荒れた天候が、荒れる試合を予感させる。閉め切った室
内の中でさえ、吹雪く音が聞こえるようだ。一対一で迎え
た五番勝負の第三試合の勝敗は非常に重い。ここで勝った
ほうが王手をかけ、負けたほうはカド番を迎えなければな
らない。札を並べ終わり、敵陣の暗記を始めたとたん、ミ
ツオは自分の目を疑った。しかし、間違いではない。一・
二回戦と全く並べ方が違うではないか。左右にほぼ均等に
分けられた札、それぞれがほぼ真四角に近くなるように並
べられている。まるで初心者が最初に考える定位置のよう
だ。それに加えて、一字決まりの「す」と「め」の札が、
それぞれ左右の中段の一番端に置かれている。何とも経験
のない配置である。一瞬唖然としたが、名人戦の大舞台で
余計なことを考えている余裕はなかった。とにかく、暗記
時間を目一杯使って、札を覚えなければならない。覚えづ
らい印象を持ちながらも、何とか暗記を入れる。別れの共
札は、こう攻めて、こう戻る。囲い札は、こう囲う。単独
札は、こう攻める等々、イメージトレーニングを繰り返し、
暗記と動作を連携させる。
「二分前です。」
大会役員の乾いた声を合図に、ミツオは素振りを始める。
しかし、名人はピクリとも動かず、目を瞑って暗記を入
れているような気配だ。
「時間です。」
いよいよ試合開始だ。
序歌が詠まれる。
「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの
花、今を春べと咲くやこの花…。すみの江の岸による波よ
るさへや…。」
ミツオは、すかさず敵陣右中段の出札を目掛けて攻めた。
間違いなく攻めたのだが、すでに名人の手があった。目の
錯覚でなければ、名人の手は「す」を「S」音で囲ってか
ら押さえたようだった。しかし、決して気のせいではない。
現実であった。凄まじい響きの速さだ。数枚詠み進められ
ると余計に速さがはっきりする。響きの速さにまかせて第
一目標の札の上で待ってから押さえて取っているのだ。し
かもおそろしい速さで。ミツオが聞いてから手を出したの
では間に合わない。
一・二回戦の音を判断して払うという攻めを主体とした
かるたとは全く違うのだ。音を聞くというより音に感じて
身体を動かしているのだ。本能のままに取っていると言っ
ても過言ではないかもしれない。ミツオが音を聞きわける
前に名人に動かれてしまい、ミツオは自分自身の音に対す
る響きを消されてしまっていた。しかも音に反応して動く
手は、別れ札であっても敵陣から攻めてくるとは限らない。
相手がこちらの陣を攻めてくるから、敵陣の札が先に出れ
ば取れるという今までの取りのイメージが役立たなくなっ
ていた。相手が九連取したところで、ようやく自陣の大山
札を囲って取ることができた。ミツオも相手と同じように
響きにまかせて取ろうとしてみたが、全く歯が立たない。
響き負けしてしまうのだ。あまつさえ、響きに頼りすぎ、
聞きわけられずにお手つきをしてしまった。ここで仕方な
く三字決まり以上の札を中心に取りに行くようにしたのだ
が、時すでに遅かった。詠みが進めば、決まり字は当然短
くなっていくからだ。形造りもままならなかった。最後は
「はなの」の札を「はなさ」で払ってしまうお手つきだっ
た。十八枚差。惨敗だった。
「感覚が壊されたっていう感じだぜ。」
控え室に戻るなり、誰にいうでもなくボソッと呟いた。
「名人は若い時、『異常感覚』の異名があったんだよ。」
声の主はクインの父親だった。クイン戦は終わっていた
ので隣のクインの控え室との間のふすまが開いていたのだ。
「名人はA級に上がってすぐに、名人戦予選を勝ち抜き、
東西決戦をものにして、まさに彗星の如く名人戦の舞台に
登場したんだ。二十歳の若武者の鮮烈なデビューに、皆、
度肝を抜かれてね。その時のかるたが今の試合のスタイル
だった。負けた一流選手は、異口同音に『感覚が破壊され
た』って言ってね。それで『異常感覚』って呼ばれていた
んだ。」
「そうですか。異常感覚ですか。ぼくは、もうひとつ称
号を上げたいな。『押え手の達人』っていうのはどうです
か。」
「いい線行ってるね。たしか師匠筋の人は押え手至上主
義者だったよ。」
「へえ。押え手至上主義なんてのがあったんですか。」
「そりゃ、押え手なら、出札に直接行ってるわけだし、
札押しでどっちが出したのってもめることもないだろう。
それに当時は一部に、札を何枚も払うことに抵抗があった
んだな。美しくないって…。」
「まあ、払い手は札から直接いった場合でも、何枚か札
が跳ぶことが多いですから。でも、その札を何枚も払うの
が豪快でいいって言う人もいますからね。」
「美的感覚は、人それぞれだから、なんとも言えないね。
それでね、科学的思考のかるたを標榜・実践する時の名人
に二年連続して挑戦したんだけど、名人戦では勝てなかっ
たんだ。」
