木々の緑が、穏やかな日の光を浴びて照り映える。大学
キャンパスという空間には緑がよく似合う。都心の大学で
は、高層ビル化されたところもあるが、味気なさを感じる。
緑の木々には鳥や昆虫も集まる。鳥のさえずりを聞き、緑
に目を移す。こうした空間が、どれだけゆとりや安らぎを
与えてくれることだろう。ミツオは、入学手続き以来、久々
に訪れる専門課程のキャンパスを歩きながら、緑の持つ意
味合いを感じていた。と言っても、進級して来たわけでは
ない。それは、三年生になってからのことである。彼は、
ゴールデンウィークの狭間のこの日、先輩との待ち合わせ
のために来ていたのであった。
待ち合わせ場所に近づくと、すでに来ていた瀬崎のほう
が先に気づいて手を振る。ミツオには照れがあって、そう
いう真似はできない。
「お待たせしてしまったようですみません。」
約束の時間前なのだから謝る必要などないのだが、一応、
後輩としての礼儀というものだ。
「うちの連中で時間前に来るなんて、ミツオは貴重な存
在だよ。かるた会時間ってやつは、いいかげんなんとかし
てほしいもんだね。」
「あとは誰が来るんですか。」
「言いだしっぺは、高橋さん。二年連中には声をかけた
けど、OKの返事は、ミツオと敷島だけ。一年生は新歓コ
ンパがこれからだし、呼んでない。おっ、敷島が来たよ。」
瀬崎は、より大きく手を振って合図している。
「いやあ、こっちは駅から、結構歩くんでしたね。時間
前に到着の予定だったんですけど…。」
「大丈夫、まだ、時間前だよ。すごい汗だね。走ってき
たの。ご苦労さん。」
巨漢の敷島、さすがに汗が吹き出してくる感じだ。
「よっ、みんな揃ったな。」
本日の仕掛人が登場した。
「たまには、こっちもいいだろ。実は、今日は、仕事で
こっちに来てたもんだから。呼び立てて、二人には悪かっ
たな。まあ、その分、おごるから。さあ、行こう。」
高橋は、先頭に立ってさっさと歩き始めた。
幻の門と呼びならわされている門を出て、坂を下るとそ
こが三田通りである。左手には、東京タワーが見える。坂
を降りたところで、信号を待って横断歩道を渡る。右に曲
がる。このまま三田通りをまっすぐ行くと札の辻に出るが、
最初の角を道を渡ってから、左に折れる。その角のビルの
住居の昇降口とおぼしきところに、「バロン」という看板
が無造作に置いてある。そこから入って、狭いエレベータ
ーで三階に上がるとそこが店である。入口は、店というよ
りマンションの一室という感じだが、中に入るといわゆる
カラオケスナックが広がる。高橋はよく来るのだろう、マ
スターと親しげに話している。さすがに時間的にはまだ早
いらしく、他に客は入っていない。ミツオたちは、ボック
ス席に座った。スーパーニッカのらっきょ型のボトルが出
てくる。なんと「かるた会」というシールが貼ってある。
「かるた会って、貼ってあるんですから、ぼくらだけで
来た時も使っていいんですか。」
敷島が尋ねる。
「かまわないけど、なくなったら、俺に言えよ。俺なあ、
このボトルの形が好きなんだ。手に持った時の感触がいい
だろう。手に馴染むっていうか、手のひらにしっくり来る
感じだろ。」
「そうですか。中身が飲めれば、どうでもいいですけど。」
「それより、乾杯しましょうよ。」
瀬崎が口をはさむ。
「よし、それじゃ、カンパーイ。」
「カンパーイ。」
「瀬崎、つまみを頼んでくれ。腹にたまるものがいいん
だろう。あとは任せるよ。」
「はい。適当に頼みます。」
「敷島、感触というか、ものに触れた感じというか、そ
れが自分にとってどういうものかっていう感覚は、大事に
しろよ。興味のないことには、そりゃ感じやしないだろう
けど、感じ取ろうって気持ちを持つことは、一つの訓練だ
と思うんだ。かるたを取るとき、今日は、札が手に馴染ん
でいるなとか、畳と膝がしっくりきているとかって感じる
ことはないか。芸を極めようとする人間はあらゆる感性を
日頃から磨いておくことが必要だと思うんだ。」
「そうですね。かるたでそういうことって意識したこと
ないですけど、柔道やってたころ、その日の道着を来た感
覚で、今日は、調子がよさそうだとか感じたことはありま
すね。まだ、そういう感覚がわかるところまで実力がとも
なってないんでしょうね。」
「いや、実力ということではなく、意識してないだけな
んだと思うね。意識して感じようと思えば、だんだん感じ
て来ると思う。」
「高橋さん、そういう感性を鍛えるメリットってなんで
すか。それから、芸を極めるって言ってましたけど、かる
たって芸なんですか。」
「ミツオは、かるた取っていて感じたことない。」
「うーん、そうですね。構えた時、膝の位置がしっくり
来てないなとか、今日はやけに敵の右下段が良くとれると
か、上段の突きの手が浮いちゃうなとかっていうのは感じ
ますけど、そういう程度ですね。」
「いや、それでいいんだよ。そのいい時、悪い時、それ
以外にどういうサインが出ているかを知ることが、自分の
調子を知る手がかりになるだろう。おそらく、構えを毎回
ビデオかなんかでチェックすれば、調子のいい時と悪い時
の違いが客観的にわかると思うけど、残念ながらそこまで
はできない。そうすると、頼りになるのは、自分の感触・
感性なんだ。日頃からそうしたことに注意して感じていれ
ば、自分の調子を知る材料をそれだけ多く持つことになる
だろう。」
「はい、そうですね。」
「それから、終盤になって札が減ってきて、定位置では
なんかしっくり来ないとかって感じたことない。」
「それは、あります。」
「それって、感性が知らせてくれているんだよ。その時、
ちょっと理論的に考えると、しっくりこない理由が見えて
くる。共通音の別れや、攻め札、守り札の関係で、自分の
かるたに合わない配置になっていたりするんだ。」
「なるほど。そう言われてみるとわかる気がします。練
習にも数だけでなく、質が求められているわけですね。」
「まあ、そういうことだ。それから、芸って言葉だけど、
俺は基本的にかるたを芸という言葉で表現することに問題
はないと思っている。また、俺が好きな表現だから使って
いるわけだが。だいたい、ミツオなんかは芸っていうのを
すごい狭い意味でしか使ってないから、そんな質問が出て
くるんだよ。柔道だって、武芸の一つだろ、将棋だって遊
芸・技芸だろ。かるただって、芸を磨くって言ったり、芸
を極めるって言っていいんだよ。技って言葉に置き換えて
もいいけど、芸のほうが粋じゃないか。技に術がついても
技術だけど、芸に術がつきゃ芸術だよ。テクニカルポイン
トよりアーティスティックポイントのほうが、個性とか自
己表現の形態としては評価が高い感じがするんだよね。」
「わかりました。高橋さん流の言葉の感触の良さという
のを大事にされているってことですね。」
「まあ、そういうことだ。」
こんなことを皮切りに、水割りを飲みながら、かるた談
義が始まる。酔えば舌もなめらかになるというものだ。
「瀬崎、一年生は何人くらい残りそうなんだ。三月・四
月と忙しくて、全然顔出せなかったからな。お前のところ
は自宅だから、夜遅く電話するわけにもいかないから、お
前から電話くれよって言っといたよな。この前、やっと今
日の連絡ができたくらいだもんな。」
「すみませんねえ、気がきかなくて…。一年は四人残る
と思います。男では熊野茂蔵ってごつい名前のやつが、や
る気ですね。体格は名前とは違って小柄です。女は下田は
るか、八角美智代、渡部陽子の三人です。経験者はいませ
んが、みんな札は覚えました。説明会にはあと五人ほど来
たんですが、テニスサークルとかに取られちゃいました。
熊野と八角は、この前E級で三位に入賞しました。」
「ミツオ、敷島、お前たちも先輩なんだから、ちゃんと
面倒みてやれよ。」
「いやあ、女の子は苦手っすよ。春日や山根にお任せで
す。」
「そうだ、敷島。留年したんだってな。」
「いやあ、ちょっと単位が足りなくて。今年は、できた
余裕で、アルバイトで金貯めて、かるたの地方遠征に精を
出そうと思ってます。」
