正月二日目の書き初めという伝統は、ある意味で小学校の宿題によって生き残っているといえるかもしれない。この日、娘がおとなしいと思ったら、宿題の習字をやっていた。妻が横について、「そこは、トメ。そこはハライ。」などと言って指導をしている。
「ユキ、何を書いているんだ。」
気になって覗きにいくと妻の一声が返ってくる。
「パパ、邪魔しないでよ。」
「はいはい、退散しますよ。」
私は、一人でテレビを見るはめになった。正月のテレビは、毎年恒例の企画ばかりで、面白いと感じなくなってしまった。正月番組を見飽きるほどの回数の正月を経験してきたということなのだろうか。
いつのまにか、私はテレビの前で眠ってしまっていた。
「パパ、起きて。」
娘の声で目がさめた。
「習字できたよ。」
「ああ、そうか。パパに見せてくれよ。」
「へへー。これ。」
娘は、うしろに隠し持っていた作品を差し出した。その半紙には、なんと『百人一首』と書いてあるではないか。
「『百人一首』っていうのが、課題なのか?」
驚いて、尋ねる。
「漢字で二字か四字の言葉なら、好きなものを書いていいの。いいの選んだでしょ。」
「いいのって、いいていやあいいかもしれないけど…。まあ、上手に書けているからいいか。」
「ホント?上手?」
「ああ、上手だよ。」
「よかった。それじゃ、今日の分のカルタの札を始めようよ。」
「パパはいつでも、いいぞ。」
娘は、習字の作品を片付け、カルタの札を持ってきた。
「昨日、遊んだから、覚えてない札を選ぶのに手間取っちゃった。」
「そうか。でも、選んだんだな。」
「うん。」
「何を覚えた。」
「パパのメモにあったように『は』『や』『よ』『か』をやって、『あ』も少し。」
「じゃあ、四枚ずつある『は・や・よ・か』をやってみるか。」
「十六枚を良く切って…・」
音ごとに四枚ずつやるかと思ったら、随分と大胆である。それだけ、自信があるのだろう。
「えっと、『かく』『かぜそ』、うーん『パス』、『よを』『かさ』『はなの』『やまが』『やえ』『よも』『やまざ』『よのなかよ』『よのなかは』、えーと『パス』、『やす』『かぜを』『はるす』。」
「なんだ『パス』が二枚か?」
「あっ、わかった。こっちは『はるの』。」
『かひなくたたむなこそをしけれ』と書かれた取り札を指して、答える。
「それが、わかれば、簡単だろう。音別に四枚ずつ集めてごらん。」
「えーと、『か』と『や』と『よ』が四枚あるから、『は』で始まると。」
「そうだ。」
「『は』は、春と花だから…。わかった。『はなさ』だ。」
「よーし。よく覚えたな。じゃあ、今日は勢いに乗って、『あ』もやっちゃおう。」
「うん。」
「いいか、『あ』で始まる札は十六枚ある。もちろん『あふこ』は『オーコ』だから、ここには入らない。」
「うん。」
「この十六枚の分類は、二字めをとって覚えるんだ。」
「二字め?」
「そう、二字めだ。『は』『ら』『き』『ま』『り』『さ』『し』『ひ』『け』と覚えるんだ。」
「はらきまりさしひけ?」
「そう、『はらきまりさしひけ』。」
私は、取り札と詠み札を、隣り合わせに分類しながら並べた。
「詠み札で、決まり字を確認してごらん。『あはれ』『あはぢ』の二枚は二字めが『は』だろ。『あらし』『あらざ』は『ら』、『あきの』『あきか』は『き』、『あまの』『あまつ』で『ま』、『ありま』『ありあ』で『り』。ここまでで『はらきまり』だ。」
「うん。そうだね。」
「ここまでは、二枚ずつのペアで三字決まりだ。そして次に『あさぼらけあ』『あさぼらけう』と『あさじ』だ。この三枚は二字めが『さ』になる。六字決まり二枚と三字決まり一枚だ。そして最後が、二字決まり三枚。『あし』『あひ』『あけ』だ。この三枚の二字めが『し』『ひ』『け』だ。全部つなげると?」
