« 第1回授業レビュー(その3) | メイン | 第2回授業レビュー(その2) »

2007年04月27日

第2回授業レビュー(その1)

【国際紛争の一般概念(フレームワーク)】

国際紛争に関心のある皆さんは、ただちに紛争のケーススタディに入りたい気持ちがあるかもしれません。ただ世界にはさまざまな紛争の形態があり、その全容をつかむことは容易ではありません。たとえば、紛争研究でいまもっとも着目されている International Crisis Group (ICG) のウェブサイト を覗いてみると、2007年4月現在で76ケースの紛争があることが報告されています。Reuter’s News AleartNet のインタラクティブ・マップで、conflict のタグをクリックしてUpdate Mapを押してみてください。すると、紛争はアジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカなど世界各地で発生していることがわかります。

世界における紛争がどうなっているのか、気になって仕方がない。。。でも、はやる気持ちを抑えて、まずは紛争に関する一般概念から勉強してみましょう。なぜ国際社会において紛争は起きるのか?紛争にはどのような類型があるのか?現代の紛争の傾向は?紛争の管理・解決にはどのような方法があるの?といった大きな課題を検討し、ケーススタディのさらなる理解につなげていくのが今回の目的です。

【紛争はなぜ起こるのか:「価値の非両立性」について】

人間社会における紛争はどうして起こるのでしょうか。それはヒトが「価値」(value)によって生きているからかもしれません。「価値」とは真善美などをめぐる「よい」「わるい」といわれる性質です。価値には太陽の恵みのように分け隔てなく共有できるものと、有限・排他的で共有できないものとがあります。有限な価値は、獲得したり配分しなければならないわけですが、すべての人々に価値が満足いくように配分されるわけではありません。

そのため、ひとつの価値の適用によって、もうひとつの価値が成り立たないという「非両立性」が生じることがあるわけです。たとえば、ある国の統治制度が一定の民族・宗教・言語・風習の存在が認められず抑圧される。民族・人種・部族・家族など先天的で選択できないものをめぐって、社会的差別が起こる。身分や所得などの社会階層によって配分の格差がおこる。特定の統治者が配分を独占・寡占している。統治者と思想・信条が折り合わない。宗教上の聖地が他者に占有されている。資源や領土の条件が異なることによって発展の機会が失われる。民族として独立した国・統治機構を持ちたいのに、認められない。

このような「価値の非両立性」によって、自らの守りたいと思う価値・所有していた価値が失われる(た・れるであろう)場合、また叶えたい価値が(平和的方法で)実現できない場合、そしてそれが理不尽(道理に合わない)な形で生じる場合、人々は憎悪・恐怖・嫉妬の感情を募らせ、Violenceへと向かうことがあるわけです。

とりわけ他国・他の集団・他人の核心的価値を犠牲にしない限り、自己の価値を実現できないという認識(K・ホルスティ)によって、「価値の非両立性」は「現状変更」への志向へと変わり紛争へと転化するわけです。紛争とは「ヒトの心」の問題なんですね。世界は平和になればいいのに・・・という願いにもかかわらず、このような「価値の非両立性」は世界各地に存在しているわけです。

【認識(perception)と誤解(misperception)について】

それでは「ヒトの心」、とくに認識・認知の問題を少し考えてみましょう。人間は外からの「刺激」を認識する能力が強く発達しています。人間のアイデンティティは他との比較によって生まれるわけですが、それは外部からの刺激を「言葉」によって解釈することによって生まれます。「言葉」こそが人間社会を高度に複雑なメカニズムへと導いてきたわけです。ところが「言葉」はひとりひとりによって、解釈・認識がわかれるわけですね。ここに、紛争を理解するためのもうひとつのキーワードが隠されています。

人の認識・記憶というのは、実に曖昧なものです。たとえば、(ややホラーですが)後ろを振り返ってみてください。いまあなたの背中にあるものは「存在」していることは間違いありません。でも、再び前を向いたとき、後ろにあるものが「存在」していることを、どのように証明するでしょうか。もう一度振り返って確認することですよね。あるいは、鏡をつかってみてもいいし、他の人に確認してもらってもいい。「存在」の認定には、このような隣接する別の存在による認識の連鎖が必要なんです。*

ところが、人間関係、社会同士、国家同士の関係については、このような認識の連鎖がとても難しいのです。授業ではこれを「認知(perception)イメージの連鎖」として紹介しました。「ヒトの心」は、記号で表すことが難しいものです。昔から多くの詩や歌は、この問題に向き合ってきました。Chage&ASKAの「SAY YES」という歌の歌詞に「言葉は心を超えない、とても伝えたがってるけど、心に勝てない」、Extremeというバンドのバラード”More than Words”(You Tube)でも、"You don't have to say that you love me. Cos I’d alrealy know” なんていわれると、そうだよなと思ってしまいます。

