コンヴィヴィアリティのための道具
イヴァン イリイチ, コンヴィヴィアリティのための道具, 日本エディタースクール出版部 (1989/03)
イリイチは、「用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境を豊かなものにする最大の機会を与える」ものをコンヴィヴィアリティのための道具と呼んだ。
「コンヴィヴィアル」には、「楽しいつどいの」という意味もあるが、「自立共生的な」と訳されることもあるこの考えは、インターネットにも流れていると言われている。自分がつくる道具ももちろん、そうありたいと考えている。
以下、抜粋。
はじめに xii
私はここで、人間と彼の道具との関係を評価するための枠組みとして役立ちうるような、人間生活の多元的均衡という概念を提出しよう。こういった均衡のそれぞれの次元において、自然な規模というものを確定することが可能だ。ある企図がこの規模の一点を超えて成長すると、まず、もともとそのためにその企図がなされた目的を裏切り、さらには急速には社会全体の脅威と化す。そういった規模が確定されねばならないし、さらにその範囲内でのみ人間の生活が存続しうるような人間の営みについての副次的変数が探求されねばならない。
はじめに xiv
しかし実際には、新しい可能性を思い浮かべるには、科学上の発見は少なくともふたつの相反する利用のしかたがあることを認識するだけでいいのだ。ひとつのやりかたは、機能の専門化と価値の制度化と権力の集中をもたらし、人々を官僚制と機械の付属物に変えてしまう。もうひとつのやりかたは、それぞれの人間の能力と管理と自発性の範囲を拡大する。そしてその範囲は、他の個人の同じ範囲での機能と自由の要求によってのみ制限されるのだ。
はじめに xv
すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。(中略)いったんこういう限界が認識されると、人々と道具と新しい共同性の間の三者関係をはっきりさせることが可能になる。現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は"自立共生的(コンヴィヴィアル)"と呼びたい。
p. 19
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。私の信じるところでは、いかなる社会においても、自立共生(コンヴィヴィアリティ)が一定の水準以下に落ち込むにつれて、産業主義的生産性はどんなに増大したとしても、自身が社会成員間に生み出す欲求を有効にみたすことができなくなる。
p.39
自立共生的道具とは、それを用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。産業主義的な道具はそれを用いる人々に対してこういう可能性を拒み、道具の考案者たちに、彼ら以外の人々の目的や期待を決定することを許す。今日の大部分の道具は自立共生的な流儀で用いることはできない。
p.44
自立共生的な社会にとって基本的なことは、操作的な制度と中毒性のある商品およびサービスが、全く存在しないということではなくて、特定の需要(それをみたすために道具は特殊化するのだが)をつくりだすような道具と、自己実現を助ける補足的・援助的な道具とのあいだのバランスがとれていることなのである。最初にあげたような道具は、一般化された人間のために抽象的なプランにしたがって生産をおこない、あとであげたような道具は、それぞれ独自なやりかたで自分自身の目標を追求する人々の能力を高める。