「『は』、『ら』、『き』、『ま』、『り』。『さ』。『し』、『ひ』、『け』。うん。『はらきまりさしひけ』になる。」
「まあ、呪文のように覚えるんだな。」
「なんか、おなかがすいたっていう感じだね。」
「えっ?」
「だって『はら』って『おなか』って感じがするし、『さしひけ』って、差し引いちゃうから、すくって感じがするよ。」
「『きまり』の説明が抜けているようだけど?」
「それは、なんとなく雰囲気なの。」
「まあ、いいや。とにかく覚えれば…。それじゃあ、しばらく自習の時間だ。付箋紙に書いてはって覚えてもいいし、好きに覚えなさい。覚えたら、パパを呼ぶんだぞ。」
「はーい。」
娘は、黙々と覚え始めた。
私が、時間潰しに元旦の新聞に目を通していると娘の呼ぶ声がする。
「パパ、覚えたよ。」
「そうか。じゃあ、確認しようか?」
私は、娘から『あ』札十六枚を受け取って、よくシャッフルした。
「いくぞ。」
掛け声とともに一枚づつ娘に提示していく。
「『あけ』、『あきの』、『あまの』『あまつ』、『あし』、『あはぢ』、『あきか』、『ありあ』、『あさぼらけう』、『ありま』、『あさじ』、『あひ』、『あはれ』、『あらざ』、『あさぼらけあ』、『あらし』。」
「すごい。完璧だ。」
「えへっ。」
娘は、少し照れたような表情をみせた。たいした集中力だ。
「よし、じゃあ、最後の仕上げ、タイムトライアルで百枚全部を言う練習だ。」
「タイムトライアル?」
「時間との勝負だ。百枚を二分以内で言えるようにするのが目標だ。三秒見てわからなかったら、その札はパスをして、別にわけおく。パパに間違いを指摘された札も別にしておく。そして間違えた札とパス札は、それをじっくり覚えなおす。間違えもパスも無しで二分以内で言えるようになるまで続ける。
今日が駄目なら、明日もチャレンジすればいから、気楽に挑戦してみよう。」
「うん…。」
なぜか自信なさげだ。前に覚えていた札に自信がないのだろうか。
「いいか、じゃあ、パパがやってみせるから…。よく見てろよ。」
私は、まず、取り札を二十枚ずつ五つにわけて、裏返しておいた。持ちやすくするためである。そして、時計を置いた。
「秒針が零秒に来たら、合図して時間をはかってな。」
娘は、黙って肯いた。
私は、裏返しの札の束を一つ手にした。
「よーい、ドン。」
娘の古典的な掛け声とともに、一枚ずつめくっては、「やまが」「はなさ」「なつ」…と、決まり字を言っていく。最初の束を二十秒でクリアした。百枚を言い終わると、娘がタイムを教えてくれた。
「パパ、すごい。一分と四十八秒。」
「百八秒か。札の束を持ちかえる時に少しロスがあったな。慣れてくると一枚に一秒かからないんだけどな。」
「へえー。」
「じゃあ、ユキの番だぞ。」
「うん。」
今度は、娘が挑戦した。
「よーい、ドン。」
「うーん『たま』、えっと『かく』、ああ『あきか』…。」
娘がやると、一枚一枚がスムースに出てこない。一枚ごとに余計な間がはいる。結局、パスが二十二枚、五分近くかかった。
「ユキ、パスする札に考える時間がかかり過ぎる。三秒で出てこなかったらパスしなきゃだめだ。いいか、パッと見て答えられなきゃ駄目なんだ。『うーん』とか『えっと』って余分なことを言うんじゃない。」
「はい…。」
「それから、『たち』を『たれ』と言ったり、『なにわえ』で『わび』と言いかけたりしていただろう。似たような札は、視覚的に映像的に目に焼き付けて、頭に叩き込むようにしなきゃだめだぞ。」
「うん…。」
