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2006年04月25日

第1回~第3回パワーポイント

第1回~第3回のパワーポイントをアップしました。

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投稿者 amemiya : 20:48 | コメント (0)

2006年04月20日

第2回講義レビュー(06年)

第2週になり、履修者の数もおおよそ定まってきたみたいですね。先週は「履修者がΩ教室に入りきらなかったらどうしよう・・・」と心配していましたが、なんとかΩサイズに収まったようです。よかった(^-^)。

【「脅威」と「脅威認識」について】

さて、安全保障論でよく議論の出発点となるのは、「脅威」をめぐる概念です。Securityの語源がSe(引き離す)+Curitas(不安)であるように、「不安」の源が何か、ということが安全保障論の基点になるわけですね。

ところで、永田町では「日本にとって中国は脅威か?」という議論について、昨年面白いやりとりがありました。民主党の前原代表(当時)は、昨年12月の訪米の際に「(中国は)現実的な脅威だ」と発言をし、内外で波紋をよびました。これに対し自民党は「中国は現時点では脅威ではない」という認識を示し、その理由として「特定国に対する侵略の意図と能力を組み合わせて『脅威』という。中国に能力はあるが、明確な意図は見当たらない」(自民党国防族)からだ、と述べています。

皆さんはこの議論をどのように評価しますか?いったいなぜ、このような見解の差が生まれるのでしょうか?これらの議論には「脅威」という概念をめぐって、日本国内でかなりの混乱があるように見受けられます。あまり「脅威」という言葉が、政治家たちの間で吟味されずに使われているようなのです。

安全保障論の授業で紹介した「脅威」の定義とは「主体(国家・非国家主体・個人)に危害・損害を与える(可能性のある)『意図』と『能力』」です。当然ながら、相手方が我々に悪意(意図)を持っていても、軍事力(能力)が伴わなければ「脅威」にはならないわけですね。逆に相手が軍事大国(能力)であっても、我々に損害を与える意図がなければ、同じく「脅威」とはみなすことは適当ではないのです(たとえば同盟国である米国は日本の脅威とはいい難い)。

「脅威」の概念は、「意図」と「能力」の二つが結びつかなければならないわけですね。その意味で自民党の提起した議論には説得力を感じるわけです。つまり、自民党・民主党ともに認めているのは「中国の軍拡は(能力として)脅威と『なりうる』」が、自民サイドが強調したいのは(現在のところ)中国が日本に損害を与える意図は持っていない(したがって前原氏の発言は勇み足である)ということですね。

でも自民党サイドが「中国が日本に侵略する意図はない」という「意図」の解釈は、やや乱暴だと思いませんか?現代の安全保障論は「侵略」を対象にしたものなのでしょうか?むしろ「侵略」に至らず「事故」ともつかない、その中間に「白黒はっきりしない世界」があるのではないでしょうか。

たしかに、日中対立の結果、中国が日本に対して直接侵略をする事態は考えにくいと思います。でも、仮に台湾海峡で武力紛争が発生した場合に、日本の島嶼地域が常に安全といえるでしょうか?また、日中の中間線をめぐる対立や、海洋調査船の活動に対して対抗措置をとった場合、軍事的な小競り合いが起きる可能性も無視できません。したがって、全面的な軍事対立を想定して「脅威」か否かを判断する、という議論自体がやや現実離れしているわけですね。したがって、過去の定義(授業で紹介した第1象限の世界の定義!)にしたがって「脅威」を規定することは、もはや時代遅れといわざるを得ないのかもしれません。

むしろ安全保障論を学ぶ私たちにとって重要なのは、①(中国の)軍事的な能力が現在どのような段階にあり、②将来いかなる能力を持つようになるのか、そして③中国の国家目標・安全保障政策がこれら能力をどのように結び付けられるのか、ということを解きほぐしていくことです。日本にとっての「脅威」とは何か、という議論について単純すぎる理解をしようと焦らず、さまざまな事態を想定して、じっくりと考えてみてください。

