札模様  第十章

  三月  ――卒業(わかれ)――


   

 三月十日。
 ミツオたちの大学では、この日が卒業者氏名の発表日 である。この日に名前が掲示されていないと卒業できない。 そういう意味では、卒業式よりも大事な日である。
 最近では、四年生は卒業を控えたこの春休みに卒業旅 行をするものが多い。海外に旅行している連中は、友人に 頼んで見てもらい電話で確認する。中には、卒業確実と安 心しきって、何の確認の手立てを打たないまま卒業式の前 日くらいに帰ってくる者もいる。こういう人間が、何かの ミスで卒業できていないと大騒ぎになる。
 そんな極端な例でなくとも、卒業を決めてホッとして いる学生とは対照的に、この日に卒業者氏名の掲示に名前 のない連中は、大慌てとなる。大学教務部への問い合わせ や、教員への泣き付き、内定会社への相談といった修羅場 が繰り広げられるのだ。
 ミツオは、今、三田キャンパスの西校舎に向かってい た。確実に名前があるとは思うのだが、気が急く。西校舎 にはいると階段を駆け降りる。地下のフロアの掲示板に張 り出されているのだ。昨年も見に来ているので、場所を間 違えることはない。
 「経済学部は、この辺だ。」
 ミツオは、留年やら休学やらしているから、学籍番号 順だと前のほうになるので探しやすい。
 「あった。……」
 名前を見つけた。嬉しさが、じわりじわりと込み上げ てくる。
 「よかった。」
 心底ホッとしたのか、目が潤んできた。
 「感無量って、こういうことを言うんだろうな。」
 ひとりそんなことを思いつつ、南校舎に向かう。ここ には熊野が勤務している学生課がある。
 学生課に入っていくと、熊野がミツオに気付いた。
 「先輩。」
 「よっ。」
 「おめでとうございます。」
 「おい、なんで知ってるんだ。」
 「気になるんで掲示される時刻を見計らって、見に行 ったんですよ。」
 「そうか。ありがとう。」
 「あと五分ほどで昼休みですから、一緒に飯でも食い ましょうよ。」
 「ああ、じゃあ、外で待ってる。」
 事務室の外で立っていると、青い顔をして教務部に駆 け込んでいくやつがいる。可哀想にだめだったんだななど と思いながら、感慨に耽っていると熊野が出てきた。
 熊野がおごってくれるというので、食事も取れる喫茶 店に入った。熊野たちの昼休みは十一時三十分からなので、 昼の混む時間帯の前に入れる。
 「いやあ、先輩、本当によかったですね。」
 「ああ、卒業まで丸七年かかっちまった。」
 「あの事故がなければ、五年で出れたはずだったんで すよね。」
 「そうだな。最初の留年は仕方ない気がする。事故で 休学もやむをえないって言えば、そうなんだよな。でも、 去年の留年は、完璧にミスっちまったんだよ。」
 「去年の今日でしたよね。先輩が学生課に来て、なん で名前がないんだって俺に聞いたのは。」
 「いや、気が動転していたもんで、熊野に聞けばなん かわかるかと思ってね。」
 「結局、教務部に行って調べてもらったんですよね。」
 「いや、まいったよ。親方のとこに内弟子に入ったか ら、職人になるのに卒業論文はいらないなんて言ってね。 他の単位で足りるはずだからって思い込んでいたんだよ な。」
 「二単位計算間違えていたんですよ。」
 「結局、卒論書いて、授業も出て、今年は単位が余っ たよ。」
 「でも、仕事しながらでしたからね。」
 「週に一日だけ、授業に出させてもらったからな。」
 「どうですか。内弟子生活は。」
 「ああ、いろいろ勉強になってるよ。親方は、職人の 技は盗むもんだ。教わるもんじゃねぇ。なんて言いながら、 丁寧に教えてくれるし。」
 「おととしの名人戦東日本の予選のあとで、あんな出 会いをしなければ、佐多さんの人生も変わっていたかもし れませんね。」
 「ああ、あの日がなければ、去年の三月に卒業を決め て四月からは、実家に帰って親の世話で仕事を始めていた よ。あの出会いはまさに運命的だった。うん。」
 ミツオは、一昨年の名人戦予選のあと、池袋の居酒屋 で、試合に負けた痛手を酒で癒している蓮沼とばったり出 くわした。ミツオが勝手につきあって、二人で呑み潰れて、 蓮沼の家に泊ったのが縁だった。ミツオが朝、目を覚まし たところは工房だった。壁には、手刷りの色鮮やかな各種 かるたが額におさめられ、作業場には、作りかけの札が散 乱していた。
 蓮沼は手刷りかるた師だった。ミツオは、その作品の 美しさに惹かれ、思わず弟子入りを頼んでいた。最初は渋 っていた蓮沼が出した条件は、次の三つだった。
 一、 親の了解を得ること。
 二、 住み込むこと。
 三、 大学を卒業すること。
 親の了解はすぐに得られた。
 「一度、事故で死んだと思えば、手が後ろにまわるこ とさえしなければ、自分の人生を好きに生きればいいじゃ ないか。」
 母親は、実家に戻ってきてほしかったようだが、この 父親の一言で決まったのだ。
 住み込みは、学年末試験が終了した二月からだった。 綱島の下宿の荷物を整理し、身軽にして内弟子生活を始め るのにミツオは何の抵抗もなかった。
 問題は三番めの条件だった。大学の卒業が決まった四 月から来いと言う蓮沼を「一月の試験が終わって卒業間違 いなしですから」と言って、二月から住み込み始めたのだ が、見事に失敗してしまったからだ。しかし、既成事実が 功を奏して、翌年卒業できなかったらあきらめて親元に帰 るという条件で認めてもらった。ただ、ミツオには、蓮沼 がなぜそこまで大学卒業にこだわるかはわからなかった。
 「じゃあ、先輩、本当におめでとうございます。卒業 式は場内整理で行ってますから、必ず出てくださいね。」
 「ああ、卒業式はけじめだからな。じゃあ、今日はご ちそうさん、またな。」
 熊野と別れたミツオは軽い足取りで、住み込み先であ る蓮沼の工房に帰っていった。