「そんな強かった人が、何で三十年近くも表舞台に現れ
ずにいたんですか。」
「大学卒業後、ずっと海外で仕事をしていたんだよ。」
「へえ、海外勤務ですか…。そんなに長いブランクをよ
く克服しましたね。」
「まあ、海外でも練習していたのかどうかは知らないけ
れど、五年ほど前に帰国して、復活したことは確かさ。」
「でも、前のような異常感覚かるたは取らなくなってい
たんでしょう。」
「そうだね。何度か練習で相手をしたことがあるけど、
昔の取りはなかったよ。払い中心、攻め中心のいわゆる一
つのオーソドックスなかるただったね。」
「昨年、重村名人に勝った時は、初挑戦以来三十年めの
快挙、『知命の名人』って騒がれましたよね。」
「あの年齢であれだけ取れるというのは、やはり、あの
異常な感じの速さをベースに持っているからだよ。」
「三十年前の名人って、さぞ強かったんでしょうね。」
「そうさねえ、それもあるけど、あのかるたは諸刃の剣
なんだよ。まあ、次の試合頑張ってな。」
「はあ、はい。」
一日に最高五回戦を戦う試合で、前の負けを引きずって
いるわけにはいかない。気分を新たにカド番の四回戦に臨
まなければならない。トイレに行って、乱れた和服を直し
て、呼吸を整えているとすぐに次の試合の時間となる。休
憩時間にそう多くのことはできないのだ。
「かるたは体力勝負。名人は、あの歳でよく頑張れるよ
な。」
ミツオは他人事のように相手に感心してしまう。
「名人は、昨年の名人戦以来、全く試合に出てないんだ
って。」
「ああ、俺も聞いた。きっと、名人戦一本に絞っている
んだろう。」
「その前だって、名人戦の予選以外には出てなかったっ
て話だぜ。」
「そうだよな。だからみんなあまり知らないんだ。」
「どんな人で、どんなかるたを取るかって、聞かないも
んな。」
「謎のベールに包まれた名人のかるた。次は何が飛び出
してくることやら。」
応援のギャラリーは勝手なことをしゃべっている。
ミツオは、余計なことを考えず気息を整えていた。丹田
に気が充満してくるのを感じていたところへ迎えが来た。
「佐多さん、そろそろ時間になりますので、会場のほう
にいらしてください。」
「はい。」
短く返事をすると立ち上がる。両手で自分の頬をバシッ、
バシッっと二発叩く。
「よしっ!」
気合の声をかけて会場に向かった。
会場に入り、席に着く。
百枚の取り札の中から、二十五枚ずつを抽出する。
札を並べ始める。
名人と挑戦者。
ふと相手の手元を見るミツオ。
「三回戦と同じ並べ方だ。さっきと同じ取りで来る。」
勝手に肯きながら、自陣を並べていく。相手がどうこよ
うが自分には、この定位置しかないのだ。この布陣で戦う
しかない。
「諸刃の剣。諸刃の…。」
控え室での会話を思い出す。
「あれだけ速く取る。お手つきしないのが不思議なくら
いだ。あの異常な速さでさっきのようにノーミスなんての
は、そう滅多にあるもんじゃない。結局はこっちの自滅を
誘ったんだ。今度は詠み手も違う。何かのきっかけで序盤
にお手つきしてくれれば、さっきのように一気にもってい
かれることはなかろう。」
札を並べながらも、頭の中では対策を考える。
「お手つきは、してもらうのを待っていたんじゃ駄目だ。
こっちで、きっかけをつくることでこそ効果があるんだ。
他力本願は、ぼくの芸風じゃない。あとがないんだ。やる
っきゃない。相手のスピードに対して誘えるだけのスピー
ドや響きが出せるだろうか。無理をしたら、自滅の繰り返
しだ。」
思考とは別に、目は札を追っている。暗記をいれなくて
は話にもならない。
と、突然、照明が消えた。
暗くなる会場。
「停電だっ!」
あわてて社務所に連絡を取りに行く役員。
ギャラリーは騒ぎ出す。
「あれま、吹雪のせいかいな。」
「タイミング悪いね。」
「試合できるの?」
「お静かに、お静かに願います。暗記中です。静かにお
願いします。」
役員の声で静まる。
とりあえずカーテンを開けて、外の光を入れる。しかし、
暗い。名人も挑戦者も、何事もないかのように暗記を入れ
続ける。
何分が経過したのだろうか。やがて、照明が復旧した。
「開始時間になりましたが、停電の扱いを協議している
中で二分前のコールを忘れてしまいました。停電もあった
ことですし、今から二分後に詠唱開始ということでよろし
いでしょうか。」
「結構。」
名人がこう言うと威厳がある。
「はい。」
ミツオも無駄なことは言わない。
しかし、二分前というのに二人は素振りさえしない。動
きもしない。
不動のまま開始時間となった。
不気味な緊迫感の中、序歌が詠み始められる。
最初の一枚を固唾を飲んで見守っているギャラリーの中
には、今ここの畳の上で名人と対峙している挑戦者が、六
年前、この席から試合を見ている一人であったことを思い
出している者もいた。
四回戦の火蓋は切って落とされた。