「いいか、これは時計見ながら、一人でもできるだろ?」
「うん。」
「明日までの宿題だ。特にパスした札を重点的に覚えておくように。いいな。」
「はい。」
娘の札の暗記は、もう最終段階に来ていた。こんなに早く、覚えるとは全く予想だにしていなかったのだが…。
(14)
翌日は、正月三日。私の正月休みはこれで最後だ。明日は出勤しなければならない。そして、昼からは新年会で飲めない酒も飲まなければならないだろう。酔って帰る私を迎える妻の不機嫌そうな顔が今から目に浮かぶようだった。
「パパ、札のタイムトライアル、三分以内だったら大丈夫だよ。だから、今日は、札を払わせてよ。」
娘は、札を払うことに楽しみを見出したようだ。
「そうか。じゃあ、間違いとパスが五枚以下で、百枚を三分を切って言えたら、払いをやろう。」
「うん。」
はたして、娘のチャレンジは成功のうちに終わった。二分四十七秒で、ミス一枚、パス一枚でクリアしたのだった。
「また、『たち』を『たれ』と言ったな。それから、パスした札は『はなさ』だ。よく覚えるんだぞ。」
「はい。」
「でも、わずか一晩でよくここまで時間短縮できたな。それよりも、一週間かからずによくこれだけの枚数を覚えたと誉めるべきかな。いずれにしても、ユキ、よくやったぞ。」
「パパ、ありがとう。」
「よし、じゃあ、払いの練習をしよう。しかし、その前にもう一つ、競技カルタのルールをちゃんと教えてなかったから、一応、説明しておくぞ。頭の片隅に残しておけよ。」
「はーい。」
私は、取り札を百枚裏にして混ぜ始めた。
「ここから、裏にしたまま、一人二十五枚ずつ取るんだ。」
自分の二十五枚を取って、娘が二十五枚取るのを見届けた後、残りの五十枚を片づけた。
「そしたら、前に払いの時にやったように、自陣の範囲に三段に並べるんだ。パパの並べ方を良く見てごらん。」
まず、私は中央とおぼしき位置に札を裏返して一枚置いた。そして、その基準となる札の下に隙間を一センチあけて裏返しに一枚、
また一センチあけて裏返しに一枚を置いた。
「この裏返した札が、それぞれ上段・中段・下段の基準だ。この左右に自分なりの定位置というのを決めておいて並べるんだ。」
娘も、見よう見まねで裏返しに札を置く。
「こちらの上段とそっちの上段の間は、三センチあけるんだ。」
そして、私は残りの札を一枚ずつ表にして、この札は上段、これは下段と決まり字によって決めてある場所に札を並べていった。二十年前の定位置だが、不思議と覚えているものだ。娘は、札を表にしたもののどこに置いていいのかわからないでいるようだ。
「まあ、最初は、何をどこに置いていいかわからないかもしれないな。パパと一緒に一枚ずつ考えようか。」
「うん。」
「いいか、競技カルタの選手は、この札が自陣に来たらどこに置くというのを決めているんだ。これを定位置というんだ。」
娘の手元には『あさぼらけあ』の取り札があった。
「『あさぼらけあ』は、六字決まりだ。囲って取る札だな。どこが囲いやすい?」
「うーんと、ここかな?」
娘は左下段の内側の場所に札を置いて囲うような手振りをしていた。
「じゃあ、そこに決めよう。次の札は…。」
札を表にすると『さ』の取り札だった。
「これは、ここ。」
迷わずに右下段に置いた。
「いいぞ。そこに決めよう。」
この調子で、二十五枚を並べ、左右の幅を畳の短辺の幅に合わせた。
「札を並べて暗記するのに十五分の時間を取ったあと、詠みが始まるんだ。」
「うん。」
「その十五分で、敵陣と自陣の札を覚えるんだが、場にない五十枚はカラ札だから、詠まれても取れないわけだ。そこでお手つきしないようにしなくちゃいけない。」