「アルバイトもかるたもいいけど、親を心配させるなよ。
ちゃんと進級・卒業できるように授業もがんばれよ。まあ、
遠征はいいことだよ。さっそく成果が出て、宇佐八幡の大
会でC級準優勝したそうじゃないか。一年でB級に上がれ
たんだから、立派なもんだ。」
「ありがとうございます。まあ、春日の和歌山大会遠征
の話しに 刺激されたこともありますけど。」
「ありゃ、びっくりしたよ。一月二日の大会だし、近畿
の盲腸などと悪いことをいうやつがいる和歌山だから、参
加者があまり多くない大会なんで、正月早々俺も行ってみ
たのよ。そしたら、あかねちゃんがいるじゃない。驚いた
のなんのって。あそこは、和歌の浦っていって、片男波に
まつわる山部赤人の和歌もあるんじゃなかったかな。」
「『和歌の浦に潮満ち来ればかたをなみ葦辺をさしてた
づ鳴きわたる』っていうやつですね。」
「へえ、ミツオ、よく知ってるね。それでもって会場は、
玉津島神社じゃない。相撲の片男波部屋の力士は四股名に
玉がつくだろう。何か関係があるはずだから、そっちの興
味もあって来たって言っていたけどね。あいつは本当相撲
のことよく知ってるよ。ひょっとすると、かるたよりそっ
ちのほうが大事なんじゃないのかな。だいたい、C級に出
てもいいですかなんて俺に聞いてくるんだから、知り合い
に合わなかったら、あいつどうするつもりだったんだろう。
しかし、一回戦不戦勝で、四連勝で優勝してしまうんだか
ら、これまた、びっくりだったよ。いやあ、たいした行動
力だね。」
「それに比べるとぼくは、全然さえないシーズンでした
よ。伊能さんのせいにするわけじゃないですけど、風邪な
んかかるたを取ればなおるってセリフに乗せられて、熱を
押して出て、一回戦負けしたのが、一月最初の新春大会で、
あれが原因で、肺炎おこして入院、試験期間前に行われた
試験を随分棒に振りましたよ。おかげで、進級はギリギリ
の単位になってしまいました。」
「進級しただけ、俺よりましだよ。でも、そのあとが、
また、災難だったよな。」
「病気で遅れた分の試験勉強があったので、一月の大会
は出ずに二月の白妙会の大会に合わせていたんですが、こ
この二回戦で、早大の一本とクラッシュして、右手薬指脱
臼。約三週間の固定の羽目に陥ってしまったんです。」
「あんなに指が逆側に曲がるものとは知らなかったよ。」
「瀬崎さん、一番驚いたのは本人のぼくですよ。」
「ミツオは、年末に行った富嶽高校の竹山の真似して左
の練習始めたんだよな。あの時は、自分には到底できない
って言ってたのにな。」
「ああやって、効き手以外でもあれだけ取っているのを
見たら、自分もチャレンジしてみようって気になりますよ。
それにひょっとすると、左のほうが右より強いかもしれな
いなんて思っちゃうんですよ。高橋さんは、この辺の話し
は知らないでしょう。左の練習すると、使う筋肉が違うん
です。体の節々が痛くなってきます。その痛みを知らず知
らずに変な風にかばっていくから、他の所にも負担がいく
んです。練習で瀬崎さんの右下段を左で思いっきり抜きに
行った時に、今度は腰を痛めてしまいました。腰部捻挫っ
てやつです。それで、三月も棒に振ってしまったんです。
もう、右手は使えるようになっていたんですけど、また、
腰を痛めるのが怖くて、おそるおそる素振りの練習から、
再開ですよ。」
「そりゃ、大変だったな。俺も腰は何度も痛めているか
ら、その苦労はわかるよ。しばらく安静にして、よくなっ
てきたら腰痛予防体操ってのもあるし、日頃から鍛えるし
かないようだね。それから、指の脱臼っていうのは突き指
のひどいやつだろ。取る時に指を開かないことと、指を伸
ばしきらないことだな。指に若干のタメを残して取ること
だよ。」
「指のタメとか指を開かないとかわかっていたんです。
相手の破壊力が、そんなセオリーを無視してモロに正面か
ら襲って来たんですよ。よける間もありゃしない。ありゃ、
まいりました。」
「まあ、そりゃ、災難だったな。それから、風邪の件は
自己管理の問題だ。誰のせいでもない。休んだほうがいい
と自分で思ったら、休めばいいんだよ。今月末の小倉忌大
会で京都に行くんだろ。それに合わせて調整してみろ。」
「わかりました。四月も体調崩してたので、大会に出て
ないので 小倉忌大会では是非C級優勝して、春日さんや
敷島に追いつきたいと思っています。」
「追いつくっていったって、ミツオは俺より強いじゃな
いか。俺はミツオに勝てるようになるのが目標だよ。」
「まあ、がんばれよ。それから、瀬崎はどうなんだ。」
「はあ、勝つ時は強いんですが、負ける時は弱いんです
ね。これって当たり前ですか。」
「昔と変わらず、タバ勝ちタバ負けパターンかいな。」
「まあ、そうですね。」
「お前は、だいたい落ちつきがない。試合中にキョロキ
ョロしすぎる。気分散漫で集中力欠如といったら言い過ぎ
か。」
「そりゃ、あんまりな言い様ですよ。札を取るときには
集中してますよ。」
「瀬崎の場合、大勝ちする時の力を百とすると、大負け
する時の力は二、三十くらいなんだろうな。そんな時は、
相手も実力の半分も出ないっていうくらいじゃなきゃ良い
勝負にはならないって感じだな。」
「コンスタントに八十の力を出せるように練習しろって
やつですね。」
「敷島、よく知っているじゃないか。」
「柔道時代の先輩から、言われたことがあるんですよ。
誰の言葉なんですか。」
「誰なんだろうな。俺も知らないけど、心掛けたいと思
っているんだ。百の力を出すに越したことはないんだろう
けど、百のものを百出すって、至難の技だと思うよ。それ
に延びきったゴムは切れちまう。二十パーセントの余裕が
いい結果を生むんだと思う。そして、練習によって徐々に
八十パーセント分の絶対量をアップさせていけば、実力も
あがっていくんだと思う。」
「八十パーセントの力を常に百パーセント出せるように
ですね。不肖、この瀬崎、目指してみましょう。」
「それじゃ、不肖瀬崎くん、一曲賑やかしに歌ってちょ
うだい。」
だんだん、酔いもまわってくるとカラオケの出番である。
歌は気持ちを発散させる。瀬崎は会長職のプレッシャーを、
ミツオは次の大会に向けての不安を、そして敷島は留年の
悔いを吹き飛ばすかのように歌うのであった。三田の夜は
長かった。
*
ミツオは、地下鉄東西線早稲田駅の神楽坂駅寄りの改札
を出た所で、仲間を待っていた。さすがに日曜日の朝であ
る。人の流れは少ない。どうも大学のかるた会の連中とい
うのは、集合時間にルーズなやつが多い。相手に対しても
だいたい失礼である。今日は、ライバル校と言われる早大
との対抗戦の日なのである。ミツオたちは「慶早戦」と呼
んでいるが、相手は「早慶戦」と呼んでいる。A級・B級
二チームに分けてそれぞれ五人の団体戦を三回勝負で行う
のだが、最近は双方ともに十人集めるのが難しい状態が続
いている。待ち合わせの九時三十分までには、新入生四人
とミツオと瀬崎が来た。ちょっと遅れて、敷島と石田と春
日が到着、案の定、山根志保が最後である。
「ごめんなさい。」
「もう、先に行こうと思っていたよ。」
「すみません。」
待ち合わせの時のいつもの光景である。佐藤珠子が四年
になってあまり顔を出さなくなってから、志保の遅刻のお
目付け役がいなくなった感じである。
「よっ、久しぶり。」
志保に注意が向いていたので、市山の出現は突然という
感じだった。
「暇だったし、気が向いたから来たぜ。瀬崎いいんだろ、
俺が出ても。」
「そりゃ、もう助かります。よく来てくれました。新入
生、市山先輩は、初めてだろ。挨拶しろよ。」
遅刻しても、志保とは大違い、来ただけで感謝されてい
る。志保は自分に対する白い視線がそれてホッとしている。
実は、瀬崎には狙いがあった。出場者を確認している中
で考えた。西寺は来ないが、A級は二年五人で一チーム組
ませる。将来は、この五人が団体戦の主要メンバーで行く
に違いないから、並べる順番にしても誰がリーダーシップ
