実験カルタ小説

「む・す・め…」

(中)



        (8)

  「あなた。」
  「何?」
  「百人一首を教えるのに、あんな教え方じゃ、全然勉強にならないじゃないの。」
  「ユキが百人一首を覚えようと思い立ったきっかけは何だった。」
  「お正月のクラスのカルタ大会で優勝したいからよ。」
  「そして、きみが優勝させるために教え始めた。」
  「そうよ。」
  「しかし、ユキは百人一首の歌を覚えることに拒否反応を示してしまった。」
  「そ、そうね…。」
  「それは、ぼくがユキに将棋を教えようとして、好きに遊ばせてやらずに定跡を無理矢理詰め込もうとして、拒否されたのと一緒だよ。」
  「………、一緒にされたくないけど…。」
  「ぼくは、ユキに百人一首を覚えさせようとしているんじゃないんだ。『カルタ』を教えているんだ。カルタは、歌を覚える必要はないんだ。取り札を見て『決まり字』まで言えればそれで充分なんだ。」
  「でも、それじゃあんまりじゃないの。教養も身につかないし…。」
  「ユキに教養として和歌を教えるのが目的なら、ぼくが今やっていることは間違っているさ。でも、目的はカルタ大会で優勝させることだろう。なら、間違っていない。」
  「けど、歌を覚えていないと恥ずかしくない?」
  「あの年なら、きみが教えた五首を覚えていれば充分さ。カルタは、百人一首の和歌を百首覚えなくちゃいけないというのが、高いハードルになっていて、とっつきにくいんだ。これをポイントだけ覚えて、省エネですます。しかも札を払いと一緒に、体を動かしながら覚えれば楽しみながら覚えられる。」
  「そうかしら。」
  「そうなんだ。決まり字だけの省エネで覚えるにしても、札を覚えるのだけ先にやろうとすると、それは和歌を百首覚えるのと同じ苦痛になってしまうんだ。札を払うというカルタ取り本来の楽しさを感じながらやるからいいんだ。」
  「あんなふうにパタパタ畳を叩くののどこがおもしろいのかしら。」
  「その面白さを知りたいなら、一緒にやってみるかい。」
  「もう、結構よ。ユキはあなたを先生に選らんだんだから、あたしはもう手を引くわ。あなたが、百人一首の段持ちだって知っていたら、最初からあなたに任せていたわよ。あたしが教えるのに四苦八苦しているのを、おなかんなかで笑いながら見ていたんじゃないの?」
  「そういう言い方はないだろう。俺はなあ、競技カルタの世界からきっぱりと足を洗った人間だったんだ。」
  私は、思わず「俺」という一人称を使っていた。
  「今朝のあの時、たまたま札が飛んで来なければやめたままのはずなんだ。札が飛んで来た時に、体が無意識に反応しただけなんだ。」
  「あっそう。でも、あなたがあたしに百人一首をやっていたって教えてくれなかったってことは、釈然としてないんだから…。」
  「そ、それは、もう引退して二十年何もしてなかったから、言うほどのこともないってことだけだよ。」
  「………。」
  私が何をどう言っても、妻は釈然としない様子だった。この日、我が家の空気は固いままだった。

        (9)

