携帯家族
with Fumika Sato
 
1. コマーシャルの限界
2. 家族の肖像
3. 携帯家族への共感
1.コマーシャルの限界

携帯電話のコマーシャルがある。ひとつは、トラック野郎の若いおとうさんが携帯電話を使って、「もちもちー、パパでちゅよー。なにちてたんでちゅかー?」と、その職業柄、風貌はいかついにもかかわらず、でれでれの幼児言葉で娘との会話を楽しむCM。ふたつめは、遊園地のメリーゴーランドところで、携帯電話が鳴る。応答した父親はすかさず「おまえにだよ」と幼い息子に電話を渡す。すると電話のむこうの主が「父さんのこと好きか?」と、唐突な質問をする。息子はちらっと父を一瞥した後、にっこり笑って「だーいすき」と答える。なんだろう、この家族と、考えさせられるCM。さらに、もうひとつ。きれいな女性と夜のデートを楽しんでいるおとうさん(サラリーマン)が、遅い帰宅のことで、小さい娘から電話がかかりちょっとうろたえながら弁解し、切った後で娘に謝る、というシーンのCM。

これらの携帯電話のコマーシャルで描かれた家族は、もはや核家族ではない。ここでは、家族内のことなのに、父親と娘や息子がストレートに結び付き、しかも母親の存在が薄い家族関係になっている。あたかも母親は離婚していないような家族であり、あるいは母親も仕事しているので、子供の面倒は父親も母親と同じくらいの負担を背負わないといけないような家族の描き方である。もちろん、コマーシャルであるから、現実の核家族の価値を無視するわけにはいかないので、コマーシャルで描く奇妙な家族(核家族からすれば、欠損家族とレッテルが貼られそうな家族)には、ユーモアで包みながら、ある種の後ろめたさをもたせる工夫がなされている。

しかし携帯電話に描かれた家族こそ、ネットワーク社会にふさわしい家族のイメージではないのか、と思えてならない。携帯電話をメタファーとして家族を描くとき、いままでにない新しい家族のイメージが提示できるのではないか、という気がしてならない。これらのコマーシャルには、新しい家族を予感させる何かがある。