 JR山手線目黒駅から東急目蒲線に乗り換えて二つめ の武蔵小山駅で下車、しばらく歩いたところに「かるた工 房『蓮沼碩学堂』」があった。母屋とは別の小さな離れが 工房になっていた。ミツオはこの工房で生活している。
 「親方、ただいま戻りました。」
 「おお、お帰り。」
 「おかげさまで無事卒業が決まりました。」
 「そりゃ、よかった。おめでとう。ご両親には連絡し たか。」
 「いえ、まだ。」
 「ばかやろう。俺に報告する前に、親に連絡しねえか。 そっから、はやくかけろ。」
 「はい。」
 ミツオは、工房の電話を借りて早速、実家に電話を入 れた。
 母親は電話口で涙ぐんでいるようだった。
 「まあ、そこに座れ。」
 「はい。」
 電話が終わると、蓮沼はあらたまって話を始めた。
 「お前さんもここに来て一年以上になる。俺は、こん な早くに弟子など取るつもりはなかったんだ。しかし、競 技かるたをやっていて、競技の弟子じゃなくて札作りの弟 子になりたいなんていうやつと出会ったってのも何かの縁 だから、弟子にした。この世界は腕さえあれば、学歴は不 要だが、注文してくれるお客さんがいなくなっちまわねえ ともかぎらない。そうすりゃ廃業だ。また、万一お前さん が弱音を吐いて逃げ出してしまわねえとも言い切れない。 そんな時に学歴ってものが、ひょっとしたら世間様で日の 目を見させてくれるかもしれねえじゃないか。まあ、そう いうわけで、卒業しろと発破をかけたわけだ。お前さんが 好きで中退したとしても、何かの時に俺がやめさせたよう に思われるのも嫌だったしな。なんといっても、卒業はひ とつの区切りだよ。あらためておめでとう。」
 「ありがとうございます。」
 「お前さんには言ってなかったが、今までは、俺はお 前さんを弟子候補としか見ていなかった。まあ、平たく言 うと試用期間だ。」
 「はあ。」
 「でも、毎日の清掃、仕事の支度や片付け、家の雑用 をこなした上で、週一日のアルバイトと大学通いをやり遂 げて卒業を決めたんだから、よくやったと思うよ。俺もこ れで、お前さんを弟子候補としてではなく、本物の弟子と して扱うからな。今まで以上に厳しくなるが、弱音を吐か ないよう頑張れよ。」
 「はい、これからもよろしくお願いします。」
 「注文がもっとあれば、お前さんに週一日は外でアル バイトして小遣い分を自分で稼げなんて言わなくてもいい んだけどな。」
 「いいえ、好きで入った道ですから。第一、この商売 そんな稼げるようには思ってないですよ。」
 「そう思ってくれるなら、俺も気が楽だ。それじゃ、 さっさと仕事着に着替えてこい。」
 「はい。」
 ミツオはこうして、かるた札作りの職人見習いの日常 に戻っていった。

 かるたの札作りと言っても、百人一首の札だけを作っ ているわけではない。もっとも多いのは、「花かるた」、す なわち、花札の製造である。「株札」や、手本引の「繰り 札」「張り札」といった博打用の札も作れば、「いろはかる た」も作る。好事家のために「道斎かるた」や、「うんす んかるた」を作ったりもする。蒐集家の注文で「天正かる た」を製造したり、「櫛形かるた」「将棋の駒形かるた」と いった珍しいものまでも製造する。大手業者の下請けで、 持ち込まれた印刷された図柄を台紙と貼り合わせ、裏紙を 貼る作業もこなす。この作業が技術の基本となる。糊は、 布海苔を干し固めたものを煮て作る。この糊の煮具合、塗 り具合、貼り合わせには熟練の技が必要なのだ。糊がはみ 出して余計なところについては話にならない。もちろん、 木版や手刷りにも技術を要する。注文があればそれにあわ せて新しい図の意匠を考案することもある。こうなると美 術工芸品とさえ言える。しかし、蓮沼碩学堂では、鑑賞用 のものを作ることはしない。注文主が鑑賞用にするのは自 由だが、かるたの札は遊びに使ってこそ生きるものである という信念で、実用遊戯に供せるものを製造している。し たがって、使い込めば使い込むほど、手に馴染み、使いや すさや、丈夫さといった面で製品の良さがわかる。ミツオ は、職人の芸は、こういう使い込んだ時に輝くものでなけ ればならないということを蓮沼から何度も聞かされていた。 「いつかは親方の札を越えるものを作る」というのがミツ オの願いだった。