「はい。」
「お手つきというのは、詠まれた札が場にないのに札に触った時とか、詠まれた札が場にある時に、その札がない陣地の札を触った時のことだ。」
「この前のお手つきとは違うの?」
「たとえば、ユキの陣に『さ』の札があるだろ。両方の陣にない『せ』の札が詠まれたのに『さ』を触るとお手つきとなるが、ユキの陣の札が詠まれた時には『さ』を触ろうが、その他の自陣のどの札に触ってもお手つきにはならない。だから、札を払う時に何枚か触っても大丈夫なんだ。」
娘は理解しようと真剣に聞いている。
「もし、パパの陣にある『す』が詠まれた時にユキが自分の陣の札に触れたらお手つきだ。わかるか?」
「うん。」
「じゃあ、両方の陣にない札が詠まれて、相手陣と自陣と両方の陣の札を触ったらどうなるか?」
「お手つきでしょ。」
「そうなんだが、ペナルティが倍になる。」
「ペナルティって取り札の中から裏返しに置いた札のことだよね。」
「それは散らし取りの話だ。競技カルタでは、お手つきすると相手から場の札を一枚送られてしまうんだ。だから、普通は一枚送られるところ、場にないカラ札の詠みで両方の陣を触ると開いてから二枚札が送られる。これをカラダブという。」
「お手つきすると自分の陣に札がふえるんだね。」
「そういうことだ。競技カルタでは、自分の陣地の札を先に無くしたほうが勝ちなんだ。だから、相手の陣地の札を取ったら自陣から一枚札を送ることができる。自分の陣の札を取ったら、自然に場から一枚減る。相手がお手つきすれば、自陣から一枚送って減らせるし、カラダブなら二枚減らせるわけだ。わかるか?」
「うん。自分の陣を減らせばいいんだ。」
「そうだ。それから、札を取るには、詠まれた札に触れば取りになるのだが、その札に触らなくても、その札のある陣から、他の札から払ったとしても完全に押し出せば押し出した人の取りになるという札押しというルールがある。だから、払いが役立つし、並べ方も左右に押し出しやすいようになっているだろ。」
「そうか。だから、左右に寄って真ん中に札がないような並べ方なんだ。」
「わかったか?」
「わかった。」
「じゃあ、競技カルタ形式でやってみよう。」
まず、十五分かけて同音で始まる札を指さしながら順に確認して、暗記をさせた。
「最初の音ごとに分類し、まとめて覚えるんだ。『い』で始まる札は、『いに』が敵陣にあって自陣に『いまこ』があるだろ。そしてその二枚しかないから『いまは』はカラ札だ。」
こんな具合で教えながら、百人一首CDをランダム機能を使って詠みとすることにした。
娘は、遅いながらも、札をさがして払いをする。最初は札の数にとまどい、カラ札に惑っていたが、少しずつ慣れてきて、数が減ってくると、時たま鋭い払いを見せるようになった。
「どうだ。やってみて面白かったか。」
一試合を一通り体験させたあとで聞いてみた。
「うん、面白い。払いが面白いし、散らし取りより複雑だね。」
たしかにカラ札があるという点だけでも複雑と感じることだろう。
「学校の大会では、こんな形式ではやらないだろうけど、本格的にカルタを取るなら、競技カルタのルールは避けて通れないからな。まあ、覚えておいて損はないだろう。」
「うん、札を払うのっておもしろいよね。」
「学校のカルタ大会は、散らし取りでやるのか、源平でやるのかわからないけど、とにかく、先生の言うルール説明をよく聞くんだぞ。散らし取りにしろ、源平にしろ、競技カルタと違って、地方や家庭によってルールが違ったりするんだからな。」
「ねえ、パパ。源平っていうのはどんなルールなの。」
