札模様  第六章

  一月  ――シーズン到来――


   

 大空に凧が舞い、独楽廻しや追い羽根に打ち興じる子供 たちの嬌声を聞くと、つくづく正月だと感じていたのはい つの頃までであったろうか。
 この正月の風物詩には、家庭で賑やかに繰り広げられる 小倉百首かるたの風景も確実に存在した。
 しかし、今の時代、大空にはゲイラカイトが飛び、独楽 はというとジャイロだかスピンだかカタカナ名前の洋ゴマ が幅を利かせている。追い羽根に取って代わっているのが バドミントンである。たしかに西洋羽根突きと言えないこ とはないが、羽子板とラケット、羽根とシャトルコックを 一緒にされたのでは堪らない。
 室内遊戯にしても、テレビアニメのかるたを取るのはま しなほうで、随分昔にトランプにその座を奪われた。その トランプも、今ではコンピュータゲームにはかなわない。 しかし、機械相手のゲームでは、対人ゲームに見られる心 理的な駆け引きの妙を体験するのは難しかろう。百人一首 などは、保存されるべき伝統芸能的な正月遊戯になってし まったのかもしれない。
 そんな今どきの正月二日に、住宅地の一角でふと耳をす ますと「…世の中よみちこそなけれおもひいる…」と小倉 百人一首の詠みが洩れてくる。
 「はいきたっ!」
 「さっ、一枚!」
 気合のこもった掛け声も聞こえる。
 「かるたですか。最近では聞きませんね。」
 「若い時はよく遊んだものでしたね。ご近所の家にお邪 魔して…。」
 バシッ!バシッ!
 畳を叩く音もする。
 「あら、あら、随分と力の入っていることですね。」
 「かるた遊びは熱中してくると力が入るんですよ。わた しも昔はそうでしたよ。本当になつかしい。」
 通りがかりのお年寄りが、話のタネにしながら行き過ぎ ていく。