 「で、ミツオさあ。卒業式の本番はいつなんだい。」
 「三月二十三日です。」
 「どこで。何時から。」
 「日吉の記念館で、十時からです。」
 「行ってもいいかな。」
 「……。」
 「あんた、やめなさいよ。ミツオくんは子供じゃない んだから。」
 蓮沼家の夕餉の食卓でも、ミツオの卒業が話題になっ ていた。蓮沼の妻が、蓮沼をたしなめた。
 「でもよー。大学の卒業式って見てみてえじゃねえ か。」
 「何言ってんのよ。あんたは居眠りするのがオチよ。 ミツオくんだって迷惑よ。」
 「おかみさん、そんな迷惑なんてことは…。」
 「いいのよ、気にしなくて。その日は一日友達と楽し んでいらっしゃい。」
 「はあ、はい。」
 蓮沼の妻は、蓮沼より三つ年上の姉さん女房である。 彼女は、金になるのかならないのかわからないかるた札の 職人などはあてにせず、会社勤めをしている。この家も、 もとはといえば、彼女が彼女の親から受け継いだ資産なの である。
 「しかし、月日がたつのは早いわね。ミツオくんが来 て、丸一年とちょっとたつのよね。」
 「ええ。」
 「初めて、ここに来た時のこと覚えてる。」
 「覚えてますよ。いや、ベロンベロンに酔っていたの で、覚えてないと言うべきでしょうか。正確にいうとおか みさんとの出会いは覚えています。忘れもしません。『い つまで寝てるのよっ!』って叩き起こされたんですから。」
 「うちの人が工房に寝る時のいつもの場所に、ミツオ くんが寝てたもんだから、てっきりこの人だと思って。」
 「なっ、おれには邪険な扱いさ。身を持って体験した からわかるだろ。」
 「びっくりしたのよ。亭主だと思って叩き起こしたら、 見ず知らずの若い人だったんだから。」
 「いえ、驚いたのはぼくのほうですよ。蓮沼さんから は、博打にはまって女房に逃げられたって聞いてたもんで すから。」
 「ここは、あたしんちよ。あたしが出ていくわけない じゃない。あの時は三、四日前に、博打のことで大喧嘩し たのよ。たまたま出張があったんで行先も理由も言わずに 出かけただけなのよ。帰って来た翌日に叩き起こしに行っ たわけなのよ。」
 「そうだったんですか。」
 「そうよね。ミツオくん、怪訝そうな顔してたものね。」
 「あの時ですよ。起こされて、おかみさんよりもはっ きりと目に飛び込んできたのが、壁に飾っている札のあざ やかな緑色だったんです。あの色を見て、感動しました。」
 「さすがおれが見込んだだけのことはある。あの緑に 感動するなんざあ。あの色をどうやって出すかってのが難 しいんだ。」
 「あの札の色が、前の晩の記憶を呼び起こしてくれま した。ここが札作りの工房だって話を思い出したんです。 あの緑色に引き込まれて、無性に札作りをやってみたくな ったんです。」
 「トイレから出てきたおれに、いきなり『弟子にして ください!』だもんな。まいったよ。変なの拾ってきちゃ ったかなあって思ってね。」
 「あたしはね、ミツオくんに来てもらって本当に助か ってるのよ。会社勤めも忙しいでしょ、家の掃除や雑用は もとより、頼んでおけば、買い物から夕食の仕度までやっ てくれるものね。それよりも何よりも最大の感謝は、この 人と付き合ってくれてることよ。ミツオくんが来てから博 打はやめたようだし、かるたへの情熱も戻ってきた感じな の。今年久し振りに名人との五番勝負に挑戦できたのは、 ミツオくんがいつも練習に付き合ってくれているからにほ かならないと思っているのよ。四度目も駄目だったけど ね。」
 「過去は忘れたよ。忘れなければ前に進めないことも あるのさ。おれは前を見ているだけだ。ミツオ、近江神宮 で名人と取りたければ、おれを乗り越えていかなくちゃな らねえぞ。」
 「はい、望む所です。よろしくお願いします。」
 「よしっ。飯食い終わったら、一勝負しよう。」
 「はい。」
 ふたりにとっては、お互いが格好の練習相手だった。 食事の後、工房は競技かるたの練習場所に変わっていた。
 取り慣れた工房での練習だが、桑名大会を間近に控え て、蓮沼は特に気合を入れていた。ふたりしかいないので、 詠み手は、録りためてあるテープである。これもミツオが 仕事の合間を縫って録音するのだ。
 「テープはたしかに子音が聞こえにくくなるが、特に 今日のは聞きづらかったな。」
 「そうですね。自分で詠んでるんですが、わからなか ったのがありましたね。」
 「お前さんが風邪をひいていた時に作ったやつじゃな いか。」
 「はあ、そうかもしれないですね。」
 「なんか今日は、気合が入ってないじゃないか。卒業 が決まってホッとしちまったか?」
 「いや、そんなことはないんですけど。」
 「おれの陣の右下段でおれが明らかに遅かったのに三 枚くらい拾わせてもらったぞ。あれを取らなきゃだめだ。 その分他を攻めている感じもしなかったぞ。なんか漫然と 取っている感じだった。」
 「すみません。ちょっと集中しきれなかったんで。」
 「それに『はなさ』は、あきらかにお前さんの取りな のに送ってこなかったな。」
 「セーム以上はないと思ったので…。」
 「完全なセームってのは、機械で測りでもしないかぎ りわからないんだ。人がセームと感じるタイミングには若 干の幅があるんだ。ただ、その幅はあまりに一瞬で人は認 識できないから、ある一定の幅の中がセームということに なる。だから、セームだと思ったら、それは入ったのかも しれない。おそらく、セームと感じられる幅も人によって 違うんだろうな。」
 「だから、よく主張でもめるんですね。あれが嫌なん ですよね。もめるくらいだったら、送りません。」
 「ちょっと違うんじゃないかな。まあ、いい。でも、 これだけは言えると思うんだが、気合の乗ってる時のミツ オだったら、今日のケースは送ってきたと思う。自分から 引いてしまうってのは、今日のミツオがアグレッシブじゃ ないからだよ。」
 「はあ、そうですか。そんなことないと思いますけど。」