  翌朝は、休みの朝をのんびり眠っていたいところを娘に起こされた。朝から、札を教えてくれとせがむのだ。昨日はそのために宿題を随分とこなしたらしい。娘もカルタの魔力に吸い寄せられたのだろうか、二十年前の私のように…。
  さて、私も娘に宿題をさせている間に、この日の準備を怠りなく整えていた。札を教える順番に開始音ごとに輪ゴムでまとめておき、簡単なメモも作っておいた。
  「よし、今日は『一字決まり』の札の残り四枚を覚えて、昨日の三枚とあわせて七枚覚えてみよう。」
  「うん。昨日の三枚はもう完璧に覚えたよ。『む』と『す』と『め』。」
  「いいぞ。それじゃあ、ここに十四枚札がある。詠み札七枚と取り札七枚だ。そして、それぞれが対応するように順番になっている。」
  説明しながら、私は畳の上に右に詠み札、左に取り札と並べた。「きりたち…」と書かれた取り札の右には「むらさめ…」と書かれている詠み札という具合に縦に七組並べた。
  「昨日も言ったが、これは上の句の一字めだけを覚えればいい札だから、『む』と『す』と『め』の下に並んでいる札が、それぞれ何かわかるはずだ。言ってごらん。」
  「『ふ』『さ』『ほ』『せ』。」
  「よくできました。じゃあ、取り札を見て、上の句の一字が言えるように自分で工夫して覚えてごらん。覚えたと思ったら、パパを呼んで。パパは、あっちで新聞読んでるから…。」
  「はーい。」
  十分程度たったろうか、娘が私を呼んだ。
  「パパ、覚えたよ。」
  「えっ!随分、早いじゃないか。」
  私は、わざとらしく驚いたふうを装った。
  「それじゃあ、テストするぞ。」
  私は詠み札を片付け、取り札を七枚シャッフルした。
  「よし、パパが一枚ずつ取り札を見せるから、決まりの一字を言うんだ。」
  「うん。」
  私は、札をめくって、娘の前に置いた。娘は、その札の向きを自分のほうに変えてから答えた。
  「せ。」
  「ユキ。札の向きを変えちゃだめだ。自陣の札は自分の方を向いているけど、敵陣の札は、自分からは、逆さまだろ。どんな向きでも、パッと見て答えるんだ。」
  「はいっ。」
  娘の返事に気合いが入っているようだ。
  「それで、パパ、『せ』であっているんでしょ。」
  「ごめん。あってるよ。じゃあ、次。」
  私はもう一枚めくった。
  「ほ。」
  「正解。」
  こうして、七枚全部見せて、娘はすべて正解を答えた。
  「ユキ、えらいぞ。完璧だ。」
  ほめられて、娘はちょっとはずかしげに嬉しそうな表情をする。その表情がいとおしかった。
  「次は、また、昨日のように札を並べて払いをやってみよう。」
  「うん。」
  娘は、瞳を輝かせる。どうやら札を払うのが楽しくて仕方がないようだ。
  「札を払うのは好きか?」
  「うん。札を覚えるのよりは面白いし…。」
  「そうか。じゃあ、昨日の復習だと思って並べてみよう。」
  私は、娘の陣の右下段に「せ」の取り札を左下段に「ふ」の取り札を置き、自陣の右下段に「む」と「す」と「め」の取り札、左下段に「さ」と「ほ」を配置した。
  「それじゃあ、昨日の復習だ。まずは、敵陣右下段の『む』の札を払ってみなさい。」
  「はい。」
  「ちゃんと構えて、ハイッ。」
  バシン。
  札を払う。なかなか様になった払いだ。
  「最初から札を見ない。本当は何がでるかわからないんだぞ。」
  「見ちゃいけないって言われても…。」
  「わかった。別な歌の下の句から詠む。その間は、敵陣の中央あたりをボーッと見ていて、札が詠まれた瞬間に視線と一緒に取りに行く。いいか?」
  「はい。」
  「何が詠まれるかわからないぞ。」
  私は、思わず指定序歌の下の句「今を春辺と咲くやこの花」と詠み始めていた。
  「…この花…。寂しさに…。」
  パスン。
  ちょっと弱々しい払いをする。
  「もっと、身体ごと取りに行くんだ。」
  「けど、『す』の方を取りに行こうとしてたから…。」
  「けどじゃないんだ。何が詠まれるか分からないんだから、何が出ても素早く取れるように構えておくことを肝に銘じておくんだ。」
  「はぃ…。」
  返事が小さくなる。この調子で「ふ」の札以外を一通り払わせてみた。
  「よし。随分いいぞ。最後は昨日教えなかった自陣の左下段の払いだ。今までの応用だと思って払ってみな。詠まないかわりに合図をだすから。一、二の、それっ。」
  スカッ。
  見事に空振った。
  「難しいよ。どう払ったらいいの?」
  「自分で考えてみるんだ。」
  娘は、構えの位置を下げた。
  「一、二の、それっ。」
  パシン。
  今度は払えた。
  「よく払った。でも、その構えだと今度は敵陣が届かないぞ。」
  「ああ、そうだよね。どうしたらいいか教えてよ。」
  「だめ。それじゃあ、明日までの宿題。」
  「えーっ。」
  「今日は、また、新しい大事なことを教えるから。」
  「なに?」
  新しいことというと興味を示す。
  私は、取り札五枚と詠み札五枚を輪ゴムでとめた札の束を取り出した。
  「ここに『み』で始まる札が詠み札・取り札五枚ずつある。」
  「うん。」
  私は、左の列に取り札、右の列にその札に対応する詠み札を置いた。
  「右の詠み札の上の句を見比べてごらん。それぞれが何文字目で他の札と違ってくるかな?」
  「二文字目が三枚、三文字目が二枚。」
  「そうだこれを『二字決まり』の札が三枚、『三字決まり』の札が二枚だ。」
  「………。」
  「さっきやった『むすめふさほせ』は、百枚の中に一枚しかなく、一字で取っていいので『一字決まり』というが、この『み』で始まる五枚の札のうち、『みち』『みせ』『みよ』は、二字目で取っていいって区別がつくから『二字決まり』と言うんだ。そして『みかの』『みかき』は『みか』まで一緒で三文字目で違いがわかって札を区別できるから、『三字決まり』という。わかるか?」
  「わかるよ。」
  「よし、いいぞ。だから、四文字目で区別がつく場合は『四字決まり』、五文字目で区別がつく場合は『五字決まり』という。」
  「何字決まりまであるの?」
  「『六字決まり』まである。」
  「へえー、そうなんだ。」
  「ただし、この何字決まりと言うのは、試合の中で変化する。」
  「……。」
  「一回の試合の中で、同じ札が重複して、えーと、重複って難しいかな…、同じ札が二度詠まれることはないから、たとえば、『みかの』が一度詠まれれば、『みかき』の札は『みか』で取れる。すなわち、『三字決まり』が『二字決まり』になったわけだ。そして、『みち』『みせ』『みよ』が『みかき』よりさきに詠まれれば、『みかき』は『み』の『一字決まり』になるわけだ。わかったか?」
  「うん、わかるよ。」
  「よし、この原理がわかれば、こうして詠み札と取り札を並べると、札の『決まり』がわかるだろう?」
  「たぶん。」
  「こうして札を始まる音ごとに決まり字で覚えていけばいいんだ。」
  「………。」
  「パパが、札を始まる音ごとに分けておいたし、札を覚える順番の日程表も作っておいた。これで、冬休みが終わるまでに百枚全部の札を覚えられる予定だ。」
  「うん。」
  「じゃあ、今日は、これから『み』で始まる札を覚えるんだ。いいな。」
  「はーい。」
  娘は、五枚の札を覚え始めた。
  「パパ、ユキ、買い物に行くけど一緒に行かない?」
  妻が、声をかけてきた。
  「ああ、行こうか。どうせ、荷物運びが必要なんだろう。ユキはどうする。」
  「いい。家で札を覚えてる。」
  「じゃあ、ユキは好きにしてなさい。パパ、行くわよ。仕度してね。」
  妻にせかされ、私は買い物に出かけた。

