに夕食をすすめたが、ミツオは 断って帰った。金沢大会で一番マークしなければならない のは、あかねに違いないと考えながら。

 水曜日は、金沢大会に向けての最後の調整のために、再 び吉祥寺で行なわれているふなびと会の練習を訪れた。ミ ツオは、B級選手相手に二勝一敗、A級選手相手に二敗で あった。B級の主のような人に負けると、先行きちょっと 不安を感じる。こういう人を踏み越えていかないと上には 上がれないのだ。そしてA級は強かった。強いといっても、 自分が上がったら対戦する相手なのだ。ミツオに昇級する 勢いがあるならば、こういう上位者にも勝っても不思議で はない。
 あかねも、ミツオと同じ相手と練習させてもらった。成 績は、A級相手に一敗しただけの四勝である。絶好調と言 っていいだろう。この日の午後、第一期から第十期まで連 続で名人位を守り続け、タイトルを防衛したまま引退した という伝説の永世名人がひょっこりと顔を出した。練習の 合間に、あかねに何か言っている。ミツオは永世名人から アドバイスを受けているあかねが羨ましかった。帰り道に 何を言われたのか聞いてみた。
 「わたし、ソックスを履いてかるたを取っていたでしょ。 足の甲が赤黒くなってしまったり、ひどい時は皮がむける のでそうしているんだけど、名人は『足の裏でも音を感じ るくらいになりなさい』って言って、靴下を脱ぐようにア ドバイスしてくれたってわけ。だから、午後の最後の二試 合は裸足で取っていたでしょ。言わんとしている精神は、 よくわかったんだけど、皮がむけちゃった。」
 「要するに、耳だけでなく全身で、五感を総動員させて 音を聞けってことだよな。第六感も働いてくれないかな。」
 ミツオは、この話を聞いて、足の裏でも音を感じれるほ どに感覚を研ぎすまそうという伝説の永世名人の意志に感 心した。まだまだ、自分は取り組み方が甘いのだと痛感し たのだった。