 「いや、そうだ。無意識のうちに自分で認めたくない だけなんだよ。おれも、気持ちで左右されないように心が けているんだけどね。」
 「親方は、気分で随分違うなって感じますもの。」
 「そうなんだ。自分でわからなくても、相手はわかる。 いつも取っている相手ならなおさらだ。そういう意味で、 ミツオという定番の練習相手がいることは、自分で気づか ないことを気づかせてくれるんだよ。試合のあとに感想戦 をすることでなおさら、いろいろと自分が見えてくるん だ。」
 「えっ、親方がいろいろとぼくに教えてくれるためじ ゃないんですか。」
 「自分のためでもあるわけさ。」
 「よーくわかりました。ぼくは、鏡というかバロメー タというか、そういう存在なんですね。」
 「よき練習相手だよ。それより、やっぱり桑名は行か ないか。」
 「ええ、やめときます。三月は、最後の学生選手権に 照準を合わせます。」
 「じゃあ、おれひとりで行ってくるな。ちょっと足延 ばして、京都の師匠のとこにも寄ってくるから。おかみさ んが病気らしいんだ。」
 「そういえば親方から、大師匠の話はあまり聞いたこ とないですね。」
 「そうだったかな。」
 「教えてくださいよ。だいたい親方には兄弟弟子って いるんですか?」
 「そうだな。弟弟子が一人いるが、おれが師匠のとこ ろを出てから入門してきた。おれの師匠は弟子をふたりし か持たなかった。」
 「いまその方はどうされているんですか。」
 「独立が許されてから、金沢に行ったよ。金箔の技術 を学ぶと言ってね。そのまま加賀にいついちゃったけど。」
 「親方は、京都で何年修業したんですか。」
 「内弟子生活四年。通いで二年。そのあと大師匠の知 り合いの引きで東京に仕事があるってんで、東京に帰って 来たんだ。」
 「かるたはいつ始めたんですか。」
 「今のお前さんと一緒で、仕事で作る札を使う遊びは、 一通り教わったのさ。京都でも練習してたけど、強くなっ たのは東京に帰って来て不動会の練習に出るようになって からだね。先代の会長に随分手ほどきを受けたよ。」
 「へえ。それでおかみさんとはどうやって知り合った んですか。」
 「ばかやろう。余計なこと聞くんじゃない。」
 「すいません。」
 「あれでも、あいつは昔はかるたを取ってたんだぜ。」
 蓮沼の目は、懐かしい過去を思い出しているのかボー ッと遠くを見ていた。
 「へぇー、それは初耳ですね。」
 「そうだ。うちの名前の由来は説明してなかったな。」
 「はい。」
 ミツオは、馴れ初め話に水を向けるが、蓮沼は、テレ からだろう、意図的に話題を変えた。
 「うちの一門は、独立が許されると代々『学』の字を 受け継ぐんだ。それで師匠がおれにくれた名前が『碩学堂』 だよ。学問が広いなんて笑っちゃうよな。」
 「大師匠のところはなんて言うんですか。」
 「『心学堂』って言うんだよ。加賀の弟弟子のとこは、 『哲学堂』って言うんだ。師匠も趣味悪いよな。かるたの 札作ってるところとは誰も思わねえぜ。」
 「そうですよね。かるた札っていうと『天狗堂』って イメージですよね。」
 「ああ、あれはな、かるた禁制の時期にな、鼻をこす って合図したからなんだ。花札の『花』に『鼻』を引っか けたんだ。それで『鼻』がトレードマークの『天狗』が商 標となったってわけさ。」
 「そうなんですか。ところで、話は飛びますが、親方 は名刺の肩書きに『かるた師』って入れてますよね。」
 「ああ、そうだ。」
 「ぼくらは、札を作る立場として『かるた師』ですが、 札を取る人、競技者はなんて言いますか?」
 「そりゃあ、『かるた取り』だろう。」
 「そういうとゲームの名前に聞こえませんか。」
 「そう言われりゃ、そうだな。」
 「将棋は『将棋指し』、囲碁は『碁打ち』でしょう。で もあの人たちには『棋士』って立派な呼び方があります。 それに賭け将棋をする人は『真剣師』ですからね。格好良 い呼び方ですよね。」
 「ミツオ、『真剣師』は別名『くすぶり』とも言うんだ ぜ。」
 「へえ、なんでですか。」
 「将棋道場なんかでくすぶっているからさ。くすぶっ ていてカモが来るのを待っているのさ。」
 「それなんですよ。名前だけじゃなくって、将棋や碁 は道場や会所が結構いろんなところにあって、そこいくと 相手がいるじゃないですか。でも、かるたは、そういうい つでも練習相手のいる道場がない。」
 「そうさなあ。普及の度合いが違うからなあ。」
 「それに囲碁・将棋は新聞に欄があって、毎日棋譜が 載るんですよ。関係の本もたくさん出版されてます。かる たもそのくらいメジャーになりませんかね。」
 「普及、競技人口増加、スポンサーの獲得、メジャー にするには、大変な努力が必要だよ。」
 「でも、親方。競技人口が増えれば、札の購買層が厚 くなります。ぼくらの商売が日の目を見る時も来ますよ。」
 「そうか。普及は営業活動でもあるわけだ。」
 「『かるた師』は、札作りだけじゃないんです。取る人 も『かるた師』、普及のために教える人も『かるた師』な んですよ。この言葉も普及させたいですよね。」
 「ああ、それもいいけど、今日のお前さんは、かるた 取ってる時より、そういうことを話している時のほうが元 気だぞ。」
 「そうですか。」
 「ああ、それから、もう一つ。今日は、お前さんが貼 った札を使ったけど、もうこんなに痛んだぞ。同じ時期に おろしたおれの貼った札と交互に使っているから、その差 がわかるだろう。」
 「はい。」
 「原因もわかるな。」
 「糊の塗り方ですね。」
 「そうだ。お前さんのはムラがあるから痛みやすいん だ。人の手に馴染んでもらうには丈夫であることも大事な ことだ。ちゃんとおれの技術を盗めよ。」
 「はい。」
 ミツオだけが、饒舌だったわけではない。蓮沼も何故 かこの日は、いつになくおしゃべりであった。ミツオの卒 業が決まった嬉しさだったのだろうか。それとも、木の芽 どきの季節がそうさせたのだろうか。

