« 第5回授業レビュー(その1) | メイン | 第5回授業レビュー(その3) »

2007年05月13日

第5回授業レビュー(その2)

【イスラエルのヒズボラ攻撃の背景】

2006年7月になぜイスラエルはヒズボラを大規模に攻撃するに至ったのでしょうか。ヒズボラ側でさえ「まさか今回の兵士2名の拉致がこれほど大規模なイスラエルの反撃・攻撃を生むとは考えていなかった」と8月17日の声明で述べていたほどです。イスラエルの攻撃が比例原則(proportionality)を越えて実施されたとすれば、その先に現状を打破する目的があったと考えるのが妥当です。その背景を考えてみましょう。

第一の背景として、ヒズボラはイスラエルに対して「継続的な武力抵抗運動」を実施し、それがイスラエルにとって深刻な問題であった、ということです。イスラエル側にもいくつもの問題がありました。2000年5月のイスラエルの南レバノンの完全撤退以降も、シェバ農場を含む農村地区の占領を続けました。その過程でヒズボラの武装闘争路線が勢いを増し、イスラエルへの散発的な攻撃を継続していました。イスラエル側にとっては、ヒズボラの存在意義を支えるマニフェストが「イスラエルの国家としての存在を否定する」(共存拒否)ことを原則としていたことは大きな脅威であり、ヒズボラとの共存は不可能という認識を深めていたことも背景にありました。

第二の背景は、「2003年以降ヒズボラの攻撃能力・軍事能力が著しく向上してきた」というイスラエル側のインテリジェンス(情報機関)評価が、イスラエルの政策決定に大きく影響したということです。2003年以降に、ヒズボラは多くて13,000発といわれる数のロケット弾を調達していて、その一部は射程をイスラエル中南部にまで伸ばし、イスラエルの安全保障にとって大きな脅威として出現しました。さらにロケット弾の種類を見ても、これまではどちらかというとTNT 火薬型のロケット弾、クラスター爆弾型のものが中心だったのですが、いまやレーダー誘導型ミサイル、クルーズミサイル、対艦ミサイルを含む、さまざまな種類のミサイルの保持が確認されています。ヒズボラはかつてないほどに攻撃能力を高め、レバノン南部に、地中深く隠れたり移動したり、サバイバビリティー(生存性・秘匿性)の高い形で配備されていることが、イスラエルにとっての大きな脅威認識であったということです。

第三の背景は、(その1)でも述べた「リンケージ」の政治学です。「サブリージョナルなリンケージ」としては、「ハマス・ヒズボラ」に対する二正面作戦がとられたことです。同年6月末にガザ地区でハマスとの南部戦線が展開され、その数週間後にレバノン侵攻が実施されたことは、ハマス・ヒズボラとの共時的な攻撃が重要だったということが強く示唆されています。ハマス・ヒズボラ間の連携については、明確な情報がなかなかでてきません。ガザ地区でヒズボラ勢力がハマスを支援しているという説や、ハマスにヒズボラが物資を提供している、などの見方もあります。「広域リージョナルリンケージ」としては「イランとヒズボラの関係、そしてシリアとヒズボラ・ハマスとの関係の遮断」がイスラエルのもう一つの問題意識でした。


%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B8.jpg

以上のように、2名の兵士の拉致問題をきっかけに、イスラエルは自らの安全保障をめぐる三つの大きなアジェンダに向かって、今回のヒズボラ掃討作戦を1ヵ月間展開したと分析することが可能だと私は考えています。

【ヒズボラの政治・社会的地位の変化】

ところが、今回のレバノン紛争はイスラエルの思惑とは裏腹に、今回のレバノン紛争はこの三つの目的を達成したとは、到底いえない状況に終わりました。なぜなのか・・・?その意味を考えてみましょう。

その第一の理由は、レビュー(その1)の「第一の構造変化」と密接にかかわります。すでに述べたように、ヒズボラの政治的・社会的地位の変化の重要な視点として、ヒズボラがかつてなく国民国家や地域コミュニティに「埋め込まれた」(embedded)存在となったことが挙げられます。すなわち、仮にイスラエルがヒズボラをレバノンという国家や、南レバノンという地域から乖離させようとしても、それが不可能であることを今回の紛争は証明したのではないか、と私は考えています。