        (10)

  妻の買い物の荷物運びで近くのスーパーマーケットまで出かけたのだが、階段を昇る時に太股の内側に違和感を感じた。何故だろうと考えていたら、ふと気づいた。カルタのせいだ。昨日、二十年ぶりに札を払ったのが原因の筋肉痛に違いない。毎日のようにカルタを取っていたあの頃は、カルタで筋肉痛を感じたことなどなかった。覚えたての頃はあったかもしれないが、記憶には残っていない。その頃は、膝を痛めたり、畳で擦って皮膚を擦り剥いたりしたことはあったが、股の筋肉痛はなかった。
  「たったあれだけの払いで…。」
  年齢のせいと言うよりも、日頃の運動不足が原因なのだろうか。何か一片の情けなさを感じた。
  「でも、カルタ特有の筋肉の使い方ってあるんだよな。」
  「あなた、何をぶつぶつ言ってるの?」
  心の中で考えていたことを、どうやら口に出して言っていたらしい。
  「いや、別に。」
  「あなたも、ユキも変よ。百人一首を始めてから…。」
  妻は、何か釈然としていない様子だった。
  「買い物に行くっていうと、いつもなら喜んでついてくるのに、百人一首を覚えるっていうし、昨日は、あなたに言われて、自分から宿題をやるし…。あたしが、きびしくいっても、宿題に取りかかるのをしぶるような子がよ…。」
  「百人一首の何がそんなにおもしろいのかしら。」
  「そうだよな。俺にもわからないよ。ユキは何が気にいったんだろうな?」
  「将棋の時は、最初から嫌々っていう感じだったのを、あなた、結構無理に教えていたのにね。」
  「今回も、開始早々は、そうだったじゃないか。おまえの教え方は、俺の失敗をみているようだったぞ。」
  「やめてよ、そんな言い方。あなたとユキが、百人一首をやっているのを見ると、何か二人の世界に入り込んでいるようで、あたしはつまらないのよ。」
  「娘にやきもちやくんじゃないよ。おまえも一緒にやればいいじゃないか。」
  「あたしは、ダメ。あたしが、ユキに教える立場になっちゃうと思うの。あなたもやりづらいと思うけど…。」
  「じゃあ、まあ、はたから見ていてくれよ。それだけでいいじゃないか。」
  「でも、それがつまらないのよ。」
  こうなると堂々巡りである。理屈でわかっていても感情が納得しないのだ。
  買い物の帰り道、あとの会話はしめりがちだった。