  *

 内弟子生活の朝は早い、師匠よりはやく起きて、工房 の清掃をする。その日の仕事の準備を整えて、母屋に行っ て朝食の準備である。蓮沼だけが、朝からご飯と味噌汁で ある。おかみさんもミツオもコーヒー・トースト派だ。蓮 沼は昔ながらの朝食へのこだわりだった。「パンなんか食 ったって、食った気がしねえ。朝飯しっかり食わないとい い仕事ができねえぞ。」というのが、お決まりの台詞だっ た。といっても、ご飯も、味噌汁も前の晩の残りを温め直 すだけでいいから、それほど、面倒ではない。これに納豆 やら海苔の佃煮、おしんこ程度があれば充分だった。試合 のある日には、これに生卵をつけた。
 この朝は、蓮沼の分を用意する必要はなかった。桑名 大会に出て泊って帰ってくるからだった。
 母屋にいくと、おかみさんがすでに食事の用意をして 待っていた。
 「おはようございます。申し訳ございません。おかみ さんにやらせちゃって。」
 「いいのよ。うちの人がいない時くらい。」
 ミツオは、こういう時の話が苦手だ。何か話をしなけ ればと思う反面、何か話しかけてくれれば話しやすいのに と思う。
 「おかみさん。」
 「ミツオくん。」
 ふたりは、ほぼ同時に口を開いた。
 「おかみさんから、どうぞ。」
 「いいえ、ミツオくんから話しなさい。」
 そう言われると、話さないわけにはいかない。つまら ないことなのだと思いつつも。
 「親方は、優勝できたでしょうかね。」
 「さあ、どうでしょうね。でも、あなたが来てから、 本当に気分が若返ったみたいよ。話ってそれだけ?」
 「ええ、そうですけど。おかみさんのほうの話はなん ですか。」
 「あのさあ、ミツオくんさあ。最近何か悩みでもある んじゃないの。うちの人に仕えるのって結構大変でしょ。 不満があるなら、相談してちょうだい。食事の仕度だって あたしがしたっていいんだから。あの人が、修業の一環だ っていって、あたしにあまりさせないようにしてるだけな のよ。」
 「えっ、そんな食事の仕度なんか、全然苦にしてませ んよ。どうして、悩んでいるように思うんですか。」
 「だって、最近、ひとりでボーッと考え込んでたり、 フーッと突然ため息ついたり、今日もどことなく表情が暗 いわよ。」
 「そう見えます?」
 「ええ。」
 「そうですか。そんなつもりじゃないんですけどね。」
 「………」
 「いや、でも…。」
 「なによ。はっきりおっしゃいよ。うじうじしてちゃ だめよ。」
 「ええ。ほら、前におかみさんに話したことがありま すが、ずっと付き合ってる子の話。」
 「えーと、春日さんって言ったっけ。」
 「そうなんです。内弟子に入ってから、会う機会が減 ったんです。電話も最近は、かかってこないので、こっち からたまにかけるんですが、そっけなくって。最初は、内 弟子って大変でしょうけど頑張ってって励ましてくれたん ですよ。『はやく一人前になれるようにね。待ってるわ。』 なんて言ってくれてたんですよ。」
 「ふーん。」
 「それが、卒業が決まったって電話したら、『おめでと う。佐多くん、用事はそれだけ。じゃあね。』って。」
 「仕事で疲れていたんじゃないの。」
 「いいえ、そんなことじゃないんです。問題は、『佐多 くん』って呼び方なんです。今までは『ミツオくん』って 呼んでいたのに、なんかよそよそしい。」
 「そうか、それで沈んでいたんだ。それは、女心の変 化を感じるわね。」
 「そんなあ。」
 「ミツオくんには、きびしいかもしれないけど、彼女 の気持ちは去っていっちゃったのか、去りつつあるのかっ てところね。」
 「………」
 「たしか、同級生でしょ。大学出て三年。二十五歳。 結婚を意識する年齢よね。かたやお相手は、いまだに大学 生で、金にならないかるた札作りの職人見習いでしょ。う ちの人だって、独り立ちするまでは結婚は認めないでしょ うね。最低あと四年は待たせることになるわね。それに独 立したって、仕事がどれだけくるかわからないから、女房 食わしていけるのかしらね。それを考えるとね、普通は気 持ちが離れていくわ。相手のご両親なんか特にそうよ。こ んな不安定な仕事の男に娘はやれないわよ。」
 「ご両親とも結構打ち解けていたんですけど…。」
 「それは、あなたがこの道に入る前でしょ。前途有望 な大学生時代の話でしょ。世間様が、この商売を見る目は きついのよ。」
 「おかみさんはよく、そんな商売の人と一緒になりま したね。蓮沼家の経済生活は、おかみさんが支えているわ けですよね。」
 「それはね。あたしがあの人に心底惚れているからね。 何も苦にならないのよ。それにあの人の技や芸に惹かれて いるからね。札作りも競技かるたもね。あの人の作品を大 枚はたいて買ってくれるタニマチのような人もいるけどね。 あたしには、あたしがあの人の最大・最高のタニマチよっ て自負があるの。ミツオくんもあたしのような人を見つけ なさい。」
 「それは、彼女と別れろってことですか。」
 「いや、そうは言ってないけど。彼女は親の反対を押 し切ってまで、苦労を買ってでもあなたについて来てくれ るの? しかも、あと数年待たせて。」
 「そうですね。彼女ときちんと話をする時期なんでし ょうか。」
 「大人の社会では、ただ好きだ、嫌いだでは片付かな いことが一杯あるのよ。あたしたちはそういうしがらみの 中で生きているの。ミツオくんは、うちの人の小野小町の 図案見せてもらったことある。」
 「あの絵にも描けないほどに美しいので後ろ姿の絵柄 にしたってやつですか。」
 「いいえ、その掟を破って正面から描いている図案が あるの。」
 「いえ、見たことないです。」
 「その図案の顔はね、おそらくうちの人が心から愛し た女のイメージなのよ。あたしじゃなくってね。」
 「………」
 「あたしは、どうせ美人じゃないから、いいんだけど ね。今でもその女があの人の中に生きていて、札として最 高のテーマの中で使われることに嫉妬を感じざるをえない のよ。でも、まぎれもなくその図案は、あの人の作品の中 でも最高の出来ね。あたしは、その作品には強く惹かれる の。不思議よね。理屈じゃないのよ。」
 「………。」
 「あの人にも、いろいろな別れがあったと思うわ。」
 「………」
 「ごめんなさい。変なこと言って。彼女とうまくいく といいわね。あっ、こんな時間。つい話し込んじゃったわ。 じゃあ、仕事に行ってくるから、片づけお願いね。」
 「は、はい。」
 「彼女とうまくいくといいわね。」という、このとって つけたような言い回しは、春日あかねとの仲に関して、ミ ツオに不安感を抱かせるのだった。

