携帯家族
with Fumika Sato
 
1. コマーシャルの限界
2. 家族の肖像
3. 携帯家族への共感
2.家族の肖像

新しい家族を、携帯電話のメタファーでとらえるので、その家族を「携帯家族」と呼ぶことにしよう。この家族は、いままでの核家族とはまったく異なる。携帯家族では、家族のメンバーは家という空間の拘束性から自由である。メンバーにとって、家族は、携帯電話のように、もって歩けるもの?である。いままでの家族のように、まずは家という空間があって、そこに家族のメンバーがつながるのではなく、まずはメンバーがいて、そのネットワークのなかに家族が存在して、空間としての家は暫定的に設定されるにすぎない。ここでは、空間としての家族から、関係としての家族へと、家族の基本的な絆の形態が変容する。つまり家という境界がもっと柔らかくなって、それがいままでのように個々人の行動を厳格に制約する絆として機能するのではなく、個々人のニーズや役割をサポートする機能として期待されるのである。ここでは、同居という空間的な制約が家族を規制する条件としてはかなり後退する。したがって、携帯家族では、かつての通い婚的な形態もありうる、ということである。

モビリティとネットワーク、この新しい環境が社会のインフラとして整備されるとき、家族も大きく変容する。いま、組織がリエンジニアリングなどといわれて変わりつつあるが、最後の砦である核家族がこの新しい環境のなかで変わることで、社会はまったく異なったものなる。携帯電話は、そのためのデジタル・アンビエンスを変える一つの重要な契機である。もちろん、単純に携帯電話だけで、このような変容が期待できるわけではない。当然、携帯電話がコンピュータ・ネットワークとつながり、そのネットワーク環境のなかで、モビリティという観点から大きな影響をもたらすことが、肝心なことである。だからこそ、現状では、携帯電話はメタファーとしてしか意味をもたない。

メタファーで、いままでの家族の変遷を解釈してみよう。そうすることで、携帯家族の生成可能性への理解が少しは容易になるだろう。

1955年、ここは戦後が終わった年というよりも、戦前からの連続性にある種の決着がついた時なのだろう。家族論としては、大家族がここまでの時代を規定してきた。そのメタファーは「ちゃぶ台」である。3世代以上の家族成員が一つの家族(イエ)という空間の中で「ちゃぶ台」(かつては、それは「いろり」であり、イエの芯であった)を囲む。そこでは、家長が座る場所は固定され、その聖域を犯すことは誰にもできなかった。家長はイエの権威だった。しかもイエは家族として完結することなく、その空間的な広がりを地域社会にまで外延化させ、その境界を強固にしていた。親族集団と地域社会、つまり血縁と地縁はここでは同一円を構成していた。このような家族には、まだメディアはほとんど意味をもたなかった。箪笥の上に居座るラジオはいまだ異邦人であった。しかしこれは徐々に大家族を崩壊に導く準備をしていた。「君の名は」の事件は、それを予感させるものであった。

55年以降、家族は核家族の時代に入った。都市化と産業化という大きな社会変化の流れに沿って、家族も核家族が家族らしさとして支持されるようになった。公団住宅の入居募集が56年に始まり、「団地族」という語も生まれ、ここに核家族の社会装置がしっかりと定着した。ここでの家族のメタファーは「ダイニングキッチン」である。核家族は、男性大人(夫=主人)を生産労働者として外の会社組織にだし、女性大人(妻=主婦)を再生産労働者(母)として内なる家庭に専従化させる、という性別役割分業のシステムとなった。ここでは、すべての家族メンバーは家族全体のゴール(=豊かさの獲得)に対して貢献することが求められた。「ダイニングキッチン」は、専業化したメンバーを統合するシンボル(愛の絆)であり、食事を共にすることで、家族らしさを確認しあった。60年の「家つき、カーつき、婆ァ抜き」の流行語は、核家族の理想とするヴィジョンであった。

テレビは、この核家族にふさわしいメディアであった。59年の皇太子御成婚がテレビの普及に拍車をかけ、「パパは何でも知っている」(58年)「うちのママは世界一」(59年)などのホームドラマ(これこそ、核家族の理想であった)が流行した。そのドラマを、ダイニングキッチンで、みんなでみることで、核家族の幸福をかみしめたのである。さらに、電話も基本的には一家に一台ということで、核家族に侵入してきた。ここでの電話はパーソナル・メディアではなかった。黒電話は通常玄関から居間に通じる廊下の隅に固定され、会話はすべて家族につつぬけになることが自明とされ、さらにその用途は家族にとって絶対に必要な要件に限定されていた。つまり電話はファミリー・メディアであり、家族統合の機能をはたすメディアでしかなかった。

しかし75年以降、都市化が一層進展することで、都市が生産の場である以上に消費する場として意味をもつようになると、真面目な核家族は、その首位の座を楽しい家族(粒子家族)へと譲ることになった。粒子家族は「ホテル家族」とか「個人化する家族」などと呼ばれるものに等しい。この家族のメタファーは「個室」である。家族のみんなはもはや食事の時間にダイニングキッチンに集合することに、強い絆の意味を見い出してはいない。家族の統合は、強く期待される共有価値ではなくなってしまった。各自がそれぞれ自分のニーズ(=豊かさの表出)を充足することがもっとも大切にされ、食事が終われば、自分の個室に籠って好きなことをすることが価値になったのである。しかしここでは、まだ、家族の空間上の制約はまだ拘束力を維持していた。家に帰ることは、誰にとっても自明なことであった。外泊は、後ろめたいものであった。

しかし個室に籠ると、そこにはテレビやラジカセなどのメディアが装備され、子供たちはウォークマンを使い、ファミコンに熱中するメディア・キッズとなった。個室は、この意味では、孤立する個が自分の喜びに浸る快楽をもたらした。家族愛の絆への思いいれよりも、素直な欲望の発露を求めたのである。しかし個室は、このように家族内の関係を遮断したが、家族の外部にコミュニケートできるパーソナルな環境をももたらした。籠ることは開くことでもあった。そこでもっとも重要なパーソナル・メディアが電話である。自分専用の子機をもって、外部の友人に長電話することは、当然のことになった。籠ることで、家族内以上に外部とのコミュニケーションが重視されるようになっていった。親機は空しく居間に置かれているだけだった。

この頃から、親が同じ屋根の下にいながら子供の動向がつかめないという「二階の息子、離れの娘」現象が起きた。テレビドラマでは家庭の崩壊をあつかったホームドラマ「岸辺のアルバム」(77年)、家庭内暴力を描いた「積み木崩し」(83年)が話題になった。また、妻の自立を求めての職場進出、自分新発見のためのカルチャーセンター通いなどの「くれない族」の反乱(84年)、「金妻」ブーム(85年)が起き、つ いにはCMに「亭主元気で、留守がいい」(86年)というコピーが現われた。もはや核家族の時代ではないのに、形態が似ていることで、いまだ核家族に固執することで、かえって悲劇がうまれるという現象が多く発生してきた。しかし粒子家族のメタファーが示すように、家族の関係は希薄化してしまった。個人の欲望の追及によって、家族みんなが家族と一緒に暮すことの価値はあきらかに後退していった。ばらばらに暮すことだって、そんなに悪いことでもないではないか、という価値の共有化が徐々に浸透していった。