  「ただいま。」
  「お帰りなさい。」
  家に帰ると、娘が玄関まで出て来て買い物袋を台所まで運んでくれる。
  「ユキ、ありがとう。」
  いつもなら、こんな手伝いでさえ、言われたってやりもしない。
  「パパ、ちょっといい。」
  「ユキ、少しはパパを休ませてあげなさい。」
  妻のその言葉を耳にしながら、娘に手を引っ張られて和室に向かった。
  「パパ、自陣の左の払いできるようになったよ。」
  「ほおー。」
  「見てて。」
  そう言うと、札を自陣の左下段とおぼしき位置に置いた。
  パシン。
  無理に構えを下がることもなしに札の右上角から手首を返して斜め後ろに札を跳ばす。
  「うまいじゃないか。よくコツをつかんだな。」
  「へへー。いろいろ練習してみたんだもん。」
  「そうか。えらいぞ。じゃあ、自分でそのコツを見つけたご褒美に、少し教えてやろう。」
  「うん。」
  「一字決まりと『み』で始まる札は覚えたな。」
  「うん。」
  私は、自分の左下段に外側から「みかの」「みち」「みせ」「さ」「ふ」と五枚並べた。
  「ユキの払い方は、『みせ』とか『みち』のように二字決まりの札を取る時に有効だ。ちょっと前に出てスナップをきかす。」
  パシン。
  実際に払ってみせる。
  「『みかの』のように三字決まりだともっとはっきりと決まり字を待って手首をしっかり返せる。」
  再び、札を並べなおして、やってみせる。
  パシン。一番外側の「みかの」の札だけが真後ろに跳ぶ。
  「すごーい。一枚だけきれいに跳ぶんだ。」
  娘が歓声をあげる。
  「でも、内側の一字の札は、これでは遅くなる。内側から真横に払うのがはやい。右肩をストンと落とす感じで、手は札に真っ直ぐに出す。」
  並べなおした札を払ってみせる。一番内側から五枚の札がきれいに真横に跳んだ。
  「札の跳び方って、こんなにきれいなんだ。」
  「そうだ。最初は、粗くても仕方がないけど、うまくなるにしたがって、札をいかにきれいに払うかにも心を配るようになっていくものなんだ。それじゃあ、五枚並べてやってみなさい。」
  「はい。」
  娘は、言われたとおりに払いを始めた。外側の手首を返す取りはうまくいくが、内側の取りがうまくできない。手が札に届かずに空振ったり、手首を真横に返す取りをする。
  「真横に払う時は、手首を無理に返そうとしなくたっていいんだ。肩をストンと落とす感じだ。ストンと。」
  身振りを交えながら説明する。何回かするうちに感じを掴んできたのだろうか、さまになってきた。
  「パパ、ユキ、もう片付けて、お昼にするわよ。」
  妻の声に私たちは、すぐに片付け始めた。機嫌のよくない時の女房なり、母親の存在は、亭主なり子供にプレッシャーを与えるものなのだ。

        (11)

   「パパ、起きてよ。宿題ちゃんとやったから、今日は一日、カルタ教えてよ。」
  買い物から、帰ってきて昼の食事のあとで、娘にカルタを教えてくれとねだられたが、妻の目も気にした私は、宿題をきちんとこなしてからと矛先をかわした。娘は夜もテレビ番組を見るでもなく、部屋から出てこなかった。
  その結果が、休みの朝からの起床コールだ。
  「今日は、大晦日だぞ。大掃除のお手伝いをしなきゃ。」
  「じゃあ、それが終わったら、約束だからね。」
  「ああ、わかったよ。」
  「あなた、早く起きて食事してください。今日は、大掃除するんですからね。窓拭きと換気扇の掃除はお願いよ。」
  妻の声にも容赦がない。一年の最後の日は何故こんなに慌しいのだろう。せっかくの年末年始休暇を何もしないで過ごせたらいいのだが…。

