1930年代のF.ルーズベルト大統領によるニューディール政策は、その後50年あ まり続く議会での支配と、6人の大統領を送り出す原動力を民主党に与えた。 そのインパクトは、あたかも民主党が戦後一貫してアメリカ政治の主流であっ たように「見える」効果を生んだが、実際は1960年代からの一連のアメリカ社 会の変容とともに、政治の潮流もまた少しずつ変化を見せてきた、というのが 実像なのである。
ニューディール政策は、民主党に非常に幅広い層からの支持をもたらしたが、 それはある一定の留保条件(人種問題に目をつぶる、合衆国の好景気など)を背 景とした、「大きな政府」による「再分配」という政策への共感からだった。 この段階においては、リベラル=労働者階級(低所得者層、中間層)VS保守=企業 経営者(富裕者層)という対立軸が存在していたが、この図式が1960年代に大き く変化を見せはじめるのである。
それまでの経済の対立軸に代わって、社会問題が大きな焦点になった。つまり アメリカ政治は人種・価値、権利の拡大、福祉の拡大、それに伴う政府支出の 増大に対応するための税金の問題という対立軸で争われ始めたのである。この 流れを巧みに利用したのが共和党であった。
1964年の大統領選挙で共和党の大統領候補者となったバリー・ゴールドウォー
ターは、小さな政府、社会保障の縮小、人種差別是正の州への移管、外交問題
での孤立化など伝統的な自由放任主義への回帰を主張し、ジョンソンと鋭く対
立した。結果的に彼は大敗したものの、その後のアメリカ政治の流れの重要な
転換点を作り出した。つまりこの64年選挙でリベラルと保守という意味が根本
的に塗り替えられたのである。その後、ジョージ・ウォレスやリチャード・ニ
クソンらによって進められた共和党の運動の中で、リベラルという言葉は侮蔑
的な響きを持たせられ、保守という言葉が民主党のリベラリズムに危機感を抱
きはじめた下層・中間労働者階級にとって魅力のある「ポピュリズム」を象徴
する言葉となったのである。要するにウォレスらは、有権者の不満を政府主導
のリベラル政策の推進者、「民主党エスタブリッシュメント」(民主党とその
エリート幹部、政府官僚、マスコミ等)に向け、従来米国ポピュリズム政治の
悪役だった上流保守体制の後釜に据えたことで、強固な民主党の支持基盤であっ
た南部も含め、共和党が幅広い支持者層を得るための重要な役割を果たしたの
である。
ニクソン政権では、むしろジョンソン政権が進めてきたリベラリズム政策がよ
り強化される傾向にあったが、これは主に、民主党が支配する議会と、リベラ
ル的な最高裁判所による面が大きかった。その結果人種・権利・税金の
対立軸に加え、アファーマティブ・アクションによるクォータ制、女権、信仰
心(中絶問題)、経済の悪化による生活保護の増加など、諸々の対立は人種と他
の文化的、道徳的、社会的問題とが融合する形でますます先鋭化し、また民主
党内の一連の改革により、民主党はますます「エスタブリッシュメント」たち
(及び黒人)が支配し、再配分を推進し、その結果痛手を被っているのは自分た
ちだ、という感情を有権者の多く(白人中間層)に抱かせたのである。そして彼
らの多くが、後に「レーガン・デモクラッツ」と呼ばれる民主党からの離反層
となっていった。
ウォーターゲート事件によって、政治不信が高まり、一時的に左派グループに 政治の主導権が移った。民主党はそれにより保守への反動が収まったものと認 識したが、実際は上記のように、80年のレーガン革命に至るうねりは脈々と胎 動を始めていた。70年代を通じ、反税闘争などを通じて共和党のポピュリズム が大企業の思惑(規制緩和=過剰な政府の介入を抑制)と合致しはじめ、それに よる財界からの強力な資金援助、キリスト教右派(モラル・マジョリティなど) からの支援などを受けはじめ、64年にゴールドウォーターが作り出し、ウォレ ス、ニクソンにより強化された保守化のうねりはついに真に強力な政治勢力 (超階級的連合)として結集し、80年の選挙でロナルド・レーガンを大統領に押 し上げるに至ったのである。
