仏教へのプラグマティックな関心と「創造におけるマインドフルネス」

2018.03.31 Saturday 10:12
井庭 崇



僕が創造が、思考の話ではなく、発見の連鎖に委ねることだと考え出したのは、カオスの研究をしていたとき。そのとき、僕らは、カオスのシステムのなかに複雑で美しい秩序が潜んでいることを、それまでとは異なる視点で発見した。inventかdiscoveryかという二項対立がよくあるが、僕はどちらもである、と感じた。そのカオスの秩序は、光の当て方という意味ではinventだが、その秩序はもともと潜んでいたという意味でdiscoveryである、スティーブンキングが、物語は、化石のように掘り起こされるのを待っていて、作家は注意深くそれを掘り起こすんだと言っているが、それは同様のことを言っているように思う。つまり、科学的発見も創作的発見も、機能的には同じであるという捉え方が得られ、それが僕の「創造システム理論」のベースになっている。

さて、プラグマティストであるということはどういうことか。命題を、そのままでそれが真か偽かを判定できないという考え方をする。それを「もしこうしたら、こうなる」というかたちに変換してそれで検証する、すなわち効果があることで、その命題を真と言えるという立場である。そういう視点から、ティク・ナット・ハン師の本などを読んでいる。

つまり、どの宗教でも「よい行い」を勧めるときには、「ブッダはこう言った」というように、その言われの元に根拠を置いて説明・説得する。それゆえ、ブッダを信じるかどうか、ということになり、信仰となる。

僕はプラグマティズムで考えるので、「よい行い」がどのようなよい結果を生むかで、その行いを評価する。つまり、その行いが誰によって言われた・実践されたかではなく、その行いそのものと、その結果に注目する。これが、パターンランゲージ3.0をつくることで僕らがやっていることでもある。ある分野の実践において、どういう状況でどうすることが推奨され、それはどんな問題を回避してどういうよい結果(質)を生むのか、というかたちで取り出して記述する。行いそのものの効果を見るので、もはやブッダやイエスやアラーを「信じる」必要はない。パターンがあることとそれが機能するということを信じられればよい。

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