を取るかを見ようと思っていたのだ。B級は相手も新入生
が五人揃ったそうである。ところが、こっちは四人である。
瀬崎がB級に出るのでは釣合いが取れない。そこで、市山
に来てもらったわけだ。市山だったら、練習もしてないし
D級程度だから、B級を任せるのに格好の人材である。瀬
崎は、今日は裏方に徹しようという予定だった。
駅から、会場である神社までは二〜三分程度である。試
合開始の十時に余裕を持って到着することができた。
二階にあがると、先方は十人集まっていた。A級は、四
年の葦木、幹事長で三年の林、二年の立浪、一本、脇の五
人である。B級には今年の新入生で男が一人、女が四人で
ある。みんな初心者ということであるが、四月の終わりに
はE級に出ており、熊野や八角たちといい勝負をしている。
さっそく一回戦が始まる。瀬崎が、相手の情報を教えて
くれる。二年連中は、ミツオたちの同期でもあり、大会で
も過去何度も当たっているので、見当がつく。三年の林は、
瀬崎といい勝負だと言う。四年の葦木は、西寺の高校の先
輩であり、高校時代と大学に入ってからと一回ずつA級で
優勝しているという実力者だそうだ。なんでも、伊能さん
相手に札を裏にして切った順番に並べて、「ぼくは定位置
がないですから」とうそぶいて勝ったという話があるそう
である。石田は、葦木と林が両端の一番と五番に来て二年
生を上級生がサンドイッチする形を読んでいる。敷島は、
二番四番に上級生が来て二年生と交互に並ぶ形を考えてい
る。志保とあかねは、並べ方はお任せ状態である。ミツオ
は、相手の並び方を読んでも、こちらの配置で勝敗に大き
く影響するのかどうかが疑問だった。いずれにしても、葦
木以外の四人に対して三勝を考えるのが、ミツオたちの力
からしたら筋なのだろう。すると、石田には悪いが、葦木
とあたる可能性のあるところには石田に行ってもらうとい
うことで考えなければならない。五人の中で現在一番弱い
と言わざるをえないからだ。石田は自分の読みに従って自
分が一番で行くことを主張した。状況は自分自身で最もよ
く把握している。そこが決まるなら、五十音順で行こうと
敷島が言う。結局、一番=石田、二番=春日、三番=佐多、
四番=敷島、五番=山根で対戦票を提出した。
蓋をあけてみると、石田の読みは概ね当たったが、一番
と五番が逆であった。すなわち、石田対林、春日対立浪、
佐多対脇、敷島対一本、山根対葦木の組み合わせとなった
のである。普通に考えれば、二番三番四番で三勝しなけれ
ば、勝利の目はない。しかし、不幸にも、この予想通りの
展開となってしまった。山根が真っ先に十六枚差で轟沈、
石田も十二枚で沈没と、早くも後がないのだ。佐多が十枚
差で星を一つ返す。残り二試合はともに接戦である。敷島
が差を少々拡げると、春日は逆に差を拡げられる。敷島四
枚の勝ちの直後、春日三枚負けが決まる。勝ち点を落とし
てしまった。瀬崎は、詠みが終わると、春日に「三枚くら
いチョイチョイチョイって、取っちゃえばいいのに。」と
余計なことを言ってむられている。実はこの台詞は伊能の
真似なのだ。この台詞は気安く言うところに特徴があるの
だが、そんなに簡単に取れるくらいなら誰も苦労はしない。
伊能が言うから憎まれないというところがあるのだろう。
一方、B級は、熊野、下田、八角が勝ち、勝ち点をあげた。
こちらは幸先の良いスタートだ。
二回戦開始まで、しばしの昼食休憩の時間である。
「考えてみたら、俺がかるた取るのって、去年の夏合宿
以来だぜ。えらい久し振りだよ。膝がガクガクしちゃった
よ。二回戦で決着つけろよ。俺は三回も取れないからな。」
市山は、一年生にはっぱをかけている。
「市山さん、詠みながら見てましたけど、結構取れてい
たじゃないですか。二回戦で終わらせるためには、先輩が
勝てばいいんですよ。がんばってくださいね。」
「ばかやろ。俺は員数外なんだから、いいんだよ。」
「まあ、そんなこと言わないで。ところで、志保ちゃん
は、どうだった。葦木さんは強かった?」
「ひびきでかなわないし、取りに無駄な動きがなかった。
大山札を上段の真ん中に置いて、囲わないで突き込んでく
るんですよ。こっちの囲いが甘かったので、先に囲ったん
だけど取られちゃった。でも、最近は練習してないんじゃ
ないですか。」
「えっ、なんで。」
「膝や臑に毛がはえているようじゃ、現役選手としては
失格だなって、ボソボソと呟いていたんですよ。あたしな
んか、膝は角質化して赤く汚くなって、なま足でミニなん
て絶対はけない。もう、お嫁にいけないよー。あたしの青
春を返せー。」
「何を阿呆なことを言ってるんだよ。かるた取りの勲章
だろうが。お嫁に行きたくなったら、練習やめて、お手入
れすれば、ミニでもなんでもはけるようになるから。石田
は、どうだったんだ。並びの読みはいい線いってたじゃな
いか。」
「いや、並びは一五が逆でしたからね。二回戦も一番五
番で来ますよ。そして今度は逆に来ます。だから、一番は、
また自分が行きます。五番にはミツオに行ってもらいまし
ょう。瀬崎さんに負けないんですから、ミツオなら林さん
にも勝てるでしょう。」
「勝負は下駄を履くまでわからない。とらぬ狸の皮算用
はやめてくれよ。」
「ミツオなら大丈夫。林さんは並べ方が変則的で、いろ
んな所に隙間のある並べ方だけど、目先にとらわれずに取
ればいいと思うんだ。」
食事をしながらする会話としては、消化に悪い感じがす
るが、こうして、二回戦の対戦票ができていく。一番から、
石田、春日、敷島、山根、佐多の布陣が決まった。
食事から帰ると二回戦が始まる。瀬崎は連続で詠みをし
なければならない。A級の対戦は、石田の読みのとおりと
なった。石田対葦木、春日対一本、敷島対脇、山根対立浪、
佐多対林である。
石田は、札を並べた時から呑まれている感じだ。
「石田くんか、大きいね、二メートル近くあるんだね。
若い並べ方だね。生まれたての定位置って、左右それぞれ
真四角って感じじゃない。定位置が年をとっていくと、林
のように、平行四辺形っぽい形になっていったりして…。」
試合が始まり、石田が自陣をお手つきする。
「やべっ!定位置払っちゃった。」
「定位置なんてもんがあるから、そういうお手つきをす
るんだな…。」
葦木の独り言ともなんともつかない言葉が追い打ちをか
ける。石田も内心、大きなお世話だと思う。しかし、どう
しようもなく、自陣に敵陣に取られまくる。二十枚差で真
っ先に勝負がついてしまった。残り四人で三勝をあげなけ
ればならない。残りは、どこも接戦の模様である。
まずは、敷島が中盤の連取で抜け出す。勢いのまま六枚
差で勝つ。ミツオは、五枚対五枚と緊迫した展開である。
ここで詠まれた札は、ミツオ陣の「なげき」。林は自分の
陣にある「なげけ」に触れている。このお手つきで差は三
対六と一気にひろがる。林は緊張の糸がプッツリ切れてし
まったのだろう。ミツオが五枚差で制す。
あと一勝で、勝ち点があがる。春日は三対二、山根は二
対三である。先に決まったのは春日のところだった。一本
が自陣二枚を連取して勝負をつけた。
春日は泣いているが、泣いても笑っても、山根対立浪戦
で決まる。この時、山根一枚、立浪二枚。立浪は、右下段
にこの二枚を並べる。内側には一字に決まった「きり」、
外側には二字決まりになっていた「あさじ」である。山根
は一字に決まった「みよ」を持っている。攻めのポイント
は「あさじ」である。敵陣の「き」は、多少早くてもセー
ムにされてしまうだろうが、外側の「あさじ」は札押しだ
ったら、攻める側が直接いけばセームにされる心配はない。
「あし」と「あらし」が残っているから、守るにはお手つ
きが不安である。
「『みよ』を攻めに来られたら、そのときはそのときで
いいや。 取られたって、まだ負けじゃない。」
志保は、こう考えていた。リードしていることを楽観的
というか前向きの材料としている。
札が詠まれる。「あらし」である。思いっ切り攻めに出
る。立浪も、この攻めにはビビッたようだ。
「ちょっとお待ちください。『あさじ』左下段に移しま