【QDRにみる米国の安全保障観】

さて授業の中では、米国・ロシア・欧州各国・中国・日本がどのような「脅威認識」を持っているのか、比較検討してみました。とりわけ重要なのは、超大国である米国がどのような安全保障観を持っているかを理解することだと私は考えています。良かれ悪しかれ、米国の認識に世界の趨勢は大きく振り回されるわけですから。まずは米国の認識を解剖してみましょう。

さて、ここでも引用するのは、前回も紹介した「4年毎の国防政策の見直し」(Quadrrenial Defense Review: QDR)です。QDRは1997年以来、国防総省が議会の要請によって4年に1度国防政策を見直す文章です。日本では「防衛計画の大綱」に相当しますが、QDRは米国の安全保障政策の理念・目標・コンセプトなどについて、よほど雄弁に語っており、読み応えのあるレポートです。

最新のQDRは、2006年3月に発表されました。QDRは米国が直面する安全保障上の脅威として①非正規型(テロリズムなど)、②破滅型(大量破壊兵器など)、③伝統型(通常戦力による軍事紛争の脅威)、④混乱型(サイバー攻撃など)の4つに分類しています。

qdr1.gif

ここで重要なのは、上記座標軸の横軸を「(米国の)脆弱性」、縦軸を「(事態の)蓋然性」と定めていることです。つまり、もっとも脆弱性・蓋然性が高いのが②破滅型、逆にもっとも低いのが③伝統型となるわけですね。ということは、米国の脅威認識としてより②破滅型および①非正規型の脅威への対応が重要になる、という認識をしめしているわけです。

ところが、現在の米国の軍事態勢は依然として③伝統型への対応に備えたものになっている。これが、米国にとっての脅威と、それに対応する米軍の態勢とのギャップを生んでいるという問題意識が生まれます。そして、下図のように「ウエイトを(②>①の方向へと)シフトさせなければならない」という結論を導き出しているわけですね。

qdr2.gif

【「脅威」ベースから「能力」ベースへ】

さらに理解を深めなければならないのは、米国の安全保障政策において「脅威」という言葉を意図的に排除しようとしていることです。かつて冷戦期の脅威の代表格はソ連でした。安全保障専門家の仕事といえば、ソ連の「意図」と「能力」を分析し、その脅威にいかに備えるかを提言することでした。そして冷戦が終わると、いわゆる「地域紛争」の発生が米国やその同盟国にいかなる損害を与えるかという観点から「脅威」が評価されるようになりました。1993年のボトム・アップ・レビュー(Bottom-up Review)では「2つの同時に生起しうる地域紛争(ここでは朝鮮半島と湾岸地域)に、対応できる能力」の構築が目指されたわけです。すなわち、二つの地域紛争を米国(とその同盟国)にとっての脅威と認定するところから、国防計画が成り立っていたわけですね。

ところが9.11事件を経ると、「どの国が・誰が脅威なのか」という議論が特定しづらくなりました。テロリズムのような①非正規型の攻撃は、ヒト・モノ・カネの複雑なネットワークから生じるものだし、また②破滅型の攻撃も、朝鮮半島や湾岸地域以外のアクターが大量破壊兵器を手にすることによって、実行が可能になるかもしれないからです。つまり「誰が意図をもっているのか」がわかりにくい世の中が到来した、と米国はとらえているわけですね。

その結果生み出されたアプローチが「能力ベースのアプローチ」(Capability-base Approach)と呼ばれるものです。ここでは「米国の脅威がいつどこで出現するかは、現下の安全保障環境では予測困難である」前提があります。「空間・時間」の概念で説明したとおり、ポスト9.11の安全保障では空間と時間を越えて、脅威が出現してくるという観念が生まれているわけです。

しかし、だからといって米国が敵について何もわからないわけではない。「敵がどのような能力を用いて米国を攻撃するかは予測可能である」ということですね。つまり世界にはどのような大量破壊兵器が拡散し、いかなる通常戦力が存在するか、つまり「能力」を把握することは「意図」を把握するよりも具体的だという世界観を強調したわけです。

そのため米国は、大量破壊兵器がどのように生産・移転・使用されるのか、という現象こそが安全保障上の脅威であり、そこに着目しなければ実際の攻撃を止めることはできない、という発想に立つわけです。現存する「能力」に対応するために、自らの「能力」を形成する、それが「能力ベースのアプローチ」の真意ということですね。

