滋賀県大津地方は、大雪にみまわれていた。しんしんと 降る雪の中、琵琶湖をのぞむ近江神宮では、小倉百人一首 かるた競技の名人戦・クイン戦がおこなわれている。
大広間には詠みの声が朗々と響く。
「我が衣手は露に濡れつつ…」
下の句のあとの一瞬の静寂。
静寂はあたかも時間を止めてしまっているかのようだ。
「田子の浦にうちいでてみれば白妙の…」
上の句が詠まれるやいなや、止まっていた時間が動き出
す。
静から動への瞬時の転換。
「XXXっ…!」
裂帛の気合いとともに舞い散る札。
静寂に引きずられた観衆には、畳に落ちる札の音さえ耳
に入るようだ。
静寂が歓声にかわる。
名人戦・クイン戦ともに今の一枚で二回戦の決着がつい
た。クイン戦は、九枚差でクインの勝ち。一回戦も勝って
いたクインの防衛が決まった。名人戦は六枚差で挑戦者の
勝ち。これで一対一のタイスコアになった。クイン戦は三
番勝負だが、名人戦は五番勝負である。名人位を奪うため
には、あと二回勝たなければならない。
憧れの名人位。多くの選手がこのタイトルを目指し、挫
折していく。栄光の座につくことができるのは一部の限ら
れたものだけなのだ。
「名人は、選ばれたものがなる。」
この称号に魅せられ、チャレンジし続け、そして夢を果
たしえなかった多くの一流選手が、このように言う。
しかし、名人経験者は「名人は勝ち取るものだ。」と言
う。予選トーナメントで勝ち続け、挑戦者決定三番勝負で
勝ち、名人戦で勝ち、名人になったら防衛戦で勝たなけれ
ばならない。勝利という事実の積み重ねの上に名人位があ
る。
ミツオは、今、この大舞台にいた。挑戦者として…。
近江神宮は、小倉百人一首第一番「秋の田の」の歌の作
者である天智天皇を祠った神社である。ここでは、残り札
一枚対一枚の運命戦になった時に、「秋の田」の札が残っ
ていれば、先に出るというジンクスがある。事実、このシ
チュエーションを自分自身体験しているし、他人の試合で
何度も見ている。確率論からすると二分の一以外の何もの
でもないのだが、このような場面が生じそうな流れになれ
ば、絶対に「秋の田」の札を残すと決めている。確率が同
じならば場所と札との縁に賭ける。こうすることで勝負に
禁物の「迷い」を避けるのである。
「二回戦は『田子の浦』の歌だった。一回戦は『朝ぼら
け有明』の歌だった。どちらも『雪』に関係ある札でフィ
ニッシュしている。今日の天気は大雪だし、なかなかうま
い偶然だな。」ふと、こんな思いが浮かぶのも場所柄のせ
いかもしれなかった。試合の合間の一時、控え室の窓外に
目をやる。雪はやむ気配もない。
ミツオは、一人呟いた。
「雪はいい。特に大雪はいいなあ。すべてを白一面に覆
ってくれよ…。」
風が窓を鳴らす。外では吹雪はじめていた。