す。」
立浪は、固めて置くと敵陣を攻めに行った時に狙われや
すくなるのを避けたのであろう。
「やっぱり『あさじ』狙いで行こう。そうすれば、縦の
ラインで『みよ』が守りやすい。『きり』が出たら、拾え
ればラッキーでいいや。」
志保の考えは決まった。
果たして、詠みは「あさじ」であった。山根が勝って、
勝ち点が入る。団体戦A級は、一勝一敗となった。
B級二回戦は、市山、熊野、渡部と三勝し、決着がつい
た。三回戦を取らなくていいので、市山はホッとしている。
後輩たちに「先輩すごいですね。強いですね。先輩のお蔭
で勝てました。」と言われて満更でもない様子だ。
「いや、疲れたよ。瀬崎、詠みなんかやらせるんじゃな
いよ。休ませてくれ。」と、言いつつニコニコしている。
そんな中、佐藤珠子が現れた。
「B級は、うちが勝ったの。すごいじゃない。市山君が
一回勝ったって。へぇーっ。どう、真面目にかるたに取り
組んでみたら。」
「結構だよ。俺は、基本的にレクだけでいいよ。」
「そんなこと言っても、最近レクさえしにこないじゃな
い。」
「忙しいんだよ。俺だって、単位をちゃんと取らなきゃ
いけないし、デートもあるしな。」
「えっ、つきあってる子がいるんだ。それは、おみそれ
いたしました。」
「珠子先輩、来たばかりで申し訳ないんですが、ぼくは
二回続けて詠んでいるので、詠んでもらえませんか。」
「いいわよ。」
さて、いよいよ決勝ともいうべき三回戦である。石田の
読みでは、もう一回、一番五番で葦木・林が来るという。
葦木が五番と読んで自分が五番に行くという。敷島は、「今
度は二番四番じゃないの。」と言いながら、石田の意見に
従った。「石田五番を決めるなら、名前の五十音順で組も
う。」という。敷島らしい発想だが、それもまた一興であ
る。一番=あかね、二番=邦郎、三番=志保、四番=三男、
五番=基と決まった。
対戦票の交換の結果は、石田はずれ、敷島当たりだった。
春日対一本、敷島対林、山根対立浪、佐多対葦木、石田対
脇の組み合わせである。春日と山根は同じ相手と連戦であ
る。仮にこの二人が一勝一敗と考えると、敷島と石田が勝
たないと勝利は覚束無い。
「タバ負けを避ける。そうすれば、相手チームの勝ちパ
ターンが崩れるはずだ。」
ミツオは、自分の役目をそう決めた。本当なら、自分が
勝つんだと考えるのが勝負師なのかもしれないが、そこま
で、厚かましくなれなかった。でも、チームを勝たせるた
めに何をするかを考えるのが、この状態での勝負師として
の考え方であるのだ。まず、相手に呑まれないようにしな
ければならない。札を並べ始めると、さっそく葦木の三味
線が始まる。
「いやあ、俺も堕落したもんだね。定位置らしきものが
できてきちまったよ。」
確かに志保が言っていたように、上段の中央に大山札が
ある。なるほど定位置らしきものかと思う。気になる。し
かし、こういう札を気にすると他の札がおろそかになるも
のだ。気にせず、マイペースで取ることを心掛けようと思
う。
試合が始まる。基本に忠実に別れている札を攻める。た
まに上段の中央のあたりの札に目をやる。偶然なのか見て
いる札が詠まれる。取れてしまう。なんとミツオが三枚差
ほどリードして試合が進む。他の試合も接戦ばかりである。
三枚程度のリードでは、彼我の実力差を考えるといつひっ
くりかえされても不思議はない。しかし、五枚対八枚から、
敵陣の札を取り、四枚差というか、ダブルスコアのリード
に広げた。ここで、もう一回気を引き締めないといけない。
次の一枚は双方に取って大事である。ダブルスコアだった
ら、相手が一枚取る間に二枚取ればいいが、それ以上の差
というのは、結構な重さであるからだ。だが、ここで自陣
の左下段を抜かれてしまう。送られてきた札を右下段に置
く。ここで、立て続けに自陣右下段が二枚出てなんとか守
る。二対七、こうなると勝ちを意識するなというほうが難
しい。左下段にあった札を二枚とも右下段に移動させる。
ところが、これを見て相手はなんと、自陣の札をすべて上
段に持ってきた。一枚一枚を離しておくのだ。「こうする
よ。」と事も無げに言う。ミツオは上段の札の暗記を一枚
ずつ入れ直す。この時に自陣にスキが生じてしまった。し
っかり、右下段を抜かれる。その後は、上段の一字決まり
を守る。「はやい!」相手に感心さえしてしまう。ミツオ
は、こちらから見て、一番右の札にポイントを置いた。攻
めて守りやすい場所だからである。カラ札一枚の後で出る。
ミツオが攻め取った。「よしっ。」気合いのリーチである。
ここで守ろうなどと弱気になってはいけない。相手には五
枚、こっちには一枚である。攻めるというのが筋だろう。
他の試合に目をやると、なんとまだどこも終わっていない。
山根と敷島はリードされているが、春日はリードしている。
石田のところは差がない。ミツオは、再度、気合いを入れ
直す。しかし、敵の上段が取れない。正確に突いて来るの
だ。ちょっと回って払いにいっても間に合わない。三枚立
て続けに守られる。この間、山根が四枚差で負け、春日は
三枚差で勝っていた。石田は残り一枚である。敷島のとこ
ろは、林のほうがあと一枚である。まず、石田が勝ちを決
める。これで二勝だ。あとは、敷島かミツオが勝てばいい
のだ。次に敷島が自陣を守る。ここは一枚対一枚になった。
葦木は二枚になっても、札を上段から動かそうとしない。
ミツオは、どうしても攻めっ気になる。自陣を疎かにして
いるつもりはなかったのだが、抜かれてしまった。この時
点で、残り札は、敷島たちのところと揃ってしまった。葦
木は、林の持ち札が「いまは」であるのを確認して、「か
ぜを」を送って来た。どちらも一字に決まっている。ミツ
オたちは二勝をすでにあげている。葦木たちが勝つには、
二人とも勝たねばならないので、札を揃えたわけだ。守れ
ばよい一・一なのだが、葦木は自陣上段左寄りに「いまは」
を置いたままだ。こっちを攻めても守れるという自信の現
れだろう。
「ちょっと、お待ちください。」
送られて来た札を置かずに敷島の注意を引く。ミツオは
自分が攻めることを目配せした。うなずく敷島。
「すみません。」
一言いって、右下段に札を置く。チームの命運さえもが
かかった運命戦である。詠みが始まる。
「かたぶくまでの月をみしかな。…。いまはただ思い絶
えなむとばかりを」
ミツオは攻めたつもりだったが、それがつもりに過ぎな
かったことをいやというほど思い知らされた。ミツオが手
を出した瞬間には「いまは」の札は、スーッとミツオの方
に飛んできていた。
最初から守る約束の敷島が敵陣を取っているわけがなく
勝利は、ミツオたちの手をすり抜けていった。
夜は、懇親会である。全勝ということで表彰されたのは、
A級が葦木、B級が熊野の二名だけだった。
「林さん、うちで練習のない時に来させてもらっていい
ですか。」
ミツオは、今日の試合を通して、いろいろなタイプと練
習することの大切さを実感していた。静岡県の富士市まで
しょっちゅう行くわけにはいかないが、都内だし、ここら
あたりまでなら気楽に来ることができる。
「かまわないよ。今日の神社か、第二学館の和室でやっ
てるから、遠慮しないで来ていいよ。」
「どうもありがとうございます。さっそく明日からお邪
魔いたします。」
「お前な、なかなか強かったじゃないか。いつまでもC
級で取っていちゃだめだ。C級で出ているうちは、C級の
かるたしか取れないと思っておけよ。地位が人をつくると
いう言葉があるけど、上の級にいけば、それなりのかるた
を取れるようになるものさ。早くA級にあがっちゃえ。」
葦木も、声を掛けてくれる。ミツオは、上段で守るとい
う技を身につけたいと思っていたが、本人にポイントを聞
くことは、なぜだかためらわれた。やはり、芸は盗むもの
であって、習うものじゃないのだ。また、そうして盗んだ
ものでなければ、ただの物真似になってしまい自分の個性
としては身につかないだろう。
一方、一年生同士は、楽しそうに話をしている。ライバ