米国が「脅威ベース」という言葉をなぜ排除したのか、なぜ「能力ベース」という概念を採用したのか、みなさんももう一度よく考えてみてください。

今回のレビューはここまで。授業の後半で紹介した「安全保障政策の類型」については、前年度のレビューをごらんください。

投稿者 jimbo : 00:52

2006年04月11日

第1回講義レビュー(06年)

【対テロ戦争の「地域化」と「相互依存下の勢力均衡」】

「安全保障論」が今年も開講されました(^-^)/。この授業を担当して2年目だというのに、とても緊張して授業に臨んでいます。それは、世界の安全保障情勢がダイナミックに変化するなかで、「安全保障」を論じる枠組み・前提が常に変化し続けているからです。そのなかで、去年自分が考えた分析、そしてたどり着いた結論さえも、ふたたび構成しなおす必要があると感じています。そんな緊張感を覚えながら、授業を進めています。

もっとも、今年の「安全保障論」のシラバスの構成は、昨年のものと基本的に同じテーマで進めていきます。ですから、この「安全保障論ノススメ」は学習をすすめるうえで、大いに活用して欲しいと思います。同じテーマだけど、違う姿がみえるかもしれない・・・。そんな意味で、今学期のエントリーは、昨年のエントリーを補足するかたちで、活用していきたいと思います。

以下、第1回目としては2006年の大きな潮流として「対テロ戦争の『地域化』と『相互依存下の勢力均衡』」を論じていきたいと思います。

さて、昨年のエントリーにも書いてあるとおり、第1回「空間横断の安全保障」では、①安全保障概念の多元化、②9.11事件以降の安全保障のパラダイム変化(Balance of Powerおよび抑止理論への挑戦)、③安全保障の「空間軸」・「時間軸」の変化」を紹介しました。

いくつか1年間の動向を踏まえて、UPDATEしてみたいと思います。まず、「対テロ戦争」は引き続き、米国を中心とする多くの国で安全保障上の重要な課題となっています。米国で2006年3月16日に発表された『国家安全保障戦略』(NSS)では、「対テロ戦争に一定の成果を収めつつある」としながらも「新しい課題が浮上している」として対テロ戦争の継続を唱えています。以下、NSSを引用しながら、現在の米国の安全保障観を読みといてみましょう。

The war against terror is not over. America is safer, but not yet safe. As the enemy adjusts to our successes, so too must we adjust.
Terrorist networks today are more dispersed and less centralized. They are more reliant on smaller cells inspired by a common ideology and less directed by a central command structure
While the United States Government and its allies have thwarted many attacks, we have not been able to stop them all. The terrorists have struck in many places, including Afghanistan, Egypt, Indonesia, Iraq, Israel, Jordan, Morocco, Pakistan, Russia, Saudi Arabia, Spain, and the United Kingdom. And they continue to seek WMD in order to inflict even more catastrophic attacks on us and our friends and allies..

こうした「分散化されたテロリスト」という新しい状況に対して、米国は「対テロ戦争」の原則を再び確認します。それは①「先制行動」の必要性、②「大量破壊兵器の移転阻止」、③テロ組織と支援組織の破壊です。中でも注目されたのは「先制行動論」が下記のように支持されたことでした。

The hard core of the terrorists cannot be deterred or reformed; they must be tracked down, killed, or captured. They must be cut off from the network of individuals and institutions on which they depend for support. That network must in turn be deterred, disrupted, and disabled by using a broad range of tools.

しかし、2006年のNSSではこうした状況(テロリストも分散化し、かつ米国の対応に対してもアジャストしはじめている)に対し、米国は新しいアプローチを模索しなければならない、としています。その最大の眼目が「民主化の促進」ということになります(なぜ「民主化」なのかは、稿をあらためて論じたいと思います)。

ここまでを、ブッシュ政権の対テロ戦争の継続している基本姿勢として、評価することが重要だと思います。しかし、2006年になりテロの衝撃から、すでに5年が経過しました。この5年間にも、国際情勢には大きなダイナミクスが展開されました。単なる「対テロ戦争」というだけでは、米国の安全保障政策をはかることができなくなっているのは、いわば当然だといえます。それを、以下の3つの視点から読み解いて見ましょう。

