記者クラブの問題点の中で、私たちが問題にあげたのはその閉鎖的、排他的な点と懇談などからくる行政との癒着である。 ここでは、この2つを中心に記者クラブが抱えている問題点について述べたいと思う。 まず、記者クラブは閉鎖的である。これは、外国人記者や雑誌記者などが入れない、というのがあげられる。しかし、今は入ろうと思えば入れるらしく、別にこのラインに差別はないようだ。問題なのは、この後で、記者クラブ側の記者が「入ってきても出ていってしまう。」というように出版界の住みわけ(つまり新聞と週刊誌では記事の内容が違い、そのため購読者を取り合うことがあまりないということ)による撤退を雑誌社は行なってしまうのだが、それは、なぜか。 記者クラブがもう一段上に閉鎖的環境を持つからである。それは、懇談、そして、個人的なつきあいである。記者クラブ内の記者、新聞社が他とどこで競争しているかというとこのレベルである。記者会見ではみなが同じニュースを得ることができる。これが画一的な記事につながっているのだが、個人的つきあいによって競争している。現在では懇談には多くの記者が参加できるようになっており、夜討ち、朝駆け、などが勝負のようだ。 さらにここで得られる情報というのは記事にされることはあまりなく、あくまで個人的つき合いであるからニュースソース側の思い通りになってしまっているようだ。 つまり、政治のスキャンダルを暴こうとすればするほど対象のニュースソース側から離れていってしまう、という現象がおこる。 記者クラブ側は、ニュースソース側と信頼関係を結ぶことによって安定した情報を得ることが可能になっている。しかし、それは情報公開制度の確立していない今であるから可能な話であって、情報公開制度がこれを一変させることが考えられる。 ここで、記者が情報公開に賛成するか、反対するかは記者しだいであろう。「情報公開制度が今まで得ることのできた情報を得られなくしてしまう」という記者の記述が私たちのあたった資料にあったが、それは今の情報の無法地帯にいる記者にとっては実感あるものだと思う。しかし、その無法地帯で得た情報は記事にはならない(一般の人の知るところにない)し、記者自身の努力または、機能しうる情報公開制度の確立によってまかなえるものではないか、という反論が成り立つ。 しかし、ここで私たちの間で大きな問題となったのは、情報公開の情報とはなにをあらわしているのか、ということであった。文書情報であれば、このような口頭で(しかもオフレコで)交わされる情報は確かに対象外になってしまう。情報公開の確立とともに文書主義の確立は非常に重要なことであるが、文書主義の徹底でこの情報がでるかというと無理だ。結局、この点での結論は出ずに、今も記事にならないのだから、という割り切り方をして、その先の議論へ進んでいった。(この関連でいえば、95年11月に表面化した江藤総務庁長官(当時)の歴史認識に関する発言問題は、オフレコが記事になったということで報道倫理も問われる問題になった、という事件が近い話題であると思われる。) どうも、記者クラブの閉鎖性を通り越して、議論は記者クラブと行政の癒着、に移ってしまっているが、もう一つ癒着、という点で興味深い資料について考えてみたい。 それは、「記者クラブと行政側の非公式な接触において双方での情報の交換がなされている」ということである。つまり、情報のギブアンドテイクによって行政側もいくぶんかの利益を得ている、ということである。「記者が膨大な情報を得て、政治家のブレーンと化している」という記述もあって、笑えない笑い話のようである。 こうなってくると、この情報の無法地帯において行政側が非常にパワーを持っている、ということが明らかになると思う。「気に入った記者にしか話さない。あくまで個人的なつき合いであるから」といった、気に入られなければ情報は得られないという関係、情報を持っていなければ情報を得られないという関係。このような関係が成り立つのは、情報公開制度がないから、とは言えないだろうか。そして、ここに情報公開の必要性があるのではないか、という導き方を私たちの第二の結論として覚えていただきたいと思う。