ルであるとともに、同じ道を進む身近な盟友でもあるのだ。
男ばかりだと、殺伐とした飲み会になってしまいがちだが、
女性が多いので場の雰囲気が柔らかくて明るい。楽しい時
間は瞬く間に過ぎていく。もちろん、このあとは、市山の
出番である。舞台は雀荘に移る。四角いジャングルには、
対抗意識の嵐が吹き荒れる。それは、何においても負けな
いことが、次のかるたの勝利に結びつくと信じられている
かのようであった。
*
金曜日の夕刻。誰が言い始めたのか「ハナキン」である。
その花の金曜日、午後十一時過ぎの東京駅には酔客も目立
つ。ミツオは、東海道線の大垣行きの列車に乗るためにそ
こにいた。乗車客の中には、寝込んでしまって、降車駅を
はるかに乗り過ごす人もいると聞く。酔客に絡まれるのが
いやならば、深夜バスのドリーム号を使う方法もあるが、
鉄道の旅は、バスにはない心地良さを提供してくれる。ガ
タンゴトン、ガタンゴトンという訥々としたイントロで、
旅客の心を鉄路の先のまだ見ぬ土地へといざなうのだ。
車中の人となったミツオは、眠るために買ったワンカッ
プの酒に口をつける。中学の修学旅行以来の京都である。
しかし、今回は物見遊山の旅ではない。日曜日には、競技
かるたの大会があるのだ。小倉忌慶讃かるた大会。百人一
首の撰者である藤原定家卿の命日を記念しての大会である。
調整は充分にやった。調子もいい。C級でぜひとも優勝し
たいという思いを胸に秘めた上洛である。体調の維持のた
めには眠ってしまうのが一番である。肉体のコンディショ
ンを考えれば、土曜の新幹線のほうがよいとは思うのだが、
こればっかりは、予算を優先せざるをえなかった。あまり、
試合のことを思い詰めると目がさえてしまうので、気分を
ボーッとさせようと試みる。そういえば、祖父の経三郎の
命日は五月下旬だったな、定家と同じじゃないかとふと思
い出す。大きなあくびを一つ。家族のことなどを考えてい
るうちに、次第に眠気が増していき、いつの間にか眠りに
落ちていった。
時々、目を覚ましながらも、うつらうつらと眠る。ふと
気づくと名古屋を過ぎている。身体を休めることが一番な
ので、目を閉じて気息を整える。半睡半醒の状態で、終点
の大垣に到着する。ここで乗り換えて、ゆらりゆられて京
都に到着するのは九時頃である。
駅のホームに降りると、自然に伸びがでる。列車の座席
はやはり窮屈だ。駅を出る。なまった身体に日差しが心地
よい。ミツオの京都での一日は、喫茶店での腹ごしらえか
ら始まった。
京福鉄道嵐山線、通称「嵐電」。ミツオはこのランデン
の車中にいる。嵯峨野散策をこの日の予定にしていたので、
ぜひ、この電車に乗りたかったのだ。嵐電は、都電荒川線
や江の電と同じように、電車が電車らしく走ってくれる気
がするからだ。新幹線などは、窓を開けることさえできな
い、人を早く遠くに移動させる箱そのものといえないこと
もないが、こうしたローカル色あふれる電車は、人が自然
の中でとらえられる感覚の範囲で動いてくれる乗り物なの
である。車窓から見る風景は、沿線の街のにおいさえも感
じさせてくれる。観光客として乗っている時間は楽しく、
目的地までの時間はとても短い。沿線風景を満喫する前に
嵐山駅に到着してしまった。
まずは、有名な渡月橋から嵐山を望む。空の青に山の緑、
川の流れが見事な風景を見せてくれる。ここでしばらくた
たずみ、人の往来に目を向ける。本来、橋とは人が行き来
する場所なのだ。ミツオもまた、往来する人の一人となり、
今来た道をもどり、天竜寺に向かう。ここの庭園の中で、
勝負にはやる心を鎮めたかったのだ。
庭園を観る。そして、目を閉じ、その情景を心に描く。
これを繰り返す。次第に目を閉じている時間のほうが長く
なる。ひょっとすると、目にうつる庭園は、自分の心を写
し出しているだけなのかもしれないと思う。心を鎮めるな
どと言いながら、ミツオは「勝ちたい」という欲求が、ど
うしようもなく存在していることを認識していた。「心を
鎮めたい」というのも己の欲、「勝ちたい」というのも己
の欲、欲をあるがままに受け入れた時、ふと肩の力が抜け
た。それが自然なのだ。庭園の美しさは、自然が人の造形
の意志さえもあるがままに受け入れているからかもしれな
い。
天竜寺を後にしたミツオは、野宮神社、落柿舎などを見
ながら、小倉山二尊院に行った。二尊院には、「小倉百人
一首ゆかりの当院に於てかるた忌法要と王朝風俗によるか
るた姫かるた競技」という看板が出ている。いろいろなと
ころで、定家の命日に因んだ行事が行われるのだ。さすが
に本場という感じがする。常寂光寺には定家ゆかりの時雨
亭跡の碑もあるし、定家が色紙和歌の形で百人一首を贈っ
た宇都宮蓮生の嵯峨山荘もこの地域にあったわけだ。「小
倉百人一首編纂之地」という碑や、定家が硯の水を汲んだ
といわれる井戸などもここらあたりにあるらしい。まさに、
このあたりは、小倉百人一首の撰定の舞台と言っていいだ
ろう。緑に囲まれたこの地をあの定家が、まさに歩いてい
たわけだ。競技かるたに関わるものとして、深い感慨を覚
えずにはいられない。
「佐多くん。」
二尊院の前で感慨にふけっていると、突然声をかけられ、
我に帰る。春日あかねである。
「あれま。いつこっち来たの?」
「今日、新幹線で到着したのよ。そして、まっすぐこっ
ち来て、嵯峨野を散策してたのよ。もう、嬉しくって、嬉
しくって。歴史に圧倒される感じなの。ほんとに、感激、
最高っ!」
あかねのこの無邪気な興奮を、ミツオはほほえましく感
じた。彼も、また、歴史と触れ合う喜びを理解できる感性
を持っているからだ。そして、この感激を感性をともにす
る人物とわかち合いたいのだ。二人には、お互いに共通の
感性が感じられたに違いない。嵯峨野が醸し出す歴史の息
吹についての思いを語り合いながら、二人はこの地を歩い
ていくのだった。
ミツオは、この晩、京都の私立大学に通う幼な馴染みの
親友のアパートに泊まっていた。
「京都は、中学の修学旅行以来だって?」
「ああ、あの頃は歴史に触れるより、友達とワーワー騒
ぐ感じだったね。こういう環境で四年間を過ごせるなんて
うらやましいよ。」
「住んでみるとね、結構出歩かないものなんだよ。まだ、
見てないところなんか山ほどあるよ。それより、さっき待
ち合わせの喫茶店で一緒にいた子は、彼女かよ?」
「いや、そんなんじゃないよ。」
「随分、親しげだったじゃないか。それにスリムで、か
わいい。彼女じゃないなんてもったいない。」
「かるた競技をやっててね、あまり異性として意識した
ことってないな。どちらかというとライバルだよ。女って
いう目で見始めると変に意識しちゃって、競技の上達には
毒だね。」
「好きな女には意識しちゃって勝てないとかっていう感
じかな。気を引くために競った試合するとかってないの?」
「競技している時は、真剣だよ。そんなこと考えていち
ゃだめだね。」
「でも、あの子、どうなんだよ。歴史好きそうだし、ミ
ツオの好みだろう。」
「本当に、あまりそういう意識したことないんだよ。お
前はスリムっていうけど、ガリガリって感じじゃないか。
手や足の細さったらないぜ。出るとこ出てないし。それに、
人のことバカにして。」
「お前が、『冷やしコーヒー』なんて注文するから、笑
ったんじゃないか。関西じゃ『レイコ』っていうんだよ。
冷たいって字を書いて、レイコーヒー。」
「ぼくは単に知らなかっただけじゃないか。メニューに
『冷コーヒー』って書いてあったから素直に『冷やしコー
ヒー』って読んだだけだ。それをあんなに笑わなくたって
いいじゃないか。それになんだ、あいつは。『キューピッ
ト』なんて変な飲物頼みやがって、『何かわかる?』って
聞くなよ。なんか知ったかぶっているようでいやだった
ね。」
「ありゃ、俺も初めて見た。カルピスのコーラ割りとは
恐れいったね。だいたい、こっちの人は、ユニークなネー
ミングが好きなのかもしれないよ。前に酒のつまみで『エ
レベーター』ってのを見たことがある。なんだかわかるか。」