 百人一首の詠唱が聞こえてくる家。今、この家で行われ ているのは、かるた遊びというほど悠長なものではなかっ た。競技かるた、しかも、名人戦を数日後に控えた挑戦者 の最終調整を兼ねた練習だった。
 「重村名人と名人戦の舞台で戦う。」
 西寺 守は、前年に思い描いた夢をなんと最短で実現さ せたのだった。練習に身を入れ、各大会で実績をあげ、東 日本予選、挑戦者決定戦を勝ち抜いてここまで来たのだ。 競技かるたを始めて五年九か月、やめようと思ったことも あった、練習に身が入らないこともあった。しかし、昨年 初めて生で見た名人戦、その時の挑戦者重村の取りに魅せ られて、西寺の中に眠っていた競技への思いに火がついた のだった。
 この日、西寺の駿河の実家には、練習相手として大学の 先輩瀬崎泰彦と同輩の佐多三男、出身高校の二年生村松次 郎が集まっていた。三人が交代で、対戦相手と詠みと記録 を二試合ずつ受け持つのだ。実際の試合は最大五試合だが、 それより一試合多く取るわけだ。もちろん、西寺は和服を 着ていた。名人戦の舞台では、日頃着慣れていない和服を 着用しなければならないからだ。先月の後半からは、練習 でも、和服を着て取っていたのだった。
 こういうわけなので、通りがかりの年寄りが言うような 遊びという雰囲気ではなかった。西寺は言うまでもなく、 練習相手も真剣そのものである。瀬崎も卒論作成の合間の 息抜きだと言いながら、普段の落ち着きのない取りは影を 潜めていた。ミツオもこういう場に声をかけられて嬉しか った。西寺の変わりようを近くで見て、もっとも実感して いたと言ってもよかったので、何か力になりたかった。近 江神宮への応援にも行くべく電車の切符も予約していた。 さて、練習はというと、前半は瀬崎に十枚、村松に八枚、 ミツオに五枚で、西寺の三連勝だった。調子はよさそうだ。
 「みんなにもよく言われるけど、俺は名前のとおり守り が強いそうだ。最近は、疑問だけど…。まあ、逆転劇もし ばしばあるけど、実は逆転っていうのは不本意なんだよ。 できれば先行逃げ切りで勝つのが理想なんだ。」
 「誰でもそう思うんじゃないの。先行逃げ切りのために は、攻めを守りなみにというか、もっと強くすることが必 要ってわけか。でも、今でも攻めも充分に強いと思うよ。」
 「いや、重村さんの攻めに比べれば、まだまだもいいと こだよ。重村さんの攻めをまともにくらったら、守りきれ やしないっていうのを実感してるからね。この一年間、攻 めの強化を中心にしてきたつもりなんだけど。その結果が 挑戦権獲得につながったのだとは思う。けどね、下段を攻 めた時に敵陣の中央の上段がうまく取れないんだ。三人と もわりと上段にズラズラと札を置くタイプなんで来てもら ったわけだけど、重村さんはあの自陣の上段を攻めていた ってうまく取るんだ。」
 「たしかに、あの自陣上段の取りは、戻りにしても突き 上げにしても見事だよな。」
 「俺は、上段を取りに行ってると下段の攻めが甘くなる から、あくまで下段中心で攻めて、戻る感じで上段を取る ようにしているんだけどうまくいかない。それが今の三試 合の記録でもわかるだろう。」
 「まあ、瀬崎さんは上段も結構取られていたようだけど、 ぼくと村松くんは、守れたもんな。ぼくの感じだけど、突 き上げなきゃいけないような札まで戻って取るような感じ になってない。ちょっと意識しすぎなんじゃないかな。」
 「そうかな。そんなに意識しているかな。」
 「そうだよ。西寺のように一流選手は、だいたいがどこ も速いし、相手の速いところをより速く取って、相手を崩 すことを考えるだろ。それだけの力を持っているから、そ れができるんだけどさ。おれなんか敵の速いところを取る 力なんかないから、敵の遅いところを速く取ることを考え るもんな。自分の遅いところを相手が得意だと思うと、ま あそこは捨てて別のところを取ろうって考えてくれるじゃ ない。あきらめてくれれば、あとはそこを無理に速く取り にいかなくても取れる可能性は高くなるだろう。それから、 相手が攻めてくると思われる方と逆サイドを守ったりする のさ。だから強くなれないって言われるかもしれないけど、 札の出によっちゃ、これでもたまには、強いやつとでもな んとか格好がつく試合もあるんだぜ。」
 「へえ、瀬崎さんって、そんなふうにかるた取っていた んですか。知らなかったなあ。」
 「ミツオはさあ、きっとこれから強くなるやつだからさ、 おれのように逃げをうったかるたを取っちゃだめだ。どこ でもある程度は速く取れるようにもっと努力しなきゃ。で も、もうこれ以上は無理だと思ったら、おれの考え方も参 考にしてくれよ。」
 「はい。随分参考になってますよ。そういうふうに考え るんですか。逃げをうつなんて言わないでください。かわ すかるたですよ。かわすことって大事ですよ。ダッキング とかクリンチとかだって立派なボクシングの技術ですし、 オフェンスだけ強けりゃいいってもんじゃないんですから。 ぼくの気づかなかった視点ですよ。」
 「それからさ、ミツオって、ここだけは他に比べて速く 取れるぞっていう売りがないんだよな。西寺の守りとかっ て、トレードマークみたいなもんじゃないか。終盤、リー ドされて、西寺が下段に下げますって言って、自陣の札を すべて左右の下段に下げるだろ。そうすると、おれたち、『出 たっ!』ってわくわくしながら展開を見守るじゃないか。」
 「ありゃ苦肉の策なんだから。本人が不本意に思ってい るものをそんなふうに期待して見ないでくださいよ。」
 「まあ、ミツオにわかりやすく説明するためのひとつの 例なんだから、気にするなよ。西寺以外にも、前名人の内 側寄りの左上段の守りとか、福井県勢の鬼攻めとか、みん なトレードマークだよ。みんなに速いって知られているか らさ、作戦にも利用しやすいんだ。前名人の左上段なんか 何枚か取れちゃうと嬉しくなって、そこばっかり攻めちゃ うんだよな。前名人にしてみりゃ、攻めてくれるところが わかっているもんだから、あとは悠々さ。この手でだまさ れちゃうんだよ。こうやってトーナメントの何試合かを楽 にさばいて、体力を温存する。だから、結構な年齢でも一 線級でいられるんだよ。ミツオも有名になるくらいの売り の取りを身につけなきゃ。」
 「ルーテーズのバックドロップ、デストロイヤーのフィ ギアフォーレッグロック、スタンハンセンのウェスタンラ リアットのような必殺技ですか。ちょっと古いか。」
 「かるたで使う横文字って、クインとかセームとかくら いですよね。あまりかるたに横文字って馴染まないんじゃ ないですか。」
 「まあ、村松くんの言うとおりかもしれないな。でも、 かるたにも横文字の必殺技があってもいいし、覆面選手が いて、ドクター・エックスなんて名乗ってもいいかもしれ ないな。」
 「瀬崎さん、話を飛躍させないでください。でも、最近、 重村名人はクロスファイアーと名づけた技を使うそうです けど。」
 「さすが名人、時代の先取りだね。かるた界も横文字多 用でイメージアップをはかろう。」
 「さあ、つまらないこと言ってないで、練習を再開しま しょう。次の三試合は、ミツオ、瀬崎さん、次郎の順で相 手してください。」
 後半三回の練習が始まった。一番手はミツオである。ミ ツオの上段の定位置はバラエティーに富んでいる。何せ一 字決まりから六字決まりまで上段に並ぶ可能性があるのだ。
 「相手の上段を取る練習相手には、ミツオが持ってこい だな。」
 瀬崎は、無責任に言う。
 「瀬崎さん、ぼくの定位置は、瀬崎さんや、伊能さん、 安部さんや、高橋さんなんかの上段の多い配置を見て、真 似しながらいろいろ試した結果、こうなったんですよ。責 任の一端は瀬崎さんにもあるんですから。」
 「おれだって、先輩たちの見てきてこうなっちまったん だから、おれのせいにしないでくれよ。」
 軽口もほどほどに、暗記に入る。ミツオの上段は十二枚 ある。西寺の練習に役立つためには、敵陣をよく攻めるこ とと、上段にポイントを置くことと心得て暗記に割く時間 配分も工夫した。
 詠みは村松である。正直言って、あまりうまくない。H 音・F音がはっきりしないのだ。先の試合でわかってはい たのだが、西寺がしょっぱなからひっかかった。西寺陣の 「ふくからに」が出たのだが、ミツオ陣の「うか」に手を 出してきたのだ。さすがにお手つきは回避したが、ミツオ が出札をものにした。この調子で先行したのは、ミツオだ った。敵陣二枚と自陣の上段を三枚取って、いきなり五枚 のリードを奪ったのだ。
 ミツオは、このリードに気を良くして、伸び伸びとかる たを取った。攻めるためにポイントを置いた札が良く出る のだ。これを思い切り良く攻めると、共札などは相手も攻 め中心の組み立てのせいか、相手が戻る前に取れるのだ。 また、そろそろ自陣の上段の札が出るかなと確認すると不 思議と出るのである。西寺は着慣れない和服で四試合めと いうこともあり、動きづらいのか、上段もミツオが取る。 そうこうするうちに、枚差は八枚対十八枚と十枚差となっ ていた。
 「ちょっと失礼します。」
 西寺が席をはずす。どうしたのかと思うと「たすき」を 持ってきた。和服の袖が邪魔にならないように結構上手に 襷掛けをする。それを見ていたミツオは、ふと「これって 西寺の名人戦前の調整練習だよな。大差でぼくが勝っちゃ って、調子崩したりしないだろうな。」と思っていた。
 ミツオの心の揺れのせいなのか、襷掛けのおかげなのか 知らないが、このあと、西寺は猛然と追い上げる。単に、 西寺が速いだけではなかった。あきらかにミツオの手は伸 びなくなっていた。ミツオが手を抜いたわけではない。ほ んの少しの心の迷いが、彼の取りに影響を及ぼしていたの だ。ミツオが五枚取る間に、西寺は十五枚をゲットしてい た。三枚対三枚。ミツオも必死である。深呼吸して札の確 認をする。この時には、ミツオには余計なことを考える余 裕などなかった。ただ、目の前の六枚の札に集中していた。 西寺陣は右下段に二枚、左下段に一枚。ミツオ陣は、左 右下段に各一枚、上段中央に一枚である。西寺は練習のポ イントを攻めに置いている。守りは意識しなくてももとも と強い。ミツオは敵陣右への攻め一点に絞った。そうして さえ、抜けるかどうかわからない。
 「……、やすらわで……。」
 一字に決まっていた札が出る。ミツオの攻めは完璧だっ た。一瞬の差で西寺より先に札に触れる。送りは、すでに 一字に変化している「たれ」。自陣に置いておくと取られそ うな気がしたのだ。西寺陣は、左に二字に変化している「わ すれ」、右に一字になっていた「いに」と「たれ」の三枚と なった。一方、ミツオ陣は、右に一字に決まった「みち」、 左に「あし」である。
 二枚のカラ札のあと、「たれ」が詠まれた。ミツオの攻め は速かった。送りは「あし」。西寺は右下段に置いた。ミツ オの狙いは、当然、敵右下段である。が、次の出札は、「み ち」だった。詠まれるか詠まれないかのうちに西寺の右手 が一閃、札を飛ばしていた。西寺の送りは「わす」だった。 続いたのは、カラ札で「わがい」。西寺は猛然と攻めてきた が、そのかいなく「わす」は一字となった。ミツオの読み だと、「わす」は百枚めだった。西寺だって、そのつもりで 送ってきたに違いない。それならば、西寺は自陣の二枚を 守ればいいわけだが、それでも「わ」で見せた攻めは速い。 ミツオは、守っていたとしても取れるかどうか自信がなか った。
 この時、曲者は「あし」だった。「あ」札は、「あさじ」 と「ありま」が出ていないのだ。ミツオは、「あし」への攻 めに絞った。敵陣右下段外側の一点狙いだ。西寺はおそら くお手つきを恐れて、囲ってくるだろうが、二字決まりを 一字で囲うのはそう簡単にできることではない。しかも、 他の二枚にも気を配らなければならないのだからなおさら である。
 「……、おもひわび……」、「……、ありまやま……」と カラ札が続く。西寺は「あ」で囲わなかった。しかし、ミ ツオも「あ」でまったく手が出なかった。西寺は、ミツオ は「あし」を攻めてこないと判断したかもしれなかった。 だとすれば怪我の功名ともいえる。相手に手の内をさとら れないようにすることも、勝負の常道である。
 「いでそよ人を忘れやはする…。あしびきの……。」 ミツオの攻めは、まるで一字決まりを取るかのようだっ た。実際、「あさじ」だったら、手が止まったかどうか自信 はなかった。
 「もっと大差で負けるかと思ったよ。接戦になったのは ミツオのほうの問題だな。まあ、実戦では、負けた試合の あとの取りが大事になるだろうから、そのつもりで次の練 習ができるよ。」
 西寺のほうは、負けたことをそれほど気にしていないよ うに見える。そう思ったとたん、ミツオは勝った嬉しさが ふつふつと込み上げてきた。いつかは、名人やクインに勝 てる選手になりたいと思った。
 続く瀬崎との試合を軽く十七枚と一蹴した西寺だったが、 さすがに六試合めは疲れた様子だった。村松相手に四試合 めと同じような展開となったが、前半のビハインドを追い 上げて、五枚で追いついてからは一枚も相手に取らせなか った。
 「いやあ、疲れた。これで、調整終了。試合当日までは、 札に触りません。」
 「先輩いいんですか。毎日少しずつでも練習しておいた ほうが…。」
 村松が心配そうに言う。
 「いいんだよ。高校時代に練習しすぎて、試合当日に疲 労がピークにきてしまったなんて経験をしているんでね。 あとは、試合当日までは、ウォーキング程度の運動でベス トにもっていけるはずさ。」
 「当日は応援に行くから、がんばってな。」
 「瀬崎さん、ありがとうございました。ミツオも次郎も、 今日は正月そうそうから、本当にありがとう。」
 六試合が終わり、みな腹が減っていた。夕食どきになっ ていた。