ヒズボラの発祥は1982年の、イスラエルのレバノン侵攻の前後に、当時、最大の政治・軍事組織であったアマル運動から離脱したシーア派の一部がイランと関係を深めながら多くの民間組織を結成し、これが後に融合していくというプロセスに遡ります。この期間に、米国務省はヒズボラを米国およびその同盟国に危険な存在であるとして、テロ組織指定がかけられました(*)。その後、積極的なゲリラ闘争や、ハイジャック・誘拐事件、欧米施設へのテロ攻撃などの活動を展開してきました。

-----
* 尚、ヒズボラ全体をテロ組織として認定しているのは、イスラエル、米国、カナダの3ヵ国だけです。ほかの国、例えば西側諸国を見ると、「ヒズボラの中にテロリストのコンポーネント(例えば対外諜報組織)がある」という言い方をして、「ヒズボラ=テロ組織」という形で区分けしている国々との間に、ヒズボラ観といいますか、ヒズボラをどう位置づけるのかという点で差異があります。イギリス、オーストラリア、オランダはそのような形で、ヒズボラの中のコンポーネントを分けて、テロ組織としています。
-----

ところが、1990年代に入り、ヒズボラは政党および社会団体として大きく組織的な変容を遂げることになります。ヒズボラは1992年のレバノン総選挙に参加し、現在ではレバノン議会・議席数128 のうち14議席をヒズボラが占め、閣僚ポストも二つ有するまでになりました。つまり正規の政治団体として、レバノンの政治的なアクターとして確立したわけです。さらにヒズボラは、傘下に数多くの社会福祉団体を持っており、それらが貧困支援、医療、教育、住宅に関する支援などのコミュニティー支援をしていて、特にレバノン南部の福祉を支えるアクターとしても台頭したわけです。

この状況は、東南アジアにおけるジェマア・イスラミーヤ(JI)の展開と類似しているところがあります。1980~90年代にイスラム過激派の一部(アルカイダ系含む)が、パキスタン等を経由して東南アジア、タイ、マレーシア、インドネシアに浸透していきました。現地のイスラム教のモスク、聖職者協会等、様々なアソシエーションを通じて若者をジハーディスト候補としてリクルーティングしていきました。その傍ら、ファンド・レージングを目的としたビジネスを行い、これを元手に、インドネシアやタイ南部の村(カンポン)に教育施設、宗教施設、医療施設などをつくり、青少年の教育・保健を事実上ジェマア・イスラミーヤが担う形が散見されました。つまり地域コミュニティー形成と一体化するかたちで、テロ活動が支援される形態がつくられたわけです。こうした「コミュニティーとテロ組織が表裏一体の形で成長していく」のが東南アジア、特にインドネシアの特徴でした。ヒズボラのここ10年の成長の仕方、特に南レバノンのコミュニティーへの密着度は、でコミュニティーに「埋め込まれる」(embedded)という表現が適当だと思います。

特にイスラエル占領に対しての抵抗運動として、レバノン国内でも(かつての非合法活動への非難は根強いものの)ヒズボラの運動が幅広い支持をも生むようになりました。そのため、90年代から2000年に至って、ヒズボラを社会の外縁部へとマージナライズさせることが、きわめて難しくなりました。たとえば、仮にイスラエルが「ヒズボラ殲滅」を掲げようとすれば、それはコミュニティの破壊なくしては、達成できないということになったわけです。そのために、人道的危機を含むような攻撃をしなければ、ヒズボラは殲滅できない・・・という論理になってしまいます。これが、イスラエルの攻撃を大規模化させ、かつその結果管理を困難にさせた大きな理由です。

(つづく)

投稿者 kenj : 2007年05月13日 12:06

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.sfc.keio.ac.jp/~kenj/mt2/mt-tb.cgi/13