哲学するということ:永井均『西田幾多郎』を読んで

2018.04.02 Monday 22:21
井庭 崇


これは、自分がこれから考え書くときの参考にとてもなる。これまでわかっていることをベースに積み上げていく自然科学的な学問をかじったあとに、社会学や哲学にくると、つい、「誰々がこう言っている。ゆえに、そこから考えると、こう言える」ということで、自分の論を展開しがちになる。しかし、自然科学の場合と異なり、そのベースになっているものは、ある先行者のひとつの考えや見方にすぎないので、それを踏まえても、正しいとは限らない。僕が社会学的な研究を始めたときに学んだのはそのことだった。だからといって、先行研究を一切踏まえなくていいわけではない。

必要なのは、先人たちが「どのように考えたのか、それはなぜなのか」を踏まえ、自分が考える際の一つの仮設(仮説ではなく仮に設置する補助具)として用いるということだ。つまり、結論だけを利用・応用するのではなく、自分も同じように深く考えることが求められるのである。先行者が歩んだ同じ道を歩くときには、当然、その人と同じように内側から見て考えることになるので、結論としては、似たようなことになる。そのまま歩みを進めて、自分の考えたいことを考えてみる。そういう試みである。

その意味で、哲学では、そこで得られた結論ではなく、問いや視点、考え方を学ぶことが重要になる。

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