かるた三省


はじめに

最近、大学3年の後輩が、新入生に競技かるたの指導をしているのを見ていて、ち ょっと首をひねりたくなるような光景に出くわした。先輩達から連綿と受け継がれ ていることを言ってはいるのだが、彼自身が咀嚼しきっていないというか消化しき っていないような気がするのである。
本稿は、このように自分が消化しきらずに後輩にいろいろと教えていかなければな らない立場の人と、そういう先輩から多くを学ばなければならない環境にある初心 者・初級者に読んでもらおうと記述したものである。
「論語」の述べるところに、「曽子曰く、吾れ日に吾が身を三省す。人の為に謀りて 忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか。」(曽先生のお 言葉に、私は自分自身を日に何度となく反省する。人から相談を受けた時に、誠意を 尽くさなかったのではないか。友人と交際する際に言行が一致しなかったのではない か。自分でもよく習熟していないことを人に教えたのではないか。というように。) というのがある。曽子のいう三つの観点も、かるたの指導の際に重要なポイントでは あるが、私は本稿では「楽」「適」「談」という三つのポイントから話を進めたい。 「かるた三省」というタイトルは、ここに由来する。三省とは、しばしば反省するこ とであり、特に「三」という数を意味するわけではないのだが、三つの点にまとめさ せていただいた。また、自分自身の「かるた」をもこの機会に振り返ってみようとい う筆者の思いが込められていることもご理解いただきたい。


第1章「楽」

「楽」とは、字の意味そのものズバリ。「かるたを楽しんでいますか?」という問いで ある。
実は、大学1年の頃、私は練習にあまり顔を出さず、先輩達から「あいつは何時やめる のか」と心配されるようなかるた会員であった。当然、たまに練習に行くと、先輩達の 厳しい指導が待っている。口を酸っぱく「敵陣を攻めろ!」と言われ続けていた。今は 大学のサークル内での上下関係もそれほど厳しいものとは思えない感じがするが、当時 は、先輩というと大変に怖い存在だった。「畏怖」していたというのが、適切な表現で はなかろうか。この恐ろしい先輩が、「おまえは守っている。もっと攻めなきゃだめ だ。」とか「敵陣に手が出ていない!」とか私に注意するわけである。先輩と練習する と注意されないようにと意識しすぎて、余計何もできなくなってしまっていた。現役の 大学の先輩達でも、このように恐れられていたのだから、卒業生であるOB・OGは、 まさに雲の上の存在である。その方々は、「私たちの現役の頃は、トモ札が敵陣と自陣 に別れている時に、自陣から手を出して自陣でお手付きすると、バカにされた上、回り から笑われたものよ。」などと1年生に恐怖の種を植え付けていく。また、 とある試合では、現役の4年目の先輩が、慶應のOGと対戦し、大差で負けた上に「S 君、(そんな恥ずかしい試合をしては)慶應の恥よ!」と言われたと聞かされ、ます ますOB・OGへの畏れはつのっていったのである。繰り返すが、本当に先輩達、そし て、OB・OGは怖かった。私は、先輩の視線を感じただけで、萎縮し、ただ、先輩に 怒られないかるた、先輩が気にいるようなかるたをとることばかり考えていた。
