権中納言定家
こぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くやもしほの身もこがれつつ
古い川柳に
「九十九は撰み一首は考へる」
というのがある。この考えられた一首が、この「こぬ人」の歌であるというわけだ。
百人一首の撰者である藤原定家が自ら撰んだ自分の歌である。古来、百人一首は謎
の歌集と言われて来た。必ずしも名歌を撰んでいるわけではないようだし、有名で
ない歌人がはいっており、著名な歌人が落ちていたりする。また、撰ばれた歌がそ
の歌人の代表作とはいいがたいものであったりする。宇都宮頼綱の依頼で山荘の襖
を飾る色紙和歌を百首撰んだということが「明月記」に書かれており、これが百人
一首成立の背景といえるが、撰考の基準はわからない。こんなわけで、何か隠され
た意味のある歌集なのだという憶測を呼ぶ。定家自身も「用捨在心」といっている。
歌の撰考は定家の心次第というわけ だ。では、定家はどういう意図をもって歌を撰
んだのであろうか。
百人一首は19×19の碁盤の目の上に縦横関連性を保ちつつ配置され、そこに
歌織物が現れるという説(織田正吉氏)、10×10の方形に縦横関連のある言葉
でクロスワードのように歌が配置され、水無瀬離宮の風景が現れるという説(林直
道氏)、並んでいる順番を数字化して10×10の魔法陣をつくると、言葉が縦横
結びつく上に、百人秀歌も含めて数学的仕掛けがあるという説(太田明氏)、易の
64卦と孫子の兵法36計が込められているという説(小林耕氏)、さらには源氏
物語や平安文学の題材や人物を示唆する歌で構成されているという説(上坂信男氏)
などなどさまざまな説があり、後世の人間の諸説に定家卿も冥土で苦笑いしている
かもしれない。
百人一首のテーマが、定家自身の歌に込められていると考えれば、織田氏や林氏
が指摘しているように「来ぬ人」である後鳥羽院(&順徳院)と式子内親王への「待
つ人」定家の想いが、あるようにも感じられる。
何はともあれ、こうして百人一首は、和歌の素晴らしさや、成立の謎解き、そし
て、競技かるたや坊主めくりなどのかるた遊びで、我々を楽しませてくれている。
このような文化遺産を後世に残してくれた藤原定家に感謝…感謝‥感謝・!
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