これまで書いてきたように、日本の原子力行政は、国民の声が届きにくく、 業界に有利なシステムになっている、ということがわかった。これでは、原子 力行政の基本であるところの「公開・民主・平和」が達成できているとはいえ ないだろう。原子力が「平和」利用されているかどうかは、「公開」された情 報を国民が判断し、チェックすることによってはじめて確かめられることであ り、それが「民主」の意味だと我々は解釈するからだ。
つまり、この三原則のうち、「公開」が先にたたないと、残りふたつも達成 されることはないということだ。しかし、公開されることによって、企業の利 益が損なわれる、ということがあるので、「公開」はしばしばないがしろにさ れがちだ。たとえば律儀に原発のトラブルを報告し、それによってたった一日 原子炉を止めただけで、実に何億もの利益が飛んでいってしまうのだ。
企業としては、できるだけ原子炉を止めないようにすることが利益増大につ ながるので、たとえ事故がおきても、「たいしたことないだろう」と自分に言 い聞かせて目をつぶりがちになってしまうのだ。経済性と安全性のバランスの 問題だが、企業である以上、経済性の方が優先されるであろうことは、想像に かたくない。
また、現在の行政のシステムは、官と企業がべったりであり、企業のこのよ うな体質を保護するような状態になってしまっている。言葉を変えれば、国民 の意見よりも企業の声を優先させているのだ。そのことは、先に書いた、政府 と企業の天下り関係、電力会社からの出向でまかなわれている安全調査機関、 ということを考えれば明らかだ。
しかし、民間人で構成された諮問機関として原子力安全委員会があるではな いか、と言うかもしれない。しかし、我々が取材にいった『原子力資料情報室」 の方の話によると、「すべて推進派の人々で構成されている」とのことであっ た。この人事のかたよりも、企業よりだと言えるし、国民の声が届かないので は、という不安を抱かせるものだ。
そこで、「原子力行政に国民の声を反映させるにはどうすればよいか」とい うことをテーマに、4班は話し合った。つまるところ、行政のシステムを変え て、国民が参加できるようにしなければならないだろう。そのためには、国民 の安全を確保するために、必要な情報はすべて国民側に行きわたるようにしな ければならない、と考えた。
そのためには、国民の要望を聞く受け皿として、第三者機関(の、ようなも の)を作ればよいのではないか、という話になり、そこまではメンバーすべて の意見の一致をみた。
ここでの第三者機関とは、国民が、原子力関係の資料が非公開とされたとき に、不満を感じたときに提訴する機関だ。国民の要請に基づいて、第三者機関 が実際の消されていない情報を見て、それが非公開とするのにふさわしい内容 かどうかを判断し、その結果を国民に報告する。もしその内容が非公開とする のに妥当でない場合は、公開するように政府に勧告する、という権限を持たせ る。
この第三者機関の細かい位置付け、役割などは他で書く内容なので、ここには
繰り返さないが、その第三者機関の権限については班内で大きく意見がくいち
がった。大きく二つの意見があり、その一方は先に主張その1で書いた内容だ
が、私はその意見とは違う見解を書きたい。ちょうど、行財政改革が必要だと
いうところまでは考えが一致している自民党の橋本、小泉両候補が、その具体
的な政策については大きく違うということと同じ状況であった。
<その1>の意見は、こうだ。
「公開することで国民の健康と生命の安全を守ることができる原子力情報は
たとえそれがいかなる企業秘密であろうとも公開するべきである。」という基
準のもとに、第三者機関は情報を公開するかしないか判断するべきだ
というのだ。国民の意見を反映させるところまではいいのだが、対立が起こっ
点は、「企業がそれを反論する権利がない」ということであった。その考えで
は、これまで、企業の意見が強かったのが、一転して国民の意見が強くなりす
ぎてしまうというのだ。
先に書いているように、企業という体質上、たとえそれが安全第一を 金科玉条に掲げなくてはならない原子力業界でも、安全性が軽んじられるかも しれない可能性がある。その動きを抑制するために第三者機関は必要だろう。 しかし<主張その1>ではいきすぎと批判されてもしかたない。
私の考える第三者機関のイメージは、ちょうど「陪審員」的なものだ。国民の 主張と企業の主張、この二つの言い分をはかりにかけて、どちらの言っている ほうが正しいかを判断する機関というイメージ、そのためには、機関のメンバー は相当程度の専門的知識と、判断力を兼ね備えた人材でなければならない。
ところが、<その1>の主張するところの意見は、判断の基準が一つしかな い。たしかにその基準は公開するかしないかを判断する際に、重要かつ中心に 位置するものだ。だが、はたしてそれだけが絶対の判断基準なのか。これから 起こるすべてのケースを、その一つだけの基準で判断していっていいのだろう か?という疑問が浮かび上がる。もし企業の言い分が正しく、傾聴に値するも のであっても、その一ではまったく考慮されることはないのだ。
<その1>の主張が現実に実行されると仮定してみよう。確かに国民にとっ ては歓迎すべきことかもしれない。しかし、はたして企業側がこれを受け入れ るだろうか。必ず反対するであろう。端的にいうと、この主張は物事をドラス ティックに変えすぎる。企業側にとってみれば、突然「国民にクレームつけら れたら、それはもうどうしようもない。泣き寝入りしろ」といわれるようなも のだ。今まで行政と企業が国民に対してやってきたことをそのままひっくり返 したようになってしまう。これまでがフェアじゃなかったように、この案もフェ アではないのではないだろうか。
せめて、フェアにするためには、企業側にも主張させる場を設けなければなら
ない。そうしないと、まず企業はこの主張を受け入れないであろうし、国会も
企業の圧力などによって法案も通過しにくくなるだろう。どちらの側も妥協し
なければならない。
ここまでの私の意見をまとめて、
・第三者機関は、国民の要望を聞き、非公開とされた内容をチェックし、企業
側の弁明も聞いて、総合的に判断し、公開すべきと判断した場合は政府に公開
を要請し、非公開でよかった場合はその理由を国民に説明する機関とする」
という主張を4班のメンバーたちに提示した。しかし、先に書いたように、
主張その1と論戦になって、結果としては、次に書く最終案に班の意見が落ち
着いた。そこからの説明はそちらに譲る。