事の始まり

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小島朋之学部長(当時)から留学を勧められたのがいつのことだったのか、今となっては思い出せない。おそらくは2005年春のことだったのではないかと思う。私は2004年3月の末に前の職場から突然移籍が決まり、2004年4月1日に着任してから、半年の間はブラブラしていることが許されるという大変な幸運に恵まれた。といっても本当にブラブラしていたわけではなく、前の職場から引きずってきた仕事がたくさんあったし、入試や各種委員会など学事にも忙しかった。

2004年度の秋学期には新しい職場(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス[SFC]:以下SFCと略す)で初めての授業も始まり、学生たちと接する機会が格段に増えた。引きずっていた仕事は相変わらず多く、研究に教育、学事を加えた大学人としての三点セットが降りかかってきて慌てふためいた。おそらくそんな頃に、小島学部長から、「土屋君にはそのうちアメリカに行ってもらいたいなあ」というお言葉をいただいた。私は「はい、すぐにでも行きます」と調子の良い答えをしたが、内心では、「次はアメリカじゃなくてヨーロッパがいいよなあ」と考えていた。

年度があけて、2005年度の7月になった頃だったと思う。恩師の草野厚教授とキャンパス内で立ち話をしていたとき、小島学部長が通りかかった。その時、「土屋君さあ、ちょっと秋から合同運営委員になってもらおうと思うから。よろしくねえ」と言われた。合同運営委員というのはSFCに設置されている総合政策学部、環境情報学部、そして大学院政策・メディア研究科の三つの学部・大学院の運営を合同で行う委員会の委員である。この委員は両学部の学部長および政策・メディア研究科委員長の三人が指名するもので、政府の内閣閣僚みたいなものである。5月に学部長選挙があり、小島学部長は三選続投が決まり、9月から新任期が始まる予定だった。

私はすぐさま「ご冗談はやめてください。私みたいな新入りの若手がやる仕事ではありませんよ」と答えた。しかし、小島学部長は「まあ、しっかりやってもらったら、留学に行ってもらおうとおもっているからさあ」と人参をぶら下げてきた。そして、「ま、よろしく」と強引に会話を終わらせて立ち去っていかれた。草野教授は「がんばってねえ」と相変わらずである。

私みたいな着任間近の若い教員が合同運営委員になるということはおそらく前例がない。なりたくてもなれない人が多い役職である。普通の大学では学部ごとに教授会というのがあって、全会一致で物事を決めるため、延々と長い会議が繰り広げられるが、SFCの合同運営委員会は内閣がどんどん物事を決めてしまうスタイルである。全教員が集まる会議は学期のはじめと終わりの二回で、年に六回しかない。実質的な学部・大学院運営は二週間に一回開かれる合同運営委員会で決まっていくのだ。

まさかと思っていたが、実際、9月になると、指名の通知が来た。確か、あれは郵政解散に伴う総選挙の日だった。その日、私は京都の立命館大学での集中講義のため京都に滞在しており、京都のホテルで選挙の様子を見ながら、どんどん送られてくる役職・委員会委嘱のメールに呆然としていた。本当にやるのかと驚いた。しかし、それと同時に、本当にこれが終わったら留学に行けるかもしれないと思い始めた。

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このページは、taiyoが2007年12月 6日 23:34に書いたブログ記事です。

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