     *

 金沢大会は、正式には「北国大会」という。「キタグニ」 ではない、「ホッコク」である。ミツオは試合前日にあか ねと一緒に金沢入りした。加賀前田藩百万石の城下町、中 でも名高い兼六園は、二人が試合前の時間を過ごすには、 もってこいの場所だった。宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、 眺望の六勝を兼ね備えている名園である。いつもなら蘊蓄 を傾け合う二人だが、この日はかわす言葉を必要とせずに、 この名園の空気に身を浸していた。つないだ手の感触が、 より一層のやすらぎを与えてくれる。戦いの前の束の間の 平安だった。
 試合当日、石田と敷島に会った。ふたりは黒木のところ に泊まっていた。黒木もあとで顔をだすそうだ。石田はこ の大会にB級昇級を賭けている。同期のメンバーに一刻も 早く追いつきたいのだ。敷島にしても、福井、和倉と続い た北陸シリーズの正念場である。瀬崎に譲ったことを悔い にはしたくない。それぞれの思いを胸に秘め、試合が始ま る。
 B級はわずかに十一名のエントリーだった。不戦勝は五 名である。ミツオと敷島は見事に引き当てたが、あかねは 取りとなった。しかも、ここまで来て、早大の一本との対 戦である。彼もまた、昇級を狙ってはるばる来たのだった。 しかし、あかねは強かった。中盤からのラッシュで、逆転 し一気に差を拡げる。昔のあかねではなかった。ミツオは、 最近の練習成果を知っていたので不思議ではなかったが、 敷島は驚いていた。
 一回戦、○春日 十枚差 ●一本。
 二回戦は、早くも準々決勝である。三人とも地元の選手 と当たった。ミツオは同世代の男性と、敷島はちょっと年 上の女性と、あかねは壮年の男性とである。ミツオも敷島 も、順調に差を開いて、それぞれ九枚と七枚で勝つが、あ かねは手こずっていた。四枚対九枚から、相手があかね陣 でお手つきをしたのはよかった。しかし、ここで、九枚を 右に三枚ずつ三段に並べなおし、一枚だけ左下段に置くと いう布陣でこられたのだ。一音で自陣の右に手を出して押 さえるという取りで四枚連取された。あかねは攻めている が、相手の手にはばまれて取れない。次に出たのは、相手 の左の一枚。これは取れたが、しっかり攻めてなかったら 守られていただろう。二対六で右の中段・下段に三枚ずつ 置いて守りに入っている。下段を一枚守られたあと、あか ねは敵中段に対する低い払いを敢行する。高い払いでは手 にぶつかってしまうからだ。取りがきわどかったのでセー ムを主張されるかとも思ったが、札を送ってみたら受け取 ってくれた。このあと二枚を守られる。一対三となったと ころで、一が詠まれる。猛然と攻めにくる相手であったが、 距離の差で守り切る。辛勝だった。
 準決勝の対戦を決める時に、あかねに負けたおじさんが 対戦カードを切っている。いつの間にか胸にリボンをつけ ている。大会役員だったのだ。B級の門番といった役どこ ろで出場していたのだろうか。このおじさんに勝てないよ うだと、まだ、A級にあがるのは早いということなのだろ う。
 準決勝は、ミツオ、あかね、敷島の三名と和歌山からや ってきた小学生が残った。同志討ちが一組出てしまう。ミ ツオは、同志討ちは避けたかった。敷島はここで勝てば、 たとえ決勝で負けたとしてもA級昇級が決まる立場だ。勝 負の世界とはいえ、同会でこれを阻止するのは辛いものが ある。あかねとこうした勝敗を争うのも身を切る思いがす る。できれば、見ず知らずの小学生相手に取ったほうが、 気が楽である。しかし、この小学生もここまで勝ち残って きたのだから、侮るわけにはいかない。対戦が決まる前か ら、ミツオの気持ちはゆらいでいた。これは、あかねも同 じだったかもしれない。はたして、対戦が決まった。ミツ オ対あかね、敷島対小学生である。着席して、淡々と札を 並べ始める。辛いが仕方がない。下手に感情に流されては、 自滅を招くだけである。あかねに女を意識せず、仲間であ ることも忘れなければならない。小倉忌の決勝で山根に負 けた二の舞にならないように神経を札にのみ集中する。目 の前にいるのは、ただの敵である。過去十八勝五敗だとか、 九日前に圧倒的終盤力で逆転負けしたばかりだとか、最近 急に強くなってきたとか一切のデータを心から追い出す。 ここにいる相手は、ミツオが知っていた人物ではなく、只 今現在の春日あかねという存在なのだ。どんなかるたを取 るかも未知数の、純粋な競技相手である。ミツオの使命は、 この相手に勝つことなのだ。揺らぐ心を意志の力で整え、 札の暗記に入った。そこには、ミツオと対戦者と札だけが あった。
 序盤からミツオは差を拡げる。八枚対十六枚。ダブルス コアになった。ミツオはここで、敵陣の左中段の一番内側 の札を抜いたので札を送った。しかし、相手は札をこちら に戻して反論してきた。
 「ミツオくん。ミツオくんの手が来た時には、一番内側 の札にわたしさわってるわ。」
 今までしゃべらずに取っていたのだが、この「ミツオく ん」という彼女の声で、ミツオの中で対戦者は「あかねち ゃん」に戻ってしまった。なんどこの「ミツオくん」を聞 いただろう。二人の共有してきた幸せな時間を「ミツオく ん」「あかねちゃん」という呼びかけが彩ってきたのだっ た。
 「あかねちゃん」相手にミツオの手は鈍った。ミツオ四 枚の時についに追いつかれてしまった。ミツオには、「あ かねちゃん」を只の対戦者に戻す術はなかった。札を指さ しながら確認しているあかねをじっと見つめていた。楽し い二人だけの時間には見せない真剣な表情である。ミツオ は、あかねのこの表情を凛々しいと思った。美しいと思っ た。輝いていると思った。今、彼女をこうまで輝かせてい るのは、競技かるたなのか、それともミツオ自身なのだろ うか。ミツオは、ふと考えた。ミツオが頑張れば頑張るほ ど、あかねも輝くに違いない。こう感じて再度札に集中し たら何故だか、急に払いがスムースに出るようになった。 ミツオが敵陣を二枚連取する。負けじとあかねがミツオ陣 を取る。再びミツオがあかねの手元の札を抜く。ミツオは 「はるの」を送り、「たか」を残した。どちらもすでに一 字に決まっているが、ご当地のかるた会が金沢高砂会とい うのにあやかってみたのだ。あかねは、右下段に三枚を固 めた。自陣の守りにかけている。一字に決まっている「こ れ」と二字決まりの「ちぎりき」を続けて守る。ミツオも 攻めたのだが、抜けない。ミツオは自分の送りを信じるし かなかった。出るつもりで残した「たか」に勝利がかかっ ている。札に手を近づけて守る。カラ札。緊張が途切れる。 腕をまわし肩をほぐす。構える。詠みの声。「たかさごの …」。シュッ。指先が軽くふれるだけで札が跳ぶ。ミツオ の勝利であった。
 「負けちゃった。」
 あかねが笑顔で言う。笑顔も素敵だとミツオは思う。ま た、内心「泣かれずにすんだ。」とホッとする。いよいよ 決勝である。もう一組の勝者はどっちだったのだろうか。
 「おめでとう。」
 敷島が寄って来た。
 「決勝戦は、俺とだよ。」
 「そうか。」
 ミツオは、神経の昂ぶりがおさまらない。
 「俺は、準優勝一回持ってるから譲るよ。二人で一緒に A級にあがろうぜ。」
 「えっ?」
 「まあ、いいから、いいから、気にするなって。ただ、 譲ってやるけど、賞品の選択権は俺にくれよ。」
 「え、いや、それでいいなら、もちろん。いや、ありが とう。嬉しいよ。」
 なんとなく半信半疑だが、どうやら敷島は本気らしい。 気が抜けた感じだが、なにはどうあれ優勝は優勝である。
 「おめでとう。二人ともA級だね。よかったね。」
 あかねもさわやかな笑顔で祝福してくれる。石田も寄っ てきた。
 「よかったな、ふたりとも。アー、オホン。実はわたく しも、無事C級三位を獲得いたし、次回からB級に出場す ることができるようになりました。」
 「おめでとう。石田。よかったな。」
 「石田くん、よかったね。おめでとう。」
 あかねには気の毒だったが、遠征は大成功だった。あか ねも、勝負の常を経験したのだ。昇級した者には、上の級 での試練が控えている。特にA級では、なかなか勝たせて もらえないはずだ。ミツオにとっても敷島にとっても、さ らなる挑戦なのだった。