  私のグータラな願望はかなえられるべくもなく、窓拭きと換気扇掃除という亭主定番の大掃除分担も終わり、これまた定番の蕎麦を食べると、いよいよ娘のためのカルタ教室だ。娘は、掃除の手伝いをしながら、口の中でブツブツと「みち」「みせ」「みよ」…などと繰り返していた。すごい熱のいれようだ。たいしたものだとこちらが感心してしまう。
  「パパ。ユキねぇ、昨日の夜にねぇ、札三十枚覚えたよ。」
  「えっ、本当?」
  「パパが、予定表作ってくれたでしょ。その三日分を覚えちゃったの。すごいでしょう。」
  「そりゃ、すごい。すごいけど、どうやって覚えたんだ。覚え方なんか書いてなかっただろ。」
  「『み』の札と同じ要領で、詠み札と取り札を照らし合わせて、決まり字を覚えたの。札は、始まる音ごとにパパがわけてくれていたから、すぐにわかったの。」
  娘が差し出した札を見ると、札に色とりどりの付箋紙が貼られている。そして、その付箋には札の決まり字が書いてあるのだ。
  「付箋紙を貼るなんて、すごいアイディアじゃないか。よくそんな覚え方に気づいたな。」
  「えへっ、すごいでしょ。同じ音で始まる札には同じ色を使ったんだよ。ユキって頭いいでしょ。」
  「ああ、頭いいよ。たいしたもんだ。いやー、すごい。」
  「パパにほめられるのって嬉しいな。へへっ…。でもね、本当はね、ママが、こうしたらって、付箋紙を持ってきてくれたの。」
  「なんだ、そうか。ママか…。」
  あれほど、うさんくさそうなことを言っていた妻が、こんな形で協力してくれていようとは予想だにしていなかった。なんだかんだ言っても、娘が可愛いのだ。というよりも、私と娘が仲良くひとつのことをやっているのに嫉妬して、自分の存在を娘にアピールしただけなのかもしれないが…。
  「ねえ、パパ、見ていて。」
  娘は、まず、百枚の中に同音で始まる札が二枚ずつある札「う・つ・し・も・ゆ」の取り札から付箋をはがして、よくきったあと、一枚ずつめくりながら、決まり字を言い始めた。
  「『つき』『うら』『もも』『うか』『ゆふ』『ゆら』『しら』『もろ』『しの』『つく』。」
  澱みなく十枚を言い切った。どうやら、暗記は本物のようだ。
  「よし、いいぞ。じゃあ、つぎは、『な』で始まる札にしよう。」
  「うん。」
  娘は、また、付箋をはずし、同じ要領で言い始めた。
  「『なにし』『なつ』『なげけ』『なげき』『なにわえ』『ながか』『なにわが』『ながら』。」
  「すべて、正解。」
  私は、娘の快進撃に多少興奮していた。まさか、一日で三十枚覚えるなんて思いもよらなかった。一日の暗記のノルマを多くすると嫌になるのではないかと思い、少ない枚数から始めて、徐々に枚数を増やす計画でいたのである。歌の最初の音ごとに「む・す・め」の三枚で始めて、次に「ふ・さ・ほ・せ」の四枚、その次は「み」の五枚、以下「な」の八枚、「う・つ・し・も・ゆ」の十枚、「い・ち・ひ・き」の十二枚、「た・こ」の十二枚、「お・わ」の十四枚、「は・や・よ・か」の十六枚、「あ」の十六枚という予定を組んでいたのだ。
  「じゃあ、次は『い・ち・ひ・き』行くね。」
  「ああ。」
  娘は、同じ要領で札をめくりながら、答えていった。
  「『ちは』『ひとは』『ひとも』『ちぎりき』『いまは』『きみがためは』『いに』『きみがためを』『ひさ』『きり』『いまこ』『ちぎりお』。」
  「よし、完璧だ。『い・ち・ひ・き』は三枚ずつあって、それぞれの音は、二字決まり一枚と、それより長いトモ札二枚のペアの組合わせで構成されている。」
  「トモ札って?」
  「『いまは』『いまこ』とか『ちぎりお』『ちぎりき』などのように同じ音で始まるペアの札のことさ。」
  「へえ、トモ札って言うんだ。」
  「ああ、そうだよ。」
  「ねえ、パパ、札を覚えるのは、一人でも出来そうなんだけど、札を払うのは、一人でやってもうまくいかないから、そっちを教えてくれない?」
  「えっ、……、あ、ああ、いいよ。」
  娘のほうから、練習メニューをリクエストしてくるとは思ってもみなかったので、私は思わず絶句してしまった。
  「それじゃ、まだ、やってない敵陣の左右の中段と上段にも札を置いてみよう。」
私は、私の陣に今やった、三十枚の札のうち半分の十五枚を上中下段の三段すべてに左右に分けて置いた。そして、娘の陣には、  下段の左右に一枚ずつ、札を置かせた。
  「自陣の下段に札があるから、手を置く位置とか、構える位置とかの目安になるだろ。」
  「うん。」
  「構えは、前にやったとおりだ。敵陣の一番深いところを払えるようになったんだから、その応用だ。距離はかえって近いのだから、楽なはずだ。ただ、最初から中段とか、上段を払うつもりでいると、下段が出た時に対応が遅くなる。そのつもりで構えるんだ。」
  「はい。」
  返事が、「うん」から「はい」に変わる。真剣味が増してきたのだろう。
  「じゃあ、何か適当に下の句を読んでから、場にある札を詠むから、払いに行くんだ。」
  「今を春べと咲くやこの花…、今こむと…。」
  パシン。
  見事に敵右中段の札を払う。
  「よし、うまいぞ。」
  こうして、数枚を詠んでは、敵陣のいろいろな箇所の払いをさせては、アドバイスを与える。
  「敵陣の右、ユキから見ると向かって左の払いは、手首のスナップを利かせて、良い払いだ。でも、敵陣左、そっちから向かって右が、今一つだな。横に払おうと意識し過ぎなんじゃないか?」
  「うーん、そうなのかなあ。」
  「札に対して真っ直ぐに突くような感じで手を出してみたらどうだ。構えた手の位置から、札に対して真っ直ぐに手が出るから、札の斜め上角から行く感じだ。パパがやって見せるから、見てな。」
  バシン。
  斜めに突いて、手を戻さず、敵陣の左の外側の畳を叩く。
  「いいか、無理に自分の身体の脇の畳を叩かなくてもいいんだ。真っ直ぐ突いたら、その勢いを殺すために、都合のいい位置で畳を叩けばいいんだ。自然に、ナチュラルにだ。」
  「うん、やってみる。」
  パシン。
  なかなか様になっている。飲み込みが早い。ただ、いかんせん、背が伸びきっていないせいか、多少無理がある。
  しばらく敵陣の払いをやってから、次に残りの札を使っての自陣の払いに移った。下段ばかりでなく、左右の中段と上段に札を置き、敵陣の下段にも左右一枚ずつ置いておく。
  「自陣だけ置くと、ついつい自陣だけを取りやすいフォームになってしまう。構える時は、敵陣が出たら取れるフォームで、そこから自陣を払う。自然に自陣が払えるように身体で覚えるんだ。」
  敵陣と同じように、実際に札を詠んで払いをさせる。時として意地悪に敵陣を詠む。
  「パパの意地悪。いきなり敵陣を詠むんだもの。」
  「意地悪じゃない。敵陣に気を配って構えてないから、適陣に身体が動かないんだ。」
  娘とこんなやり取りをしながら練習をつけてやるのも楽しい。
  その後もしばらく、払いの練習を続けてこの日はお開きにした。
  「大晦日なんだから、夜は紅白を見ような。」
  「ユキは、別にいい。」
  「えっ。見ないのかい。」
  「明日は、元旦だから、宿題しなくていいでしょ。」
  「ああ、やらなくてもいいよ。元旦は、日常から離れてのんびり過ごすものだからな。」
  「じゃあ、カルタやろうね。ユキ、今晩また、札を覚える。」
  「あまり、無理するな。」
  「大丈夫よ。」
  こうして、大晦日の夜は、正月の料理の準備をする女房と、かるたの札の暗記をする娘と、紅白を見る私と、家族三人バラバラに過ごすことになってしまった。なんか、自分が一番怠け者ののように感じながら…。