でも社会生活において、言葉によって自分と他人を表現することは不可欠です。自己紹介や、自分の好き嫌い、自分の心地よい居場所、熱中したいこと、将来実現したい夢などは、具体的な言葉によって表現されることによって、アイデンティファイされるわけです。ところがこの「言葉」の解釈が、自分と他者ではけっこう異なるわけです。「A1」の自分を、正確に表現できる他人はどのくらいいるでしょうか。また他人の「B1」にどれほど迫ることができるでしょうか。

%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%EF%BC%884%E6%9C%8812%E6%97%A5%EF%BC%89.jpg

「B2」を形成するのは、Bとの直接のコミュニケーション、他人からの伝聞・評価、メディア等媒体の評価などの総合的なものです。ところがBと直接のコミュニケーションが困難な場合(国家間関係など)、一定の理解の枠組みをとおして「B1」を評価しなければなりません。人間は過度の複雑性には耐えられませんから、かなり単純化した「B2」を形成しがちです。とくに政策決定者は、人々の意思決定を凝集するためにも、「B2」をわかりやすく形成することが求められています。

ジョセフ・ナイ『国際紛争』の第1章で取り上げられている、ペロポネソス戦争におけるアテネとスパルタの争いを読んでみてください。アテネ・(A)とスパルタ・(B)とした場合、アテネはスパルタが領土拡張的であって好戦的であるという「B2」を形成し、そのための対抗的な軍備拡張をします。するとスパルタはアテネが将来せめて来る準備を始めたに違いないとする「A2」をつくり、そのためにさらなる軍事拡張をします。するとアテネは「やっぱりそうか」として、みずからの「B2」を実現してしまいます。これを「自己実現的予言」(self-fulfilling prophecy)といいます。紛争の原因には、このような認知連鎖の問題が実に奇妙に絡み合っているのです。そこには「情報の不完全性」という問題が常につきまとっているからです。

相手を理解するには、一定の「観念」や「枠組」を必要としているのです。これらの観念や枠組みは、小説や演劇のように、人生を豊かに彩ることもできれば、政治の世界において政策を実行したり、人々を動員したりする凝集力としても用いられます。

2003年にアメリカ(A)がイラク戦争をはじめた大きな理由は「イラク(B)に大量破壊兵器がある」からという認識に基づくものでした。戦争が終わってみると、実際にはイラクには大量破壊兵器はなかったわけです。なぜ、こんな(愚かな)事態が起こってしまうのでしょうか?アメリカのインテリジェンスによる「B2」が間違っていたことは、すでに明らかとなりました。

しかし、イラクも「大量破壊兵器がない」ことを、なぜもっと早く明確に国際社会に証明しなかったのでしょうか?そこで同時に考えなければならないことは、イラク自身が大量破壊兵器はあるかもしれないという「B3」の自己イメージを、長年対外的に用いてきたことでした。なぜイラクはそのような行動(作為)と欺瞞(不作為を含む)をとったのでしょうか。イラク戦争は「自己実現型預言」の典型例だったのかもしれません。

少し文章を割きすぎた感がありますが、こうした心の作用について理解を深めると、世界の紛争により迫ることができるかもしれません。

(つづく)


-----------------------------------------------------------------------
*認識の連鎖による「事実」のとらえ方については、村上春樹『国境の南、太陽の西』に興味深い記述があります


だから僕らは現実を現実としてつなぎとめておくために、それを相対化するもうひとつの現実を―隣接する現実を―必要としている。でもそのべつの隣接する現実もまた、それが現実であることを相対化するための根拠を必要としている。それが現実であることを証明するまたべつの隣接した現実があるわけだ。そのような連鎖が僕らの意識のなかでずっとどこまでも続いて、ある意味ではそれが続くことによって、それらの連鎖を維持することによって、僕という存在が成り立っているといっても過言ではないだろう。でもどこかで、何かの拍子にその連鎖が途切れてしまう。すると途端に僕は途方にくれてしまうことになる。中断の向こう側にあるものが本当の現実なのか、それとも中断のこちら側にあるものが本当の現実なのか

村上春樹『国境の南、太陽の西』(講談社、1992年)275頁

------------------------------------------------------------------------

投稿者 kenj : 2007年04月27日 10:29

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.sfc.keio.ac.jp/~kenj/mt2/mt-tb.cgi/5