Oktober 20, 2004
概要さえもカバーできないという意味
幽玄とはモノが出来上がる前の状態の美しさ。
侘びはモノの生成過程の美しさ。
寂びはモノが終わっていく美しさ
よく、日本文化を語るときに出てくる言葉たちだけれども、その3つに共通しているのは、何もかもは、本当は不確かな存在であること。その不確かな存在をとどめて芸術にしようとするのが、侘びや寂び。
って、ことを今日の仏教の時間に思い出した。別に仏教の時間といっても、急に仏門に入ったとかセミナーに行ったわけだけじゃなくて、なんちゃった研究会の話。当然、90分じゃ概要さえもまともにカバーできないのだけど、逆にひとつの芯みたいのが、わかりやすくわかった気になった。
全ては変わってゆくもので、僕たちでさえその変わってゆく過程であって、不完全なまま産まれて、そして不完全に死んで、来世も不完全にはじまってゆく。その輪からポーンと飛び出すのが、仏教の目指すところ。だから、その意味で、侘び寂びも、仏教の目指すところと似ている芸術なのかなあ。
ただ、芯って、食べられないしおいしくないんだよね。ただ、それがリンゴでした、って元の形をかろうじて伝えるくらいで。しかも、もしかしたら、リンゴですらないのかも知れない。
投稿者 POE : Oktober 20, 2004 12:02 FM
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.sfc.keio.ac.jp/~t03881nf/poeg/mt-tb.cgi/604
このリストは、次のエントリーを参照しています: 概要さえもカバーできないという意味:
» adult dvd from adult dvd
Lying jamie with while and eyes Lying jamie with while and eyes [続きを読む]
トラックバック時刻: April 29, 2007 03:00 EM