        (12)

  「明けまして御目出度う。」
  「明けましておめでとう。」
  「あけましておめでとう。」
  新年を迎えて、我が家もこの挨拶で一年を始める。水道の蛇口を捻れば、水が出る現代で、若水でお雑煮をつくるわけではないが、やはり、元旦の朝は、お雑煮におせち料理だ。
  それに、雰囲気作りにはお屠蘇がかかせない。我が家では、正月に着物を着ることはないが、食卓が正月を演出するのだ。
そして、食事も一段落すると、娘にとって正月を感じさせる最大のイベントがある。
  お年玉である。
  「パパ、ママ、ありがとう。」
  娘のお礼の言葉に、例年だと妻が、「今年も、しっかり勉強するのよ。」と一言いうのだが、今年は違った。
  「せっかく始めたカルタだ。最後までやりぬこうな。」
  妻の一言の前に、私が一言いったのだ。私が妻の出番を奪ったせいだろうか、妻はいつもと違うことを言った。
  「お年玉で、無駄遣いするんじゃないのよ。」
  これは、私がまだ子供の頃、正月の度に聞かされた言葉と同じだった。いつの世でも、母親というのは年の始めから口うるさい存在なのだろう。

  今ではお年玉を与える立場になってしまい、元旦の楽しみの一つは減ったが、娘の喜ぶ顔を見るのは嬉しいものだ。そして、元旦のもう一つの楽しみが、年賀状である。一年に一回、年賀状だけの付き合いになってしまったものもいるが、それなりに消息を知ることができ、思いを馳せ、昔を懐かしむ。私も年を取ったのだろうか。

