哲学するということ:永井均『西田幾多郎』を読んで

2018.04.02 Monday 22:21
井庭 崇



「実は、哲学は科学と違って非民主的な営みで、凡人は天才の並外れた技芸の前にただひれ伏すしかないという一面がある。ここで天才とは、並外れて頭がいいというようなことではなく、むしろ逆に、普通の人が即座に(あるいは最初から)分かってしまうことがなぜかどうしても分からず、しかも信じがたいほどあきらめが悪く、執拗にその理路を問い続ける一種の化け物のことである。・・・こう規定するなら、西田幾多郎が大天才(超弩級の哲学的な化け物)であったことは疑う余地がない。」(p.69)

僕が、哲学の本を読むとき、多くの場合、あまり楽しめないのは、まさに、この点に関係していると思った。哲学者たちが問題としている論点にあまり興味が湧かないのである。実のところ、永井さんの<私>の問題についても、永井さんにとってかなり重要であることはよく理解できるが、僕自身はその問題に惹かれない。だから、ほとんどついていけなくて理解できない。そういうものなのだろう。
そう考えると、僕は何に(他の人よりも)こだわり続けているのだろうか。それが研究の根本的なテーマであろう。
いま思うのは、僕が、ずっと興味をもっているのは、「新しい発想はいかに生まれるのか」「創造的であることはいかにして可能か」「生きているとはどういうことか」ということである。これは、高校生のときに、オセロ・ゲームのプログラミングをしたときに、どうしたら、対戦相手の人工知能が強くなるのかを考えたときや、詩を自動生成するコンピュータ・プログラムをつくったとき、チャットで会話できるボット(コンピュータ上の人工知能)をつくったとき、そして、コンピュータ・シミュレーション上で人工生命をつくったときや社会シミュレーションをつくったときに原点がある。どれだけ仕込んでも、「なんだ、ぜんぜん賢くならないな」「結局、これを面白いと楽しめる人間の方がすごいな」「シミュレーション上だと新しい進化も、イノベーションも、当然、起きないんだな」ということなどを実感したからだ。

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