第一は、「対テロ戦争」を継続しながらも、「イラク戦争」に対する反省を胸の内に秘めた政策が展開されていることだと思います。ライス国務長官がイラク戦争を肯定しながらも「われわれは(イラクで)戦術的には多くの失敗をした」と述べたように、イラク攻撃・占領・暫定政権・正式政権発足へと至ったものの、イラク各地域では、治安悪化に歯止めがかかりません。多くの米兵も亡くなってしまいました。こうした政策の評価を内に秘めながら、米国はさらなる「対テロ戦争」を推進しているわけです。

第二に、そのため米国は「対テロ(および大量破壊兵器)・グローバル・アプローチ」に加え、各地域の特色を踏まえた「地域的アプローチ」を重視していることが挙げられます。かつての「悪の枢軸」とひとくくくりにされたイラク・イラン・北朝鮮も、今はイラン・北朝鮮に異なるアプローチがとられています。イランへの国連安保理を通じた圧力の強化(または限定空爆の可能性)という方針に比べると、北朝鮮に対しては依然として粘り強い六者協議のアプローチが採用されています。「グローバルな方針」で一貫させるというより、「地域別の方針」を重視しているのがここ数年の傾向であるといえます。

第三に、その結果としてグローバルな不拡散・対拡散の枠組みが、非常に曖昧なスタンダードになっています。上述のイラン・北朝鮮に対するアプローチの差に加え、2006年3月にブッシュ大統領がインドを訪問し、インドの核平和利用に協力する姿勢をみせたことは、NPTの枠外で核保有・核の平和利用する権利を事実上認めてしまったことになります(インドはNPTに署名していません)。こうしたなかで、不拡散・対拡散という国際的な規範が、いったいどこに存在しているのか、という疑問に立ち返らざるを得ないわけです。

このような状況のなかで、米国の安全保障政策はふたたび「台頭する挑戦国」へのダイナミックなパワー・ポリティクスへの関心を高めているようにみえます。とりわけ、中国・インドへの安全保障・経済上の関心がたいへん高くなっていることに注目する必要があります。「9.11事件からイラク戦争まで」を、「対テロ戦争の執着(狂騒)」の時期ととらえるならば、時代はふたたび「グレート・パワー・ポリティクス」へと振り子を転進させているようにも思えます。

それが、(後に詳しく扱うように)米国をして中国を「責任あるステークホルダー」(ゼリック国務副長官)とみなしたり、インドに対する核の平和利用への協力に踏み切る大きな誘因となっているとみることもできるでしょう。この中国・インドに共通するのは、ダイナミックな経済発展です。したがって、かつての(冷戦型の)パワー・ポリティクスと異なり、互いの資本が行き交い、相互依存を深めた関係の中での、「相互依存下の勢力均衡」が生じているのです。

米国国防省が4年に1度提出している『4年ごとの国防政策見直し』(Quadrrenial Defense Review)では、その最も新しいバージョンで中国・インドを「戦略的岐路にある国々」(Countries at Strategic Crossroads)と位置づけています。つまり、米国にとって将来の中国・インドがどのような挑戦国となるのか、未だに定義するに至っていないわけです。これらの国々を、米国にとって友好国として形作る(Shaping)ことが、重要な目標と位置づけていますが、中国・インドのダイナミックな発展をどのように方向付けるのか、難しい課題は山のように控えています。

このように、米国の安全保障戦略は「対テロ戦争」における「グローバル・アプローチ」から「リージョナル・アプローチ」へ、そしてインド・中国の台頭に伴う「相互依存下での勢力均衡」へと、その焦点を移しているようにみえます。この動向を、いかなる枠組み(フレームワーク)によって理解するべきか、日本の安全保障政策にとってのインプリケーションとはなにか、こうした深遠な課題を春学期を通して考えていきたいと思います。

〔参考資料〕

US Whitehouse, The National Security Strategy of the United States (March 2006)

US Department of Defense, The Quadrrenial Defense Review (QDR) (February 2006)

投稿者 jimbo : 19:09