  さて、一連の元旦のイベントが終わると、娘が、そわそわし始めた。
  「ねえ、パパ。カルタしようよ。」
  「もうちょっと、あとにしないか。」
  私は、妻の気持ちを慮っていた。
  「カルタはやっぱりお正月のものよね。ユキ、パパにしっかり教わりなさい。ママもあとで参加するから…。」
  どういう風の吹き回しだろうか、妻の一言で、さっそくカルタ教室が始まった。
  「パパ、昨日また、新しく覚えたから見てて。」
  「ああ、何の音で始まる札を覚えたんだ。」
  「『た』でしょ。『こ』でしょ。それに『お』と『わ』。」
  「すごいじゃないか。六枚札と七枚札だな。二十六枚か。」
  「簡単よ。」
  「ずいぶんと強気じゃないか。じゃあ、『た』からやってみな。」
  娘は、取り札を見ながら決まり字を言っていく。
  「『たか』『たま』、…、『たち』『たき』『たご』、…『たち』…。」
  「なんで『たち』が二回出てくるんだ。」
  「ごめんなさい。最初の方は『たれ』だ。」
  「そうだ。『だれ』じゃなく『たれ』と濁らずに詠むから注意するように。それに、『たれ』も『たち』もどっちも取り札は『まつ』で始まるけれど、札の雰囲気の違いを視覚的に、映像的に頭に焼き付けて、一瞬で判断できるようにすることだ。」
  「はーい。」
  「じゃあ、次は『こ』を言ってみよう。」
  「えーと、『こひ』『これ』『この』『こころあ』、…うーん…『パス』『こころに』。」
  「なんだ、『パス』が出ちゃったのか。」
  「えっと、ああ、そうだ。『こぬ』だ。」
  「OK。じゃあ、今度は七枚ものだぞ。『お』だ。」
  「ねえ、パパ。」
  「何?」
  「『お』の束の中にさあ、『あふことの』っていうのがあったんだけど…。えーと、この『ひとをもみをもうらみさらまし』って札。何でこれが一緒になってるの?」
  「ああ、それか、よく気づいたな。いや、あたりまえか。『あふことの』と書いて『オーコトノ』って詠むんだよ。だから、これは『オーコ』の札だ。こういうのを歴史的仮名遣いというんだ。」
  「へえー。えっと、それから、『何々を』っていう時に使う古い『を』って『オ』でいいの。」
  「助詞の『を』とか、ワ行の『を』と言うんだけど、今では発音は『オ』でいいんだよ。」
  「わかった。」
  「じゃあ、『オ』をいってみよう。」
  「まずは『オーコ』でしょ、『をぐ』『おも』『おお』『おほ』『おと』『おく』。」
  「今、『おお』と『おほ』と言ったけどな、これはどちらも『オー』と詠むんだ。『オーコトノ』ってやつと一緒なんだ。だから、『オーエ』と『オーケ』と覚えるんだ。二字決まりではなく、三字決まりだ。」
  「難しいんだ。」
  「おぼえちまえば、簡単さ。」
  「うん。」
  「それでは、最後は『わ』だ。」
  「『わたのはらや』『わび』『わすれ』『わがい』『わがそ』『わすら』『わたのはらこ』。」
  「おっ、『わ』は、完璧だな。」
  「じゃあ、あとは、四枚札四種類『は・や・よ・か』と十六枚札の『あ』だけだ。あと三十二枚だ。」
  「うん。」
  三十二枚と聞いても、平然としている。たいしたものだと思う。歌を覚えていた時の嫌々さ加減からは想像もできない。取り札を見て、決まり字を言えるようにするという方法が、数の多さを苦にならなくさせたようだ。