 「おーっ、帰ったぞ。」
 昼を過ぎて、ミツオが一人で黙々と札の裏紙を貼って いると、蓮沼が帰って来た。
 「あっ、お帰りなさい。」
 「どうだ。はかどってるか?」
 「ええ、まあ。」
 「なんだ。そのしけた返事は。たとえ、はかどってな くたって、『へいっ。ばっちりでさあ。』って景気のいい返 事をするもんだよ。」
 「へいっ。合点で!」
 「それじゃ、わざとらしすぎるな。」
 「それより、桑名の結果はどうでした。」
 「ああ、それか。うーん、どうだったと思うんだ。」
 「どうでしょうね。優勝したなら、優勝したぞって言 いながら帰ってきそうなもんですよね。早く負けたなら、 予定を切り上げて早く帰ってくるでしょうから……。ずば り、三位でしょう。」
 「惜しかったな。準優勝だよ。」
 「誰に負けたんですか?」
 「それがよ、おれはあんな奴がA級にいるなんて知ら なかったよ。スミスとか言う外人だった。」
 「デビッド・スミス、ハワイ出身、千葉有明会所属、 キャリア二年半。先月の白妙会の大会でB級優勝。おそら く、今回がA級デビュー戦。配偶者有り。山根志保という 選手が出場していたら、奥さんですよ。」
 「ミツオ。お前なんでそんなに詳しいんだ。」
 「いや、わけあって来日当初面倒見たもんで。それに 山根志保は、同じ大学でしたから。」
 「へえ。その山根とは、準決勝であたったよ。終盤、 一枚・十枚から、粘りに粘られて九枚連取されたよ。最後 は、おれがつもったけど。」
 「デビッドが残っていたから、援護射撃のつもりもあ って粘れたんでしょうね。どうでした。強いと感じました か。」
 「ああ、いいかるた取ってたよ。でも、準決勝はリー チかけるまでは、おれ絶好調だったからな。」
 「決勝はどうでした。」
 「あいつは、時々異様に速いと感じる札があったな。 外人特有の耳の良さかもしれないな。向こうがお手つき四 回、おれが五回の乱打戦になっちまってよ。二枚差で負け ちまった。なんか終盤の送りが変だったな。」
 「どう変でした?」
 「おれは、『もろ』『ひとも』『この』『あはじ』の四枚 を持っていた。『も』と『ひ』が一字決まりで他は二字だ った。あいつは、『あらざ』と『いまこ』『いまは』を持っ ていた。『いま』は二枚で一字になっていた。ここで、『ひ とも』が出て、あいつが取った。ミツオなら何を送る。」
 「そうですね。『いまは』ですね。」
 「そうだろう。おれだって『いま』をわける。それを 『あらざ』を送ってきた。それだけならいい。それまで、 自陣の左下段に二枚並べていた『いま』を左右にわけた。」
 「変ですね。お手つきが怖くて残したとしたら、一字 感覚で取ればいいんだから、普通固めて置くように思いま すけど。」
 「おれは、面喰ったよ。このあと、『あはじ』『あらざ』 とおれが守って、そのあとが『いまこ』だったんだが、お れは逆の『いまは』を払っちまった。そして、この一枚も 守られて試合終了だ。なんか変な感じの終盤だったな。あ いつは、おれの陣を攻めてたのかなあ?」
 「へえー、そうですか。きっと、親方の狙いを分散さ せたかったんじゃないですか。あーあ、久々にデビッドと 取ってみたいなー。きっと変わったんだろうな。」
 「時代が変わったんだよな。外人がかるたを取る時代 になったんだもんな…。そうだ。ミツオに折り入ってお願 いがあるんだ。」
 「えっ。なんでしょうか。」
 「悪いが、京都の師匠のところに手伝いに行ってほし いんだ。おかみさんの具合が良くなくて、入院するんだ。 もう、あそこは弟子をとってないんで人手がないんだ。修 業を兼ねて、師匠の仕事を手伝って来てくれないか。」
 「いつから、どのくらいなんですか。」
 「そりゃあ、早いほうがいいんだが…。そうだよな。 ミツオは最後の学生選手権を狙っているんだよな。職域・ 学生大会も出る予定だし。うーん、四月一日からでいいや。 最長で一年。それ以上長引く場合は、一門の他のところか ら交代要員が出ることになっている。お前さんにとっては、 大師匠の技を盗むいい機会だと思うんだが。」
 「なぜ、うちが一番手なんですか。」
 「いや、おれが弟子取ったことを聞いて、ぜひ使って みたいって言うんだよ。おれも、師匠孝行しないといけな いと思ってさ。いい顔見せて来たんだよ。」
 「かるたの練習はどうしましょう。」
 「京都でも練習会をやってるよ。お前さんとこの大学 のOBもいなかったっけ。」
 「そういえば、そうですね。上方のかるたを知るのも、 いいかもしれないですね。ところで、住み込みですよね。」
 「おれが修業時代に使っていた部屋を使っていいそう だ。」
 「わかりました。少し考えさせてください。親方のと ころも、とてもいいんで、離れがたいですし……。しばら く時間をください。」
 「わかったよ。でもさ、ちょくちょくおれも行くつも りだからさあ。小倉忌大会なんか一緒に出ようぜ。そうい うことも合わせて考えてくれよな。」
 「はい、考えさせていただきます。」
 こうしてミツオは、かるたの送り札を決めるよりも難 しい選択を迫らることになったのだった。

  *

 春分の日。この祝日を迎えると、まさに春を感じる。
 暦の上では「立春」があるのだが、まだまだ、寒い最中で もあり、「春分の日」にはかなわない。「暑さ寒さも彼岸ま で」とは良く言ったものである。
 工房「蓮沼碩学堂」もこの日は休みだった。蓮沼の仕 事には特に急ぎの注文といったものは少ないので、日曜・ 祝日は工房も休業を原則としているのだ。ミツオは、この 他、土曜も工房の仕事からは解放されていた。ただ、土・ 日にアルバイトをしておかないと自分の自由になる金は稼 げない。そういうわけで、かるたの試合も絞り込んで出場 することになる。また、土曜に工房の仕事がないので、ア ルバイトの時間をやりくりすれば、大学の練習にも大手を 振って行くことができた。なんと言っても、ミツオはまだ、 大学のかるた会の一員なのだ。
 この日、蓮沼の所属する東京不動会は、練習会をやっ ていた。ミツオは、蓮沼と工房で練習する以外にも、この 会の練習によく参加するようになっていた。ミツオは、卒 業が決まったあと、移籍の話を蓮沼に切り出したことがあ った。蓮沼のところに世話になっているのに大学のかるた 会所属のままでは悪いと思ったからだ。
 しかし、蓮沼の考えは違った。
 「自分が、心底、東京不動会の人間になったと思った ら移ればいいじゃないか。今のお前さんは、骨の髄まで大 学のかるた会の人間だよ。無理することはないんだ。それ に札作りにおいては師弟関係だが、競技になればそれは関 係ない。会が違ったほうが、試合で対等に戦いやすくない か。」
 「そうですね。確かに卒業後に一般会に移籍する人も いれば、ずっと大学かるた会の所属のままの人もいますよ ね。まあ、こうでなければならないなんてスタイルはない んですね。わかりました。世間のしがらみなどは考えずに、 自分が今どこの所属がピッタリ来ると感じるのかを大切に したいと思います。所属は今のままにしておきます。親方、 一回戦でぼくと当たって負けても、恨まないでください ね。」
 ミツオは、蓮沼に明るく答えていた。
 さて、東京不動会は、その名のとおり、目黒のお不動 さんからの命名である。江戸の街には、目黒、目白、目赤、 目黄、目青の五不動が設置され、江戸城を結界で守ってい たと言われる。太平洋戦争前にあった目黒歌留多倶楽部を 前身とし、戦後の復興の中で、かるたを再び楽しもうじゃ ないかと同好の士が再び集まったのだ。しかし、現在では、 往年の名選手たちは老いてしまい、一線級の選手は蓮沼く らいしかいない。最近は、主婦層への普及活動が効を奏し て、その子供たちの中から有望な選手が育ちつつある。こ の日も高校生が二人、中学生が二人、地元の主婦が三人ほ ど練習に参加していた。公民館の十二畳の和室には、練習 に打ち込む四組の熱気がこもっている。
 「…かひなくたたむなこそをしけれ…
   …みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに…」
 詠み手は、蓮沼の妻だった。ミツオは、練習場で見る のも初めてならば、その詠みを聞くのも初めてだった。高 いが通る声で詠む。こんなにちゃんと詠めるのだったら、 工房での二人の練習の時にも詠んでほしいなとも思ってい た。
 「はいったったっ!」
 男子高校生の元気のいい声が飛ぶ。相手をしている蓮 沼も嬉しそうだ。
 「うん、今のはいい攻めだ。」
 蓮沼はミツオと取る時には、絶対にこんな表情を見せ ない。ミツオは札作りにおける弟子であっても、競技にお いては、蓮沼の弟子ではないことを改めて感じていた。蓮 沼が競技において、弟子として手取り足取り育ててきたの は、この高校生たちなのだ。そう思うと、ミツオは、対戦 相手の女子高校生への取りにも力が入る。蓮沼が、自分だ けの師匠でないことを妬いているのだろうか。
 何枚か札が詠まれ、ミツオの右下段の札で取りが揉め た。
 「今のは、札から入ってます。」
 「こっちも札から行ってるから、入ったってのは無理 だよ。」
 「けど…」
 「けどじゃないっ!無理っ!」
 「でも、私、取ってます。」
 何を熱くなっているのだろう。ミツオは自分でこう思 いながらも、引っ込みがつかなくなっていた。いつもだっ たら譲っているケースだ。
 送ってきた札を逆向きにして返したら、とたんに涙を ボロボロと流し始めてしまった。
 「わかったよ。」
 ミツオは、再度、送られてきた札を受け取った。決し て泣かせるつもりなどなかったのだ。
 「試合中に涙を見せるな。ミツオも泣かれたくらいで 札を受け取るんじゃない。泣かれて受け取るんだったら、 最初から受け取っとけ!」
 蓮沼がビシッと言う。ミツオは憮然と、相手は目を赤 くはらしながら取り続ける。結局このあとは、ミツオが取 りまくって終わった。十一枚差だった。
 「熱くなって申し訳ない。ごめん。」
 「わたしこそ泣いてしまってすみませんでした。」
 互いに謝ったが、ミツオは、感情的になっていた自分 自身に釈然としなかった。
 この日の練習が終わり、蓮沼が講評する。
 「試合中に気合を入れて、気持ちが競技に入り込んで いくのは別にかまわない。しかし、気を入れるのと感情的 になるのは、まったく別物だからな。気合が乗ってきても 冷静でなきゃいけないんだ。冷静であれば、涙を流すこと もないだろう。いいか、競技中は感情もコントロールでき るようにな。常に別の視点で自分を見ることだ。今日は、 この点を反省しなきゃいけない人間が二人いるな。それか ら、奥様方は、今日もご苦労さまでした。せっかくなんで すから、試合に出ましょうね。実は、今日は四国の松山で 大会があったんですよ。地方の大会に旅行がてら出かける っていうのもいいもんですよ。では、本日の練習は終わり ます。ありがとうございました。」
 「ありがとうございました。」
 締めの礼で、練習会は終わった。
 蓮沼は、若い連中と奥さん連中では、全然対応が違う。 奥さん連中相手には、全くの営業スマイルだ。いつもの頑 固な職人気質はどこに行ってしまったのかと思うほどだ。 要するに、苦手でどう対応していいかわからないというと ころなのだろう。ミツオは、こういういつもと違う蓮沼を 垣間見るのが好きだった。そう思うと、京都に行って見ず 知らずの大師匠の手伝いをするというのは、気がすすまな い。しかし、返事の期限と約束した卒業式の日は、あと数 日に迫っていた。