さて、そんな私も入部して9か月ほど後、ある出来事をきっかけに練習熱心なかるた 会員へと変貌していった。1年生からは練習熱心な先輩という目で見られるようになっ ていた2年目のある日のことであった。私のかるた人生に一番大きな影響を与えた人物 といっても過言ではないI先輩と私の高校の後輩でもある1年生のY君との練習を目 にする機会があった。
I先輩はいつものとおり攻めまくり、Y君はいつしか劣勢になっていた。「これはYの タバ負けだな。」見ていた誰もがそう思ったに違い ない。勢いに乗るI先輩は観戦者の目にも明らかに敵陣の右を攻めている。顔も体の向 きも下の句が詠まれ始めると攻めている方へシフトしていくのだ。かたやY君は、相手 が攻めてきている自陣の右下段と右中段に札を固めて、徹底して守ること守ること…。 結構枚差がつくと思われていたゲームを2枚差くらいまで持っていってしまった。当然 の如くI先輩は対戦終了後にY君にきつく注意する。「守ってばかりいては駄目だ。も っともっと攻めて来なければいけない。」と。ところが、Y君平然と「だって、I先 輩、体がこっち向いてきてどこ攻めているか、見え見えなんだもの。守るとまたムキ になって攻めて来るもんだから、おもしろくなって、つい…。」と答える。なんのこ とはない。先輩に注意されるとかどうかなど、まったく気にもせず、ただ単純にかる た競技を楽しんでいるのだ。私は、これでふっきれた。「先輩に何か注意されること を気にして萎縮したりせず、競技を楽しもう。好きな札を好きなように取る気持ちで いこう。楽しまなきゃ、損。」と考えることができるようになったのである。
以来、私は、かるたに関係するあらゆることを楽しんでいる。競技自体はもちろんの こと、遠征や対外練習、人との出逢いや付き合いなど。そして、昔の怖かった先輩に 注意されることさえ、今では楽しみになっている。先輩達の言葉には、競技かるたの エッセンスがちりばめられているからだ。
これらの種々の楽しみの中でも、かるたを初めたての頃の楽しみの一つに、自分の 定位置を考えるというのがある。是非、楽しんで定位置を工夫して決めていっていた だきたい。私の最初の定位置は簡単なものだった。右下段に「むすめふさほせ」 「うつしもゆ」と「大山札」、左 下段に「いちひき」、右中段に「はやよか」、左中段に「み」「たこ」、残りの札を上 段といった感じだった。それが今では、随分と変わってしまった。 これも楽しんだ結果である。
中には、定位置づくりで楽しまない人もいる。静岡県立富士高から早稲田大学に進学 したYさんは、定位置のない人だった。かるた早慶戦で慶應のI先輩相手に、最初の 25枚を裏返し、シャッフルして順番に並べていったという話も残っている。自陣に 出札がないのに自分の定位置を払ってしまうお手付きなどを見かけると「定位置があ るから、そんなお手付きをするのだ。」と言い放つし、後年、練習中に「俺も堕落し たな。定位置らしきものができてきてしまった。」とため息まじりにつぶやいたとい うエピソードもある。しかし、彼は定位置をつくらないことを楽しんでいたといえる だろう。
定位置は自由だ。どこにどの札を置こうと、強い人が置けばそこで取れるし、弱い人が 置けばそこでは取れない。だからこそ、自由に気楽に楽しんで好きな札を好きな場所に 置いて、定位置としていけば良いのである。
競技かるたのすべてに於いて、皆さんに楽しんでもらいたい。