  「ママも混ぜてよ。」
  おせちを片付け終えた妻が、二人の間に入ってきた。
  「せっかくだから、普通にカルタをやらない。」
  「いいな、それも。じゃあ、ユキが覚えた札を使ってやろうか。」
  その時は、娘が、覚えていない札は別になっているから、覚えている札をわけるのは簡単だと考えていた。
  「どうせ、パパが詠みをやらなきゃいけないんだよな。」
  「実は、ママ、百人一首のCDを持ってるのよ。」
  「えっ?ママ、見せて。」
  「おまえ、いつのまに!」
  妻は、きっと私と娘の練習風景を見ていて仲間に入りたくて、いろいろと手を打っていたにちがいない。
  ということは、札を覚えた可能性もある。
  「へえ、すごい、このお姫様の絵はきれいね。」
  娘は、CDのジャケットの絵を見て喜んでいる。
  「じゃあ、パパとユキが取ればいいか。」
  「えっ?なんでそうなるのよ。あたしも一緒に三人で取るのよ。」
  「だって、普通に取るんだったら、一対一で取らなきゃ、競技カルタにならないじゃないか。」
  「あなた、変!」
  「なにが?」
  「カルタを普通に取るっていったら、札を丸く散らして、札の回りをみんなで囲って取るの。」
  「なーんだ、散らし取りのことか。」
  「『なーんだ』って何よ。あなたは競技に毒されているんじゃないの。」
  娘の前では、「パパ」「ママ」と呼ぶはずなのだが、ふたりとも驚きやら、むきになったりで、その構図がくずれていた。
  しかし、妻の指摘は正しかった。小学生のカルタ大会では、競技カルタのルールでやるわけがない。散らし取りで各組の上位者を残して決着をつけるか。源平戦方式で、チームで競わせるか、そんなところだろう。だいたい、娘に決まり字と払いを教えているものの、競技カルタのルールをきちんと説明してさえいなかったのだ。
  「そうだな。一度、競技の世界に入ると、素人が考えることや、感じることが見えなくなるものなのかもしれない。わかったよ。散らし取りこそ、正月に家庭でやるカルタの原点かもしれないな。」
  「それじゃ、やりましょう。」
  「ルールは、どうする。」
  「ルールって、一番多く取った人が勝ちでしょ。」
  「そうじゃなくって、お手つきのペナルティの科し方だよ。」
  「そんなのなしでいいじゃない。」
  「確かに、初心者ルールではそういう考え方もいいんだけど、何でもかんでもさわればいいっていう感覚が身につくのはよくないんだ。」
  「じゃあ、どうするの?」
  「いいか、ユキもよく聞くんだぞ。」
  「うん。」
  「取りは、詠まれた札を一枚だけを触ること。他の札に触れたら、触れた札の下に自分が今まで取った札を裏返して置いておく。その札を取った人が、ボーナスとして裏返した札も取り札にできる。いいな。」
  「パパ、取った札がなくてお手つきしたら、どうするの。」
  「そういう時は、ペナルティ無しで行こう。」
  「はーい。」
  妻は、娘が覚えていない札もまぜて、百枚の取り札を嬉々として散らし始めた。どうやら、さりげなく自分の知っている札を手元に集めているようだ。
  「じゃあ、始めましょう。パパ、CDをかけて。」
  妻は、結構、真剣になって札を覚えている。娘との時間を奪った私に対するリベンジのつもりなのだろうか。
  我が家の散らし取り大会が始まった。普通に取れば、私が勝つのは目に見えているし、それも大差になることは間違いない。ここは娘に花を持たせようとほとんど手を出さずに様子を見ていようと思っていた。
  最初の一枚が詠まれた。妻も娘も一生懸命探している。上の句だけで探しきれないので下の句まで聞くことになる。私は、リモコンで下の句の終わりでポーズをかけた。
  娘が、札を見つけたとたんにバサッと三枚くらい札を払ってしまっていた。
  「ユキ、反則。一枚しかさわっちゃいけないのよ。」
  妻に指摘され、娘は私の顔を見上げる。
  「ユキ、散らし取りは出た札しか触っちゃいけないんだ。今の場合だと、他にさわった二枚の札の分だけお手つきになるから、今まで取った札の中から、ペナルティを出さなきゃいけない。ただ、取った札がないから、今回はペナルティは勘弁するけど。」
  「うん。」
  娘が肯く。私は取りの手本を見せなければと思い、次の一枚は取ることにした。
  CDのポーズを解除する。二枚目が詠まれる。すぐに見つけて、出札を指先で押さえる。
  「ユキ、こういうふうに取ればいいんだ。でもな、終盤になって数が少なくなって、回りの札を触らなくてすむようになったら、払ってもいいぞ。」
  「はい、パパ。」
  こうして、散らし取りが進む。数が多いうちは、下の句まで聞くことが多く、妻にもハンデが少ない。結構、札を覚えもしたようで、上の句が詠まれるとすぐに下の句を口の中でボソッといいながら札を探して、娘と良い勝負を繰り広げていた。
  しかし、残り四十枚を切り始めた頃から、娘の取りのスピードが速くなった。場所を覚えたのと、札の暗記がついてきたせいだ。妻は悔しそうな顔をしている。ここで、私は、少し娘に厳しさを教えようと、娘が取りに出した手をかいくぐって、一枚だけを払うようなことを始めた。その一枚を取った時、娘は唖然とした表情で私を見た。それから、娘の札を取りに行くスピードに加速がついた。母親相手の油断が消えたのだ。それを見て、私も数枚を娘の手本になるように取った。妻の顔は、悔しそうな表情から、おもしろくなさそうな表情にかわった。
  それでも、妻は、「秋の田の」とか「春過ぎて」といった最初に娘と覚えた札を素早く取っていた。妻が札を押さえた手の甲を払ったら、「どうだ!」という表情で私を見ていた。坊主めくりの時に引き続き、私の妻は、こんなに勝ち気だったのかと改めて感じた一瞬だった。
  最後の一枚を残して、ゲームが終わった。取った札を積んで三人並べてみる。娘の札が一番高く、妻と私は同じくらいだった。妻は、二つの札の山を押さえつけて、高さを測っている。
  「あたしのほうが一・二枚多そうね。」
  別に数を数えればわかることなのだが、ここは異議を唱えずにしておいた。
  「ねえ、ユキ、坊主めくりやらない。」
  結局、カルタはここまでで、坊主めくりに始まって、はてはトランプにまで移っていった。元旦の風景は、勝負にこだわらず和気藹々と楽しむのがよいと心底感じた。
  競技カルタに没頭していた高校時代は、若いということもあったが、勝負にこだわって汲汲としていたように思う。今、競技に復帰したら、札は取れないかもしれないが、昔よりはきっと楽しめることだろう。
  私は、家族と遊びつつ、満足感に浸っていた。


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1999/AUG,(C)Hitoshi Takano