「競技する人を二チームに分けるんだ。一対一じゃ、チームとは言えないから、まあ、少なくとも四人以上でニ対二とかにわけるんだな。このチームが、それぞれ源氏方と平家方というわけだ。そして、一チーム五十枚を二段とか三段に並べる。並べ方は自分の方に札を向けて並べるんだ。そして、相手の陣地から札を取ったら、自分の陣地の札を送る。相手がお手つきしたら、自分の陣から札を送る。そして、自分の陣の札をさきにゼロにした方が勝ちというルールだ。」
「だいたい、競技カルタと同じなんだ。」
「そうだな。ただ、お手つきのルールなんかは違ったりするから、ちゃんと確認しておかないとな。」
「うん。がんばるね。」
「ああ、がんばれよ。」
こうして、年末から年始にかけての我が家のカルタフィーバーも、とりあえずは、一段落した。カルタのおかげで、娘や妻と中身の濃い年末年始を過ごせたとも言えるのだろう。
(15)
一月四日は、仕事始めである。仕事始めとは言っても、仕事が終われば、お定まりの新年会である。こういう行事には、付き合いが悪いと思われている私であっても、参加するのが礼儀というものだ。たまに参加するものだから、まわりは面白がって酒を勧める。酒は得意ではないのだが、勧められるものを断わってカドがたつのも嫌なので、飲んでしまう。こうして、酔っ払いが一丁出来上がる。当然、帰って来てからも、妻や娘に良い顔をされるわけがなかった。
日曜の朝は、二日酔いの頭で目がさめた。朝といっても昼近い時間だ。
「いったい何時まで寝ているつもりなの。」
「いやあ、まあ、新年会は毎年のことじゃないか。」
「体質的にお酒に弱いんだから、勧められても断わればいいのよ。」
「それができれば苦労しないよ。水を一杯くれないか。」
「はい。」
妻の出してくれた水をゴクッと飲み干す。
「断われないうちに酔っ払っちゃうんだ。酔っちゃうと、飲めないはずの酒が飲めちゃうんだ。それで、あっという間に時間が過ぎていき、いつのまにかお開きになっているんだよな。」
「少しは、上手な断り方を覚えればいいのよ。」
「ああ…。」
こういう日は、なんとなく立場がない。
「ユキは、どうしたんだ。」
「友達の家に遊びに行ったわ。」
「へえ、道理で今まで起こされなかったわけだ。」
「サチコちゃんって、仲のいい子がいるじゃない。」
「ああ、サチコちゃんって、うちにも遊びに来たこともある子だろ。」
「そう、そのサチコちゃん。」
「思い出した。おまえ怒ってたよな。『ユキちゃんちって狭いのね』って言った子だよな。」
「そうよ、あの子のうちは、お屋敷って言っていいくらいのうちですからね。」
「じゃあ、そのお屋敷に行っているんだ。」
「そうなのよ。友達、何人かで集まって百人一首をやるんだって。」
「えっ?」
「どうしたの?そんなに驚いて。」
「だって、友達ってみんな素人だろ。」
「何、その素人って。」
「いや、カルタの素人ってことさ。」
「そりゃ、そうでしょ。」
「そんな中で、ユキがカルタ取ったら、全然勝負にならないぞ。」
「たぶんね。うちで三人で遊んだ時、悔しいけど、あなたの教え方に感心してたのよ。」
「あいつが、まわりに合わせて手を抜いて適当にあしらうなんて芸当できるわけないし、いやな思いしなければいいんだけど…。」
「大丈夫でしょ。」
「いや、子供ってのは、結構残酷だ。百人一首は、決まり字で取れるやつと、下の句を聞いてから取り札をさがすようなやつとじゃ、お話にならないくらいの差がでるんだ。あいつ浮いちゃうぞ。」
「あなたの考え過ぎじゃないの。考え込んでたって、どうこうなるもんじゃないんだから…。それより、はやく食事してちょうだいね。片付けもあるんだから。」
