ディベートは次のように定義される。
(a discussion or argument carried on between two matched sides according to fixed rules)ディベートでは、ある与えられた論題に対して、肯定側・否定側に分かれ、論理的・理性的な議論がなされる。論題とは、最終的な解決をみていない、議論の余地を残したステートメントであり、かつ、納得のいく数の人々が、どちらかの側の主張を受け入れる可能性のあるステートメントである。ディベートはまた、個々人がある決定をするために使うこともある。例えば、ある学生は家庭科の授業を履修しようか技術科の授業にしようか、自分の頭の中でディベートしたりするだろう。その学生は、理に叶った推論とエヴィデンスに基づいて決定したいと思っているわけだ。
また、裁判所では、被告側と検察側が被告人の有罪・無罪を裁判官の前で、ディベートする。彼らは、証言者から得られた証拠(エヴィデンス)を示し、クロス・エキザミネーション(反対尋問)を通じてその証拠を反駁することによって、自らの主張を正当化する。立法機関においては、予算案が下院と上院に提出され、それからディベートされる。上院の歴史において、ディベートの技術はその歴史を非常によく表しているといえる。ヘンリー・クレイ上院議員、ダニエル・ウェブスター、ジョン・C・キャラハン、ロバート・M・ラフォレット、ロバート・A・タフトはリーダーシップを発揮し、この国にとって重要な問題を明確化するためにディベートの技術を使った。1957年に上院議会は上に挙げた人たちを、不朽の名声を持つ上院議員に指名したが、これは、彼らのディベーターとしての能力のためだ。だが、アカデミックなディベートとはどんなものであろうか?
アカデミックなディベートは、試合時間はおおよそ1時間。実際の時間の長さは、使われるフォーマットによって異なる(ディベートのフォーマットについては、第3章で詳説)。アカデミックなディベートでは、2つのチームが存在し、チームごとに2人のメンバーがいる。
は、現状のシステムは改革すべきであると主張する。現状のシステムとは、様々な事柄における現在の状態のことであり、具体的には、私たちが生活してゆく上での法律、条例、規則のこと(=政策)である。これに対し、
は現状のシステムを保守する。現状のシステムがいくつかの問題を抱えているとはいえ、それらは大胆な変革(新しく法律、条例、規則を作ったりすること)がなくても解決され得る問題である、と主張するわけだ。
-How it works-
例えば、ディベートのテーマを学校の服装の規則にしてみよう。論題は次のようになる。
肯定側ならば、「
が、学校に何を着てゆこうか選ぶときの生徒の自由を如何に制限しているか」を示したいであろうし、学校の服装規則を証拠書類で立証することによってその主張を証明しようとするであろう。次に、「これらの規則によって、いかに生徒は学校に着て行きたいと思っている服を着ていくことが出来ないでいるか」を示し、それから、生徒の服装に関連している全ての規則の撤廃を提案するだろう。肯定側はまた、服装規則の撤廃には、デメリットがないことを示すであろう。もしも服装規則の撤廃にメリットがあれば、その概略を示したいと思うであろう。
否定側の役目は、現状のシステム(現在の服装規則)を守り抜くことにあるといえる。否定側ならば、現在の服装規則には何等悪いところはないと主張するであろうし、また「その規則は非常にリベラルであり、大多数の生徒は目下彼らが着たいと思い、かつ学校の規則を破らない服を着てきている」ということも示すかもしれない。否定側はまた、「生徒は服装規則を形成する規則づくりに参加しているのだ」と主張するかもしれない。更に、服装規則撤廃のデメリットも主張したいであろう。そのデメリットの一つとして「全ての生徒が最新の流行ファッションを追いかけていたいと思っているわけではない」ということも挙げるであろう。生徒の中には、流行が訪れるごとに新しい服を買う経済的余裕がない人もいる。学校の服装規則によって、これらの経済的余裕のない生徒に最新の流行ファッションを着なければならないというプレッシャーを与えずにすむという一つの理由が与えられる。服装規則の撤廃は、重要な一つの”支え”を葬り去ることになろう。数多くの青年達は、”No”と言うということは好いことなんだと学んでゆく青年期を通じて、自分達を救ってくれるそのような”支え”を必要をしているのである。
肯定側・否定側それぞれが、自分達の主張は正しいのだと他人を納得させるためには、学校の服装規則に賛成か反対かの主張がきちんと立論されなければならない。この証明は、論理的推論(logical reasoning)と証拠資料(エヴィデンス)、あるいは、その2つが融合されたものである。論理的推論はある自分達特有の主張が、なぜ意味をなすのかを証明するものである。時には、大多数の人たちによって真であるとされた常識や事実を通して、ある主張がディベートの最中に皆が満足の行くように証明されることもある。
証明のより好ましい形態がエヴィデンス(証拠資料)である。エヴィデンスは主張の基礎を形作る為に使われる情報である。ある主張を立証する目的でエヴィデンスを探しているときには、立論しようとしている主張をサポートするために、多くの人に尊まれている権威者を探す。そのような人たちの言説は、通常、本、ニューズレター、新聞、雑誌、マスコミ、定期刊行物、インタビューのなかで見つけることができる。例えば、否定側が、学校の服装規則は不可欠かつ価値あるものだということを立論するするとすれば、否定側はエヴィデンスを提示しなければならない。この場合、学校の服装規則が議論されている記事の載っている教育ジャーナル(これは、教師や教育監督者によって書かれている)をリサーチすることになろう。また、10代の若者に的を絞った人気雑誌にもまた服装規則に関する記事が載っているし、新聞にも学生と服装規則を含む議論が過去にあったかどうかの情報が載っていることがある。如何にして情報源を見つけ、エヴィデンスの断片を選別し、そのエヴィデンスを如何に使える形に持ってゆくかは、第5章において詳細に述べられる。
-Questions for discussion-