 「この黒豆おいしいですね。」
 「そうかい。気にいってくれてなによりだよ。正月なん でおせち料理ばかりだけど、勘弁してくれよ。」
 「いや、正月はおせち料理って決まってますから…。真 夏には、おせち料理は食べません。」
 村松は、当たり前のことを言って笑いを誘っている。
 「でも、本当においしいよ。栗きんとんなんか、甘すぎ ないし…。自分とこで作ってるんじゃない。」
 「そうね。できあいのを買ってきたものより、うちで作 ったもののほうが多いかな。」
 「うちなんか、デパートのお重セットを注文してますか ら。道理でおいしいはずだ。」
 ちょうどその時、ビールの追加を持って、西寺の母親が 入ってきた。
 「みなさんもおせちにはあきたんじゃないかしら。お口 に合うといいんですけど…。」
 「いやっ、今もおいしいって話をしていたんですよ。こ んなおいしいおせちを毎年食べれるなんて、西寺くんも幸 せだなって。」
 瀬崎は、ビールを結構飲んでいるせいか、調子いいこと を言っている。
 「あら、そんな。お恥ずかしい。家庭の味を守っている だけですよ。まあ、遠慮しないで、召し上がってください ね。」
 「かあさん、あとはやるから、向こういっててよ。」
 「はいはい。それじゃ、ごゆっくり。」
 「おふくろさんをそんな邪険にするなよ。」
 「瀬崎さんは、おふくろに何言い出すかわかりませんか らね。おふくろも調子いいですからね。この前泊った時み たいに、べらべら余計なこと話し出したら、恥ずかしいじ ゃないですか。」
 「それが、おもしろいんじゃないか。西寺の子供のころ の話とか、まだまだありそうじゃない。」
 「やめてくださいよ。」
 「いやあ、先輩のそういう話って聞いてみたいですね。」
 「こら、次郎。そんなこと言っていいのか。あとが怖い ぞ。」
 「ほんと、先輩のおかあさんは料理うまいですね。この 煮物なんか最高っ。いやあ、おかあさんは料理の名人です ね。」
 都合が悪くなって話をそらす。
 「そう、おかあさんは料理の名人で、先輩はかるたの名 人。いやあ、すごい。」
 「まだ、名人になったわけじゃないさ。なれるかどうか もわからないさ。………」
 「名人になるって、どういう感じなんでしょうね。」
 「村松くんがなってみたら、きっとわかるよ。」
 「なんせ、日本一ですものね。いや、世界で一番強いん ですよ。かっこいいな。でも、名人になったら負けちゃい けないんですよね。」
 「そういう気概は必要かもしれないけど、でも、どうな んだろうね。」
 村松とミツオの話に、西寺は「トイレ」と言って席を立 っていった。
 「ばか。西寺の前でそんな話をしたら、ナーバスになっ ちまうだろうが。戻ってきたら、話題を変えろよな。」
 「はい。でも、瀬崎さんはどう思います。やっぱり名人 は負けちゃいけないんですよね。」
 「まわりがそれを求めちゃいけないんだよ。名人になれ た奴だけが、決められるんだ。たしかある名人は、負けち ゃいけないって言って、出場した試合はすべて優勝したら しい。負けてはいけないからと言って、名人になったとた んに名人戦以外に出なくなった名人もいたらしい。」
 「前名人なんか、全国各地の大会に出ていたようですよ ね。」
 「名人は、やはり大看板だよ。地方の大会に箔をつける には一番いい。こういう役割を担うのも名人の持つ指命だ という考えだ。ただ、これをするといつもベストの状態で あるわけじゃないだろう。普及のために犠牲になるものも 出てくるのさ。」
 「相撲の横綱が、年六場所に巡業という興行のために負 担を強いられるのと同じことですね。」
 「ファンは、残酷なものさ。」
 「将棋や囲碁のようにたくさんあるタイトル戦の一つと 割り切るのも考え方じゃないですか。」
 「でも、そうであっても、先人の築いてきた伝統の系譜 に名を連ねているんだぜ。江戸時代なんて名人になるため に命を削って戦っていたわけだろう。そういう歴史がある から、特別のタイトルなんだよ。」
 「名人って、『権威』って感じですね。」
 「名人を目指すものたちの思いと戦いが、名人の権威を つくりあげているのかもしれないな。」
 「わかりました。あの素晴らしい内容の名人戦の勝者だ から、名人にふさわしいと認められるようなかるたを取り ますよ。見ていてください。」
 三人の熱心な話を部屋の外で聞いていたのであろう、西 寺が戻ってきた。
 結局、自宅に帰るはずの村松もこの晩は泊っていくこと になってしまった。かるた談義は、夜遅くまで続いていた。

  *

 JR湖西線西大津駅の改札を出る。駅を出ると快晴の空 が目にまぶしい。ミツオは、昨晩西寺とともに京都駅に近 いホテルに泊った。付け人役というかセコンド役というか、 付き添いを買って出たのだった。
 京阪電車の皇子山駅が近いので、そこで乗り換えて近江 神宮前駅から七、八分歩いても良いのだが、着物などの荷 物も多いので、駅前からタクシーに乗る。
 「近江神宮までお願いします。」
 ミツオが行先を告げる。
 「お客さんたち、かるたの人ですか。」
 「ええ、そうですよ。」
 「さっきもかるたの人たちを乗せたんですよ。なにやら 今日の試合の役員さんだそうです。お客さんたちは見物で すか。」
 「まあ、出場者と応援団とでも言いましょうか。」
 「へえ、そうですか。ありゃ凄いですよね。テレビで見 たことがありますけど、なんかスポーツですよね。」
 「ええ、よくそう言われますよ。運転手さんもおやりに なりませんか。」
 話好きの運転手とミツオが、そんなとりとめのない話を していると十分もしないうちに近江神宮に到着した。西寺 は緊張しているのか、タクシーの中では何も話さなかった。
 到着すると、ミツオは、役員に控室の場所を聞いて西寺 の着付けに入った。
 「守、ちょっと緊張しすぎているんじゃないか。少しリ ラックスしろよ。」
 「ああ、ごめん。なんか緊張してるよな。自分でもわか っているんだけど…。」
 ミツオが、帯をギュッと締め上げる。
 「あっ、そんなきつく締めるなよ。」
 「やっと自分からしゃべったな。」
 「なんだよ。わざとかよ。」
 「そうだよ。しゃきっとしろよ。守らしくないぞ。」
 ミツオは、緊張をほぐすのも大変なんだと実感していた。 ミツオ自身も、自分が出場するわけでもないのに実は緊張 していたのだ。それ以上に緊張している西寺を見ていると、 自分が緊張していることを西寺にさとらせてはいけないと 明るく振る舞っていたのだ。
 応援のOBや仲間も少しずつ集まってくる。同会同志の 名人戦とあって、今年も応援が多い。OBには、同会同志 の気楽さか、緊張感が欠けているものもいる。しかし、名 人戦に出るのは、会の名誉であることは確かだが、あくま でも出場する個人の戦いなのである。ミツオは応援団にも 適度の緊張があってしかるべきだと感じていた。
 試合開始までには、参拝などのセレモニーがある。これ に西寺を送り出して、ミツオも少々ホッとしていた。