夕方になると娘が帰ってきた。
「ただいま。」
「おかえり。」
「ユキ、おかえりなさい。うがいして手を洗うのよ。」
「はあい。」
あまり機嫌が良さそうではない。
「ユキ。今日はサチコちゃんの家行ってきたんだろ。どうだった。楽しかったか。」
「うん……。」
しばらくの沈黙があった。
「ねえ、パパ。みんなユキのことズルイっていうのよ。」
「なんで?」
「決まり字で、札を取っちゃズルイって。取り札に書かれている部分が詠まれてからじゃないと取っちゃいけないんだからって言うのよ。」
「なんだ、そりゃ?そんなバカなルールがあるものか?」
「でも、みんなでそう言うんだから…。」
娘は、たまっていた感情が身体の中から溢れ出てきたようだ。目に涙を浮かべて、私に憤懣やる方ないといった口調で訴える。
「で、ユキ、おまえどうしたんだ。」
「そんなルールなんてないもの。詠みをやってたサッちゃんのおばさんに、『決まり字で取っていいよね』って言ったの。」
「そしたらなんて?」
「『ユキちゃん、みんなと仲良く遊ぼうね。』って。」
「なんじゃ、そりゃ。ルールの答えにも何もなってないじゃないか!で、どうしたんだ。」
「おばさんがいうんだもの、その場で逆らったってしょうがないじゃない。しかたないから、決まり字でどの札かわかってるんだもの、下の句が詠まれた瞬間に取ったの。」
「そうか。我慢したんだな。」
「でもね。それでもズルイって言うの。」
「今度は、なんでズルイんだ。」
「早すぎるって言うの。」
「そりゃ、無茶苦茶な話だ。」
「そうでしょ。アッタマ来ちゃった。」
「それで、どうした。」
「もう取るのやめたの。次からはズッと詠みをやってた。」
「よく切れなかったな。えらいぞ。よく我慢したな。」
「うん…。」
悔しい思いを私に全部吐き出したせいか、私が優しい言葉をかけたせいか、しゃくりあげて泣き出した。
「もう、泣くな。」
私は、娘の肩を抱きながら慰めの声をかけるしかなかった。
娘の上達の速さは、はっきり言って予想外だった。すでに、いわゆる素人のお座敷カルタで、友達とキャッキャッいいながら札をさがして「あった。」「取った。」と遊ぶレベルを超えてしまったのだ。
このお座敷カルタの楽しさから、カルタに興味を持ち、競技カルタの世界に入ってくるケースも多いのだ。
私は、ある意味で娘から一番楽しいカルタの想い出を奪い取ってしまったのかもしれない。
友達と遊ぶには強すぎ、競技カルタをやるには弱すぎるという一番中途半端なところにいるのだ。
娘にカルタの楽しみを与えてやるためには、本格的に競技カルタの団体に連れていってその中で強くなっていくしかないだろう。
娘の涙を見ながら、私は後悔の念にかられていた。
(16)
「ただいま。」
「おかえりなさい。」
妻の声とともに娘が玄関まで飛び出してきた。
「パパ、おかえりなさい。ユキね、今日ね、優勝したよ。」
「そうか。それはよかったな。おめでとう。」
この日は、小学校の娘のクラスのカルタ大会の日だった。私が背広を脱いで着替えている間も、娘は、この日の結果を報告してくれる。
「うちのクラスは、四十人でしょ。それで休みの子が四人いたんで、六人ずつ六組で散らし取りをやったの。」
「そうか、散らし取りだったか。」
「でもね、お手つきは関係なく取った枚数だけのルールだったよ。」
「そうだろうな。みんな初心者だもんな。」
「それでね、サッちゃんと同じ組になったんだ。」
「へえ。」
「ユキが決まり字で取ったら、また、ズルイって言うから、先生に『そんなことありませんよね』って聞いたの。」
「そしたら?」