 祝勝会は、応援に駆けつけてくれた黒木のおごりだった。
 「俺も、しっかり稼いでいるんだぜ。」
 元気そうでなによりだった。しかも、来年そうそう結婚 するという。彼もまた、新たな人生を一歩一歩進んでいる のだ。
 石田と敷島は黒木の家でもう一泊する。そこでまた、飲 み続けるのだろう。ミツオは、あかねとホテルに引き上げ た。あかねは、結構酔っている。珍しく飲んだようだ。や はり敗戦がきいているのだろう。フロントで鍵を受取り、 部屋まで送る。ベッドに寝かせて、ミツオは隣の自室に引 き上げた。シャワーを浴びて、ベッドで寝るが、勝利の余 韻なのか目が冴えて眠れない。今日の試合のシーンが頭の 中に入れ替わり立ち替わり浮かんでは消えていく。「あか ねの真剣な表情はよかったな。あれは、ぼくが相手だった からこそ、より輝いたんだよな。」思い出しては勝手に解 釈して、自己満足している。そんな中で、突然電話が鳴っ た。あかねだった。
 「ミツオくん、いまなにしているの。」
 まだ、酔っているようだ。ろれつがまわらないしゃべり だ。
 「わたしね、やっぱし、くやしい…。」
 泣いているようだ。
 「勝手なこと言って、ごめんね。」
 ミツオが、何か答えようと言葉を探している間に、切ら れてしまった。あかねの中でも、きっといろいろな葛藤が あったに違いない。勝つ人間がいれば、必ず負ける人間が いるのだ。この真理の中にたまたま二人が入ってしまった のだ。きっと明日はいつものあかねに戻っていることだろ う。ミツオは、部屋に送っていった時、どさくさのうちに 合わせた彼女の唇の感触を思い出しながら考えていた。

