素顔なんてないの
 

人生は遊びだ、なんてキザー。そんな人、だいっキライ。わたしケーベツします。


playboy も売れなくなってきました。そんな男がモデルだった時代が過ぎてしまっ たことと関係しているのでしょうか。なつかしのプレイボーイ。
人生という重たい言葉に、遊びの軽さをつけることで、キザが似合っていたプレイ ボーイは、いまでもいるとしたら道化でしかありません。人生を重視する昔ながらの 人は、相変わらず彼らを屑として軽蔑するでしょうし、昔だったら彼らを輝くスター ダストと憧れていた遊びのグループは、いま彼らをみて笑いこげます。キザが似合う 時代は終わってしまったのですか。
まじめな男とプレイボーイは、表と裏の関係にあったのです。無骨で融通に欠け、 既存の枠をはみだすことなくただモーレツに働く男と、軟弱で女の尻を追うことに生 甲斐を見せていた気取り屋の男は、ともに人生を一生懸命に送ろうとしていた点で、 重たい男達なのです。考えてみれば、遊びに人生を賭けるなんて、まじめ男の暗さと 重さなんてものではなく、どうしようもなく悲惨な色しか思い浮かびません。夜、ま じめ男がつきあうマージャンとタバコの煙と、プレイボーイがみせるセックスとアル コールの味は、同じように苦くて辛くて、同じように切ないほどの涙物語です。これ では、やってらんないよ、の気分になります。

遊びに、人生なんて、不潔です

遊びに、積み重ねることは似合いません。存在感なんて言葉が嫌いな世界が遊びな んです。″いるだけ″という希薄なかかわりさえあれば、それでいいんです。″いる だけ″にいらだつならば、もう遊びは止めてお帰りください。
ホットでもありません、クールでもありません。どちらもかかわりが濃すぎます。 ポカリスエットのように、自然の生理的な身体に合った関係が美しいのです。だから エゴが冴える時、人は遊んではいけません。エゴは重たいんです。