  *

 名人戦は、二回戦を終了して、意外な展開に誰もが驚い ていた。大方の予想は名人有利だったが、挑戦者がいきな り二連勝したのだ。しかも、二試合とも接戦を競り勝って いるのだ。一回戦は、三枚対三枚から、敵陣を三連取して 挑戦者三枚差の勝ち、二回戦も三枚対三枚から、敵陣を二 枚取って、先にリーチをかけて、守られ守っての二枚差勝 利だった。西寺の攻めの強さが、ギャラリーの印象に強く 残った二試合だった。
 「すごいじゃないか。あと一つがんばれよ。」
 ミツオが、西寺の帯を締め直しながら励ます。
 「次で決めるつもりで頑張るよ。あと二つ負けてもいい なんて思っていたら勝てないからね。」
 「守さあ、ちょっと言いにくいんだけどさ。」
 「何?」
 「ちょっと取った取らないでもめた時があるじゃない。」
 「一回戦『この』、二回戦が『わすれ』『おぐ』だよな。」
 「あれって、みんな譲ったけど、審判に聞いてみたら。 審判を利用するのもひとつの方法だと思うんだけど。」
 「重村さんと前に話したんだけどさ、審判はある意味で は時間短縮のためにいるわけでさ、いい試合を自分たちが するなら、双方納得して自分たちで決めたほうがいいじゃ ない。二人の試合のリズムの中に、審判に聞くという行為 がはいると、せっかくいいリズムで来ていた試合のリズム が壊れるような気がしてね。」
 「ふーん、二人はもうぼくらの理解を超えた二人の世界 でかるたを取っている感じなんだ。」
 「最初は、ギャラリーとか気になるかなと思っていたけ ど、始まってみると気にならないんだ。同時に進行してい るクイン戦も気にならないんだよ。なんかすごくいい試合 ができてる感じだよ。」
 「名人戦の舞台で、いい試合をするという夢が実現して いるんだ。」
 「あとは、勝てればなおさらいいね。」
 「じゃあ、がんばって。」
 休憩時間も瞬く間に過ぎミツオは、西寺を三回戦に送り 出した。

 三回戦も、接戦が続いた。追いつ追われつの展開で、二 枚対二枚から、挑戦者が自陣を守る。先にリーチは先の二 試合と同じ展開。続いて、名人が自陣をキープ。運命の一・ 一となった。西寺が持っている札は「あ」決まりになって いる「秋の田の」の札、重村名人は「み」決まりの「みち のくの」の札だった。カラ札が二枚続く。札が詠まれるた びに緊張が走る。
 「ひとのいのちの惜しくもあるかな…。あきのたの…。」 札が詠まれるやいなや、目にも止まらぬスピードで二人 の手が札めがけて飛ぶ。札も飛んでいく。
 重村が、自陣にある「みちのく」の札を西寺のほうに向 きを変えて送る。自分が先に取ったという意思表示だ。頭 をさげてお辞儀をする名人。ふと西寺の顔を見ると不満そ うに首を傾げて、何か言いたそうな顔。一瞬の間をおいて、 西寺も頭を下げる。
 「ありがとうございました。」
 詠み手と審判にもお辞儀をする。
 名人戦、三回戦、一枚差で名人の勝ち。
 隣のクイン戦は、すでに三回戦、八枚差でクインが勝ち 防衛を決めていた。

  「なぜ、最後、審判に聞かなかったの。」
 ミツオが尋ねる。
 「いや、たしかに一瞬はやく名人の指が札に触れていた んだよ。そこにコンマ零一秒遅れて、札に触れた感じだっ た。九十九枚めだったなんて知らなかった。名人は知って いたんだよな。だから、音が詠まれるタイミングで手を出 したんだ。どっちか必ず出るわけだし、近江神宮ゆかりの 『秋の田』に賭けたんだよな。でも、あの攻めをされては、 『みちのく』が出ても、こっちは攻めきれなかったと思う よ。きっと戻られていたな。」
 「まあ、今のことは忘れて、次がんばろう。二勝一敗で、 後がないのは名人のほうなんだから。」
 この時ミツオは、自分が出場者であったほうがどれほど 気楽かを感じていた。

 名人戦、四回戦。
 ○名人、重村貴夫  一枚差  ●挑戦者、西寺 守
 持ち札、八枚、三枚から七連取で逆転した名人が先にリ ーチをかけたものの挑戦者もしぶとく守り、再び一・一の 運命戦。今度は自陣を名人が守り、タイスコアに戻す。

 五回戦を前に、ミツオはもう西寺に何も声をかけられな かった。ただ、淡々と着付けを直し、お茶を用意した。今 一番苦しいのは戦っている両人なのだ。これに勝ったほう が一年間名人位を預かるのである。西寺は、頬を二発自分 で張って決戦の会場に向かった。
 五回戦も一進一退の攻防が続く。二枚差を越える差がつ かない展開で終盤に入る。お互いに敵陣を良く攻めている。 狙われた札は、意識して守っていなければ守れないほどの 鋭い攻めの応酬である。本日、四度めの三対三の展開とな る。名人は「しら」「はなの」「あまつ」の三枚を持ってい る。「しら」と「はなの」が一字に、「あまつ」が二字に決 まっていた。西寺は「かぜそ」「おく」「あはれ」の三枚。「か ぜそ」が一字になっていたが、他は二字である。まずは、 西寺が「はなの」を抜き、「おく」を送る。カラ札のあと、 西寺は敵陣「しら」を抜く。「あはれ」を自陣に残してリー チをかける。挑戦者一枚対名人三枚。あと一枚取れば、念 願の名人である。この「一枚取れば」が曲者だった。続い て「あ」札が詠まれ、双方相手陣を攻める。西寺も「あ」 で自陣を守ろうとは考えていなかった。頭がではない。身 体がである。ずっと攻め続けていた札なので、身体が自然 に敵陣の「あまつ」に反応していたのだ。出札は、「あはれ」 だった。名人が抜き、「あまつ」を送ってきた。まだ、二字 決まりである。名人は、二字の「おく」を右下段に一字の 「かぜそ」を左下段に置いている。挑戦者は二字の「あま つ」を右下段に置いていた。続いて詠まれたのは、「小倉山」 だった。西寺の鋭い攻めが名人の右下段を襲う。当然聞き 分けて違う札なのだから、指が札にまさに触れんとする瞬 間に札をよけていくはずだった。しかし、ほんの〇・五ミ リのいたずらか、指が札の角を掠っていた。結果、札がわ ずかに動いていた。西寺痛恨のお手つきである。この日、 彼はここまでノーミスで来ていたのだが、初めてのお手が この大事な局面で出てしまった。名人の送り札は、「かぜ そ」だった。続くカラ札が、「逢ひみて」で、すべてが一字 に決まった。西寺は、右下段に二枚を並べたが、名人が自 陣に残した「おく」を素早く取ってゲームセット。お手つ きで狂わせてしまった流れは変えられなかった。
 まさに死闘だった。ある年配の役員は、ここ十数年の名 人戦のベストマッチと評していた。
 名人戦は閉会式というセレモニーを滞りなく行い、終了 した。名人、準名人への評価は高く、試合内容にも賛辞が 与えられた。しかし、ミツオはそうした賛辞や評価では如 何ともしがたい西寺の心のうちの思いを感じていた。そし て。ミツオは、一人にしてやる以外の彼を慰める術を知ら なかった。