「先生は、『ユキちゃんはチャンと覚えてきたのね。決まり字で取るのは素晴らしいことなのよ。全然ルール違反じゃないわよ』って言ってくれたの。」
「そうか、よかったな。」
「それで、各組で取った枚数順に順位をつけて、一位の人達は一位の人六人で、二位の人は二位の人達で集まって、決勝戦をやったの。」
「何枚くらい取ったんだ。」
「二回とも、数える必要もないくらいたくさん取って優勝したんだ。」
「先生は、ほめてくれたか?」
「うん。『冬休みによく覚えてきたわね』って。これが賞状と賞品。」
「へえ、賞品は百人一首の札か。」
「これね、取り札に決まり字が薄い赤い字で印刷されてるの。」
「こういうもんも商品化されてるんだなあ。」
「いいでしょ。」
「ああ、よかったな。でも、この札は、これから決まり字を覚える人達のためのものだから、ユキにはもう必要ないだろう。」
「先生もそんなこと言っててけど、いいの。ユキの初めての賞品なんだから。」
「ああ、そうだな。」
「あと、先生が誰に教わったか聞いたから、パパって言ったの。」
「えっ、そんなこと言ったのか。」
「うん。そしたら、『おとうさんは、競技カルタをなさってるの?』って聞かれたよ。」
「ユキは何て答えたんだ。」
「昔、やってたって答えたよ。そしたら、『おとうさんにしっかり教わって、湯島天神で開催される競技かるたの少年少女大会に出てみない?』って。先生、その大会の係りをやってるみたいなの。」
「……、で、ユキはその大会に出てみたいか?」
「うん。パパ、教えてね。」
「ああ、えっ、いや…。…あのなあ、パパも仕事があるし、パパとの練習だけじゃ強くなるには、ちょっと…なあ…。」
「えっ、駄目なの。」
「いや、駄目じゃないけど、ちょっと先生と話ししてみるから、結論は待ってくれ。」
「うん、いいよ。」
どうやら、話の流れからすると、娘の担任は競技カルタの心得があるようだ。きっと、どこかの競技団体に所属しているに違いない。娘も、やりたがっているし、娘の上達のためには、私との練習よりは、同世代の同じレベル以上の子供との練習のほうが効果的に違いない。私は、娘の担任に電話して、相談することにした。
担任の宇佐美先生は、やはり東京山風会という競技カルタの団体でカルタを取っている現役選手だった。私は、娘を山風会で同年代の子供の中で練習させてもらうよう頼んだ。先生は快く引き受けてくれた。
先生は、私が競技カルタをやっていたと聞いて、自分のところに練習に来る話を遠慮していたようだった。「おとうさんさえよければ、是非、娘さんの指導をさせてください。」とまで言われて、私も満更ではなかった。
「ユキ、先生と話したら、先生が練習しているところに練習しにいらっしゃいって言ってくれたぞ。どうする?」
「うん。パパが一緒に行ってくれるなら行く。」
「パパが行けるのは、最初の時くらいだぞ。あとは、先生に連れて行ってもらえ。」
「えっ、最初だけ?。」
「甘えた声を出してもダメ。最初だけ。」
「うん。わかった。でも、家でも教えてくれるよね。」
「ああ、それはいいとも。」
「やったぁ。パパ、ありがとう。」
こうして、娘をカルタの練習会に連れて行くことになったのだが、まさか、そこで自分が練習することになろうとは、この時は知る由もなかった。
○
「忘却」という「封印」は、「むすめ」によってあっけなく切られてしまった。
そもそも、「封印」には何か意味があったのだろうか。
いったい、私が「封印」していたものは何だったのだろうか。
「カルタ」だったのか、それとも「時」だったのか…。
ただ、確かなことは、現在、私が娘とともに「競技カルタ」を心から楽しんで取っているということだけなのである。
――完――