素顔なんてないの
 

幾世代と続いた旧家
親一代の家


“家”は自分の親が頑張って自力で創ってきたものなのか、それとも親を越えた先 祖という歴史が維持してきたものなのか。前者のケースが75.6%、後者が大家族 の場合よりも多く24.4%。ここでは、意外と旧家が多い。

先祖という死者の亡霊を背負ったイエの歴史的事実が、たとえ無意識下ではあっ ても日常的な生活世界を覆っているとき、そこで生きる若者はなにか圧倒される力 を感じないのか。個の自立が自明の命題とされている時代に、それを無視するよう に振る舞うイエの力に矛盾するものを感じないのか。たとえば、もしも若者が長男 だとしたら、いつかはそのイエを継ぐことを当然のことと決めているのだろうか。 歴史のなかに埋れざるをえない自分の無力さにたいして、不安や苛立ちを意識しな いのだろうか。あるのは、はかない美意識だけなのだろうか。

旧家という言葉には、どこか土俗的な世界の響きがある。すぐに横溝正史的世界 が喚起され、金田一さん、出番ですよ、というのもあまりに陳腐で貧困なイメージ であって、都市生活者の無知が暴露されるが、その無知を承知したうえでなお、暗 く重たい力を描いてしまう。ここでは時間が流れず澱んでいる。その息がつまるよ うな拘束する力をつい頭の中に描いてしまう。もう、逃げられない、逃げたいのに。 どうにかして、ここから脱出しないかぎり、自分が分からなくなる、というあせり と不安と、しかし諦めが迫ってくるようだ。ここで背負わされる時間はどこまでも 重たい。自由といった言葉が虚しく木霊する。イエは、個人の器を無視したところ で生きる力をもち、それ自体の原理にもとづいて展開する。そのなかで、若者は殺 されると絶叫するのか、諦めるのか、それともイエを壊しにかかるのか。さらっと かわすことなど、できるのだろうか。