  *

 名人戦から、一晩明けると近江神宮では、「高松宮杯」が 開催される。この日、東京でも、別の大会が開催されてい るので、関東エリアから来た役員は皆帰っていた。重村名 人は、防衛から一夜明けて、そのまま帰るという。応援団 の半分も帰るということだが、高松宮杯出場を楽しみにし ている者もいた。
 石田 基もその一人だった。こちらの大会でA級昇級を 狙っていた。B級でもう一回準優勝すればA級入りの資格 ができるのだ。こちらには、活きの良すぎる静岡県勢の高 校生がいないというのも魅力である。会長在職中に上がる ことはできなかったが、会長の座を熊野茂蔵に譲って気が 楽になっていた。熊野は金がないと言って応援には来なか ったので東京のほうで出場しているはずである。熊野もB 級準優勝を金沢大会で獲得していた。熊野は、ひょっとす ると石田ほどは会長としての気苦労など感じていないかも しれない。石田にはそんな気がしていた。感じてないから、 現役の会長でありながら、会のビッグイベントである名人 戦に来ないのだと思う。石田だったら、金がなければOB に借りてでも来ていたはずだ。しかし、自分の求める会長 像を後輩に要求するのは酷だろう。彼が自分自身でスタイ ルをつくりあげていくだろう。
 伊能や、高橋も久し振りに会う気がする。高橋が、和服 の女性と親しげに話しているので、かるた会の関係者かと 思っていたら、婚約者だという。かるたばかり取っている ようでいて、そうでもないのだと不思議と感心してしまう。
 「高橋、結婚してかるたが強くなったとか、弱くなった とか言うじゃないか。」
 「ええ、結婚して強くなったなんて話を聞きますよね。」
 「でもな、結婚して強くなる奴が少ないから話題になっ て印象に残るんだよ。」
 「へえ、そういうもんですか。」
 「そう、結婚すると大抵は弱くなる。でもな、それも正 確じゃない。実は、結婚するとかるたを取らなくなるって いうのが一番多いんだよな。お前はどうなるかな。」
 「伊能さん、変なこと言わないでくださいよ。結婚して もかるたは続けますよ。でも遠征とかは今までのようには できないとは思いますけどね。」
 石田がOBたちと歓談しているうちに開会式が始まった。 A級は五十三人のエントリー、B級は二十一人ということ である。C級やD級には、小学生の姿も多い。関東より低 年齢層への普及が盛んだと感じる光景である。
 組み合わせが行われる。石田は、不戦を引いた。まずは 幸先の良いスタートである。結局、弁当の買い出し係をや るはめになってしまう。まあ、OBが多いので仕方がない。 買い出しから帰ってきて控室で、不戦を引いたOBと話を していると、高橋が戻ってきた。
 「どうでした。」
 「ボロボロ。」
 早大一年の沢木 直との対戦だった。
 「で、何枚でした。」
 「二十二枚。あいつは強いよ。あんなかるた初めて見た。 一秒の間に三、四箇所を払えるんじゃないのか。払うとい うか突くというか。なんか千手観音とかるたを取っている みたいだったよ。」
 「千手観音ですか。」
 「車田正美のボクシング漫画に出てくるスペシャルロー リングサンダーって言ったほうがわかりやすいかい。俺は ノックアウトくらっちまったよ。じゃあ、俺は帰るから、 みんなによろしくな。結果は明日でも教えてくれよ。」
 高橋は、婚約者と帰っていった。高橋が今の試合につい てどんな説明をするのか、想像すると石田はおかしかった。 しばらくするとミツオや伊能が勝って戻ってきた。春日 や敷島は負けていた。いよいよ石田の出番である。
 二回戦が終わると、名人戦大応援団で、勝ち残っている のは、西寺を除くと、伊能と石田だけになってしまってい た。昨晩のコンパで飲みすぎ寝不足がたたっていたのかも しれない。ミツオは、沢木に十三枚でやられていた。
 「高橋さんが千手観音って言ってた意味がよくわかりま したよ。自陣の中で共札や同じ音の札をわけておいてある と、連射で来るんですよ。出札がなくても、目の前で、彼 の手が三往復くらいするような感じですよ。こっちの感じ をしっかり消されてしまいました。」
 「なんだい、要するに無駄な動きが多いということなん じゃないの。」
 「いいや、違います。伊能さんも対戦すればわかります。」
 「よし、おれが倒してこよう。」
 三回戦では、伊能と沢木が当たっていた。対戦前は、元 気のよかった伊能だったが、帰ってくるとゲッソリしてい た。
 「ミツオの言ってる意味がよくわかった。ありゃ千手観 音っていうのがぴったりだった。俺とは手がぶつかっっち まって…。でも二の矢が、あいつのほうが早いんだ。対策 は考えた。今度は負けないぞ。」
 「伊能さんの対策って、相手の手とぶつかっても気にせ ずひたすら力まかせに札を取りにいくだけじゃないでしょ うね。」
 「よくわかったな。」
 「えっ、まじなんですか。」
 「なわけないだろう。でも、九十パーセントそんなとこ だ。」
 沢木は絶好調。このあとも関西の名立たる強豪を軒並み 撃破していった。一方、西寺は昨日の疲れも見せぬまま、 順当に勝ち進んでいった。
 「着物を脱いで、Tシャツとジャージで取るのが、こん なに楽だとは…。」
 西寺ものびのびと取っている。ミツオも昨日の負け方が 気になっていただけにホッとしている。そして、もう一人 ホッとしている男がいた。石田である。石田も順調に勝ち 進んでいた。決勝でこそ地元の選手に負けたが、A級昇級 という当初の目的を達することができたからだ。
 A級決勝は、西寺対沢木。沢木のその特異なかるたは、 その勝ち上がり方とともにギャラリーの目にかるた界の新 星として印象付けられた。沢木先行で、西寺が追う展開と なり、沢木が三枚になった時に、西寺は、自陣の札十枚全 てを左右下段に配置した。そこから着実に守る。久々に見 る西寺鉄壁の守りだった。自陣を一枚も取らせないまま、 勝敗は一・一の運命戦に持ち込まれた。
 勝利の女神は、西寺に微笑んだ。自陣を固くキープして の逆転勝利だった。連日の活躍で西寺は、その存在と強さ を大きくアピールすることになった。この日の活躍も地元 の新聞に大きく取り上げられた。しかし、名人戦での緊迫 感に比べると、この日の決勝の緊迫感も西寺にとっては物 足りないものだった。西寺は、禁断の木の実の味を知って しまったのかもしれなかった。