第2章「適」

「適」とは、「自分に適していますか?」という問いである。
例えば、前章の定位置の話で言えば、楽しむのは良いが、はたして自分に適した定位置 であるかどうかという視点を忘れてはいないかということである。「取れなくても、こ こにこの札を置くのが楽しいからいいではないか」というのでは、「楽しさ」の一面し か見ていないのではないだろうか。取れない札を取れるようになる楽しさというのもあ るだろうし、自分が札を取るのに適した札の位置を探るという楽しさもあるだろう。楽 しさを己で限ってしまってはつまらないと思う。
私の定位置を見ていただくとある特徴に気付くことだろう。そう、左中段がないので ある。これは取れないから置くのをやめてしまったのだ。取れないなら取れるように 努力すべきであるというのが正論かもしれない。しかし、私は自分の努力の限度・限 界を感じてしまったのである。あるいは結論をいそぎすぎたのかもしれない。だが、 10キロ以上体重が軽かった時点でさえ、相手から取られ放題だった左中段を、腰を 痛めた上に重量化した身体となった今、昔より早く取るのは無理である。以前左中段 に置いてあった札は、上段と左下段に散っていった。無茶苦茶に遅い左中段という「戦 力を割くのさえ惜しい戦地」から撤退し、「他の重要な戦線」に戦力を増援したわけで ある。この定位置が私の個性ともなり、自己評価では合格点となっているが、見切りを つけるまでに10年の年月を要したのであった。適性の判断は難しいし、時間もかかる ものだ。けれども、その間楽しんだと思えば、それもまた一興である。
「はたして、これは自分に適しているのか?」と問いかけることは、さらなる上達へ のキイワードである。そして上達も、また、楽しさの一つである。
もう一つ例を示そう。後輩のS君が新入生に「攻めろ!」と指導している。彼は、1 年生の時から、自分が先輩達にそう言われ続けて来た。さらに、「自陣など取らなく ていいから、敵陣を攻めろ」と言われてもいたし、今では後輩にも言っている。もち ろん、新入生に攻めの感覚を身につけさせるように、敵陣に集中することを教えるた めの常套句に過ぎない。しかし、S君は3年目に入った今でも「自陣など取らなくて いいから…」というのを実践している。聞くと、S君は攻めていても出札に感じず、 決まり字まで詠まれた時点でどちらの陣にあると気づいたりするという。だが、自陣 にはあるとわかっていても、手がでないとも言っている。これは、彼が「自陣など取 らなくていいから」を金科玉条にしているせいかもしれない。しかも「攻めには適性 がないかもしれない」とさえ自分で言っているにも関わらず、守ろうともしない。 「練習は不可能を可能にする。」のであろうか。
私の場合は、また多少違う。前章で述べたが、怖い先輩に囲まれて「攻めろ」と怒 られ続けていた。怒られるのを恐れるあまり、自陣にトモ札の別れがあり、こちら が詠まれたとわかっていても(音に対する感じがが遅いため)、敵陣に手を出して 攻めるポーズをとってしまっていたのだった。実際、I先輩などはこのようにする と「よく攻めに来ている」とご機嫌だった。また、一頃は「攻めろ!手が出ていな い!」と言われて、一音めと同時に手を出してみれば、音に感じられるようになる のではないかと試してみたが、私の場合は実戦にはあまり役立たなかったように思 う。結局、こんなことをしていても似而非攻めがるたに過ぎなかった。「聞こえて しまったものは仕方がな い、自陣でも何でもいいや」と開き直ったのが今の私のかるたの原型である。過去の スタイルに見切りをつけたら、新しい自分のスタイルのほうが適していたわけである。 さしずめ、「練習は隠れた適性を発見する」といったところだろうか。
蛇足ながら、私は相手に半音なり一音で感じられ、ある間合いでフッと手を出され ると、見事に自分の感じが消えてまったく手も足も出ない状態になっていた。これ を克服し、対抗しようという意図も上記の一音で手を出してみるという工夫には含 まれていたのである。
こうした工夫や努力は大事であるが、いつ見切りをつけるかというのが難しいので ある。見切りが遅いと無駄な努力になってしまう傾向が強いし、見切りが早いと伸 びる芽を摘んでしまうことになりかねない。野球の投手でいえば、あまり早くに速 球に見切りをつけてしまうとより速い球を投げる可能性を狭めてしまうし、今以上 のスピードボールは投げる能力がないのにいつまでも速球にこだわっていると変化 球を磨くことに精力を注げなくなってしまうといったところだろう。自分の適性に あった工夫を心がけてほしい。野球やサッカーなどのように役割分担がある団体競 技なら、監督がポジショニングしていくわけだが、競技かるたの場合は、自分の持つ 個性や適性・能力といったものを札の配置や策戦などにより試合の中で、自分一人で コーディネートしていくわけである。第1章のY君は、I先輩の攻めを守りきる能力 という相手が攻めてくる所を守る策戦に適性をもっていたから、ある程度結果を出せ たのである。今の私だったら、守りきれないのは火を見るよりも明かなので、別の対 策を考えることだろう。
自分の適性をふまえた「かるた」を考えてもらいたい。