「いやさっぱり、わからないね。」
「実は、厚揚げと大根おろしのセットなんだ。『あげ』
と『おろし』で『あげおろし』、すなわち、エレベーター
ってわけだ。」
「そりゃもう、なぞなぞの世界だね。」
「ミツオさあ、素直になれよ。口ではけなしているけど、
はっきり言って、俺の手前のテレだね。向こうが、お前に
好意持っているのは、見え見えだったぞ。まさか、気づい
てないなんて言わないよな。それって、よっぽど鈍感って
もんだぜ。」
「ひょっとすると、鈍感なのかもしれない。ぼくは、女
の子に免疫ないしね。」
「よし、それじゃ、失敗を恐れず、あの子と付き合って
みろ!相談にのってやるから。」
「まあ、考えておくよ。それより、明日の試合で優勝す
ることが、今のぼくには大事なんだ。優勝したら、まあ少
しは真剣に考えてみるよ。」
ミツオは、明日に備えるため、友人とのおしゃべりもほ
どほどに眠りにつくのだった。
今出川智恵光院上ル「本隆寺」。小倉忌慶讃かるた大会
はここで開催される。朝早くから、多くの参加者が集まっ
て来る。学生風の男、OL風の女性、お年寄り、親子連れ
など様々である。もちろん、ミツオもその中の一人である。
地下鉄烏丸線の今出川駅から十五分くらい歩いたであろう
か。とりあえず、迷子にならずに会場に着くことができた。
受付をすまして、第一関門突破などと思っていると、あか
ねに会った。昨晩の友人との会話の余韻なのだろうか、何
か変に意識してしまって、あかねの顔をまっすぐに見るこ
とができない。一方、あかねのほうは普通に話かけてくる。
「友達は一緒に来なかったの。京都の大学で四年間なん
ていいわよね。実は、私、京都の私大で受かっていたとこ
ろがあったんだけど、まあ、うちに受かったから。やっぱ
り、下宿生活はたいへんよね。」
「ああ、まあな。」
普段なら、ここで下宿生活の蘊蓄を語りだして、あかね
と盛り上がるところだが、今日は、生半可な返事しかでき
ない。ふたりが、会場の広間に行くと敷島の姿があった。
さすがに巨漢は目立つ。彼は昨日から市内の親戚のところ
に泊まったそうだ。泊めてもらった上に小遣いまでもらえ
たと調子のいいことを言っている。親戚が、全国の主要都
市に散らばっていると、試合で出歩く時に助かるかもしれ
ない。ミツオの親戚は、実家の近辺に固まっているのでこ
ういう時には使えないのだ。
受付締切時間が迫ってくると、さすがに来る予定で到着
していない瀬崎や志保のことが気になる。特に志保は遅刻
常習犯だけに心配だ。一応受付で代理申し込みしておこう
かと、受付に行くと瀬崎が来ていた。瀬崎が志保の分も申
し込んだらしい。
「昨晩、電話がかかってきてさ。代わりに申し込んでお
いてくださいってさ。あいつは、たしかドリーム号だから、
もう着いていていいのに、どこで時間くってるんだろう
な。」
「先輩も、ちょっとあいつに甘くないですか。ビシッと
言ってやってくださいよ。」
「じゃあ、ミツオがやればいいじゃないか。」
「できるくらいなら、こんなこと言いませんよ。」
「それは、俺もおんなじだよ。」
瀬崎は、朝一番の新幹線できて、今晩のドリーム号で帰
る予定だそうだ。かるたの試合のためだけに京都に来るな
んて、何かもったいない気もする。
締切時刻をすぎると、「法要が始まるので本堂にお集ま
りください。」と声がかかる。本堂に参加者が集まると、
数人の僧侶が入場し、お経を唱え始める。京極黄門定家卿
の菩提を弔っているのであろう。小倉忌というだけのこと
はある。法要が終わると開会式が始まる。いよいよ本番で
ある。
A級、B級は本堂が会場になり、C級の会場は先ほどの
広間だという。ミツオは、一人仲間と別れなければならな
い。この時に、再度、「今日、優勝してB級に上がるんだ。」
という思いを強くした。
C級の会場に戻る。小学生も多い。「小学生は取りにく
い。」という思いが心をよぎる。「いかん、相手が誰でも
一緒。自分の日頃のかるたを取るだけ。」と自分に言い聞
かせる。志保の姿が見えないのが、気にはなったが忘れる
ことにする。C級出場は、四十一人である。一回戦は、十
八人が取り、二十三人が不戦勝である。ここでは、実際に
座るところに対戦カードを直接置いていく。ミツオがいま
まで出場した大会では、座る場所に番号札を置いて、番号
を順に記したボードに対戦カードを置いていって席を決め
る方式だったので、ちょっと戸惑った。ミツオは取り、志
保は不戦だった。ちらっと志保らしき人物を見かけたよう
な気もしたが、どこかに行ってしまった。それよりも自分
の試合が大事である。相手は、大阪の小学生だった。札の
取りで揉めた時に、関西弁で主張してくるので、なんとな
くおちょくられているように聞こえる。しかし、よく考え
てみれば当たり前のことである。ミツオは、そのことに気
づいて内心おかしくなった。そんな心の余裕も味方し、十
五枚差で勝った。
一回戦が終わったところで志保を見つけた。ピンクのT
シャツに短パン、昔風にいうならホットパンツである。膝
には、ソフトサポーターという出で立ちである。小柄なこ
ともあり、遠くから見ると小学生に見える。係に勝利を報
告に行くと、敷島が待ちかまえていて、控え室に連れて行
かれる。
「よし、その調子でがんばれよ。お前の荷物はこっち運
んでおいたから。」
「ありがと。B級はどうなってる?」
「エントリーは二十四人。俺と瀬崎さんが不戦勝で、春
日は取ってるよ。」
「山根はいつ頃来たの。」
「あいつも今日は目の色が違うぜ。さっき『また、遅れ
たな。いつ来たんだよ。』って聞いたらさ、『うるさいわ
ね。法要の時からいたわよ。出なかっただけ。今日は試合
終わるまで話しかけないでよ。みんなにも言っといてよ。』
って言うんだよ。相当いれこんでるね。ミツオも近づかな
いほうがいいぞ。」
「ああ、わかった。そうする。ぼくも自分のことで精一
杯だよ。」
この後、ミツオは、二回戦で京都の小学生、三回戦で奈
良の小学生と小学生を立て続けに破り、準々決勝に進出し
た。一方、志保は、大阪の小学生、滋賀の中学生と連破し、
同じく準々決勝に駒を進めた。優勝までは、あと三勝であ
る。しかし、目の前の一番が勝てなければそれで終わりで
ある。兜の緒を締めなければならない時である。ミツオの
次の相手は、富嶽高の高校生だった。ここの生徒でこの大
会に来るのは、二年生の一部である。一月からのシーズン
でうまく上がれなかった連中が、昇級を狙うために来るの
だ。手強い相手であるが、この壁を乗り越えないことには
栄冠を手にはできない。それまで、十枚以上の差で勝ち続
けてきたミツオだが、この試合は接戦となった。追いつ追
われつの展開で、終盤に突入する。ミツオの陣には、「あ
らし」「あまつ」「ひさ」「なにわえ」「せ」の五枚、相
手陣には「あらざ」「あまの」「かく」「おと」の四枚と
いう状況である。「あらざ」が出てミツオが攻め取ると、
相手が「あらし」を触ってくれているではないか。ここで、
「あらし」と「なにわえ」を送る。「なにわえ」は「なに」
で取れる。三対五と逆転に成功。相手は、このお手つきで
動揺したのだろう。次に出た「あまつ」で自陣の「あまの」
を払ってしまい、二枚続けてのラッキーである。ミツオの
送りは、一字に決まった「ひさ」だった。あっと言う間に
一対六である。相手は、「あらし」と「あまの」を自陣左
下段に、その他を右下段に配置しなおす。ミツオは、もう
一枚続けて「あ」が出るような気がしていた。しかも、カ
ラ札で。体の向きを敵陣の左を取りやすいようにして、素
振りを数回する。相手に「あ」札を意識させるべく、わざ
とらしく「あ」を狙っているポーズをとったのだ。はたし
て、詠まれた札は、「あはれ」。待ってましたとばかりに
攻めに出る。相手は、守りの意識過剰になったのか、取り
にいった手を浮かせようとしたが、時すでに遅し、勢いあ
まって札をかすってしまう。五ミリほど札が動いてしまっ
た。なんと五枚対四枚からの七枚差の勝利だった。ミツオ
はツキも味方してくれている感じを受けた。志保はといえ
