中流意識は、いつも『ビンボウ』の幻想形態なのです。
しかも『カネモチ』が、『カネモチ』であること以上に『ビンボウ』との間に何ら 差異をもたらしえないとしたら、そもそも『カネモチ』とは何なのか。これすら、幻 想なのであろうか。
かつてのお大尽は、単なる生活をこえて、社会そのものの表現であった。いじまし い生活だけの『カネモチ』ではなく、オールマイティであるがゆえに社会そのもので あった。かれの財は、力であり、教養であった。経済的なパワーは、政治的なパワー
であり、また文化的なパワーであった。財と力と教養は、三身一体になって、その時 代を語ってきた。
現在、『カネモチ』は生活としての『カネモチ』を享受し、社会を表現するメディ アではない。ささやかな幸福に浸る生活人でしかない。社会のリーダーたらんと野心 に燃える権力志向もなく、また時の文化をリードする豊かな教養をもった知識人でも
ない。
相対化された世界の平和。だから、『ビンボウ』も幻想のなかで中流意識にぬくぬ くと酔っていられる。バンザイ、平準化された世界よ。波も風も立たず、ただひたす ら自分の生活の幸福を追究する平凡で優しい人々よ。
ささやかな小市民的生活が悪い、というつもりではありません。ひたすら平凡に生 きることが価値がない、ということでもありません。こんなにみんなが一緒に幸福に なろうねと、頑張っている姿が、なんとなくつらいのです。
『ビンボウ』からすれば、中流意識の幻想はやはりうれしいことなのです。みんな 中流、だからぼくも中流は、安心していられることです。『おとーさん、今夜はワイ ンでも』の生活は、文句なく幸福なのです。いままで味わえなかった人生ですから。
でも、なぜか、これでいいのか、という気分にもなります。
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