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都会が田舎にたいして絶対的な優位にあるとき、都会人は田舎を視界の外 におくことでせっせと働いてきた。しかしレジャーの時代といわれて、自然 の人工にたいする優位がはっきりしているとき、敏感な若者は都会の雑踏で
の馬鹿騒ぎにはもうあきあきしている。タバコの煙が目にしみるマージャ ンはすでにお父さんの遊びでしかないのだ。田舎は自然の宝庫(スキー場と して、サーフィンの場としての自然)として貴重な位置を占め、都会の地位
を揺るがしている。これは都会育ちが求める嘘の自然である。自然らしさに 付き合うことが楽しいのである。そのような『らしさ』はなにをかれらに与 えるのだろうか。
普通のまちに育った若者がたくさんいます。二人に一人はこの手の方です。ある意味では、都会と田舎のカテゴリー化は、普通の町のもつ力を無視した無謀な軸の設定ではないでしょうか。普通の町は都会と田舎の中間に位置する、という解釈がもう過去のものではなかろうか。そして、それに代わって、秩序ある都会と田舎がセットになって、普通のまちの混沌とした状況に対応している、という構図が描けるのではなかろうか、ということなのです。都会と田舎は、そのコンセプトが明確であり、その点で一義性を確定した地域です。華と毒が栄える世界と、情と陰が迫る世界。だから、あこがれるにしてもまた反発するにしても、そこでは明確な反応が要求されます。
これにたいして、普通のまちは一面では都会的であり、一面では田舎的であり、にもかかわらず、どこまでいっても都会にはなりえずそして田舎にもなりえない、という正負の次元における両義的な存在であり、つねに混沌とした特性をもちます。中途半端なのか、それとも新しいカテゴリーとしての混沌なのか、それはまだ分からない。そして、そのような地域の構造は若者の意識や行動に影響力をもつのか、もたないのか。
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