  *

 ミツオが、下宿にもどると、そこには学年末という現実 があった。今年こそは自己管理をきちんとしてベストで試 験にのぞもうと思う。進級のために必要な単位はわずかだ が、履修した多くの科目について一年間を決して無駄にし たわけでないことを証明したかったのだ。かるたの練習も 試験前は、土曜日しかやらないことになっていた。しばら くかるた会のメンバーとも会わないと思うと、あかねに電 話したくなった。
 「TRRR…、KACHA。春日ですが。」
 「佐多と申しますが。」
 「なんだ、ミツオくん。どうしたの。」
 「いや、あかねちゃんの声が急に聞きたくなってね。」
 「やだあ、そんな。」
 こんなお決まりのイントロから、四方山話で盛り上がる。
 「この前、熊野は、どうだったか知ってる。石田と東西 で一緒にA級に上がりましょうなんて言ってたようだけ ど。」
 「石田くんは良かったわよね。A級に上がれて。会長を 降りて、自分の試合だけに集中できたんじゃないかしら。」
 「まあ、自分の試合に集中できたと言えないことはない けど、気楽になっただけじゃないかな。」
 「美智代ちゃん情報しかないけど、熊野くんは3位だっ たって。富嶽高の高校生に負けたっていってたわよ。」
 「八角は名人戦に来なかったものな。でもさ、向こうに 行ってたほうが石田と一緒に上がれてたんじゃないのかな。 静岡県勢のパワーは結構すごいからな。勝っても勝っても 静岡県の高校生って感じだもんな。」
 かるたの話を始めると電話は長くなる。長電話かなと気 になりだした頃に思わぬ情報が飛び出した。
 「美智代ちゃんから聞いたんだけどね。この前の大会で、 志保ちゃんに会ったって。」
 「山根に会ったって、試合でも見に来てたのかい。」
 「そうじゃないのよ。試合に出ていたのよ。」
 「えーっ?でも、うちの会はやめたじゃないか。」
 「それがね。千葉有明会の所属で出ていたって言うのよ。 しかも、しっかり四位に入賞していたって。」
 「へえ、練習続けていたんだ。でも、千葉有明会って、 あまり聞かないよね。」
 「ミツオは大碇さんって知ってる。」
 「ああ、大碇紋太郎だろ。試合で取ったことがあるよ。 でも、あのおっさんは東京瀧の音会の所属だったよ。」
 「その大碇さんが、自分のうちの近所で子供たちへの普 及を始めて、独立してつくったのよ。その時に千葉方面に 住んでいる人をいろいろな会からスカウトしたの。A級の 人もまじっているわ。志保ちゃんも結局かるたから離れら れなかったのね。」
 「山根は千葉在住じゃないのにな。山根の方で情報を聞 きつけて、入れてくださいって頼んだのかな。それとも、 大碇さんのほうで山根の脱会を知って声をかけたのかな。」
 「さあ、わからないけど、志保ちゃんはかるたはやめた くなかったから、有明会の結成はグッドタイミングだった んじゃないかしら。」
 「今度はよその会だから、一回戦からでも当たるよな。 これは、負けられないぞ。」
 「わたしは、当たりたくないな。」
 「当たりたくないなんて思っていると当たっちゃうぞ。」
 「意地悪ね。」
 最後は、ミツオたちの大学のかるた会を去っていった山 根志保の話題だった。去り方が、去り方だけに気にはなっ ていたのだが、かるたを続けていると聞いただけでなぜか ホッとするミツオだった。次週の大会では会えるのだろう か。