  *

 東急東横線の日吉駅を降りると、道を一本隔てて大学 のキャンパスが広がる。銀杏並木の先には、卒業式の会場 となる記念館と呼ばれる建物がある。ここから入学式とい うスタート地点を出発したのは七年前だった。今度は、卒 業式というゴール地点として、同じ建物が存在する。費や した時を思うと百メートルほどの並木がやけに長く感じら れる。手にした傘が重く感じるのはなぜであろうか。
 卒業式に降る雨は、卒業できなかった者の涙雨だと言 う。ということは、ミツオも、昨年の雨の原因の一人であ ったわけだ。
 「おーい、ミツオ!」
 名前を呼ぶ声の方に目をやると、雨合羽を着込んだ高 橋が立っている。
 「よおっ。卒業おめでとう。」
 「先輩、雨の中、ご苦労さまです。道案内ですか。」
 「場外整理係なんだよ。雨の中はさすがにつらいね。 熊野は場内だからいいよな。」
 「藤沢勤務でも、日吉にかりだされるんですか。」
 「藤沢からも卒業生がいるからな。卒業式は、大学の 一大イベントなんだよ。」
 「はあ、そういうもんですか。それよりも、七年間、 本当にいろいろとお世話になりました。入学式のあとに先 輩に声かけられたのも何かの縁だったんですね。」
 「そんなこともあったか。まあ、いろいろあったけど、 卒業できてなによりだよ。心残りは、ミツオが藤沢キャン パスの練習に来てくれなかったことくらいかな。卒業して からでもいいから、一度稽古つけに来てくれよ。」
 「三人くらいいるんでしたっけ。ぜひ伺いますよ。」
 「ミツオは知ってると思うけど、最近は、デビッドが すごいらしいじゃないか。桑名に続いて、松山でも優勝し たんだって。」
 「らしいですね。うちの親方なんか、全日本選手権や 名人戦には、国籍条項を設けなきゃいけないんじゃないか なんて言ってますよ。」
 「蓮沼さんも、いまどき、古いことを言うね。国際化 の時代に逆行してるじゃないか。外人が活躍するのはいい ことだよ。外人に名人位を取られたくなかったら、日本人 選手が頑張ればいいだけの話だよ。」
 「まったくですね。強くなったデビッドと取ってみた いですね。きっと、志保が強くしたんでしょうね。」
 「志保も、入賞の常連じゃないか。おれも練習する時 間がほしいよ。」
 「しかし、高橋さん、最近全然試合にも、こっちの練 習にも顔出してないって聞いてますけど、相変わらず情報 持ってますね。」
 「いや、最近話題のインターネットメールってやつだ よ。全国のかるた会関係者のメ―リングリストに入ってる んでね。試合の結果が流れるのは早いよ。」
 「へえ、そうなんですか。」
 話し込んでいると、係りの手伝いをしている学生が高 橋を呼びに来た。電車が到着すると卒業生のかたまりが、 並木道にどっと流れてくる。
 「お忙しそうですね。では、また。」
 「ああ、雨の中、引き止めちゃって悪かったな。じゃ あ、またな。」
 「失礼します。」
 高橋と別れて、混み始めてきた会場に入ると、熊野が 見えた。何やら、大きな声で左右に分れてフロアに降りる よう指示している。話しかけられような雰囲気ではない。 それでも、熊野はミツオに気づいたようだ。こっちに向か って手をあげて合図する。一応、ミツオも挨拶代わりに手 をあげて合図を返した。しかし、ミツオは、人ごみに押さ れて前にどんどんと流されていった。
 入学式の日、多の中に埋没して平凡な学生生活などと 考えていたことが嘘のように感じられる。こうして、今は 多くの卒業生の中に紛れているが、学生生活は決して平凡 なものではなかった。七年間かかって卒業する人間がいっ たいこの中に何人いるのだろうか。かるたの札作りの職人 見習いとして内弟子生活している人間など自分以外にはい ないだろう。それというのも、かるたという競技との出会 いがひとつのきっかけだったのである。
 ミツオは大学生活を振り返って、心から楽しかった。 そしてこれからの生活も楽しくありたいと思った。
 卒業式は、けじめである。そう思うと式辞や祝辞、送 辞、答辞といった月並みな儀式も苦にならなかった。その 間、思いは七年間のできごとの中を巡っていたからだ。七 年前の入学式には、まだ知り合いにはなっていなかったが、 石田や敷島、西寺に山根、そして春日あかねが一緒に出て いたはずである。この同期六人のうち、今この場にいるの は、ミツオだけだった。今一緒なのは、三年後輩の連中で ある。前田と支尾が、おそらくこの会場のどこかにいるの だろう。前田は途中から入って、実質一人の代で会長を勤 めざるをえず苦労した。また、支尾は、藤沢キャンパスの メンバーとして、高橋とふたりで練習会を立ち上げた。き っとひとりひとりに様々な思い出があることだろう。ミツ オにとっても、彼らにとっても、かるた会での活動・生活 が、学生生活の思い出の重要な一ページなのだ。
 締めくくりの校歌とともに頬をつたう涙に意外の感を 否めないまま、ミツオは、かるたとの出会いの意味をもう 一度噛み締めていた。

