Desember 19, 2005
18
18時間話し続けた。あの人が総入れ歯だとか、顎の外れるプロセスだとか、ジェアラーだとかいつかそんな話を目を細めて懐かしがったりするのかな。
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「最も自分のものである自分の顔は、どうやら他人に見せるためのものであるらしかった。それは愛に似ているだろうか」(川端康成/水月)
何で自分の顔って鏡を使わないと自分で見られないんだろう。川端康成の「水月」に出てくる主人公もそんなことを疑問に思っていた。なぜ鏡なんていう道具を使わないと自分の顔を見ることは出来なくて、なぜそのように人間は進化したのか、と。
現代でもその状況は変わっていない。カメラだとかプリクラだとか自分の姿を確認できる手段こそは増えたけれど、依然として自分の目で直接に自分の顔を見ることは出来ない。顔は、誰のためのものなのかわからなくなる。
もちろん自分の目でじかに見られないものにこの世界はあふれてる。はるか送られてくる土星の写真だとか、実は冬に多い紫外線だとか、数式が描くものだとか、人のこころだとか。だけど、その自分の目で見えない側に、自分の顔が属していると思うとどこか不思議になる。こんなにも近すぎるのに、近すぎるがゆえに、見えない自分の顔。
自分の目でじかに見ること。それにどれほどの価値があるのかはわからない。だってこの目を使ってそれを見ているは誰(何)かはわからずじまいで、データや鏡ごしに見える世界と目で見ることの差異は不透明にならざるを得ないから。
むしろ鏡なんてなければよかったのかも知れないのかな。鏡のテストというものがある。鏡にその姿をうつして、その鏡にうつっているのが自分だとわかるかどうかをためすというもの。それに合格できるのは人間、チンパンジー、オラウータン、イルカだけだといわれている。つまり、その四種の動物以外は自分の姿を知らずに一生を終えてゆく。
自分の顔を見ることを禁止して、誰も自分の姿をわからずに一生を終えてゆく。そうすれば、自分の顔を、自分のものではない他人のためのものにたやすくしてしまうことができるのに。
投稿者 POE : Desember 19, 2005 06:59 EM
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コメント
きのう、POEはテストするつもりだった?
投稿者 BlogPetのP : Desember 20, 2005 05:15 FM