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2005年05月04日

日韓関係/韓国における「ニュー・ライト」の台頭?

5月1~3日に韓国・ソウルを訪問し、昨夜帰国しました。今回は、我がSFCと延世大学との連携プロジェクトの打ち合わせがメインの目的でしたが、この機会に多くの人たちに会うことができました。いろいろな幸運もあって、駆け足ながらハンナラ党・ウリ党議員や、研究者、ジャーナリストなどあわせて11人と懇談することができました。

【日韓関係について】

懸念されている日韓関係について、竹島(韓:独島)問題の喧騒は一段落した模様。盧武鉉大統領が「外交戦争」という刺激的な言葉を用いた3月23日の「国民への手紙」で対日強硬姿勢を示して以降、支持率を約15%も上げて「けっこう対日強硬路線は使える・・・」と思ったに違いないのですが、4月30日に実施された補欠選挙では、23選挙区で与党・ウリ党が全敗(うち国会議員5議席)という衝撃的な結果となりました。

この惨敗はウリ党と青瓦台の双方に相当の衝撃を与えているようで、盧武鉉型の急進的な改革路線(過去の清算や首都機能の移転など)には軌道修正を余儀なくされているようです。

こうなると、「選挙前には日本をたたけば票がとれる」という構図にも、「再考が必要」との認識も徐々に生まれているよう。今回の強硬な対日姿勢については、盧武鉉大統領自身(と青瓦台)主導の「政治化」(politicization)ということは異口同音に言っていました。中道派のハンナラ党の議員や学者・ジャーナリストは盧武鉉大統領の対日姿勢についてはやや呆れていた感がありましたが、彼らも「一度政治化されると、独島問題では引くことが許されない」政治環境だったと、回想していました。

あるジャーナリストは「領土問題について双方が原則的立場から対立するのは当然で、そうした状況の中で目指すべきは『解決』ではなくて『管理』であるべき」といいます。「管理」とは、問題が発生したときにいかに収束させるか、そして問題自体をどのように発生させずにおくか、そしてその構造をどのように保たせるか、ということを意味します。「解決できない以上管理を」という発想が一部のジャーナリストたちに共有されていたことは興味深いですね。

たとえば竹島問題について、「韓国側はどうしてあんなに極端な反発をするのだろう」「きっと国内向けにそうする必要があるのだろう」と日本側が見る向きに対して、「(韓国側だって政治化したくないのに)日本はなぜ問題の発生を未然に防げなかったのか(⇒島根県議会の決議を事前に止められなかったのか)」という思いも強いようです。それでも、一度政治化すればこれに対応せざるを得ず、韓国側としては盧武鉉大統領自身が旗を振って最大限利用するとともに、ヒートアップしたやり取りが国民の感情を刺激するスパイラルを誘発し、「日本側はもっと韓国人の深いトラウマを理解して欲しい」という議論が浮上するわけですね。

他方で、ある日本研究の学者は「日韓がお互いの関係ばかりを見つめず、地域問題やグローバルな問題について、互いの共通の認識を確認しあう場が足りない」と述べていました。1998年の小渕・金大中会談において、日本側が「日韓共同宣言」で「痛切な反省と心からのお詫び」を示したことに対して、韓国側は歴史問題の「脱政治化」という路線を提示しました。その後、日韓関係はハネムーン期ともいえる良好な関係でおおむね推移したわけですが、実は「日韓共同宣言」の下で進めるはずだった「日韓パートナーシップのための行動計画」ついては、その後十分に詰められていなかった。たとえば同行動計画には「国際社会の平和と安定のための協力」「地球規模問題に関する協力強化」が謳われていたわけですが、これらの項目に両国が十分に取り組んできたとはいいがたい。

つまり、日韓関係は互いの関係の良好化に満足して、「二国間関係を超えた共通の問題領域の定義」を怠ってきた。すると、二国間関係がコケると、「その他の問題領域での協調」が無いことに気づく、これではマズいということです。上記教授は、「日米関係が1996年に再定義されたように、日韓関係にも再定義が必要だった」と指摘します。もっとも、日米と日韓を同じ土俵で論じるわけには行きませんね。1998年は日韓関係の大きな再定義だったことは間違いありません。しかし、同教授のいうように「二国間を超えた共通の問題」に取り組む政治宣言をもう一度出したほうがよい、というのはもっともだと思います。日韓関係は、韓流ブームの下での文化交流に隠れて、互いの協力の脆弱性に気付けなかったのかもしれません。

【韓国における「ニュー・ライト」と「ニュー・レフト」】

ところで、韓国内ではいわゆる「ニュー・ライト論」が台頭しているようです。会食を共にした「ニュー・ライト論」の旗手S氏によれば、同論は「リベラル思考の保守」を表すようで、「思想の自由」を前面に掲げる保守思想ということになります。「ニュー・ライト」がどれだけの凝集力を持っているかはまだ未知数ですが、昨年11月に解説されたウェブサイト「シンクネット」や「リバティー・ユニオン」(響き悪ぅー)を中心に、言論活動を展開しているようです(ウェブサイトは残念ながら韓国語のみ)。

大きくまとめれば、「オールド・ライト」への対抗としての「柔軟な保守」あるいは「プラグマティックな保守」ということになるでしょうか。S氏の言葉を借りれば、反共思想ひとつをとっても「独裁・宣誓のための反共」と「自由のための反共」はことなり、「ニュー・ライト」は自由主義をベースに国家の基本的価値を守ることを主軸にするとのことでした。したがって、彼らの対日思想は愛国的でありつつも、安全保障・経済・文化・価値などを判断した現実主義を旨としているようです。もちろん彼らは、いわゆる「親日派」ではなく、保守リアリズムに基づくことに留意すべきでしょう。(ニューライトについては、こちらこちらも参照)

また、韓国の386世代については、ノ・ムヒョン大統領を誕生させた「リベラル社会運動世代」として脚光を浴びてきましたが、どうやらこうした若手リベラル層にも、新たな動向が散見されるようになってきました。いまや2000万回線とも呼ばれるインターネット王国の韓国では、世論の動向をネットが大きく左右するようになっています。たとえば、多くのテレビ局の映像配信や、新聞社の記事配信についても、ネットへの転送率は著しく高く、ホリエモンの登場を待たずして、報道・論説情報の相当部分がネットでやりとりされているといえます。

そんな中、「ネット社会に漬かる若手世代は、リベラル、反米、国家主義的、ウリ党・盧武鉉支持」という構図に、やや変化が現れてきているようです。①「オールド・レフト」(盧武鉉世代)層と386世代にも断裂が生まれ、②386世代も一枚岩ではなくなってきており、③さらに若者層の間では「ニュー・レフト」といった構図も生まれつつあるようです。うまく分類できないのですが、一方の極に専制政治と戦った「オールド・レフト」の闘士たちがいて、もう一方の極に政治的無関心層とスーパーリバタリアンがいる。この組み合わせが、かなり複雑化しているというのが、レフトの新しい動向のように感じました。

ちょっと、このあたり韓国政治・社会に疎い私としては深く切り込めないのですが、今後の韓国の政治動向やナショナリズムの動向についても、ここ2~3年の分析と異なる新しい展開が生まれてくる気配があります。これらの断裂をどう理解し、スーパーリバタリアンを超えた「秩序」が、どういった思想によって形成されてくるか、いままさに韓国は模索しているといった印象を受けました。

投稿者 jimbo : 2005年05月04日 12:02

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