ネットワークの中立性と表現の自由
ネットワークの中立性が少しだけ世の中の話題となっている。この問題はいろいろな様相を見せているので、理解しがたい。
先日、あるところでの議論で、アメリカの中立性論議は表現の自由の問題にまで発展していてやりすぎだ、という話があった。日本の文脈でそれを論じるのは確かに少し無理があるかもしれない。
しかし、アメリカの政治や法律を学んだことがある人は、それほどかけ離れた話だとは思わないはずだ。というのも、情報公開法にあたる「情報自由法(FOIA)」の論議では、表現の自由の前提として情報への自由なアクセスが必要となるという認識が共有されているからだ。
情報自由法は、政府の情報独占に対抗するために市民が持てるツールである。政府が持つ情報とは、国民の税金によって活動した結果として持つようになった情報なのだから、当然国民のものである。国民が政府情報にアクセスするのは当然の権利だというのが情報自由法の論理である。
表現の自由とは、好き勝手なことを言うことではなく、政府の規制や検閲に怯むことなく自由な発言ができるということである。政府に対する批判を行うには、政府情報に自由にアクセスできなくてはならない。
そして、この考え方は、アメリカの中では、政府だけでなく公開企業の持つ情報や、市民活動に関わる広範な情報にも適用されるようになっている。情報は民主主義の通貨であるからだ。
こうした考えが背景にあって、インターネットは自由でなくてはならないという思想も形作られてきた。無責任な自由をインターネットの中で求めているわけではない。したがって、ネットワークのトラフィックを差別するということは、情報への自由なアクセスを奪うことにつながり、表現の自由を損なうおそれがある、というのがアメリカでのネットワーク中立性論議の「一つの」側面だ。
この文脈を理解するのにはそれなりの時間がかかるし、日本の文脈とは異なるということを考えれば、日本のネットワーク中立性論議にこの話を持ち出すのは不適切かもしれない。しかし、このアメリカの文脈を理解していなければ、グローバルな存在としてのインターネットを理解することも難しいだろう。
ネットワーク中立性の話を、「アメリカと日本は違う」と切り捨て、単純化し、日本の国境の中に閉じこめた話にするのは、それこそ議論を歪めることにならないだろうか。インターネットはグローバルな存在なのだから。
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