  *

 長いようで短い二ヶ月の夏季休業期間が終わり、大学で は新学期が始まった。
   秋来ぬと目にはさやかに見えねども
            風の音にぞおどろかれぬる
 いにしえの歌人は風の音で秋を感じたようだが、現代の 大学生はまた違う。夏休みから秋学期へはわずか一日の違 いなのだが、夏から秋への季節の変化を言葉が象徴してい る。
 瀬崎は、この時期に入部説明会をするように二年生に指 示をだしていた。しかたがないので、石田とミツオは「今 度の土曜日に公開練習をするので入部希望者はどうぞご参 加ください」という内容のチラシをつくって登校してくる 学生に配ったのだ。無惨にも近くの屑篭は、チラシの山で ある。石田は、そこから使えそうなきれいなチラシを拾っ てきて、再度配る。屑篭をあさることが恥ずかしいミツオ には、到底できない真似である。敷島は夏休みの宿題が終 わっていないと言って手伝ってくれない。山根と春日は文 学部なので、すでに専門課程のキャンパスに通っている。 西寺はこういう仕事にはノータッチである。一年生にやら せたかったのだが、瀬崎は無理にさせるとやめそうなやつ がいるから、二年生でやれと言う。とんだ貧乏くじである。
 瀬崎は、このチラシ配りと入部説明会を「落穂拾い作戦」 と命名していた。夏合宿が終わって、テニス系のサークル をはじめとして、練習に不満がでたり、大学のサークル特 有の人間関係に嫌気がさして活動を離れていく一年生が多 い時期なのである。上級生の男が下級生の女子にちょっか いを出すといった男女間のもつれなどもサークルをやめる 理由のひとつである。こうした他のサークルをドロップア ウトした連中をターゲットにしているので「落穂拾い」な のである。しかし、他のサークルを簡単にやめるような人 間が入部したとしてもはたして長続きするだろうか。ミツ オは強い疑問をいだきながらも、チラシ配りをしていた。 掲示板に貼るポスターに許可印をもらいにいく仕事もしな ければならない。
 この時期になると一年生も二年生も見分けがつかない。 「学年、性別、経験不問」とチラシに入れておいて正解だ った。用意したチラシを配り終えてミツオは授業に向かっ た。石田は、屑篭を再びあさって、もうしばらく一人で配 ると言う。大した情熱である。何が彼をここまで駆り立て るのだろうか。やるだけのことはしたのだ。あとは、期待 しないで結果を待つだけだった。