  *

 この時期、かるたは試合のシーズンであるのだが、多く の大学生にとっては、学年末試験のシーズンである。レポ ートの締め切りが重なったりすると悲惨である。日頃のつ けがまわってくる。四年生などは、卒業論文の仕上げにか かっている時期でもある。試合に出ないで学習に励むもの の多いが、試合に出て来るものもいる。こうした連中は、 勝ち進むと勉強時間が減るけれども、出る以上は勝ちたい というジレンマに陥る。
 この日は、芝の増上寺で大会が行われていたが、ミツオ たちの大学からは、ミツオと熊野と古賀の三人しかエント リーしていなかった。他の連中は、翌日から始まる学年末 試験に備えて勉強らしい。あの絶対に試験など気にしそう にない敷島が来ていないのだから、推して知るべしだろう。 回りを見ると他の大学の連中も少ない。国立大学の連中や 私立でも三学期制を取っている基督教大の連中などもっと 来ていてもよさそうなのだが…。
 そのかわりと言ってはなんだが、高校生が幅を利かせて いる。東京勢は都立、私立入り乱れているし、神奈川から も数校参加している。静岡からは、富嶽高を筆頭に、長泉 町や沼津市、大井川、掛川、浜松のほうからも来ている。 したがって、A級よりも、B、C、D級のほうが参加者が 多い。この日は、主催者側の調整もあり、最近の東京の大 会では珍しく、A級は三十二人ぴったりであった。重村や 高橋、安部などのミツオたちの大学OBも来ていないのは 珍しい。A級も少ないわけである。B級以下は軒並み五十 人近い。別会場で取るD級は二グループに分けるようだ。 しかし、こうした底辺が広がることは、関係者にとって嬉 しい悲鳴でもある。人数が多いと開会式も壮観である。
 「先輩、今日は、山根さん来てないようですね。」
 熊野が開会式の会場を見回して話しかける。
 「ああ。」
 ミツオも回りを見ながら言葉少なに答える。
 「会いたかったんじゃないですか。」
 「なんで。」
 「二人の間にいろいろあったようですから。」
 「何もないよ。お前も他人のことより自分の試合のこと を心配しろよな。このシーズンでAに上がれないと卒業ま でチャンスがなくなるかもしれないぞ。」
 「また、そうやって人を脅かすんだから…。」
 「静かにしてください。」
 大会の運営関係者に注意されてしまい、気恥ずかしい思 いをする。これだったら、古賀のように開会式に出ないほ うがよかったかもしれない。古賀は、荷物番と称して控室 に残っている。実際は堅苦しいセレモニーが苦手なだけだ った。
 開会式が終わると、対戦組み合わせが決まり、試合が始 まる。ミツオは先週に続いて沢木と対戦である。勝ち進ん で毎週同じ相手との対戦が組まれるならわかるが、連続で 同じ相手と当たると、確率論に文句を言いたくなる。
 結果は先週と同じだった。先週の試合を教訓に札の配置 などを工夫して対策を立てたが駄目だった。千手観音と錯 覚するような突きと払いの冴えは相変わらずだった。特に 渡り手は絶品と言っても過言ではなかった。先週よりも多 い十五枚差の負けで、ミツオは多少落ち込んでもいたので、 さっさと帰って試験勉強をしたかった。しかし、さすがに 後輩二人を残して上級生が帰るわけにはいかない。熊野と 古賀が負けるまで、持ってきていた講義ノートで勉強する ことにした。控室でノートを読んでいると、一回戦を勝っ た二人が戻ってきた。
 「先輩、用意がいいですね。ここで試験勉強ですか。」
 「ああ、こんな早くから勉強することになるとは思って なかったよ。」
 「俺なんか、試験関係のものなんて何も持ってきてない ですよ。優勝するつもりで来てますから。」
 豪語する熊野にムッとしながらも、ミツオはやさしい先 輩役をしてしまう。
 「ふたりとも昼飯はどうする。何か買ってきてやろう か。」
 「すいません。コンビニのおにぎりを三つと小さいボト ルのミネラルウォーター買ってきてくれますか。お金はあ とで払います。」
 「いいよ。古賀にはそのくらいおごってやるよ。」
 「俺はサンドイッチがいいな。飲み物は紅茶系のボトル でお願いします。ごちそうさまです。」
 「お前からは、金もらうから。」
 「えーっ。そりゃないですよ。」
 「まあ、いいか。二人とも頑張れよ。」
 二人を二回戦に送り出したあとで、ミツオは、買い出し に行く。「熊野はともかく、A級では古賀はそう勝ち進めな いだろう。熊野一人だったら置いて帰っても問題ないか な。」そんなことを考えながら、リクエストの品を買って、 会場に戻った。
 控室で買ってきた弁当を食べていると、負けてしまった 高校生たちも、親が作ってくれた弁当を食べている。同じ 弁当でも、随分違うなと思う。きっと母親は子供の勝利の 力となるようにと思いを込めて作っているのだろう。しか し、勝ち残っている生徒は食べられずに、負けてしまった 生徒が先に弁当にありつくというのは皮肉なものだ。
 ミツオは食事を終えると再びノートに目を通していた。 しばらくして、ふと気づくと高校生たちが時間つぶしにト ランプを始めている。団体割引切符で来ているので、みん な一緒に帰らなければならないのだ。負けた生徒と優勝し た生徒が結構な時間、道中をともにしなければならないと いうのは、多感な年代、酷と言えるかもしれない。
 それじゃあ、自分は何なんだと思う。すでに多感ではな くなってしまったのか。そんなことはない。負ければ悔し いし、勝ったやつがうらやましい。ただ、それを隠す仮面 を身につける術を持っているだけだ。しかも、自分の心に 対する仮面を。目はノートの文字面を追ってはいるが、こ んなことを考えているので、頭の中にはいるわけもない。 腹もくちくなり、ミツオはいつのまにか居眠りをしていた。  「先輩。勝ちましたよ。」
 熊野の声で目が醒めた。
 「これ、食っていいやつですよね。タバ勝ちしたんで、 結構落ち着いて食えるかな。」
 「あまり食うと、脳に行くべき血のめぐりが腹にいっち まうぞ。それに腹が満たされれば眠くもなる。」
 「実証例が、先輩ですね。」
 熊野の減らず口を聞いていると古賀が戻ってきた。
 「勝ちました。このおにぎりいいですか。」
 「すごいじゃないか。ベストエイトだな。賞状と賞品ゲ ットだな。」
 「まぐれですよ。おにぎり、また、次の試合のあとにも 食べますから残しておいてください。」
 古賀は、おにぎり一個しか食べない。これなら、眠くな る心配もないだろう。次の対戦相手は、沢木を除けば、誰 とあたってもA級優勝経験者だ。正念場である。
 三回戦、控室は、さらに人口密度を増していた。回を追 う毎に負けた人数が累積されていくわけだから当然である。 首都圏組は負ければ帰ってしまうが、静岡からの遠征組は 一緒に帰るわけだから、控室が混むのである。トランプを するもの、教科書を広げて勉強するもの、編み物をするも のなど、控室での過ごし方は様々である。ミツオはこのよ うな混んだ中での勉強はあきらめて、会場に観戦に行くこ とにした。考えてみれば、負けたら、強い人の取りを見て 参考にするというのが、学ぶものの姿勢であろう。
 会場には、A級の試合を熱心に見ている高校生が数名い た。制服に着替えているのですぐわかる。ミツオは、初心 を忘れ始めている自分に気づいていた。
 古賀の試合を見ていると、ベテラン強豪相手に全く臆し ていないような取りだ。鋭く切れがある。鋭利な刃物の切 り口を思わせるような取りだ。見ているものにゾクッとす る感じを与える。ミツオも背筋にゾクッとするものを感じ てトイレに行きたくなった。会場を出て用を足したところ で村松次郎にばったり会った。
 「佐多さん、こんにちは。今日は西寺さん来てないんで すね。」
 「ああ、試験勉強が忙しいって言ってたよ。」
 「佐多さん、東京タワーのぼったことありますか。」
 「えっ、突然何だよ。ないけどさ…。」
 「これから行くんですけど、ぼくらと一緒に行きません か。」
 ふと気がつくと、村松と一緒に可愛い女子高生が二人微 笑んでいる。
 「じゃあ、一緒に行こうか。」
 初心忘るべからずといましめたのもつかの間のことで、 女子高生の微笑みにつられてしまうミツオだった。これで は瀬崎のことを笑えない。村松と一緒にいたのは、二年生 でA級に上がりたての平森由美と一年生でB級の勝間田佳 世子だった。東京タワーの展望台にのぼって戻ってくるま での間、結構話しが盛り上がり、楽しい一時を過ごすこと ができた。
 再び会場に戻ってくると、四回戦がはじまっていた。古 賀も熊野も勝ち残っている。ミツオは少々心が痛んだ。古 賀は、沢木と対戦している。昨年の夏の仙台大会B級の決 勝戦以来の対戦だった。もちろん、二人ともその時よりは 腕を上げている。千手観音との異名をとる沢木が、槍の使 い手だとすると、古賀は一刀流免許皆伝の腕前といったふ うである。槍と刀の試合では、長さの分槍が有利だという が、長いリーチを活かして鋭く突きを繰り返す沢木を、古 賀は全然苦にしていない様子で、太刀一閃、槍の柄ごと切 り払うような取りでリードを奪う。試合はそのまま展開し、 六枚差で古賀が勝利をおさめ、A級決勝戦に駒を進めた。 熊野もここまで、毎試合の二桁枚差の勝利である。こちら は、B級準決勝進出である。前にB級準優勝があるので、 この次に勝てば、A級にあがれるのだ。
 「あれっ、先輩どこ行ってたんですか。荷物置いたまま 帰っちゃったんじゃないかと思いましたよ。」
 「いやあ、ごめん。ちょっと表に出かけていたもんで。」
 二人に本当のことは言えない。
 「応援してるからな。二人とも頑張れよ。」
 熊野の準決勝の相手は、ミツオと東京タワーに行った勝 間田の一年上の姉の和美だった。彼女もここまでタバ勝ち の連続で勝ち上がってきている。抜きつ抜かれつの緊迫し た展開の中、十枚対十枚となったところで、ハプニングが 起きた。
 「ちょっとお待ちください。コンタクトレンズ落としち ゃったようです。」
 詠みを止めて、畳や札の上を探し始める。高校の仲間も 探すのを手伝ってくれる。しばらくの時が経過した。
 「すいません。目の中でずれてただけだったようです。」
 場内から失笑がもれる。しかし、このことが勝間田のか るたに悪影響を及ぼすことはなかったようだ。この直後、 五連取で差をひろげ、熊野を突き放してしまったのだ。
 試合後、熊野は「あの中断はないよな」と語っていた。 ペースを狂わせたのは熊野のほうだった。A級昇級はお預 けになってしまった。
 さて、古賀のA級決勝戦の相手は、優勝を何度も勝ち取 っている実力者だった。とにかく熱心に暗記を入れつづけ る。ミツオはその真摯な姿を見て、自分が同じ競技をやっ ているものとして恥ずかしかった。ミツオには決勝戦まで の長丁場、あれだけの集中力を維持することが不可能のよ うに思えた。一方の古賀はマイペースである。舞台度胸が あるのだろう。試合のほうは、古賀が終始二、三枚のリー ドを保って終盤に突入した。ここで、相手に痛恨のお手つ きが出た。
 「WUWAWWW………。」
 悲鳴ともなんとも言えぬ不思議な声が場内に響いた。
 古賀は、無表情に「LUCKY…」と呟いて札を送る。 これで勝負の流れは完全に古賀に傾いた。そのまま押し切 り、相手陣には五枚の札が残って勝負がついた。古賀、A 級初優勝である。
 「おめでとう。」
 祝福の声をかける。
 「いやあ、まあ、何と言うか。嬉しいですね。かるたを 始めてA級になって、一度くらいは優勝してみたいなって 思っていたんですけど、こんな早く実現するとは思いませ んでしたよ。先輩、応援ありがとうございました。」
 「じゃあ、表彰式終わったら祝杯をあげに行こうか。」
 「いや、今日はやめましょう。明日一時間めから試験が あるんですよ。」
 「俺も、試験がありますし、ずっと取っていたんで先輩 のように控室で試験勉強できませんでしたから帰ります。」
 熊野は、皮肉で言ったのではないかもしれないが、この 言葉がグサッとミツオの心に突き刺さった。
 わざわざ負けに来たわけじゃないが、勝てなかったんだ。 仕方ないじゃないか。お前だって一番大事なところで勝て なかったじゃないか。熊野にしても自分にしても、かるた を始めて一年たたないうちにA級優勝してしまう古賀がう らやましいのだ。古賀の才能をうらやんでも、そこからは 何も生まれない。自分の持てる力をどのようにすれば最大 限生かせるのだろうか。才能があるとは言えない自分。精 一杯やっているとも到底言えない自分。自分が情けなく感 じてきた。
 古賀と熊野は試験に備えてまっすぐに帰っていったが、 ミツオは、何故か飲んで帰らずにはいられなかった。顔見 知りの役員からの打ち上げの誘いは、渡りに舟だった。

