仏教へのプラグマティックな関心と「創造におけるマインドフルネス」

2018.03.31 Saturday 10:12
井庭 崇



このことを、ルーマンの社会システム理論的に言うならば、僕の依拠しているのは、「誰々だから」という人格信頼ではなく、「それが機能する」というシステム信頼であると言える。僕が仏教の本を読むとき、行いと結果の話に線を引き、「ブッダは」という部分は背景に退かせて読んでいる(そこは、ふむふむと読むが、言説の論拠として重要と感じない)。

僕にとっては、科学も宗教も芸術もも、すべて、現実・現象の背後に潜む原理・原則に迫り明らかにするという点で、機能的等価なのである。それらが、世界観・認識フレームを提供し、僕らが生きていくための思考や実践を支える(影響する)。誰が言ったからとは関係なく、そのことがよい効果をうむということがわかると、それが認識に作用し、思考・行動が変わる世界の仕組みをどう見るか、というところに興味がある。
神話や宗教的言い方でしか言えなかった、よい結果を生む行い・実践について、以前は「ブッダいわく」としか説明できなかったが、いまなら、違うかたちで説明・お勧めすることができる。パターンというかたちやその連鎖の体系のシステムとして。

[7] << [9] >>
-
-


<< SFCの履修選抜問題と、「実践を伴う授業先取り選抜課題」という方法
アレグザンダー、ヴィトゲンシュタイン、ハイデガー:『仏教が好き!』を読んで >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.20R]