 公開練習は、土曜日の午後一時からだった。スタッフは 三十分前に集まって打ち合わせである。山根志保に会うの も久しぶりの感じだ。
 「ミツオも敷島も、A級にあがれたってね。あたしに追 いつけておめでとう。」
 口が悪くなったのはいつからだろう。最初に会った時か ら、よくしゃべってはいたが、最近は話しに刺が出てきた。 おとなしくしていれば、それなりに魅力があるのだが、話 し方で損をしている感じだ。
 「B級相手の負けが減るから、山根も嬉しいだろう。」
 敷島も黙ってはいない。あかねもいるので、ミツオはあ まりこの話題に触れたくなかった。この場の空気を察した のか、石田が仕切って今日の段取りを決め始めた。
 デモンストレーションは志保対瀬崎、詠みは敷島、総合 解説はミツオとなった。お客さん一人一人には春日と石田、 そして一年部員を付ける。進行を早めるために、暗記は一 事前に終わらせておいて、カラ札は二十枚程度になるよう に操作する。準備は整ったが肝心のお客が来ない。一時を 五分も回ったところで、下田が女友達を四人連れてきた。 テニスサークルのほうの仲間だそうだ。下田は今にもやめ そうと不安視されていただけに、意外な感じがする。中に は、男性の目を引きつける魅力あふれる美人もいる。こう いう美人は存在するだけで場を明るくする。もちろん、男 から見た感じなので、あかねや志保がどう感じたかはわか らない。
 四人はデモンストレーションを熱心に見ているし、わか らないところを質問してくる。決して冷やかしではないよ うだ。瀬崎はチラチラと美人の方を見ながら取っている。 結局、集中力で勝る志保が十枚差で勝った。
 見学者は「面白そう」とか、「かっこいいじゃない」と か感想を漏らす。なかなかいい感触だ。
 「私たちだけでチラシ取りとかやらせてくれますか?」
 通常だとみんなで源平戦をやるのだが、今日の大功労者 の下田がこう言うので五人のチラシ取りを組んだ。この様 子を見れば、どの程度札を覚えているかがわかる。
 五人は「あっ、この札知ってる。」「だめ、取っちゃだ めだよ」とか言って、札を探しながら、ワーワーキャーキ ャーと楽しそうに取っている。ミツオは、自分が幼かった 日のかるたとの出会いを思い出した。このように札を探し ながらワーワー言って取るのが楽しかったのだ。詠まれた 札を零コンマ何秒でパッと取るような世界に入ってしまっ ては、彼女たちの楽しむ世界にはもう戻れないのだ。ミツ オにとって、このかるたの原点のような楽しみは過去のも のになってしまった。一抹の寂しさを感じる。最近、勝敗 にこだわるあまりに楽しむという気持ちを忘れていたので はないだろうか。ミツオは、もっと楽しむ気持ちでかるた を取ろうと思うのだった。
 突然、新来の客が入って来た。今度は男だ。
 「三年生なんですが、いいですか。」
 「どうぞ、どうぞ。チラシ取りの中にはいりますか?」
 「いえ、見せていただくだけで結構です。」
 黙ってチラシ取りを見て、微笑んでいる。五人は本当に 楽しそうに取っているのだ。下田は、さすがに手を抜いて いたようで、枚数を一番取ったのが、例の美人だった。歌 は百首覚えているようだ。鈴木亜希子という名前だった。 泉 美佳という学生も、知っていると覚しき札は、結構反 応良く取っていた。残り二人は、お正月に家族で取ってい ると言っていたが、下の句が詠まれてから探す感じだった。 チラシ取りが終わると、下田はテニスサークルの総会があ ると言って仲間を引き連れて帰っていってしまった。瀬崎 などは、露骨にがっかりしている。
 テニスギャル達が帰ってしまったので、メンバーの興味 は遅れて来た三年生に集中した。彼は自己紹介を始めた。
 「横山勝利です。理工学部三年です。宮崎県出身で、競 技かるたは、中学・高校と丸六年やっていました。最後は A級で四位を取ったのが最高です。かるたは高校時代まで で充分だったので、大学でやろうとは考えていませんでし た。大学では、サークルは何一つ入りませんでしたけど、 この前、そこの背の高い人がビラをくれたのですが、今さ らやる気はないやと思いつつも、ずっと心の底に何か引っ かっかていたんです。そうしたら昨晩、えらい久し振りに 高校時代の夢を見たんです。自分が競技かるたを取ってい る夢だったんです。それで、気になって今日来てみました。 力は落ちていると思いますが、仲間にいれてください。あ と一年半しか活動できないですけど、よろしくお願いしま す。」
 現役メンバーも自己紹介する。経験者大歓迎である。こ のあとの練習では、横山は、石田、敷島に連勝していた。 昔取った杵柄である。ブランクを感じさせない。取りが、 身体に染み込んでいるのだ。横山の加入を一番喜んだのは、 瀬崎だった。今までずっと実質ひとりの代であったが、や っと同学年の仲間ができたのだった。

 三日後、瀬崎のところに連絡が入った。鈴木と泉はテニ スサークルを脱会し、かるた会に入会し、下田はかるた会 をやめて、テニスサークル一本にしぼるという内容だった。 下田は自分の身代わりを置いてやめていったわけだ。鈴木 の加入に瀬崎が狂喜したのは言うまでもない。
 季節のかわりめに、かるた会も変化の時を迎えていた。


  Copyright:Hitoshi Takano

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