レーガンは、在任中一貫してリベラル的な政策に反対し続け、さらにそれを政 策の中心議題に据えることで民主党連合への攻撃をさらに強化した。実はレー ガンの大きな支持勢力であった「レーガン・デモクラッツ」は、共和党よりも 保守的であり、共和党の人種を軸にした攻勢に敏感であった人々、つまり権利 の拡大により、自らの生活に脅威を抱いていた人々がその中心を占めていた。
民主党にとって皮肉なことに、彼らはリベラリズムを平等主義の努力成果と見
ていたのに、実際の有権者の多くが、その政策を逆差別だとして平等主義の立
場から批判したのである。
また、レーガンは従来リベラリズムを支持してきた司法に自らが指名した保守 的な判事を多数送り込むことで、自らの政策に対するイデオロギー的裏付けを 与えることに成功するなど、保守的な潮流を決定付けたといえる。結果的にレー ガン時代の共和党の運動を通して、70年代に問題となった数々のイシューはよ り強調、かつ記号化され、有権者に民主党への不信感を増大させていったので ある(「特定のグループ」「大きな政府」「逆差別」「特別利益団体」など)。
一方民主党の数々のプログラムはそれなりの成果(黒人中産階級の登場と増大)
を挙げるようになっていたが、社会問題(犯罪、麻薬、アンダークラスの増大)
にはますます拍車が掛かり、それを民主党のプログラムと関連付ける共和党の
攻撃によって、成果が帳消しというイメージを与えられてしまい、また党内革
命の結果ジェシー・ジャクソン(黒人指導者)らがリベラル派のイデオローグと
なったが、共和党に匹敵する政治運動の専門家集団を持たなかったため、宣伝
戦で歯が立たず、なおかつジャクソンらの台頭は民主党と社会的弱者の勢力と
の結びつきをますます印象づけたのである。
88年の選挙では、レーガン在任中の財政赤字の増大やイラン・コントラ事件、 貧富の差の拡大などから目を逸らさせる目的もあって、民主党への記号を使っ た攻撃はますます勢いを増した。
それら(アメリカ国旗、ウィリー・ホートン事件、ACLU(アメリカ自由人権協会)、
死刑)を強調したいわゆるネガティブ・キャンペーンが強烈に行われたことに
より、当初17ポイントのリードをつけられていたブッシュ陣営はその差をひっ
くり返してしまったのである。
このような保守化の潮流は、アメリカ社会が分極化しているという背景に強く
影響されている。都市の荒廃に伴い、中流層の郊外への脱出が始まり、そこで
形成された住民層は、中道右派的な傾向(特に社会問題に関する道徳的疑問)を
持ち、政治的に大きな勢力となった。このことは都市部の黒人、ヒスパニック
を中心とする貧困層の孤立化を促進し、なおかつ地方自治制度により中流層の
ニーズは満たされつつあるので、連邦政府への風当たりはますます強くなり、
それにより貧困層への支援は減少し、その結果、ますます多くの中流層が郊外
へ流出するといった悪循環が見られはじめている。
つまり、アメリカ政治の潮流としては、「保守化」という大きな流れが、社会 の変容を背景として形成されてきたのは疑いのないところである。このような 状況でアメリカ政治は92年の選挙を迎えたのである。その詳細については次節 で詳しく解説するが、ポイントは、ブッシュの失敗(増税など、リベラル的な 政策に歩み寄ったこと)が民衆の不満を拡大し、ぺローの参戦を生み、結果的 に僅差でクリントンに勝利をさらわれた、といったような、必ずしも保守の潮 流を否定するものではないことが分かる。
クリントン勝利の直後は、アメリカ政治におけるリベラリズムの復活が盛んに
喧伝されたが、今97年時点から振り替えると、ブッシュに失望した有権者、特
にレーガン・デモクラッツが、クリントンの示した新しい「保守的な」民主党
の姿に希望を見出した、ということではなかっただろうか。