 学位記を受け取り、キャンパスをうろうろしていると 八角に出会った。八角は、東横線一本で来れるせいか、こ のキャンパスの図書館をちょくちょく利用しているらしい。 大学院生の学位授与式は、もう少し遅いのだ。
 「佐多先輩、卒業おめでとうございます。」
 「いやあ。まあ、ありがとう。八角も修士卒業なんだ よな。」
 「ええ。」
 「進路はどうなったの。」
 「アメリカに留学しようと思ってます。向こうは九月 からですから、しばらくは、英語の勉強ですよ。」
 「ふーん。まあ、勉強が好きなんだな。」
 「就職したくないだけのモラトリアム人間ですよ。」
 「就職しなくても、勉強を続けられるだけの経済的基 盤があるんだからいいよな。」
 「先輩の仕事は、お金になるんですか。札屋さんなん でしょう。」
 「札作りの職人だよ。今は見習いだから金になんかな らないよ。住むところと食べることは親方に面倒見てもら ってるけど。」
 「先輩、普通にサラリーマンになったらよかったのに。 そういう普通じゃわからないことをしてるから、あかね先 輩は…。」
 「えっ。あかねちゃんがなんだって。」
 「あっ、いえ、その……。」
 「なんか知ってるんだろ。教えてくれよ。最近のあか ねちゃんは今までと違うんだ。ぼくに距離を置いてるって いうか。つれないんだ。」
 「うーん。まあ、いずれわかることなんでしょうから。 私から聞いたって言わないでくださいよ。」
 「ああ、言わない。」
 「あのー、あかね先輩は、ご両親の勧めでお見合いし たんですよ。今は、その人とお付き合いしてるんですっ て。」
 「えっ?」
 「先輩にも責任あるんですよ。あかね先輩のことかま ってあげなかったんだから。」
 「そんなこと言ったって…。」
 「ご両親は、定職ももたない男に娘をやれるかって言 ってるらしくって。随分とお見合いを勧めたんですって。 ついにあかね先輩も断わり切れずにお見合いしたんです よ。」
 「定職どころか、大学も卒業してなかったんだからな。 そう言われてもなあ…。」
 「でも、しぶしぶのお見合いも、結構、瓢箪から駒だ ったみたいですよ。話も趣味もあったみたいで…。」
 「で、どうなった。」
 「その後も、お付き合いしているようですよ。」
 「えっー?」
 「じゃあ、私はこれで。知ってることは、みんな話し ましたから。さようなら。」
 うすうす何かあるとは思っていたが、ミツオは気持ち の中で否定もしていた。それが、こうした形で否定できな くなってしまった。ミツオは、あかねと話してことの真相 を聞くしかないと決意していた。

 卒業式の晩は、卒業準備委員会による卒業記念のパー ティーが都内のホテルで大々的に行なわれる。しかし、参 加費もばかにならないこの会に出る予定のなかったミツオ は、蓮沼の工房に戻っていた。
 「親方、決心がつきました。明日からでも京都の大師 匠のところに手伝いに行きます。」
 「そりゃよかった。よく決心してくれたなあ。ありが とうよ。」
 「いえ、そんな。」
 「でも、無理して明日からなんて言わなくていいから な。学生選手権狙っているんだろ。それに職域・学生大会 も出なくていいのか。」
 「いえ、出るのをやめたからいいんです。それより、 親方にお願いがあるんですけど…。」
 「なんだ。あらたまって。」
 「よかったら、酒を呑ませてくれませんか。」
 「おやすい御用だ。ミツオの卒業祝い兼壮行会だな。 今、一升瓶とつまみを持ってくる。ちょっと待ってろ。」
 ミツオは、このしばらく前に春日あかねに電話をかけ ていた。あかねの返事は、そっけないものだった。要する に、二人の生活の座標軸がずれてしまったことが原因だっ た。そして、時間軸さえ異なっていた。あかねは、今の自 分を同じ座標で支えて、同じ時の流れの中を一緒にいてく れる人物を選んだのだ。
 「おー、待たせたな。今夜は茶碗酒だ。つまみは、豪 勢にビーフジャーキーだ。」
 蓮沼が一升瓶を抱えて戻ってきた。ビーフジャーキー の袋には大きく天狗の顔が描かれている。
 「まったく天狗ブランドなんて花札と一緒だよな。」
 「でも、親方はそれが好きで買ってくるんでしょう。」
 「まあな。」
 蓮沼も、ミツオの様子に何かを感じていたのだろう。
 ついでつがれて、つがれては呑む。呑み続けることが、言 葉のない会話なのだ。
 ミツオは、いま、蓮沼が目の前にいてくれることが嬉 しかった。卒業は、ひとつの過去との訣別でもあるが、新 たな未来への出発点でもある。
 この晩のミツオにとって、忘却は未来への切符であっ た。


  Copyright:Hitoshi Takano

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