ば、奈良の高校生をタバでクリアして、すでに準決勝進出
を決めていた。
敷島とあかねが、ミツオのところに寄ってくる。志保に
は、話しかけるなと言われているので近づけないのだ。二
人は準々決勝で負けたが、B級でベストエイトに初入賞し
たことを教えてくれた。瀬崎は準決勝の最中だそうだ。「み
んながんばっているんだ。」仲間の活躍が、ミツオの励ま
しにもなる。優勝までの階段は、あと二段である。この階
段は一つ一つ昇っていくしかないのだ。
準決勝では、志保は富嶽高の高校生の曽根と、ミツオは
早大の一本とである。一本は、二月の大会で突き指をくら
わせられた因縁の相手である。このせいで、約二ヶ月の戦
線離脱を余儀なくされたのだ。彼はサウスポーなので、手
の出てくる感じが右利き相手と違う上に、パワーファイタ
ーであることから、逃げきれずに強い圧力を受けてしまっ
たことも原因の一部だったのだ。しかし、さすがに五試合
めともなるとパワーダウンのようだ。この手のかるたは、
パワーが落ちるとともにスピードも落ちてくるから不思議
である。ミツオが札を押さえているところに相手の手がぶ
つかってくることが何度もあった。幸い怪我もなく、終始
リードしながら六枚差で勝つことができた。一本は負けた
とはいえ、二度めのベストフォー入賞で昇級を決めた。か
たや、志保はといえば、終始押され続けていたのだが、あ
るアクシデントによって勝ちを拾ったのだった。悲劇は志
保十二枚、相手六枚の時に起きた。出札は、志保の右下段
にあった「さ」だった。Sの半音が漏れたか漏れないかと
いう瞬間に、ものすごい勢いの払いが「さ」を奪い去って
いった。札は根こそぎ払われてしまったが、残っていたも
のがある。腕を延ばしたまま横たわる曽根の身体であった。
払いの勢いがあまりにも凄すぎて肩を抜いてしまったのだ。
こんな身体で試合が続行できるわけもなくリタイアした。
柔道整体師でも整形外科医でも、とにかく肩をもとどおり
はめてもらえるところをさがさなければならないのだ。見
知らぬ土地で、日曜日に病院をさがすのはやっかいなもの
だ。相手の不幸も、志保にとっては幸運である。決勝進出
がころがり込んできたのだった。
B級準決勝で負けた瀬崎は、C級の会場に来て悩んでい
た。C級の決勝などで同会同士が残ると取らずに話し合い
で優勝者を決めることが往々にしてある。主催者の進行を
早める効果もある。言うとすれば、現会長の自分が言い出
すべきだろう。しかし、ここでこの話をミツオと志保に切
り出すべきであろうか。おそらく、二人に意見を聞いても
取りたいと言うであろうことは予測がついた。幸い時間は
ある。取ったとしても新幹線で帰りつける。意見を聞くこ
と自体が、水を差すことになる。結局、瀬崎は何も言わな
いことにした。
決勝戦前は、時間、空間ともに張りつめている。ミツオ
は、決勝の舞台となる畳の上で「札を並べ始めてください」
という合図を静かに待っている。一方志保は、ミツオの目
の前で体操をしている。小柄な志保には、Tシャツは大き
めのようだった。腕を上に伸ばすと腋が目に入る。
「えっ?」
ミツオは、意識していたわけでもなく偶然見てしまった
のだ。志保の腋下の黒々としたものを。
「年頃の女の子が、腋の下くらいちゃんと手入れしろよ。
これから、夏なんだし、ノースリーブだって着るだろうに。
みっともない。」
口に出してこそ言わないが、何故か非難のこもった感情
がよぎる。志保は、ミツオがそんなことを考えているなど
とは露知らずTシャツの端を腰のところで結び直している。
今度は、チラリと腹が見える。色白の肌がまぶしく感じる。
体操の仕上げはアキレス腱らしい。腰に手をあてがい、胸
をはって左右それぞれのアキレス腱を伸ばす。胸をはるも
のだから、どうしても強調される双丘に目が行ってしまう。
小柄なわりには出るところは出ている感じだ。
「結構、トランジスタグラマーなんだな。」
ミツオは、気持ちを集中しなければならない時に、志保
に女性を感じてしまっていた。ふと、あかねの視線を感じ
る。昨晩の友人との会話が思い起こされる。
「いかん。試合前に何を呆けたことを考えているんだ。
優勝めざして、この一番を大事に取るんだ。ふつうに取れ
ば、志保には勝てるはずだ。実際、ここしばらく練習で志
保に負けていないじゃないか。」
気を引き締めるミツオ。札を並べ始める合図があった。
並べ終われば、十五分の暗記時間である。札に集中し、取
りのイメージなどを膨らませる。準備万端整う。
「では、C級決勝戦を始めます。」
詠みが始まる。序歌の二度めの下の句。ミツオのほうが
構えに入るのが早い。ミツオが構えて視線を相手の陣の中
央にボンヤリと調整すると、フッと志保が構えて、身体が
視線に入ってくる。大きめのTシャツは衿があく。視線に
入るのは、敵陣の畳ではない。志保の胸の谷間が、目に飛
び込んで来たのだ。ドキドキと早鐘のように胸が鳴る。詠
みの音に集中するどころではない。幸いにカラ札であった。
自分の顔が赤くなっているのがわかる。相手がまともに見
られない。視線を下にそらすと、今度は短パンから出た健
康そうな太股が目に入る。しかたないので、相手陣の札を
見て暗記を入れようとするが、片っ端から暗記が抜けてい
く感じがする。詠みが始まると再び、自然と双つの胸のふ
くらみが目に飛び込んでくる。こうなるといけない。自分
の構えるタイミングを遅くしたり、構える位置を変えたり
し始める。そんなことをして、自分の普段のかるたが取れ
るわけがない。ズルズルと差を拡げられてしまう。それに
しても、志保とかるたを取っていてこんなこと始めてであ
る。普段からボーイッシュだし、男友達と話しているよう
な感じでしゃべっているし、憎まれ口は叩くし、あまり女
性的な部分で意識したことがないせいだろう。あかねのこ
となら普段から、女の子という目でみているのだが。
「よりによってこんな時でなくてもいいのに。」
ミツオは、試合の中で気持ちや集中力を立て直すことが
できなかった。十二枚対二枚の差はいかんともしがたい。
やむをえず、守りに集中する。自陣だけを札を見て守って
いれば、集中力を欠如させるものを見ないですむ。七枚連
続自陣を守るが、二枚連続敵陣を守られてゲームセットと
なった。痛恨の決勝戦だった。
志保は、あかねや敷島と喜びをわかちあっている。朝か
ら仲間と離れて、一人で集中力を維持してきただけあって、
仲間と心おきなく話せる楽しさも、また、格別であろう。
瀬崎は、さすがに敗者に気を使って、声をかけてきた。
「負けた原因は、すぐにわかったよ。俺も経験者だから
な。」
「そうですか。今、ぼくは猛烈に情けないんです。」
「今日は、煩悩がかるたを取っていたんだ。でも、それ
でいいのさ。煩悩もミツオのかるたの一部なんだと覚えて
おけよ。いい経験をしたと思っておきゃいいんだよ。とり
あえず、B級昇級おめでとう。」
「はあ、なんかそんな気がしないですね。もう一回、優
勝狙うっていうのは無しですか。」
「ばかなこと言ってないで。あがれる時にあがっておか
ないと一生あがれなくなっても知らないぞ。伸び盛りの時
には早く上の級で取らないとだめだよ。それにミツオに負
けた人たちに失礼だと思わないか。優勝したかったら、B
級ですりゃいいんだよ。」
「すいません。頭の中がグチャグチャで。ああ、情けな
い。悔しい。ブツブツ、ブツブツ…。」
実際に「ブツブツ」という音を唱えている。変なやつだ。
「ブツブツ言ってないで。表彰式が始まるぞ。シャキッ
として行って来い。」
ミツオは、何か釈然としない思いを抱えたまま、喜びの
かたまりの志保とともに表彰を受けるのだった。
京都の繁華街といえば、南北を四条通りと三条通りに東
西を鴨川と寺町通りに挟まれたあたりだろう。もちろん、
この東側には、祇園があるが、修学旅行以来の京都と言っ
ているような学生には、分野外の場所だろう。修学旅行の
思い出の場所といえば、新京極あたりもその一つである。
修学旅行とおぼしき中学生が今日も団体で歩いていること