  *

 学年末試験期間も一週間が過ぎた。ミツオは、受けなけ ればいけない試験の四分の三をすでに消化していた。試験 初日は、二日酔い気味で調子が出なかったが、そのあとは 順調である。無事に三年生になれることだろう。
 火曜日の一時限、ミツオは「文学」の試験を受けていた。 進級に必要な単位は足りているのだが、二回めの二年生を 無駄に過ごさぬために好きな古典和歌をテーマにしている この科目を履修したのだ。まったくの偶然だったのだが、 担当の教授は、かるた会の大学公認を取るのための会長を 引き受けている人だった。
 試験期間も後半になると、机の上の書き込みが汚い。経 済学の用語に法律の条文、数式などが油性の細いペンで細 かに書いてある。ミツオは、カンニングしてまで単位を取 ろうとは思わない。そうして得たものは、結局は身につか ず、その結果は自分で刈り取らなければならなくなるもの だからだ。
 試験は、授業でやった和歌の解釈と、自分の好きな和歌 数種について自由に筆記する問題だったので、六十分の試 験時間のうち三十分で書きあがってしまった。答案用紙を 提出して退出してもよいのだが、外に出ても寒いので、時 間一杯まで答案を見直すことにした。答案に書いた和歌を 見ているうちに、ミツオは一昨日に横浜で行われた大会の ことを思い出していた。

 ミツオは、夢にまで見たA級での初優勝を成し遂げてい た。しかし、それはミツオにとっては不本意な形の優勝と 言えるかもしれない。決勝の相手は、西寺準名人だった。 西寺は何も言わずに譲ってくれた。準決勝は、重村名人が 譲ってくれた。カードが一枚ずれていたら、クインと取る ことになったのだが、対戦決めの時に最後に重村が手をい れて、一番上の対戦カードを一番下にずらしたことで生じ た組み合わせだった。準々決勝は、前週優勝者の古賀がク インと対戦、名人は前名人と、準名人は元名人とという具 合に強豪同士がしっかり対戦するという組み合わせだった。 ただ、一組を除いては。
 ミツオの対戦相手は、成瀬陽子。早大の二年生である。 夏の学生選手権で沢木にB級決勝で譲ってもらってA級に あがった選手だ。この日、A級初勝利を上げた勢いで三連 勝でここまで勝ち上がってきたが、世間的には無名の選手 だった。三回戦では春日に、二回戦では石田にという具合 にライバル大学の上級生選手を食ってここまで来ていた。 しかし、どちらも二枚差の勝利という接戦をものにしてき たので疲れていたのだろう。ミツオとの対戦では、精彩な く十二枚差で敗れ去った。
 ミツオが入賞をかけた三回戦の相手は、山根志保が移籍 した千葉有明会の代表大碇紋太郎だった。この日も見かけ ない山根のことを聞こうかなと思っていたら、向こうから 話しかけてきた。
 「佐多くんは、山根くんと同級かい?」
 「はい、同期ですけど…。」
 「彼女は、いい選手だね。君たちの練習の密度が濃いの がよくわかるよ。」
 「はあ。今日は来てないようですが…。」
 「今日はね。彼女は大阪の大会に行ってるよ。」
 道理で見かけないわけだ。志保は、ミツオたちのことを 何と言っているのだろう。気にはなったが、それは聞けな かった。ミツオは大碇とは二度めの対戦だった。どちらか というと三味線をひくのがうまく相手を自分のペースに乗 せるような選手だが、ミツオは相手の話に調子を合わせな がらも必死に暗記をいれた。よくまあ、これだけ話をしな がら暗記がはいるものだ。前回の対戦で経験していたので 心の備えができていたこともあって六枚差で勝つことがで きた。
 その前の二回戦では、ミツオは平森由美とあたっていた。 先週一緒に東京タワーに行ったので、顔見知りになってい た。丸顔の笑顔が可愛い高校生である。表情を見ていると どうも闘争心が湧いてこない。しかし、ミツオは余裕を見 せながらも勝負には辛く三枚差で勝利を収めた。
 一回戦は、くじ運よく不戦勝を引いていたので、これが この日の緒戦だった。
 いわゆる強豪・強敵と当たらず、準々決勝の相手もすで に疲労している実績のない選手、そして最後は譲り二連発 での優勝は、運以外のなにものでもなかった。
 ミツオは、嬉しさ半分で、どうにも実感がわかなかった。 OBの高橋などは、「名人、準名人に連続で譲ってもらえる なんて、そんな贅沢は普通じゃありえないんだぞ。そうい う優勝の仕方をしたことは、もっと自慢したっていいくら いだ。どんな形でもいいから、一度でいいから俺もA級で 優勝してみたいよ。」と言ってくれたが…。
 この日、表彰式で大阪の大会の結果が入った。優勝は沢 木、準優勝は山根だったそうだ。こちらの情報も向こうに 流れているだろう。もし、この日の優勝者同士が対戦した らと考えると、ミツオは沢木に勝てる気がしなかった。ま すます、優勝の実感が遠のく。それにしばらく会っていな い山根の活躍。どれだけ強くなったのだろうか。大学とい うある種の温室から、一般会という荒波の中に出て人間的 にも一回り大きくなったのかもしれない。自分は今のまま でいいのだろうか。変わる必要はないのかとミツオは感じ ていた。

 「ブー。」
 試験終了のブザーで、ミツオは現実に引き戻された。答 案用紙を提出して教室を出る。
 今年は風邪をひくこともなく、試験も順調にこなしてき ている。試験終了まであと三日である。
 「試験が終わったら、練習再開だ。」
 かるたに対して、思いを新たにする。三月末の団体戦、 職域学生大会までは、各地で大会が開催される。交通費な どの遠征費用と時間を惜しまなければ、ほぼ毎週のように 大会に出場することも可能なのだ。
 史上最弱のA級優勝者とは呼ばれたくない。ミツオは、 譲られなくても優勝できる地力をつけたかった。
 「もっともっと、強くなりたい。」
 熱い思いを冷ますかのように、校舎の外では、雪がちら つきはじめていた。


  Copyright:Hitoshi Takano

次の章に進む

「札模様」目次へ戻る