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都市環境空間にたいして、生活環境空間はどのような拘束力をもっているのだろうか。街に賑わいがあり、ノイズが子守唄であった若者と、静寂のなかでは人の息遣いこそが子守唄であった若者とでは、どのような相違があるのだろうか。機械の音が夜中までグゥワンと響きわたる工場地域や、威勢の良い物売りの掛け声が飛び交う商店街。そんな環境で育ったためか、かれらは大声でしか話ができず、知らぬ間にがさつな奴にできあがり、大きくなったらハッと気づき、これが下町というものだ、と悩んだり、虚勢をはったりする。でもここが自分の生活の原点だと気づくと、無性に懐かしさがこみあげてくる。反発と嫌悪そして懐古。そんなものだ、DOWNTOWN
なのだから。
ノイズが生きている街がまだある。
ノイズはどこまでいってもノイズだ、という上品な地域が閑静な住宅街。それをさらに進むと、野中の一軒家の静寂という恐怖。徹底的に静まり返り、はく息の白さだけが音を創造しているような世界、この世の果て。あるのは風であり虫の音。陳腐に一言、鈴虫が鳴く。ここには、ノイズの多様性を発見できない不幸があるかわりに、静けさの中にさまざまな微妙な音を発見できる幸福がある。
ノイズは悪で、虫の音は善だ、という常識があったとき、ダウンタウンはいつもけちをつけられていた。ノイズなんて知ることに何ら価値がなかったから、ノイズ無知不幸論などそもそもありえなかった。したがってノイズで生きているダウンタウンはいつも中傷の的であった。騒音の街は嫌いです。悪かったなー。ノイズ文化のロックはこのような常識を拒否した点で、ダウンタウンの復権に大きく貢献している。ノイズと虫の音がやっと共存できる時がやってきた。
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