第3章「談」

「談」とは、「相手と談(かたら)っていますか?」という問いである。
「手談」という言葉がある。これは「囲碁」の別称である。口でものを言わなくと も、交互に石を打つ一手一手がお互いの心や考えを語っているからである。将棋で も「三手の読み」という言葉ある。こちらがこう指すと相手はこう来ると予測される から続いてこうさせば良いと「手を読む」のである。相手の指す手は、多くを語って いるのである。「棋は対話なり」である。「かるた」にも相手がある。札を取る相手 の動き、札の送りや移動といった様々な相手の気配といったものが何かを語っている といえるだろう。第1章で自分の好きなように取れば良いとあるが、自分勝手に、自 分本位で、一人よがりのかるたでは、そう楽しいとは思えない。競技を通じて相手と の「談」が生じるからこそ、楽しさが増していくのである。
「談」とは広い意味で言えば、「かたらい」であり「コミュニケーション」である。
自分が相手を観ているように、相手もこちらをよく観ている。適性の有る無しなど 自分でわからない時は回りの人、特に対戦したことのある人に聞いてみると良い。 客観的判断を聞くことができる。私は、自分自身が競技しているビデオを見て、「回 りの人のいうことは、まったくそのとおりだな」と感じた。自分が他人から聞いて 思っていたよりもずっと特徴的でさえあった。その時、私はビデオの自分を他人の目で 見ていたのであった。「客観」も「談」の一形態かもしれない。
先ほども述べたように、かるたには相手がある。相手の定位置や札の置き方には、何 かしら意味があるのである。わからなかったら、自分も真似して試してみよう。新ら しい発見があるかもしれない。私の定位置は上段が多い。最初は、先輩で上段に置く 人が割りと多く、格好いいなと真似したのがきっかけであった。ところが、人に「攻 めろ!攻めろ!」と日頃から私を責める先輩が、この上段で決まりを待ちきれずにお 手付きをしたり、ヒッカケお手付きなどを随分としてくれるのである。柳の下に二匹 も三匹もど じょうがいるものだから、つい味をしめてしまった。これでお手付きしてくれるだろ うと思っている札でお手付きをしてくれる日には、狙いどおりと相手を罠にはめたよ うな気になって、ご機嫌であった。また、左上段の左端を数枚分空けて置くのも、先 輩の物真似である。慶應の昔のあるOBが、学生時代に仲間に教えるのに「左上段を 左端から置くと、敵陣の右上段を攻めにいく時にヒッカケやすいから置かないんだ。 特に敵陣を攻めて取りにいく攻めがるたの人は置かないよ」といったことから、代々 伝わってきたものらしい。時代が下るにしたがって、格好だけの真似になって、理由 までは伝わらなくなっていった気配があるが、定位置なんていうものは、意外とこんな ことで決まっていくものなのだろう。
真似の話をもう1件しよう。かるたを始めて1年後の試合で、対戦相手となった ICUのNさんが、「わたのはら」2枚を自陣の右上段に並べていた。あとで考え るに、どうやら他の大山札もあり置き場所に困った処置だったらしい。しかし、当時 の私はそんなことはわからず、「囲い辛い場所だな」と感じていた。私は左上段の 端は空けてあるからそれほどでもないが、自陣の左上段に札を置く人は特に囲い にくいだろうと「わたのはら」と「よのなか」(のちには場合によって他の大山札) という六字決まりと五字決まりの札の定位置にしてしまった。その後の対戦者は、 確かに「変わった定位置ですね。囲いにくい場所だ」と言ってくれていた。ところ が、2年後には、なんと、この定位置のきっかけになったNさん本人からも同じよ うに言われたのである。この時まで、Nさんが臨時措置として置いたのではなく定 位置として置いたものだと私は信じきっていたのだった。私はこのNさんとの初対 戦以降「相手が取りにくいと感じる札の配置とは?」ということを真剣に考えるよ うになっていったのだから、人との出逢いというのは、偶然であり不可思議なもの である。
札の配置は、相手のかるたを物語ってくれる。「守り」なのか「攻め」なのか、自陣 のどこが「速く」どこが「遅い」のか、など…。その予測がついたら、自分の適性を 配慮し、どうするか策戦を考える。相手の守りの速い所を自分の攻めの力で抜けるか どうか、抜けないならどうするか…。相手の手の動きや身体の向き、顔の方向、目配 り、視線なども相手の狙いを教えてくれる。第1章のY君はI先輩のこうした所から 攻めている場所を類推し、守ったわけである。結果、相手はペースを乱したわけであ る。こういう類推ができると「結果、相手が乱れた」のではなく、「相手を乱す原因 をつくる」べく策戦を考えられるのである。こうして自分で策がたてられるようにな れば、自ずから、相手が何か仕掛けてきた場合の相手の意図を読む能力も向上する。 まさにこれが「談」なのだ。
さて、もう一例を紹介しよう。相手がいづれかの札の場所を動かしたとする。すると、 その札が気になるものである。気になるものだから、同音で始まる札などが詠まれると 速く手がでる。しかし、逆にはやすぎたため、自分のタイミングを失い、お手付きを したり、手が浮いてしまって相手にゆっくり取られたりする。すると何か相手の術中 にはまった気分になるから不思議だ。不定位置のYさんと対戦した時、7枚_3枚で 私がリードしていた。1枚取って7―2としたところで、Yさんおもむろに自陣の札 を全部集めてカシャカシャカシャと札を切り、上段に等感覚でズラズラと並べ始めた。 このゲーム、結局、私は敵陣を1枚取っただけで、軍門に降ってしまった。これを 「すごい芸を見させてもらった」と感じるか「ハッタリにしてやられた」と受け止め るかは自由であるが、私は以後、この上段ズラズラ戦法を自分流にアレンジ して愛用してい る。あれこれ考え過ぎてくれる方もおり、この戦法で窮地を脱したことも少なから ずある。人間の行うメンタルな競技だから、このような逆転もありうるわけだ。これ も「談」の一側面である。
さらに、かるた競技を離れた競技者間の「談」の存在(懇談・酒談etc.)も知って もらいたい。