だろう。今、ミツオは、タクシーで四条河原町に向かって
いた。ずっと取り続けていたので気づかなかったが、梅田
という京都在住のOBが午後から応援に来てくれていたの
だ。
「みんな勝ち残っているので、声のかけようもなかった
よ。」
笑いながら、後輩の健闘をたたえてくれる。
「飯と酒くらい奢らせてくれよ。こっちに来ちまったん
で、なかなかOBらしいことできないから。」
こういうわけで、流れて来たわけだ。志保だけが、「新
幹線で今日中に帰るので折角なんですけど失礼します。た
いへん申し訳ございません。」と言って帰っていった。
観光地では、地元の人の案内が一番である。OBの梅田
の案内で先斗町のある店にはいっていった。
「へえ、これが、歌に唄われた先斗町ですか。富士山と
同じ雪が降るんですよね。」
敷島がボケをかましている。座は、敷島と瀬崎が盛り上
げる。先輩に最近の様子などを、おもしろおかしく説明し
ている。しかし、ミツオは、決勝の負けを引きずっていた。
乾杯のビールのあと、日本酒をグイグイ飲んで、あかね相
手に愚痴をこぼしている。
「あいつは、汚い。女という武器を最大限に使ってきた。
あれじゃ、こっちはまともにかるたなんて取れやしない。
なんか実力で負けた感じがしないんだ。他会のやつに負け
たなら、こうまで悔しくないだろうな。あいつに負けたと
いうので、倍くらい悔しい。そして、あんな負けかたで、
もう二倍悔しい。」
「志保ちゃんは、別に計算してああいう格好したわけで
はないと思うわ。だって、そんな目で見られていることを
知ったら、かえって女の子のほうが恥ずかしくなっちゃう
じゃない。佐多くんのそういう視線に気づかないくらいに
かるたに集中していたんじゃない。」
「ミツオも恥ずかしがらずに、いやらしい目でじっと見
てやればよかったんだよ。相手が恥ずかしがるくらいに。」
敷島は無責任にこんなことを言う。たしかにこいつなら、
そういうことも平気でできるだろう。
「そんな女の子に嫌がられるようなこと、ぼくにできる
わけないだろ。」
「いまどき珍しいフェミニストだね。佐多くんていった
っけ。君は、女の子に免疫ができていないんだね。彼女い
ないの?」
OBの梅田にまで言われている。
「佐多くんが志保ちゃんの女である部分に負けたなら、
男であるがゆえに負けたってことでしょ。佐多くんが男で
あることは、切り放せないんだから、結局、佐多くんが志
保ちゃんに負けたってことなの。かるたは、人と人との勝
負なんだから、女であることを武器にしたとしてもいいわ
けなの。佐多くんが勝手に相手の女性の部分に気を取られ
て負けたとしても、それは、佐多くんの弱さ以外のなにも
のでもないでしょ。なんで負けても、負けは負けなのよ。
いつまでもウダウダ言ってんじゃないの。それこそ、男ら
しくないでしょ。」
「いやあ、春日はきびしいこと言うね。ミツオ、男は所
詮、煩悩のかたまりだよ。煩悩あってこそ、人であり男で
あるわけだ。煩悩と上手に付き合えた時、きっと今日のよ
うなことはなくなる。今に『眼福、眼福』っていいながら、
目の保養を兼ねながら、普通に取れるようになるよ。」
瀬崎は、なんだかお坊さんじみたことを言っている。
「わかりました。わかりましたよ。みんな、ぼくが悪い
んだ。よくわかりました。いいんだ。どうせ、ぼくなんか。
情けないただのスケベですよ。」
ミツオは、慣れない日本酒をハイピッチで飲んだせいか、
酔いが相当まわっている。今度はB級入賞の話しで盛り上
がる中、ただ一人ミツオは眠りこけていた。
「バカッ! 心配したんだから。」
ふと目醒めるとあかねが罵声を浴びせてきた。
「ここは、どこ?」
ミツオは布団に寝かされていることに気付いた。しかし、
状況が把握できずにいる。
「梅田さんのうちよ。佐多くん、酔っぱらって、わけわ
かんなくなっちゃって。放っておくわけにもいかないから、
梅田さんが連れて来てくれたの。」
「うーん。あー頭がいたい。先斗町の店で寝てしまって、
瀬崎さんが、夜行バスに乗るから帰るって言って、敷島も
親戚のうちに泊めてもらっているからって帰って…。そう
だ、春日さんもホテルにもどらなきゃいけないって言って
なかったっけ。」
「佐多くんが、無理矢理誘ったんでしょ。もう一軒行こ
うって。梅田さんに連れてってくださいよって言って。ウ
ィスキーをあんな無茶な飲みかたして。」
「ああ、そうだ。二軒め行って、友達のところに今晩泊
めてくれって電話いれた。あれっ? ヤバイ。電話しなき
ゃ。」
「佐多くん、つぶれてどうしようもなくなっちゃったか
ら、電話してあげたわよ。先輩の家に泊まるからって。」
「えっ。電話番号よくわかったね。」
「最初の電話の時、胸のポケットのメモ見ながらかけて
たでしょ。それを見ただけ。佐多くん、自分で私に何を言
ったか、ちゃんと 覚えてるの?」
「ごめん。二軒めって、よく覚えてないんだ。」
「サイテーッ! もう知らない。」
あかねは、部屋を出ていってしまった。時計を見ると三
時である。こんな遅くまで、心配して看ていてくれていた
んだと、ミツオは嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいになっ
ていた。
朝が来た。ミツオはひどい二日酔いで頭がいたい。梅田
は、リビングのソファーに寝ていたという。あかねは梅田
の奥さんと同じ部屋で寝ていたらしい。ミツオは、ただた
だ、謝って、お礼を言うだけだった。朝食を用意されたが、
二日酔いの胃には重い。丁重に断って胃薬をもらう。本当
に恥ずかしい。あかねは、出勤する奥さんの車で宿泊して
いるホテルまで送っていってもらった。ミツオは梅田と一
緒に地下鉄に乗り、京都駅まで出ることにした。
「佐多、おまえな。覚えていないって言ったの。そりゃ、
まずいよ。」
「ぼくは、何を言ってたんですか。」
「おまえはな、彼女を口説いてたんだよ。付き合ってく
れって。」
「えっ。ほんとうですか?」
「こんなこと嘘ついて、どうすんだよ。おまえな、口説
くのに前から気になる存在だったのとか、感性に共通のも
のを感じるとか言うのはいいけどな。もっと太って、女ら
しい体型になれとか、髪型や化粧を工夫しろとかって、ま
だ、付き合い始めたわけでもないのに言わないぜ、そんな
こと。」
「えーっ! そんなことまで言ってたんですか。やっべ
ー。じゃあ、もう嫌われてますね。」
「だいたい、酔った時に、俺のような第三者がいる席で
口説くもんじゃないだろうが。」
「いや、酔ってて、正常な思考力がなかったんでしょう。」
「じゃあ、なにかい。口説いたのも思考力欠如のせいっ
てか?」
「いいえ、それは試合前からもやもやと思っていたこと
で、優勝したら口説いてみてもいいかなあって。でも決勝
で負けたもんで、やっぱり優勝するまでお預けにしようか
とも思っていたんです。でも、酔いの勢いってやつですか、
本音を言ってしまったんですね。」
「まあ、俺んちまで心配してついてきたんだから、まん
ざらでもないんだろうな。」
「でも、覚えてないって言ったら、怒っちゃってでてい
っちゃった。」
「昨晩な、おまえが『で返事は』って聞いたら、『東京
に帰ってから』って言ってたからな。返事がなかったらあ
きらめろ。でも、おまえら若いやつはいいな。青春まっさ
かりで。」
「先輩だって、お若いじゃないですか。」
「まあ、がんばれ。」
意外な事実と展開に驚くばかりのミツオだった。しかし、
これもすべて自分の身から出ていることなのだ。帰りの新
幹線、頭がいたいのは、二日酔いのせいだったのか、それ
とも恋わずらいのせいだったのだろうか。
小倉忌大会から、三日が過ぎた。練習場では、志保もあ
かねもいつものとおりだ。ミツオも週末の数日が、非現実
のように思えて来始めた。いつものように練習が終わり、
下宿に帰ると手紙が来ていた。あかねからだった。不安と
期待の入り交じった思いの中で封をあける。便箋の中央に
は、アルファベットが二文字のみ記されていた。
ただ、OKと。