第4章「省」

「省(セイ)」とは、自分のかるたを省みることである。
本来、本稿は第3章までの構成で考えていたのだが、書き進めるうちに自分自身のか るたを振り返る作業が物足りないような思いに捕らえられてしまった。今しばらくお 付き合い願いたい。
私は「受け」のかるたというものを取っていきたいと目指している。「受けがるた」 とは、従来から言うところの「攻めがるた」でも「守りがるた」でもない範疇の「か るた」である。
プロレスでは相手の技を強力に見せつつダメージを受けない「受け身」が大切と聞く。 ボクシングでモハメド・アリはロープを巧みに使い、相手に攻撃されているようであ りながら、パンチをかわし、あるいはガードしていた。そして疲労して攻撃の手がゆ るんだところで華麗に「蝶のように舞い、蜂のように刺した」。相撲では「後の先」 という、立ちあいで相手が先に踏み込んで来たように見えるが、実は先に自分有利の 組手になっているという極意がある。柔道の名言「柔よく剛を制す」は、あまりに有 名である。巨人軍の江川投手は、現役晩年に投手の理想を問われて「27球でのパー フェクトゲーム」と答えたという。まさに究極の「打たせて取るピッチング」であろ う。私が目指したいのはこれらを総合したようなイメージなのである。諺に例えると、 「柳に風」「暖簾に腕押し」といったところであろうか?
では、具体的にはどのようなことを考えているのだろうか。基本は、相手の速いとこ ろは無理に取りに行かないで、相手の遅そうなところを速く取るように心がけるとい うことである。敵陣への攻めで言えば、相手も自分の遅いところは、自分でわかって いるから、そこを速く取られれば、あきらめる気が起こり自分の速いところを確実に と考えるだろう。また、自分の遅いところを無理して取りに来たら、今度は相手の速 いところがおろそかになってしまうはずだから、こちらは今度はそこを取りにいけば よいのである。自陣だったら、相手が自分より速そうなところは相手に取らせて、そ れ以外のところの札を取ることを考えるわけだ。速さは、むやみやたらと速く取るこ とはない。相手よりちょっと速く取れば、それで事足りる。私の場合、自陣は感じが 遅いため、別に普通に取っていてもこんな具合になってしまう。せっかく攻めている のにこんな取りをされると相手も次第に疲れてくることだろう。こうした疲れから生 じる相手の抜け札 は、確実にそして堅実に拾えればよい。お手付きは、相手にしてもら うもので自分でするものではないと心得、相手がこちらの策にはまってお手付きをし たのではないかという疑心暗鬼に陥ってもらう。第3章で触れたが、相手に嫌がられ ない程度に、札を移動させるのである。集中力が多少なりとも欠如していれば、他の 札の暗記がおろそかになったり、動かした札が気になったりして、札が抜けたり、お 手付きしやすい状態になっているからである。もちろん、こうしたことが通用すると 期待してはいけない。一試合に一回もあれば、もうけものである。偶然は、期待して いない時に、必然性を帯びた札の移動の際に、えてして起こるものであるからだ。
しかし、ここに述べた考えは、どこもかしこも文句なく速く強い相手には、通用しな い。これが現在の課題である。それには、払いと感じのスピードアップ、正確さと集 中力の向上、練習による試合感(観・勘)の確保など、基礎力を養い、実力を底上げ していかなければならない。実に当たり前の努力の上に、目指すかるたが成り立つの である。
皆さんも、一度、自分のかるたを省みては如何だろうか。


おわりに

速い相手と取ると私は、構えたままピクリともしなくなってしまうことが、しばしば あり、手も足もでないという意味で「だるま」という仇名を頂戴している。無理に音 に反応させようとしたりして、下手に手を出すとお手付きをしてしまうので、そんな 時は「だるま」状態に甘んじているのが一番である。自分としては、この「だるま」 というニックネームは気にいっている。「七転び八起き」とか「座禅一筋を極める」 といったイメージが、私の感性にあうのだ。また、「転んでもタダでは起きない」も モットーの一つである。なんとなく雰囲気が掴めていただけただろうか?
最後になったが、「楽」「適」「談」という三つの観点は、それぞれに関連し影響し あっているものであり、どれかが欠けると当然他の二点へ影響が出てしまうものだ。 ひとつ初心にかえり、三省を忘れないようにして、自分の目指すかるたに向かって いこう。


Copyright(C):高野 仁
E-Mail:takano@sfc.keio.ac.jp

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